新・悟りを求めて~

自由が故に退屈化し得る現代社会での日々へ、
新たな刺激を与えるべく、新たにブログ開設を…

信じる事から始まるこの世界~

2021-12-05 13:47:12 | 悟得びと語り
信じる事から始まるこの世界~



表題~より正確には~
「信じる事から始まる自由びと精神世界~」
となるだろう…

何度も書いているが…
このブログは自由びとの観念的・精神的な世界である。

それでも…不特定多数者に読まれる事を前提に、
書かれている普通とはチョット違った精神・観念的な世界であるが…

基本的に個人を特定可能な具体的な情報を書く事は避けている。
それで…「嘘や誤魔化し」は極力避けて書く努力はしている。

その方法として…事実を事実として書くのではなく、
その事実を極力論理的に書こうとする努力を続けてきている。

ここが自由びとの精神・観念的な世界である以上…
ここでは、私が神である。
私の意志が神の意志であり、私の論理が神の手でもある。

この世界で神である私の論理を否定する者には、
この世界での「天罰」が落ちる…だろう。


過去から現在まで…
この世界を否定し続けている「お宅」(私の命名)は、
この世界での「大馬鹿者=大馬鹿お宅」であろう。


この「馬鹿…」とう表現は、
私の記憶が正しいならば…
これは私が初めて担任していた児童を「馬鹿野郎!」と
怒鳴りつけた時からの使われ始めた言葉であろう。

私の「馬鹿野郎!」・「バカタレ」・「馬鹿者…」の意味・概念とは?
一般的には、「普通の人より頭の働きが鈍い事」…である。

それは、「馬と鹿の区別がつかない」…という所からきている…のだろう…
もっとも…ネットで調べるなら色々な説があった…

私が児童・生徒に使っている「バカ」とは以下のようなモノである。
児童・生徒であり、教師・先生から学んでいる者なら、
先生的な考え方で「物事を考えよう」とする努力が必然・当然であろう。
それなのに…はなから~教師・先生の言っている事を聞こうともせずに、
自分の感情・考え・思い…を言語化してぶつけてくる児童・生徒への言葉である。

新任教師の時は、そんな時には大声で怒鳴り・叱りつけて…
その根本的な認識・間違いを正そうとしたモノであったが…

時代が変わり、
私の立場の教員から学習指導補助員へと変化し~
若者が高齢者へと変化し~
精神も子供的から大人的へと成長・成熟しつつある現在の私には…

以前程の迫力で「バカ野郎」とは言えなくなっていた…事に気付いて。
それは数日前に余りには「バカな児童」に…ついつい~
小声である「バカタレ」と口から出てしまっていた…からである。


小二の彼は、私が補助をしている最中に「鉛筆を削る…」と言って「離席した」。
なかなか戻らないので…みてみると…戻る途中に他の児童の席の前で立ち止まって見ていた。

私が「早く戻って来て下さい!」と少しきつい口調で注意した。
戻っての開口一番の台詞が「叱らないで!」であった…
そこで、
私―「××(名前)!途中で他の人と話しているから…」
××―「話してないよ…呼び捨ては止めて!」
私―「××は友達の机の前で立ち止まって見ていた…でしょう」
私―「××君?××様?××ちゃん?××殿!…どれにする?
××―「君がいい!」
私―「××君は鉛筆を削りに行って、なかなか帰って来なかったから…きつく呼んだ…」
私―「××君が、チャンとやらないから××で、チャンとやるなら「××君」だよ」
私―「どっちがいい?」

すると…なんと…
××は「もう~その話は止めて!」と宣ったのである。
小二とは思えない…自己正当化の言葉ばかりで…呆れての「バカタレ」であった…
彼にとっては…
「授業中の鉛筆削りは間違いではなく正しい」
「離席の帰りの他の児童の席への立ち寄りも間違いではなく正しい」
それは、言うなれば、
「自分のしたいようにするのは間違いなく正しい事」という認識であろうか…

私の小学生時代では、「鉛筆は家で削る」のが当然で、学校には「鉛筆削り」がなかった。
でも…今は、全ての鉛筆が削れていないなら…
「字を書く為にはショウガなくOK」。
「トイレもどうしても我慢が出来なければOK」。
「今は授業中の水飲みもOK…なんて考えられない」モノだった…
最近では…大きく違ってきている…



さてさて…本題の「大馬鹿野郎」のお宅の話である。
私が「奴を大馬鹿野郎」と言う理由は以下である。

この私のブログである観念・精神世界の中~
私が書いている私の日常生活でも論理的な事実を、
奴は「全て嘘!信じない!」と断言して…
それでいて…私の記事への奴独特の愚にもつかない長文コメントの連続的な投稿である。

奴の内容をどうの…こうの…と言う前に、
私的に見てこれらは全く馬鹿野郎的な行為である。


例えるなら、二人の者達が「何かを見て」…
「あれは、○○だから馬だ!」⇔「違う…、××だから鹿だ」と
二人が同時に共通・同じ動物を見ての議論は有益かつ有効であろうが…


同じ物事・世界を観ているのではない奴と俺に議論の有効性・有益性は問題外であろう。
言うなれば…暇つぶしの遊び感覚であろう。
もっとも…
最近は、結構忙しくなり、奴のクダラナイ馬鹿言説に付き合うにも嫌気がさしてきたのも事実。
また…奴の間違いに気付けた事も事実であろう。


そもそも世界観も弁証法も…全ては現実の問題解決の為であり、
ブログのネタで…どうの、こうのと、議論するモノではない。

例えば、二人が共に働く場合において、
二人が全く異なっている弁証法・論理を使おうが…
二人が共に、同様な問題解決が達成できたなら、そこに何の問題があろう~

弁証法・世界観・哲学を議論するのは若者達の特権であり、
老人・年寄には、特に必要なモノでないのだろう。

だから…私は現実世界で他人との議論は、
極力避けるような日々を送るようになって来た…ようだ。

ならば…私がこのブログを精神・観念的な世界の展開を書く意味・意義は何か?










コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 「臨済義玄」コメントへ | トップ | 夢について… »

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

悟得びと語り」カテゴリの最新記事