▼ コメント ────
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投球が止まって見える」とは?
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>・コメントを書いた人
>雲海
>・コメント
>何というか…
>基本の基本が解っていないように私には感じますね。弁証法の基本の「対立物の統一」ということが。
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このお宅には、弁証法的「基本」が全く分かっていない…
化学の基本、物理学の基本、認識学の基本、論理学の基本、哲学の基本、変化・運動の基本、弁証法学の基本…
文字で書くなら全部が同じ「基本」でも、その「基本」の中身が、それぞれ違っている…のに
弁証法的な「対立物の統一」を考えるなら~
二つの対立関係のモノ⇒対立物の統一⇒一つの非対立関係のモノ
現実に存在する「水素と酸素」は、それぞれが酸素、そして水素、と独立に存在している。
ここで、この二つモノを一つに見よう・しようとするなら、
酸素でない「水素」と水素でない「酸素」という対立関係になる。
この二つを化合して「水」したなら、
水素と酸素は、水という新たなモノの中で一つのなり、そこに「対立関係」はなくなる。
言い換えるなら、
現実にそれぞれに存在する、酸素と水素には対立関係はない。
この二つを並べて二つの関係性を問うなら、そこに「対立関係」が発生する。
そして、「対立物の統一」(化合される)なら、対立関係はなくなる。
人間も一人一人が、それぞれが勝手に生きている時には対立関係はない。
二人以上が一緒に生活を始めたら、対立関係の発生である。
>酸素と水素の化合を持ち出してきましたか。酸素と水素とは確かに違う元素です。ですが「違う」ということが即ち「対立関係」ではありません。対立関係とは「反対の性格」をいうものですから、国家論でも武道論でも「違うもの」は即座に見つかるものですが、対立関係=反対の性格は専門分野を究明して行く過程で次第に発見されるものですから、酸素と水素という「違うもの(元素)」がくっついた(化合した)という事実(知見)がそのまま「対立物の統一」だと判断されるはずはないのです。
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この思考が非弁証法的なのです。
弁証法的に思惟するなら、
酸素と水素の化学反応からが水が発生する事実を論理的に書くなら「対立物の統一」となるのです。
>水分子を構成している酸素と水素とが「対立関係」だと理解されるには、両者が陽イオンと陰イオンであり、一方が電子を余剰に放出していて他方が電子を余剰に受け取っているという、同じ「電子」を基準とした反対方向のものだという理解に至ってようやく「対立物」だと判断できるものです。
↑
これも非弁証法的ですね。
水素が、酸素でない「水素」、酸素が、水素でない「酸素」、それだから「対立」。
「二つのモノ」が「一つのモノ」になる事が、「対立物の統一」なのです。
>ですが、その対立物、反対の性格を持つものがくっついた、結合したことが果たして「統一」なのか?です。
>私のように酸素と水素とをイオンという段階まで進めて電子を中心として対立関係を明らかにするのではなく、自由びとさんのように「違うものは対立関係」という阿呆な理解では、王様が冠を被っていたら王様と冠とは違う別のものだから、その別々のものがくっついている、接触しているということで「王様と冠とは対立物の統一」だという阿呆きわまる結論に至るのでしょう。
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「違うものは対立関係」なのではなく、
違うモノを一つにしよう・仲良くしよう…とする時、
そこに「対立関係が発生・生じる」。
または、全体を部分に分解した時、それらは、「対立関係」に変化する。
「完成体としての全体が、個々の部分に分かれたなら」は、部分が一つの完成体と変化する。
人工物から、部分を分解しても、また全体に戻せるが…
生物なら、ここの分解に分解・解剖して、元の生物には戻せないでしょうが…
私からすれば、
この雲海お宅の個別科学的知識的な思考結果の正しいと確信して、
自由びとの弁証法的思惟過程・結果を否定し続けている姿が、「アホ」に見えます・思えます。
>ですが、人間の認識は歴史的なものですから、「対立物の統一」なる認識は物質の分子間結合で初めて問われたわけじゃないんです。ヘーゲルだって肉眼で見えない顕微鏡下での分子の結合など問題にはしていません。
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馬鹿だ!阿保だ!
「物質的な対立物の統一」と「認識的な対立物統一」が、同じ訳ないしょ!
それでも、弁証法的には、「対立物の統一」なのですが…
人間同士の「対立物の統一」過程は以下です。
「子供同士の本気の殴り合いの喧嘩」
↓
子供vs子供・対立物のぶつかり合い
↓
互いに納得…「仲直り・統一の結果」
>ならば、そうした顕微鏡下での分子間結合を先人が社会関係において問うた論理と同一視して構わないか?が問われるでしょう。
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自然の弁証法・自然的な対立物の統一、
社会の弁証法・社会的な対立物の統一、
精神の弁証法・精神的な対立物の統一、
>反対方向の異質なものを「対立物の統一」として捉える視点は、三浦つとむにあっては「あれも、これも」の組織論として「クラスを分けて両立させる」なんてことになり、それが「弱者のための空手、強者は弱者のために上達が遅れるのを我慢して貰いたい」という「あれか?これか?」の発想から「一般会員と達人コースの区分け」という「クラスを分けて両立させる」という方向に変化していったのだと思いますけど、その歴史的に導いてくれた人文学的な「対立物の統一」の構成・内容を、踏襲することなく「対立物がくっつくこと、酸素と水素とが化合することは対立物の統一なのだ!」と言える単細胞が理解できない。
反対方向は「異質」でも、異質だけが「反対方向」だけではありません。
思考法が、正しくありません。
上達のスピードが問題なのではなく、
上達の到達点の問題です。
三分で完成のインスタントカップ麺を食べたいか、
数十分待って、プロの激うまラーメンを食べたいか…違いですね。
>酸素イオンと水素イオンという陽イオンと陰イオンとが水分子という形で電荷的には中和することは、弁証法的には「止揚」という両者のイオン的性格は否定されながらも上の段階に至ったことだと理解できないか?
>空虚な単語を羅列している自由びとさんに私が説いていることは理解できまいが、他の読者で心ある方に伝わってくれれば幸いです。
>自由びとさんのいう「水に対立は無い」というのは、同じ組織に属したならば喧嘩・言い争いは無い、ぐらいの阿呆な中身のない文言なのだと私には理解できている。
↑
やっぱりアホだね。
水の中では、水素も酸素もそれぞれ性質を発揮していない。
水素も酸素も水部分になっていて、それぞれの主張・対立はない。
それでも、水素も酸素もそれぞれに原子レベルの運動をしている。
組織も同様であり、
その組織に属しての互いに喧嘩・言い争い…は、組織内の活動である。
この記述は、自由びとの思惟を全く誤解して、
その誤解を持って、自由びとを「アホ呼ばわりしている」。
この雲海お宅、自由びと言説をお宅勝手に誤解して、
そのお宅の誤解をアホだと書いている。