「投球が止まって見える」とは?
ある有名な野球選手が、
「絶頂期には、バッターボックスでピッチャーのボールが止まって見えた」
と言っていた、と何かに書いてあったが…
認識と現実の絶対矛盾から考えるなら…
認識は、今のこの瞬間のボールの位置を同時に正確に認識できない…
なのに、そのバッターはボールを止めて見る事でホームランした。
これは、どういう事だろうか?
絶対矛盾=絶対に現実とは一致しない位置情報認識なのに…一致したとは?
ここに「弁証法認識能力」の実力が絡んでくる。
弁証法とは、変化・運動性の法則化である。
例えば、バッターがピッチャーの投球のスピード・コース・球質…の法則化・弁証法化が出来たなら、結果的に「そのボールの変化・運動」の予想が可能になり得る。
それは、今この瞬間の位置情報から、次の瞬間の正確な位置情報像を描きうる実力となりえる。
それこそが、南郷氏が哲学とは、学問の弁証法的駆使…という概念だろう。
個別科学の総括・統括である学問・一般科学問は、そのままでは、その瞬間の今の学問・一般科学にか過ぎない。
これは乾いたワカメであり、干からびたミイラ…といえよう。
そこで、「学問・一般科学」を「唯物弁証法認識論」を用いて駆使の状態にする事で、
今この瞬間の外界・情報で、瞬時に次の瞬間の予想像を描ける。
これは、現実界の乾いたワカメを、頭脳内の弁証法海につけて、生きたワカメ化して、その動きの予想が可能になり得る…と同様に。
ある有名な野球選手が、
「絶頂期には、バッターボックスでピッチャーのボールが止まって見えた」
と言っていた、と何かに書いてあったが…
認識と現実の絶対矛盾から考えるなら…
認識は、今のこの瞬間のボールの位置を同時に正確に認識できない…
なのに、そのバッターはボールを止めて見る事でホームランした。
これは、どういう事だろうか?
絶対矛盾=絶対に現実とは一致しない位置情報認識なのに…一致したとは?
ここに「弁証法認識能力」の実力が絡んでくる。
弁証法とは、変化・運動性の法則化である。
例えば、バッターがピッチャーの投球のスピード・コース・球質…の法則化・弁証法化が出来たなら、結果的に「そのボールの変化・運動」の予想が可能になり得る。
それは、今この瞬間の位置情報から、次の瞬間の正確な位置情報像を描きうる実力となりえる。
それこそが、南郷氏が哲学とは、学問の弁証法的駆使…という概念だろう。
個別科学の総括・統括である学問・一般科学問は、そのままでは、その瞬間の今の学問・一般科学にか過ぎない。
これは乾いたワカメであり、干からびたミイラ…といえよう。
そこで、「学問・一般科学」を「唯物弁証法認識論」を用いて駆使の状態にする事で、
今この瞬間の外界・情報で、瞬時に次の瞬間の予想像を描ける。
これは、現実界の乾いたワカメを、頭脳内の弁証法海につけて、生きたワカメ化して、その動きの予想が可能になり得る…と同様に。
いわゆる心理学のリフレーミングというやつで、「運動=弁証法=良い、静止=個別科学=悪い」みたいな南郷さんの記述から枠組みを変えて「静止=ホームラン、大成功」みたいな方向にしているのだ、と。
ますます自由びとさんの正体が京都の寄筆さんだと思えてきました。
ですが、この「運動を止める」というのは最近の『城学』で南郷さんだか悠季真理だかが問題にしていたものでもありますから、寄筆さんだとも断定できない微妙さもありますね。
まあ、ここで言ってるのは川上哲治のバッティングを直接に問題にしたいのではなく、エンゲルスの『反デューリング論』の流れで「専門科学は静止だ」→転じて専門家・専門科学の知見を持つことがホームラン=大成功なのだと言いたいようにも受け取れますね。
そうすると「ヘーゲル→マルクス、エンゲルス」の流れではなく、近代哲学ないし近代科学の祖ともいえるデカルトやスピノザを評価する流れになりそうですが、そうすると寄筆さんの今までの主張とは相当に食い違う(笑)。
これは真面目に読んでいただきたいのですが、仮にも自由びとさんは他人の指導者・教育者のお立場ですから他人が主体性をもってシッカリとした自分の考えを持てるようになることを大切にしなければならないと思います。
私には自由びとさんが私(他人)を自分の意のままに操りたいと欲しているとしか思えませんが、それでも自由びとさんは大切なキーワードを書いたと思います。
それは「共感」ということですが、「共感」という言葉は「共」と「感」という二つの漢字から出来ています。
この「感」を私は「感じる」とか「感覚」と思ってみたのですが、自由びとさんが述べたのが事実なら私と自由びとさんは「共感」できる過去を持っているはずなんです。
それは玄◯会の本部道場で稽古していたという事実で、まず持って共感とは「同じものを見ている」ことが必要で、道場の入り口はどうで、道場の間取りがどうだったとか、南郷師範の講義はどこで行われていたとかの「あー、そうそう!」と同感できる情像です。
感性に対立するものは理性だともされていますが、共感とは決して「共理」ではないと私は考えるのですけれどね。
例えば『学城』の表紙の構成に名前が記載されている高橋剛という名前を見ると私などは昔、飛翔隊ジュニアにいて上手いサバキを見せていた高橋剛を想起したりするのですが、自由びとさんは実は青空塾にいなかったのでは?と私には感じられますね。
全体的を一つの法則として捉えたモノ。
対象の法則化がなされれば、その法則に則って、その対象の変化・運動の予測が可能になり得る。
優秀な打者が、その投手の投球の法則化をなし得た時~
それに則って、投げられた球を認識した時、
その予測・認識像と現実のボールの運動・変化が、打者の認識内で合致した時、ボールは打者にとっては「止まって見える・認識可能」なのだろう。
「動いているボールの法則」ではなく「動いているモノを捉える人間の能力」でしょうね。
ですからそれは「物理学」の問題ではなく「スポーツ医科学」ないしは「身体科学」の問題だと思いますよ。
早稲田大学のスポーツ科学部だとかでやられている動体視力の研究だとかの話しでしょう。
ですが空手だとかのように突きがくるのか蹴りがくるのか左なのか右なのかも分からぬものに一点集中で凝視するのは得策ではありませんから周辺視になるように思いますね。
弁証法を対象の究明に使えるようになってみると「法則」だとは言い難いと私には感じられます。
これは自由びとさんが紹介していた単行本の元になった連載ですね。私は『城学』が届けられると南郷さんと悠季真理の文章だけ読んで、あとは気分次第でしたから神庭さんの文章は今まで読んでなかったんですね。
いや、興味深く拝読しました。単行本を買って読む気が湧いてきましたね(笑)
ハッキリ言うと弁証法を説きながら弁証法を否定しているようなものです。
非常に興味を持ちました。単行本を買って読んでみます。
るかは分かりませんけど、今のところ「ここ」にしか外化・文字化できない事柄と、別の場所で論文化すべき事柄とがあって、南郷弁証法に纏わる事柄は「ここ」に書くのが相応しいと思えるんですね。
ただ、まあ、齋藤孝さんの本に『余計な一言、その失言が人生を終わらせる』というのがあるように、私と自由びとさんの関係が終わってしまう可能性もありますが(汗)。
私は神庭さんが書いているように「運動を扱うのが弁証法」だとは考えていないんです。
私が考える弁証法の核心というのは「運動」ではなく「対立物の統一」という哲学的な視座にあります。それは滝村隆一が書いている「対立両項の把握」というのと同じことで、その視座からするならば「上」といったら「下」だとか、「右」といったら「左」というように必ず対立両項で認識するということです。
このことは南郷さんの高弟の東京大学関係者が紹介していた論文読解の本に「人間の認識の本質」だと説かれていた、正にその意味で必須のものだと考えています。
ですから、「弁証法的」だというのは、神庭さんのような「運動が弁証法的で、出生から死亡までの生成・生々・衰退・消滅の全過程で捉える」というのは私にとっては無前提に弁証法的ではなく、「生の全過程と一瞬とを対立物の統一として把握して、真理として成立する条件内で利用する」という、三浦つとむの弁証法的体系から言うならば「こう考えるのが正しい」という認識論ということになります。
そのことが弁証法の核心の一つだといって過言でもない「相対的独立、繋がりながらも繋がっていない、繋がっていないけれども繋がっている、の中の《独立性》」換言すると「《区別と連関》の《区別》」の重要性であり、「個別科学」の個別性の適切な捉え方だと考えます。
専門科学の専門知識を学んでいく必然性は、弁証法的体系性からいうならば「相対的な《独立性》」を把握するためであり、自由びとさんが以前いっていたような「専門知識は不要」だとすると、神庭さんのような「相対的な独立」ならぬ「絶対的な連続」として理解しかねないと私には感じられますね。
>・コメント
>おそらく、それは違うでしょうね。
>「動いているボールの法則」ではなく「動いているモノを捉える人間の能力」でしょうね。
ですからそれは「物理学」の問題ではなく「スポーツ医科学」ないしは「身体科学」の問題だと思いますよ。
>早稲田大学のスポーツ科学部だとかでやられている動体視力の研究だとかの話しでしょう。
↑
分かっていないね!
法則と人間の能力の区別と連関が…。
法則は対象にあり、能力は人間にある事。
人間の能力に関係なく、法則は存在している。
もつもと…お宅のような論理能力のない人間には、法則はない目見て取れない…のですが…
ピーチャーの投げるボールには、その投手の意志(球種・スピード・コース)が込められている。
また、その投球フォームには、その投手の癖があり得る。
空から落ちてくる石には自然の法則。
バッターボックスに飛んでくるボールには、投手の意志と自然の法則に則ったモノがあり得る。
そして、その法則を見て取るのが、その人の能力。
難しいのは、まぐれ?or実力?の見分けかな…
>雲海
>・コメント
>川上哲治のバッティングに限っていえば、「ボールが止まって見えた」というのは周辺視でなく中心視で物凄く集中してボールを見ていた可能性があると思いますね。
>ですが空手だとかのように突きがくるのか蹴りがくるのか左なのか右なのかも分からぬものに一点集中で凝視するのは得策ではありませんから周辺視になるように思いますね。
>弁証法を対象の究明に使えるようになってみると「法則」だとは言い難いと私には感じられます。
↑
ヤッパリ…私とは違うな!
人間の認識・像は、現実より遅れて反映される。
ボールが止まって見えるには、頭脳にそのボールが認識・像化された瞬間、
その運動線上にあるだろうボール像が描けているから、
そして、その像が現実のボールと一致したから、「ボールが止まって見える」なのに…
達人は、相手の目の変化、身体の微妙な変化…から、次の動きが予想可能でしょうね…。
それは、多くの実践・勝負…から体得した法則・認識・能力でしょうね…
弁証法の三法則は、弁証法そのモノではなく、弁証法を法則として捉えたモノです。
本来の弁証法は、
観念論・ヘーゲル的に書けば、「絶対精神の自己運動」。
唯物論的には、世界誕生が現代までの自然・社会・精神の進化・発展・全ての一体的な法則化…ですね。