「自由」というモノについて…
「自由」を辞書で調べたら~以下であった…
初めに、
例解新国語辞典[第二版]三省堂
自由―他から制限されたり邪魔されたりしないで、自分の思い通りにできること。
一冊では納得できないので、更に一冊~
例解学習国語辞典[第八版]小学館
自由―他から縛られないこと。思いのまま。
ついでにもう一冊~
新選漢和辞典[第五版]小学館
自由―①自分の思いどおり。勝手気まま。
②他に縛られない。
③法律が認めた範囲内で、自分が思い通りにできる。
初め辞書の「自由」は一つの意味。
次の辞書も一つ、でもその内容が違う。
そこで、もう一冊…
なんと、その意味は①、②、③、三通り…
これは大変興味深い…
そこで 広辞苑[第四版]岩波書店 を調べたら…
① 心のままであること。思い通り。自在。
② 一般的には、責任をもって何かをすること障害(束縛・強制など)がないこと。
自由は、このような条件から自由、何かへの自由であり、条件と目的によって様々である。
無条件的な絶対の自由は人間にない。
自由は、障害となる条件の除去・緩和によって拡大するから、
目的のために自然的・社会的条件を改革することも自由と呼ぶ場合がある。
この意味で自由は自然・社会の法則の認識を通じて実現される。
いや~流石は天下の岩波書店の広辞苑、
その書かれている内容が重くドッシリである。
上記のような辞書調べは、
今回は、私なりの「自由」像が認識内に形成されてから…であった。
この辞書調べの前には、
今日も塾のバイトへ出かけようとしている息子に
以下のような質問をした。
私―「○○は自由とは何だと思い?」
息子「真の自由はない!」
息子「オンライン授業の時は居眠り…」
ここで…私が口を挟んで
私―「真の自由とは?」
息子「何の縛りもない自由…」
私―「そう~人間には真の自由はない。」
私―「人間は肉体を持って生まれたから…」
私―「人間は心の自由のままに肉体で生きてはいけない…」
でも、息子との会話・辞書調べの前に、
私は私なりに「自由というモノ」について
以下のように考えてみた。
児童が先生に
「授業中に手を挙げず自由に発言したい!」と
お願いした場合どうなのだろう。
その理由は、
手を挙げると指名されない時がある。
手を挙げている間に言いたい事を忘れる事がある。
手を挙げてから話すのは不自由である。
手を挙げないで、もっと自由に話したい…
授業中の児童の発言は、
教師の発言に対する児童の反応・思い・理解…を知る為のモノ。
授業中の教師の発言は児童達の成長・教育の為の手段の一つである。
児童が手を挙げず自由に発言する事で授業がスムーズに進み、
教師の児童達への理解が深まるなら「自由な手を挙げず発言」も有効であろう。
しかし、ここで比べてみよう。
「手を挙げての発言」という縛りある場合と、
「縛りなく自由な発言OK」…と縛りを外した場合を…
「手を挙げて」とい決め事に縛られつつ「発言したい思い」…と
縛りの事を考えず自由に無意識的に口から出た発言…の違いを…
ならば、教師はどうすればよいのだろう。
「手を挙げて発言」という縛りを示しつつ、
時と場合・児童の発言内容…によって縛りの黙認をすべきであろう。
もし他の児童がその時「…手を挙げていない!」と指摘したなら、
「○○君、もう一度言ってみて!」とか、
「○○君とてもいい事言った、手を挙げてもう一度…」とか、
縛りを守らなかった言動の注意だけでなく、
良い・鋭い・的確な発言…は縛りに合わせて!という指導がベストなのだろう。
それは、自らの発言を、そこにある縛りに合わせて行う。
確かに、的確な瞬間的な思い・感想…は、直ぐに忘れてしまう事もありえる。
そんな時、それが授業の流れに沿ったモノなら言ってみる事もありだろう。
ここで問題がある。
それは授業中の教師の発言を聞きつつも、
自分勝手な事を思っている児童が、
教師の言葉から思いついた事を自由に発言した場合である。
しかも…それが案外鋭いモノと教師自身が感じてしまった場合。
教師の言葉と児童の言葉がかみ合っているように思えても、
実は、教師と児童は全く異なった認識・像を描いている場合である。
その時、教師はどう対応するのか?
どのように己の間違いを知り得る?
そのように対応された児童の今後は?
疲れた…今はここまでに…続きはまた…
歯みがきして顔あらって昼食にしよう~
「自由」を辞書で調べたら~以下であった…
初めに、
例解新国語辞典[第二版]三省堂
自由―他から制限されたり邪魔されたりしないで、自分の思い通りにできること。
一冊では納得できないので、更に一冊~
例解学習国語辞典[第八版]小学館
自由―他から縛られないこと。思いのまま。
ついでにもう一冊~
新選漢和辞典[第五版]小学館
自由―①自分の思いどおり。勝手気まま。
②他に縛られない。
③法律が認めた範囲内で、自分が思い通りにできる。
初め辞書の「自由」は一つの意味。
次の辞書も一つ、でもその内容が違う。
そこで、もう一冊…
なんと、その意味は①、②、③、三通り…
これは大変興味深い…
そこで 広辞苑[第四版]岩波書店 を調べたら…
① 心のままであること。思い通り。自在。
② 一般的には、責任をもって何かをすること障害(束縛・強制など)がないこと。
自由は、このような条件から自由、何かへの自由であり、条件と目的によって様々である。
無条件的な絶対の自由は人間にない。
自由は、障害となる条件の除去・緩和によって拡大するから、
目的のために自然的・社会的条件を改革することも自由と呼ぶ場合がある。
この意味で自由は自然・社会の法則の認識を通じて実現される。
いや~流石は天下の岩波書店の広辞苑、
その書かれている内容が重くドッシリである。
上記のような辞書調べは、
今回は、私なりの「自由」像が認識内に形成されてから…であった。
この辞書調べの前には、
今日も塾のバイトへ出かけようとしている息子に
以下のような質問をした。
私―「○○は自由とは何だと思い?」
息子「真の自由はない!」
息子「オンライン授業の時は居眠り…」
ここで…私が口を挟んで
私―「真の自由とは?」
息子「何の縛りもない自由…」
私―「そう~人間には真の自由はない。」
私―「人間は肉体を持って生まれたから…」
私―「人間は心の自由のままに肉体で生きてはいけない…」
でも、息子との会話・辞書調べの前に、
私は私なりに「自由というモノ」について
以下のように考えてみた。
児童が先生に
「授業中に手を挙げず自由に発言したい!」と
お願いした場合どうなのだろう。
その理由は、
手を挙げると指名されない時がある。
手を挙げている間に言いたい事を忘れる事がある。
手を挙げてから話すのは不自由である。
手を挙げないで、もっと自由に話したい…
授業中の児童の発言は、
教師の発言に対する児童の反応・思い・理解…を知る為のモノ。
授業中の教師の発言は児童達の成長・教育の為の手段の一つである。
児童が手を挙げず自由に発言する事で授業がスムーズに進み、
教師の児童達への理解が深まるなら「自由な手を挙げず発言」も有効であろう。
しかし、ここで比べてみよう。
「手を挙げての発言」という縛りある場合と、
「縛りなく自由な発言OK」…と縛りを外した場合を…
「手を挙げて」とい決め事に縛られつつ「発言したい思い」…と
縛りの事を考えず自由に無意識的に口から出た発言…の違いを…
ならば、教師はどうすればよいのだろう。
「手を挙げて発言」という縛りを示しつつ、
時と場合・児童の発言内容…によって縛りの黙認をすべきであろう。
もし他の児童がその時「…手を挙げていない!」と指摘したなら、
「○○君、もう一度言ってみて!」とか、
「○○君とてもいい事言った、手を挙げてもう一度…」とか、
縛りを守らなかった言動の注意だけでなく、
良い・鋭い・的確な発言…は縛りに合わせて!という指導がベストなのだろう。
それは、自らの発言を、そこにある縛りに合わせて行う。
確かに、的確な瞬間的な思い・感想…は、直ぐに忘れてしまう事もありえる。
そんな時、それが授業の流れに沿ったモノなら言ってみる事もありだろう。
ここで問題がある。
それは授業中の教師の発言を聞きつつも、
自分勝手な事を思っている児童が、
教師の言葉から思いついた事を自由に発言した場合である。
しかも…それが案外鋭いモノと教師自身が感じてしまった場合。
教師の言葉と児童の言葉がかみ合っているように思えても、
実は、教師と児童は全く異なった認識・像を描いている場合である。
その時、教師はどう対応するのか?
どのように己の間違いを知り得る?
そのように対応された児童の今後は?
疲れた…今はここまでに…続きはまた…
歯みがきして顔あらって昼食にしよう~
都築さんの弁証法講座を受講されたのですね。
驚きましたが、これでハッキリとお宅の実像に肉薄できたような気がします。
玄和会だとか論研の幹部が都築さんの弁証法講座に出席するはずもありませんからね。
お宅が書いている文章は何らかの意図で戯けを装う工作員のものではなく、等身大の実力そのままの文章なのでしょう。
ですから、ここに綴られた「自由」に関する理解にしても学校教育で児童を導く教員としては本来は有りうべからぬ理解だと思いますけれど、ちなみにお宅自身は都築さんの講義を聴いてどんな感想をもったのですか?
久しぶりのコメント…とは嬉しいモノですね♪
>都築さんの弁証法講座を受講されたのですね。
↑
「受講」していません。
これは天寿堂弁証法ゼミ「お試し期間終了」前、
在籍中に頂いたメールの内容を掲載しました。
>驚きましたが、これでハッキリとお宅の実像に肉薄できたような気がします。
↑
それって「気がしている」だけの気のせいでしょう。
その「実像」はたぶん「正確」ではないと思いますよ!
>お宅が書いている文章は何らかの意図で戯けを装う工作員のものではなく、等身大の実力そのままの文章なのでしょう。
↑
「等身大」とは南郷師範がよく使う台詞ですね。
でも、お宅の「等身大」の理解・使い方が南郷師範とは異なっています。
南郷師範は「等身大の思想」が「上達の妨げ」になる、と言っていると私は理解しています。
でも、「等身大の実力」の発揮は、必ず「上達の妨げ」にはなるとは限りません。
そこに…その等身大の実力不足を実感・痛感し得たなら、そこに「上達の可能性はあり得ます」。
上達の為には、その実力を持って、現実の問題解決に取り組む事。
その過程での、成功・失敗の連続の中で他人の理想論との相互浸透で、
等身大の実力の中身が、現実・事実に即して
徐々に、現在の等身大>過去の等身大…となっていくのでしょう
>学校教育で児童を導く教員としては本来は有りうべからぬ理解
↑
お宅の誤解ですね!
お宅は、果たしてどれだけ「現代の教育現場」である公立小学校の実情を果たしてどれだけ知り得ていますか?
たぶん、お宅の理解は、もう既に時代遅れで古すぎでしょう!
>ちなみにお宅自身は都築さんの講義を聴いてどんな感想をもったのですか?
↑
上記のように、メール文字ですから、
「講義を聞いた感想はありません。
ということはお宅は実際には都築さんとも天寿堂さんとも顔を合わせることなくメールのみのやり取りだけの関係だったわけですね?
コロナで3密を制限される前の話ですから、「お試し期間」というのが理解できましたし、それに対して誠実に向き合うのでなく顔を隠した覆面でのメールのやり取りを要求したお宅の態度への理解も得ることが出来ました。
確りと文字を見て文章を読んで、
理解してコメント書きましょうよ!
「お試し期間終了前」とは、「お試し期間中」の事。
それは、もう顔合わせが済んでいる、という事。
しかも、彼らは私が元玄和会・新宿支部後輩である事も承知で、
メールアドレスも「自由びと」ではなく「わ・た・し」へのモノです。
もっとも…私的には、この「お試し期間」に納得していませんが…
今回のような特に馬鹿っぽいコメント読むのも理解するのも疲れます。
どうせコメント寄越すなら、お宅の等身大馬鹿は治らずとも、
その以上等身大以上の大馬鹿の方が疲れないかも!?
この発言でお宅が小中学校の義務教育に携わる人間だということが嘘だということが理解できました。
小学校・中学校の義務教育は教育基本法や学校教育法といった法律に基づいて国家的判断のもと市区町村の地方自治体が軸となって為されていくものですから、その義務教育の財源=つまりは学校教員の給料の出所としての地域住民からの納税の義務に対する教育内容の説明責任・説明義務というのは当然について回ってくるものなのですよ。
ですから南郷・玄和に賛同するか?そこに所属して会費を支払うか?は当人の自由で支払いたい人間だけが支払って、賛同しない人間は支払わなくとも構わないわけですが、地域の小学校・中学校の義務教育に関わる費用は地域住民として「絶対的に支払わなければならない」わけなんですね。
もしもお宅が義務教育に関わる教員という「公人」「公務員」であるならば、自分のその職業よりも南郷・玄和を優先するなんてことは有り得ないことなのですよ。
そのこと一つとってもお宅が真っ当なる社会人として信用ならざる人間だということが判断できます。
玄和会には公務員が多いと聞いていますけど、お宅のような不用意で無責任なことを平気で発言できるのは珍しいのでしょうね、南郷・玄和の中でも。
いくら知識があっても、
己の無知を自覚なき者は、
本当の真馬鹿者ですね。
教員という「公人」「公務員」
だけが義務教育の場である
学校で働いている訳では
ありませんよ!
こんな事実・現実事を、
「無知の智」に全く無縁な
お宅に語っても無駄てすが…