いのち歴史の弁証法性~
いのちの始まりは、連続・不断な「生命現象」の弁証法性から~
「生命活動」の弁証法性とは、
同じレベルの生命現象の
「生々・生成・発展・衰退・消滅・モノ化」
新・生命現象「生々・生成・発展・衰退・消滅・モノ化」
新新生命現「生々・生成・発展…・モノ化」
新新新生命現象「生々・生成・発展…モノ化」…
これは、生物の先祖…祖祖父母・祖父母・父母・私・子供・孫…曽孫…
絶え間なく、同じレベルの繰り返しと言えよう。
動物なら、肉体も本能も同じレベルの繰り返し、だが…
しかし、人類・人間は肉体も精神も同じレベルとは限らない…
過去の人類・人間の肉体的な強靭さを現代人は持ち得ているだろうか?
過去の人類・人間の精神的な図太さを現代人は持ち得ているだろうか?
過去の人類・人間の知識・智慧と現代人の知識・智慧は同じだろうか?
生命活動の弁証法性が基本なら…
単細胞体活動の弁証法性⇒その場で蠢く事の繰り返し…
多細胞体活動の弁証法⇒水に揺らされ続ける…
クラゲ体活動の弁証法性⇒水の中で同じ場所に留まり続ける…
魚類体活動の弁証法性⇒水中を自由自在に全力移動…
哺乳類活動の弁証法性⇒野山を自由自在に全力移動…
サルの生活の弁証法性⇒地上生活から樹上での生活へ変化の道…
サルからヒトへの変化の弁証法性⇒樹上から地上生活への変化の道…
人類進化の歴史の弁証法性…
上記のような弁証法性を
自己の人生で繰り返された時、
初めて「悟り」を「悟得」を体得可能である。
我々は「認識的な実在」的な人間が、現代の「悟り」・「悟得」へ至るには…
過去の
「宗教的な悟り・悟得」⇒「武道的な悟り・悟り得」⇒「哲学的な悟り・悟得」を
己の実体・精神で繰り返しの体験・実感・言語化」…それも、それそのレベルを重層化の形で進める事。
ここには、心の弁証法性・肉体の弁証法性・頭の弁証法性があり得る。
弁証法性の原動力は「矛盾」である。
モノが変化・運動するには「エネルギー」が必要である。
「エネルギー」とは、静止状態の物質へ運動・変化(静止⇔運動)という矛盾を与える「モノ自体矛盾」といえる…
ここで、私は
「モノ自体とは、無限小の実体と無限小のエネルギー機能を保持しているモノ」と概念規定する。
全てのモノは、エネルギー(矛盾体)を得る・与えられ事で「変化・運動」を始める。
人間にとって弁証法とは、人間の頭脳活動・働きを
「いのちの歴史」に基づいた正しい論理的な活動・働きに創り上げられるモノであろう。
私の心の弁証法性とは、
大学(工学部・電子工学専攻)生活⇒教員(小学校教諭)生活へ…
何をどうしたらいいか分からない…「一週間でとんでも(非常心的)行動…
一ヶ月で落ち着き…平常心…三年後…
文学部・初等教育専攻へ編入(教師から学生、二十代前半の学生の中に27歳の私)
(非常心)…二年間卒業…
その後、再び教員…小学生担任2年間、中一・二担任に年間…
この時、小学生から中学生に移った時の違和感…
それは、『小学生では上手くいっていた指導・言葉かけが中学生ではダメ…』
二年間でギブアップ…父の商売への誘いもあって教員を止め…
商売の世界へ
塾講師の世界へ
外国人の日本語の先生へ
雑貨屋店長へ
雑貨屋店長兼塾講師…
市立小学校特別支援学級の補助員(主に自閉症児)
別の市立小学校特別支援学級補助員(主に情緒障害児)
今考えると…
私には「私の大志」と呼ばれるモノを自覚出来ていなかった。
それでも…私の心の奥底には「自由・自由自在に生きたい」とう強烈な想いがあったようである。
私の自由とは、私の劣等感からの私自身の解放、日々感じ続けていた私の劣等感から私自身の解放…
結果的に、この数十年の私の人生は、
現実で「他人といる時、その他人対して自分を上手く表現できるか?できているか?」…
そんな心の問い掛けの連続だったようである。
この問いかけは、その場の人々を私が理解できていく中で(いつの間にか)消えていた。
しかし、幸か不幸が…私の人生は職場移動・職種変化の連続であった。
それも…生活の為というよりも、私の心の声に従ってのモノだったようである。
この結果、今の私が実感しているのは
「平常心(心)⇒非常心(心の乱れ)⇒平常心(その乱れに慣れた心)」
そう武道の非常心である死との対面した心裡・心理…であるが…
これは、最高レベルの危機的非常心であろう。
この非常心を得るには「自分の死を妄想できる人のみ」であろう。
「心裡は心の中、表意者の真意の事を表す用語で、心理は心の働きやありさまや精神の状態を表す事です。」
私は、私の人生における「平常心⇒非常心⇒平常心」の連続の結果、今の私がいる。
私の「心の弁証法性(矛盾)」の発生とは~
南郷継正の「武道の理論」の出会いであり…
そこから南郷継正の著書を連続的に購読し続けた事であり…
この連続の上に、私の人生・仕事に悩み苦しんだ時、
出会った月刊「空手道」雑誌の「武道講義」の言葉に惹かれて、
信じようと始めた時であろうか…。
今なら実感として言える「弁証法性の弁証法化には、
同じレベルのモノコトの繰り返しの連続であろう。
そうそう、私は塾の講師(夕方のからの仕事)の時代に、
家内は仕事なので46歳の時に息子が生まれ、昼間は息子の子守り…
その時、南郷氏お勧めの育児書の中の
「赤ちゃんなるべく外気に外へ…」と言う言葉に惹かれて、
息子を抱っこ紐で抱いて散歩へいっていた。
私は幼児から小学生、中学生…大学生…と関わるなかで、
他人の中に自分の成長のみていたのだろう…
そして、現在は、通常級・特別支援学級の両方の補助員として、
教師・教員達の中に、過去の私の児童・教員同士の関わり・指導をみようとしている(ようである)。
弁証法性とは、その論理が正しい事の証明・あかし、であろう。
いのちの始まりは、連続・不断な「生命現象」の弁証法性から~
「生命活動」の弁証法性とは、
同じレベルの生命現象の
「生々・生成・発展・衰退・消滅・モノ化」
新・生命現象「生々・生成・発展・衰退・消滅・モノ化」
新新生命現「生々・生成・発展…・モノ化」
新新新生命現象「生々・生成・発展…モノ化」…
これは、生物の先祖…祖祖父母・祖父母・父母・私・子供・孫…曽孫…
絶え間なく、同じレベルの繰り返しと言えよう。
動物なら、肉体も本能も同じレベルの繰り返し、だが…
しかし、人類・人間は肉体も精神も同じレベルとは限らない…
過去の人類・人間の肉体的な強靭さを現代人は持ち得ているだろうか?
過去の人類・人間の精神的な図太さを現代人は持ち得ているだろうか?
過去の人類・人間の知識・智慧と現代人の知識・智慧は同じだろうか?
生命活動の弁証法性が基本なら…
単細胞体活動の弁証法性⇒その場で蠢く事の繰り返し…
多細胞体活動の弁証法⇒水に揺らされ続ける…
クラゲ体活動の弁証法性⇒水の中で同じ場所に留まり続ける…
魚類体活動の弁証法性⇒水中を自由自在に全力移動…
哺乳類活動の弁証法性⇒野山を自由自在に全力移動…
サルの生活の弁証法性⇒地上生活から樹上での生活へ変化の道…
サルからヒトへの変化の弁証法性⇒樹上から地上生活への変化の道…
人類進化の歴史の弁証法性…
上記のような弁証法性を
自己の人生で繰り返された時、
初めて「悟り」を「悟得」を体得可能である。
我々は「認識的な実在」的な人間が、現代の「悟り」・「悟得」へ至るには…
過去の
「宗教的な悟り・悟得」⇒「武道的な悟り・悟り得」⇒「哲学的な悟り・悟得」を
己の実体・精神で繰り返しの体験・実感・言語化」…それも、それそのレベルを重層化の形で進める事。
ここには、心の弁証法性・肉体の弁証法性・頭の弁証法性があり得る。
弁証法性の原動力は「矛盾」である。
モノが変化・運動するには「エネルギー」が必要である。
「エネルギー」とは、静止状態の物質へ運動・変化(静止⇔運動)という矛盾を与える「モノ自体矛盾」といえる…
ここで、私は
「モノ自体とは、無限小の実体と無限小のエネルギー機能を保持しているモノ」と概念規定する。
全てのモノは、エネルギー(矛盾体)を得る・与えられ事で「変化・運動」を始める。
人間にとって弁証法とは、人間の頭脳活動・働きを
「いのちの歴史」に基づいた正しい論理的な活動・働きに創り上げられるモノであろう。
私の心の弁証法性とは、
大学(工学部・電子工学専攻)生活⇒教員(小学校教諭)生活へ…
何をどうしたらいいか分からない…「一週間でとんでも(非常心的)行動…
一ヶ月で落ち着き…平常心…三年後…
文学部・初等教育専攻へ編入(教師から学生、二十代前半の学生の中に27歳の私)
(非常心)…二年間卒業…
その後、再び教員…小学生担任2年間、中一・二担任に年間…
この時、小学生から中学生に移った時の違和感…
それは、『小学生では上手くいっていた指導・言葉かけが中学生ではダメ…』
二年間でギブアップ…父の商売への誘いもあって教員を止め…
商売の世界へ
塾講師の世界へ
外国人の日本語の先生へ
雑貨屋店長へ
雑貨屋店長兼塾講師…
市立小学校特別支援学級の補助員(主に自閉症児)
別の市立小学校特別支援学級補助員(主に情緒障害児)
今考えると…
私には「私の大志」と呼ばれるモノを自覚出来ていなかった。
それでも…私の心の奥底には「自由・自由自在に生きたい」とう強烈な想いがあったようである。
私の自由とは、私の劣等感からの私自身の解放、日々感じ続けていた私の劣等感から私自身の解放…
結果的に、この数十年の私の人生は、
現実で「他人といる時、その他人対して自分を上手く表現できるか?できているか?」…
そんな心の問い掛けの連続だったようである。
この問いかけは、その場の人々を私が理解できていく中で(いつの間にか)消えていた。
しかし、幸か不幸が…私の人生は職場移動・職種変化の連続であった。
それも…生活の為というよりも、私の心の声に従ってのモノだったようである。
この結果、今の私が実感しているのは
「平常心(心)⇒非常心(心の乱れ)⇒平常心(その乱れに慣れた心)」
そう武道の非常心である死との対面した心裡・心理…であるが…
これは、最高レベルの危機的非常心であろう。
この非常心を得るには「自分の死を妄想できる人のみ」であろう。
「心裡は心の中、表意者の真意の事を表す用語で、心理は心の働きやありさまや精神の状態を表す事です。」
私は、私の人生における「平常心⇒非常心⇒平常心」の連続の結果、今の私がいる。
私の「心の弁証法性(矛盾)」の発生とは~
南郷継正の「武道の理論」の出会いであり…
そこから南郷継正の著書を連続的に購読し続けた事であり…
この連続の上に、私の人生・仕事に悩み苦しんだ時、
出会った月刊「空手道」雑誌の「武道講義」の言葉に惹かれて、
信じようと始めた時であろうか…。
今なら実感として言える「弁証法性の弁証法化には、
同じレベルのモノコトの繰り返しの連続であろう。
そうそう、私は塾の講師(夕方のからの仕事)の時代に、
家内は仕事なので46歳の時に息子が生まれ、昼間は息子の子守り…
その時、南郷氏お勧めの育児書の中の
「赤ちゃんなるべく外気に外へ…」と言う言葉に惹かれて、
息子を抱っこ紐で抱いて散歩へいっていた。
私は幼児から小学生、中学生…大学生…と関わるなかで、
他人の中に自分の成長のみていたのだろう…
そして、現在は、通常級・特別支援学級の両方の補助員として、
教師・教員達の中に、過去の私の児童・教員同士の関わり・指導をみようとしている(ようである)。
弁証法性とは、その論理が正しい事の証明・あかし、であろう。