新・悟りを求めて~

自由が故に退屈化し得る現代社会での日々へ、
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「武道」について…

2021-12-28 14:32:23 | 悟得びと語り


武道とは、武技を用いて生命を賭けた勝負の道…と南郷氏は定義・概念規定している。



「定義」 という表現は、 「ある物事の意味・内容を他の物事と区別できるように、言葉で明確に説明して限定 (規定)すること」 や 「ある用語・事物の意味を、言葉 (数式も含む)ではっきりと規定 (説明)すること」 を意味しています。 論理学における 「定義」 の意味は、 「概念の内包 (概念内部に包摂される意味)を明確にして、その外延 (意味するものの限界)を確定すること」 になります。


「定義」は「ていぎ」と読みます。

意味は、「ものごとの意味や内容を、他と区別できる様に、明確な内容を述べて限定すること」になります。

「概念」は「がいねん」と読みます。

意味は「ものごとの大まかな意味や内容のこと」「倫理学で、ものごとの本質をとらえる思考法」になります。

「定義」は、「ものごとの条件を限定して言葉に表すこと」です。

「概念」は、「ものごとの本質的な考え方や内容に対する共通認識のこと」です。


さすれば…
武道の概念は「武の道」となろうか…
武道の定義が「武技を用いて生命を賭けた勝負の道」となろうか…

まあ~ここでは「定義」と「概念規定」の相違が問題ではないが…
上記の解説では、私には…今ひとつ意味不明である。


ただ言える事は、概念と概念の言語化の相違であろうか?
「概念」とは、己の頭脳内の対象の姿形・認識であろう。
それは、言うなれば、頭脳内の変化・運動性を持ち得ている観念的な認識像…?
それを言語化する時、当然にその対象の己の概念像を規定する必要が生じる…?
さてさて…そのような事は、私の妄想という事で…次へ進もう!


武道とは「武技を用いて」「生命を賭けた」「勝負の道」…
と聞くと「生命を賭け」即「殺し合い」…と連想する者がいて…
それなら「武道とは殺人者へ道」と思い込む事だろう…

しかし、「自分の生命を賭ける」事は、直接に「相手を殺す」事にはならない…

そうそう…
以前に「人を殺せば死刑になれる」と言って、電車内の無関係な人々を殺そうした者がいたが…
その者は、自分の生命を賭けて人を殺そうとした訳ではない。
自分が死刑=殺してもらう為に、人を殺そうとした…


そもそも…「勝負の道」に必ずしも「生命を賭ける必要はない」…
人殺しが、他人を襲う時に、襲ったら逆に殺されそうな人間を狙うだろうか?
人殺しが、自分の生命を賭けて、他人を襲うだろうか?
そもそも…人を殺す事が「勝負の道」なのだろうか?


己の弱さの克服の為に武道にすがる者は、
何も…他人を殺せる武技を求めてはいない。
求めるモノは
「自信ある己」、
「闘いで勝利を求めるならいつでも獲得可能な己」、
「いつでも・どのような状況でも理不尽な事に意見を言える己」、
「『やろう!』と思えば実行可能な己」、


「生命を賭けられる」強さは、「人を殺す」事でも「人を殺せる」事でもない。
「勝負の道」は、決して「人を殺して勝利する道」ではない。
「武技を用いる」事も、決して「武技で人を殺す」事ではない。


南郷氏の「武道の定義」の裏にある…
「強靭な人間的な精神の養成」…
「勝負に人間的に勝利する道程」…
「人間的な武人としての武技と使用法の体得」…

そのようなモノが読み取れない…のだろうか?


この「人間的」しとは、南郷氏の説く・説いている…
理想的な「人間像・人間論」的な、人間を目指し、
そのような己の創出を目指し果たそうしている人間であろう…


そもそも…
「人を殺したい者」には、武道の習得は不要!
相手に、凶器を用いて、襲い掛かれば終了!






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2 コメント

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Unknown (ドゥルガー)
2021-12-28 19:10:28
自由びとさんの心情としてご自分が学んでいるものや所属している団体を一足飛びに擁護したいのは理解できますが…。

一応、そうした心情は置いておいて南郷さんが実際に書いて世に問うたものの価値というものを真面目に考えてみることも意味のあることだと思われますね。

自由びとさんが言ってる「自分に自信をつけるための武道」というのは、おそらくは「現代武道」として南郷さんが否定したものと同じ考え方でしょう。

南郷さんが「現代武道批判」ということで「スポーツでもなければ人格陶冶でもない武道」というのは、南郷さんが具体的に挙げている事例を検討していけば自ずから見えて来るように思います。

南郷さんが武道を説くに挙げている事例は「西部劇のガンマン」だとか「浅沼稲次郎暗殺事件」だとか「戦場」だとか「死刑囚」だとか「宮本武蔵」や「大菩薩峠の机竜之介」や「千葉周作」「清水の次郎長」「新撰組」といった本当に人が生命を失っていた時代の生命を失った事例ばかりなんです。

そして、生命がかかっていない勝負の中からは「五輪書」や「兵法家伝書」のような極意は生まれてこないと説いていたように記憶していますね。

ですから少なくとも南郷さんの頭の中では本当に負けたら命を失うような勝負の世界が思い描かれていたのだと思いますし、それは道場での習慣化された稽古(日常性)にではなく暴漢に襲われる(非日常性)などの事例を想定していたと思われます。

それを考えたなら、ケガしないように防具をつけた組手だとか、個人個人に合わせた上達論的試合なんてものは全く生命に関わりませんから命懸けなんかではありません。

南郷さんが説いたような「現代武道ではなく歴史的な武道」といったなら、間違いなく日本では実際に剣術を用いて相手の生命を奪っていた時代がありますし、生命がかかっていたのでしょうが、それを復活させる必然性があるのは警察官や自衛官、要人警護などの実際に仕事中に殺される可能性があって家族に「殉職したときは覚悟しているように」と伝えている者たちだと思います。

つまりは「プロフェッショナル」の場合であって、趣味でやってる人間に生命なんかかかっていない、と。
返信する
道具と使用 (自由びと)
2023-01-05 13:02:40
シャベルは掘る為の道具、それで相手を叩いたとしても…シャベルは穴を掘る為に作られモノ。

シャベルの使い方は個人の自由。
でも、シャベルは「穴掘る為の道具」

個人が人格形成を求めたとしても、武道の定義は「武技を用いて生命を賭けた勝負の道」。

このお宅には、
道具としての武道の創造目的と
道具としての武道の個人的な使用目的の違いが分かっていない。

なの…南郷氏の言説を批判している。
己の無論理丸出しを自覚不能である。
返信する

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