空海お宅とへ・弁証法的に思考とは?
先ずは、記事 「否定の否定と回り道~」へ
2023/09/12 19:19:54に届いた以下のコメントを読んで頂こう。
>・コメントを書いた人
>空海
>・コメント
>人間の認識はドンドンと発展していきますから、一旦は書いてみたものが少し経つと修正しないといけないことが沢山でてきます。
>Kraft(自然の力)のイメージも最近は生産力のほうになってきて、他人の意見に修正を求めることは嫌がられるものですが、自分の考えを事実に基づいて自分で修正する分には楽しい時間ですね(笑)。
>こんなこと書いてると、また自由びとさんに嫌がられますから、この辺でやめときますけどね。
↑
↑
空海お宅へ~やれ!やれ!ですね!
tadaさんから「空海さん ちょっと見直しました」と言われ有頂天になになって書いたら…
今度は、「空海さん 残念でした。滝村先生の考えを理解することは無理なようですね。生前の滝村先生が相手にしなかった理由がよくわかりました。」なんて言われて…
その結果がなんと~
>こんなこと書いてると、また自由びとさんに嫌がられますから、この辺でやめときますけどね。
↑なんてコメント書いて~
これって、本当はこれ以上書けないのに…
その理由を「自由びとさんに嫌がられます…」とする事ですね。
本当は、自己責任なのに、他者に責任を負わせている…という無責任お宅ですよね。
私の本心・本音は、空海お宅とtada氏のやり取りは、とても勉強になるので…特に嫌がっていません。
ただ…tada氏の記述は分りやすく助かりますが…空海お宅のは非常に分かり難く苦労しているのも事実ですが…。
それでも…両方を対比させることで、まあ何とかなっています。
だから空海お宅さん~
「自由びとさんに嫌がられます」は、今の所はありません。
空海お宅が、お宅の主張が正しいと思うなら、
自由びとに遠慮する事無く、どうぞ、思う存分にtada氏とやり続けて下さい!
今回は、「自由びとさん」とHDが書かれているので…
上記の記述の以下の部分へコメントします。
>Kraft(自然の力)のイメージも最近は生産力のほうになってきて、他人の意見に修正を求めることは嫌がられるものですが、自分の考えを事実に基づいて自分で修正する分には楽しい時間ですね(笑)。
↑
ここで「Kraft(自然の力)のイメージ」は、どんなに頑張っても「イメージ」である限り、真の現実の自然ではありません。
それが「生産力になった」としても、「自分から自分で自分を変える・変えて行く」事でしか、ありません。
それは、「人間は自己の能力の範囲内で…」の変化・運動・思考…なのです。
自分の範囲内の思考と自分を超えた他力・現実的な思惟との相違です。
自力ではなく、現実・事実的な他力とは~
例えば、今日朝見た録画ドラマで~
恋路で悩んでいる主人公が恋人の事で、朝の会議で、溜息ばかりついていた。
A―「溜息は、テンション下がるからヤメテ!」
B―「溜息は体によくないよ!」
C―「溜息は身体にはいいってよ!」
このような、溜息について、「良い・悪い」の対立している評価・矛盾を解決する思考・思惟とは?
先ずは、事実的な理解⇒溜息とは?
悲しんだり、ガッカリした時に思わず出る息。
次に、現実の溜息とは?
「ハー」とか「フー」とか、肩を落とし、力なく長く吐く息。
会議の際にも、悲しい事やガッカリする事(思い出し過ぎ)は、精神的に良くない事。
それでも、普通「ハー」と吐いたら、反射的に「スー」と長く吸う。この深呼吸は身体的に良い行為。
「精神的には良くない」でも「身体的には良い」それが「溜息」…
ついでに 六時前から眠れなくなった 今朝の自由びとが、おもった事 を書こう。
それは、「弁証法的に考える」という事について…である。
弁証法とは、変化性・運動性の性質に関する科学。
動物は、その種に限った本能で日々を生きている。
従って、動物は、その種の本能と異なった生き方は不可能。
その種に限るなら、弁証法的な生き方ではない。
しかし、人間には、動物のような人間だけの特有・固定的な本能はなく、
人間の本能は、創り創られていくモノ…もっとも動物レベルの最低限の生存本能はあるが…
弁証法的に考えるとは、自己の思考性・思惟性を変えるレベルで考える事。
それは、自分から自分で考える事だけでは、不可能な思考法。
弁証法的に思考するとは、自分の中に他人を入れて、そこから思考(思惟)する事。
自分から自分を考えるが「思考」なら、
現実の他人を受け入れて、その受け入れた他人的モノ・認識から自分を考えるが「思惟」。
それは「対立物の統一」でもある。
現実界の現実的な対立な物と物を自己の頭脳内・思考過程で統一する事。
それが、決して現実的には「統一不可能なモノコト」でも、頭脳内では可能である。
さて…そこで結論を~
上記の空海お宅の以下の記述について~
>「他人の意見に修正を求めることは嫌がられるものですが、自分の考えを事実に基づいて自分で修正する分には楽しい時間ですね(笑)。」
↑
「他人の意見の修正」とは、その他人に「求めること」ではなく、
自分の意見の正当性についての検証の為に「対立物の統一」をする一つの過程であろう。
他人の意見と自分意見を統一するとは、自己の頭脳内・思考過程であり、
他人の意見を自分意見で叩き続ける、自分意見を他人の意見で叩き続ける事。
残念な事に、私の意見で、空海お宅の意見を叩く過程は、ここに書くが…
私自身の意見を空海お宅の意見で叩く過程は、敢えてここで書く事はしない…
理由は、そんな事をしたら、激論・口論らしくなくなる から…
さてさて~
最後に絶対的に矛盾してしまう「対立物の統一」について、
「自分の考えを事実に基づいて自分で修正する分には楽しい時間ですね(笑)」
↑
これを非弁証法的・固定的な変化性・運動性に基づく「…修正…」とするなら「〇」。
しかし、この記述を弁証法的思考「…修正」…とするなら矛盾「×」である。(矛盾は「対立物の統一未満」)
それでも、この空海お宅が、自分自身の事を「矛盾」と理解しているなら「〇」。
今回から
非常に知識的な空海お宅だから、
上記の記述を理解した瞬間から、
「矛盾」と暗記できれば、「〇」ですかね。
先ずは、記事 「否定の否定と回り道~」へ
2023/09/12 19:19:54に届いた以下のコメントを読んで頂こう。
>・コメントを書いた人
>空海
>・コメント
>人間の認識はドンドンと発展していきますから、一旦は書いてみたものが少し経つと修正しないといけないことが沢山でてきます。
>Kraft(自然の力)のイメージも最近は生産力のほうになってきて、他人の意見に修正を求めることは嫌がられるものですが、自分の考えを事実に基づいて自分で修正する分には楽しい時間ですね(笑)。
>こんなこと書いてると、また自由びとさんに嫌がられますから、この辺でやめときますけどね。
↑
↑
空海お宅へ~やれ!やれ!ですね!
tadaさんから「空海さん ちょっと見直しました」と言われ有頂天になになって書いたら…
今度は、「空海さん 残念でした。滝村先生の考えを理解することは無理なようですね。生前の滝村先生が相手にしなかった理由がよくわかりました。」なんて言われて…
その結果がなんと~
>こんなこと書いてると、また自由びとさんに嫌がられますから、この辺でやめときますけどね。
↑なんてコメント書いて~
これって、本当はこれ以上書けないのに…
その理由を「自由びとさんに嫌がられます…」とする事ですね。
本当は、自己責任なのに、他者に責任を負わせている…という無責任お宅ですよね。
私の本心・本音は、空海お宅とtada氏のやり取りは、とても勉強になるので…特に嫌がっていません。
ただ…tada氏の記述は分りやすく助かりますが…空海お宅のは非常に分かり難く苦労しているのも事実ですが…。
それでも…両方を対比させることで、まあ何とかなっています。
だから空海お宅さん~
「自由びとさんに嫌がられます」は、今の所はありません。
空海お宅が、お宅の主張が正しいと思うなら、
自由びとに遠慮する事無く、どうぞ、思う存分にtada氏とやり続けて下さい!
今回は、「自由びとさん」とHDが書かれているので…
上記の記述の以下の部分へコメントします。
>Kraft(自然の力)のイメージも最近は生産力のほうになってきて、他人の意見に修正を求めることは嫌がられるものですが、自分の考えを事実に基づいて自分で修正する分には楽しい時間ですね(笑)。
↑
ここで「Kraft(自然の力)のイメージ」は、どんなに頑張っても「イメージ」である限り、真の現実の自然ではありません。
それが「生産力になった」としても、「自分から自分で自分を変える・変えて行く」事でしか、ありません。
それは、「人間は自己の能力の範囲内で…」の変化・運動・思考…なのです。
自分の範囲内の思考と自分を超えた他力・現実的な思惟との相違です。
自力ではなく、現実・事実的な他力とは~
例えば、今日朝見た録画ドラマで~
恋路で悩んでいる主人公が恋人の事で、朝の会議で、溜息ばかりついていた。
A―「溜息は、テンション下がるからヤメテ!」
B―「溜息は体によくないよ!」
C―「溜息は身体にはいいってよ!」
このような、溜息について、「良い・悪い」の対立している評価・矛盾を解決する思考・思惟とは?
先ずは、事実的な理解⇒溜息とは?
悲しんだり、ガッカリした時に思わず出る息。
次に、現実の溜息とは?
「ハー」とか「フー」とか、肩を落とし、力なく長く吐く息。
会議の際にも、悲しい事やガッカリする事(思い出し過ぎ)は、精神的に良くない事。
それでも、普通「ハー」と吐いたら、反射的に「スー」と長く吸う。この深呼吸は身体的に良い行為。
「精神的には良くない」でも「身体的には良い」それが「溜息」…
ついでに 六時前から眠れなくなった 今朝の自由びとが、おもった事 を書こう。
それは、「弁証法的に考える」という事について…である。
弁証法とは、変化性・運動性の性質に関する科学。
動物は、その種に限った本能で日々を生きている。
従って、動物は、その種の本能と異なった生き方は不可能。
その種に限るなら、弁証法的な生き方ではない。
しかし、人間には、動物のような人間だけの特有・固定的な本能はなく、
人間の本能は、創り創られていくモノ…もっとも動物レベルの最低限の生存本能はあるが…
弁証法的に考えるとは、自己の思考性・思惟性を変えるレベルで考える事。
それは、自分から自分で考える事だけでは、不可能な思考法。
弁証法的に思考するとは、自分の中に他人を入れて、そこから思考(思惟)する事。
自分から自分を考えるが「思考」なら、
現実の他人を受け入れて、その受け入れた他人的モノ・認識から自分を考えるが「思惟」。
それは「対立物の統一」でもある。
現実界の現実的な対立な物と物を自己の頭脳内・思考過程で統一する事。
それが、決して現実的には「統一不可能なモノコト」でも、頭脳内では可能である。
さて…そこで結論を~
上記の空海お宅の以下の記述について~
>「他人の意見に修正を求めることは嫌がられるものですが、自分の考えを事実に基づいて自分で修正する分には楽しい時間ですね(笑)。」
↑
「他人の意見の修正」とは、その他人に「求めること」ではなく、
自分の意見の正当性についての検証の為に「対立物の統一」をする一つの過程であろう。
他人の意見と自分意見を統一するとは、自己の頭脳内・思考過程であり、
他人の意見を自分意見で叩き続ける、自分意見を他人の意見で叩き続ける事。
残念な事に、私の意見で、空海お宅の意見を叩く過程は、ここに書くが…
私自身の意見を空海お宅の意見で叩く過程は、敢えてここで書く事はしない…
理由は、そんな事をしたら、激論・口論らしくなくなる から…
さてさて~
最後に絶対的に矛盾してしまう「対立物の統一」について、
「自分の考えを事実に基づいて自分で修正する分には楽しい時間ですね(笑)」
↑
これを非弁証法的・固定的な変化性・運動性に基づく「…修正…」とするなら「〇」。
しかし、この記述を弁証法的思考「…修正」…とするなら矛盾「×」である。(矛盾は「対立物の統一未満」)
それでも、この空海お宅が、自分自身の事を「矛盾」と理解しているなら「〇」。
今回から
非常に知識的な空海お宅だから、
上記の記述を理解した瞬間から、
「矛盾」と暗記できれば、「〇」ですかね。
>空海
>・コメント
>自由びとさん、自由びとさんは確かに何かを書いたんですね。新しい記事が投稿されて色々と文字が書いてありますから、確かに何かを書いているわけなんです。
>そしてそこには私・空海の名前を書いていますから、私に向かって何かを書いているらしいことまでは理解できるのですが、さて私に何を語っているのかは全く理解できないわけです。
>何となく、何やら私に向かって否定的なニュアンスのことを書いているらしいことは何となく理解できるものの、それ以上のことは全く理解できないでいます。
>まあ、それも今に始まったことでもなく、特に聞く価値のあることを自由びとさんが述べれるとも思っていませんから、問題なくOKです。
↑
この記述内容が、この空海お宅の事実なら、それを一々書く必要があるだろうか? 全く必要なし!
また、そのように感じている自由びとブログに、空海お宅がコメント寄越す意味なし!
このような自由びとブログへのコメント書き込み行為は、
この空海お宅にとっては、全く無意味な事の繰り返し…であろう。
私から見れば、この空海お宅の数々の言説ほど信じ難いモノはない!
そしてそこには私・空海の名前を書いていますから、私に向かって何かを書いているらしいことまでは理解できるのですが、さて私に何を語っているのかは全く理解できないわけです。
何となく、何やら私に向かって否定的なニュアンスのことを書いているらしいことは何となく理解できるものの、それ以上のことは全く理解できないでいます。
まあ、それも今に始まったことでもなく、特に聞く価値のあることを自由びとさんが述べれるとも思っていませんから、問題なくOKです。
tadaさんに「滝村先生が相手にしなかった理由がわかった」と言われても、私はtadaさんを滝村先生の関係者だとは信じていないのですね。
というのも、私は滝村先生がお亡くなりになった後で滝村先生と親交のあった先生方を紹介して貰って直接にお会いして生前の滝村先生のエピソードを色々と聞かせて貰っているからです。
その中で滝村先生は自分の研究会に参加している人間に「先生」とは呼ばせなかったという話しがありましてね、みんな「滝村さん」という「さん付け」で呼んでいて「滝村隆一に弟子はいなかった」という話しを聞いています。
皆さん滝村先生と年齢が近かったせいもあるでしょうけれど、私なんぞは随分と年下ですから、滝村先生が自分を「先生」とは呼ばせなかったという話しを聞いても「滝村先生」と呼んでいますけど、tadaさんは滝村先生の研究会に参加していた人物ではないと考えています。
それどころか、私は以前にtadaさんとメールのやり取りをしたことがありますが、その時のtadaさんのメールアドレスが「miyamotomusashi」でしたから間違いなく南郷先生の関係者だと考えています。
大体が滝村先生の関係者は南郷学派の批判など別に何とも思っていない、相手にする必要もないほどレベルが低いものだと考えていましたから、tadaさんのように意趣返ししようなんて人はいませんでした。
私は滝村先生の関係者の皆さんから、滝村先生が私と会わなかったのはご自分の死期を知っていたから、生きているうちに国家論大綱を完成させるためには他人と雑談なんぞやっている暇はないと覚悟していたからだと聞いています。私ばかりでなく昔からの親交のあった友人とも誰一人会うことなく執筆に集中されていたそうですよ。
tadaさんが言っているのは第三権力だとかブツ切れの単語だけを述べながら、何をやるにも体力が必要→だから玄◯空手をやれ、みたいな自由びとさんと同じ単細胞なことですよ(笑)。
まあ、歴史の学習を始めるキッカケにはなりましたが、tadaさんのコメントも自由びとさんのコメントも私は別に必要とはしていません、そんな無価値な低レベルのコメントなんぞ(笑)。