「等身大の思想」について~
先ほど…久しぶりに「等身大」という言葉に、
このブログのコメントの中で出会った。
そこで以下のような事を思った…
何故に南郷師範は、その御著書の中で、
「等身大の思想」を否定していたのか?
この「等身大」とは、身体・実体と同じ大きさ、という事である。
でも「思想」とは、身体・実体である脳でなくその機能である頭脳である。
人間の身体の大きさ=脳の機能である頭脳の大きさ、ではない。
人間の頭脳・認識には、無限大の宇宙さえも丸ごと入れられる程の可能性がある。
そんな機能である頭脳が描く「思想」を、身体の大きさに合わせて「等身大」で満足していたら…
それは、頭脳の無限大の可能性を身体の有限大に限定されてしてしまい…
結果的に、有限な頭脳で今しか生きられない人間にしてしまう、のだろう。
人間は、自力だけでは等身大の言動になるのだろう…
それでも、その己の言動に満足してしまう事なく、
他人の言動を、理想的な言動を、理想的な思想を…求め続けて~
等身大であっても、その等身大で終わる事無く、
時々に大きく・成長し続ける運動・変化・発展…を
求め続ける認識に合わせた「等身大」でありたいモノである。
先ほど…久しぶりに「等身大」という言葉に、
このブログのコメントの中で出会った。
そこで以下のような事を思った…
何故に南郷師範は、その御著書の中で、
「等身大の思想」を否定していたのか?
この「等身大」とは、身体・実体と同じ大きさ、という事である。
でも「思想」とは、身体・実体である脳でなくその機能である頭脳である。
人間の身体の大きさ=脳の機能である頭脳の大きさ、ではない。
人間の頭脳・認識には、無限大の宇宙さえも丸ごと入れられる程の可能性がある。
そんな機能である頭脳が描く「思想」を、身体の大きさに合わせて「等身大」で満足していたら…
それは、頭脳の無限大の可能性を身体の有限大に限定されてしてしまい…
結果的に、有限な頭脳で今しか生きられない人間にしてしまう、のだろう。
人間は、自力だけでは等身大の言動になるのだろう…
それでも、その己の言動に満足してしまう事なく、
他人の言動を、理想的な言動を、理想的な思想を…求め続けて~
等身大であっても、その等身大で終わる事無く、
時々に大きく・成長し続ける運動・変化・発展…を
求め続ける認識に合わせた「等身大」でありたいモノである。