誤解していた「対立物の統一」…
「誤解していた」というより、「分かっている」と確信していた。
しかし、その確信の内容に誤解があった事に気付いた。
<旧・悟りを求めて…>と<新・悟りを求めて~>
を読んで内容を「対立物の統一」と捉えた時~
そこに認識される「像化」されるのは何か?
それは、一般的に表現するなら「私は変化した!」という事実である。
別言するなら、私の認識の変化を実感した!…となる。
そのような変化が起こった理由は、「家内の死」が契機に、
過去の家内の出会いから…最後までの経緯・生活を
深くかつ幾度も想い出し…考え思い続けたからである。
何と過去の日記を調べたら、
交際の契機は、家内が私の誕生祝をしてくれた事…
そして、また、家内は私の誕生日に逝ってしまった。
交際して「31年目」、結婚して「24年目」、
皆で「来年は銀婚式ほしようね♪」と言っていた矢先だった…
家内と出会った場所は、日本語学校の日本語教師養成学科だった。
当時の私は、30代・今の半分の年齢で…とても若々しく、希望に燃えていた頃…
ニコニコ笑顔が多く、他人ともフレンドリーに話せていた時期でもあった…事を思い出した。
そんな30代に比べ、ここう数年の私は、非常に笑顔が減っていた…
事に気付かされたのである…
そんな事が、強烈な「家内の死」で、多くの過去の記憶が想起され、
それとここ数年の私の状況が「対立物の統一」的に、重なり合い…
区別と連関で、認識・像化され続けている・いた…
以前に書いた「児童達が植えたヒマワリ」の事であるが…
昨日のひまわりの様子と今日のひまわり様子を「対立物の統一」的に認識するなら、
そこに、あるのは「変化」の像である。
例えば、目の前に、今・自動車が見えた。次の瞬間も同じ自動車が見えた。
その今と次の瞬間の自動車から描かれる像・認識が、「位置が変化した」「動く・動いている・動いた」・「運動している」。
何が書きたいか?
それは、人間が現実を「変化・運動」と認識可能なのは、
人間が常に時々の現実の五感情像・認識像を「対立物の統一」と無意識に把握・重層化している、という事である。
現実界に「変化・運動」があるのではなく、
人間の認識が、眼前の現実を同一物・事として、連続的に統一・重層化して、それを変化・運動として捉えている、という事。
「誤解していた」というより、「分かっている」と確信していた。
しかし、その確信の内容に誤解があった事に気付いた。
<旧・悟りを求めて…>と<新・悟りを求めて~>
を読んで内容を「対立物の統一」と捉えた時~
そこに認識される「像化」されるのは何か?
それは、一般的に表現するなら「私は変化した!」という事実である。
別言するなら、私の認識の変化を実感した!…となる。
そのような変化が起こった理由は、「家内の死」が契機に、
過去の家内の出会いから…最後までの経緯・生活を
深くかつ幾度も想い出し…考え思い続けたからである。
何と過去の日記を調べたら、
交際の契機は、家内が私の誕生祝をしてくれた事…
そして、また、家内は私の誕生日に逝ってしまった。
交際して「31年目」、結婚して「24年目」、
皆で「来年は銀婚式ほしようね♪」と言っていた矢先だった…
家内と出会った場所は、日本語学校の日本語教師養成学科だった。
当時の私は、30代・今の半分の年齢で…とても若々しく、希望に燃えていた頃…
ニコニコ笑顔が多く、他人ともフレンドリーに話せていた時期でもあった…事を思い出した。
そんな30代に比べ、ここう数年の私は、非常に笑顔が減っていた…
事に気付かされたのである…
そんな事が、強烈な「家内の死」で、多くの過去の記憶が想起され、
それとここ数年の私の状況が「対立物の統一」的に、重なり合い…
区別と連関で、認識・像化され続けている・いた…
以前に書いた「児童達が植えたヒマワリ」の事であるが…
昨日のひまわりの様子と今日のひまわり様子を「対立物の統一」的に認識するなら、
そこに、あるのは「変化」の像である。
例えば、目の前に、今・自動車が見えた。次の瞬間も同じ自動車が見えた。
その今と次の瞬間の自動車から描かれる像・認識が、「位置が変化した」「動く・動いている・動いた」・「運動している」。
何が書きたいか?
それは、人間が現実を「変化・運動」と認識可能なのは、
人間が常に時々の現実の五感情像・認識像を「対立物の統一」と無意識に把握・重層化している、という事である。
現実界に「変化・運動」があるのではなく、
人間の認識が、眼前の現実を同一物・事として、連続的に統一・重層化して、それを変化・運動として捉えている、という事。