ゼノンの「アキレスと亀」…
ゼノンのアキレスと亀を分りやすく解説して考察する | AVILEN AI Trend (ai-trend.jp)
>昔、アキレスという名の恐ろしく俊足の人と、かわいそうなほどに足の遅い亀がいました。二人はある対決をすることになりました。アキレスが100メートル先にいる亀と徒競走をするというものです。ルールはシンプルであり、アキレスが亀を追い越したら、アキレスの勝ち。亀がアキレスに追い越されなければ、亀の勝ちです。時間制限や、距離の制限などはなく、アキレスが亀を追い抜きさえすればアキレスの勝ちです。当然、誰もがアキレスが勝つと思っていました。アキレスも「お前なんかすぐ追い抜いてやるよ!」と自信満々でスタートをきりますが、不思議なことに追いつけないのです。
>なぜか。アキレスが100メートル先の亀のいるところにたどり着くころに、亀はのろのろとではありますが、少しは進んでいるのです。例えば10メートルとか。今度はアキレスは10メートル先の亀を追いかけることになりますが、10メートル先の亀のいたところに着く頃には、亀はそれより1メートル先にいます。また、その1メートル先の亀の位置にたどり着いたときには、亀は0.1メートル前に進んでいます。これの繰り返しで、アキレスは亀のもといた位置まで行くことはできても、のろのろと、でも確実に前に進んでいる亀に追いつくことはできないのです。
>この理論によれば、亀のスタート地点がアキレスよりも前であれば、アキレスは亀に勝てないことになります。ここで、アキレスの速度がどんなに早かろうが、問題にはなりません。
>一見理論的には正しそうでありますが、現実問題、アキレスは亀に追いつきますし、追い越すことができます。この現実とは違うという点がミソであり、この問題がパラドックスたるゆえんです。
つまり、この理論には誤りがあるのですが、なかなかそれを指摘するのは難しいように思います。実際、この問題にはいくつもの解釈がありますが、全ての人が納得できるような説明はまだなされていないらしいのです。古くからある難問の一つとして、現在も残されています。
上記の問題を以下のように新たな視点・条件を加えて考えた。
亀の一歩が一秒間に1㎝、アキレスの一歩は一秒間で1m、として問題を考えた。
100m先の亀に、アキレスが追い付くのに100秒、その間に100㎝前に進んだ亀に、アキレスが追い付くのに1秒。
その間に、亀は1㎝進んだから、アキレスが追い付くのに、百分の一秒…
でも、アキレスの一歩は、1秒間に1mだから、百分の一秒=百分の一歩では止められない。
現実の競争では、全力で走り続けるので、一々歩幅を変える事はありない。
亀ならいざ知らず、現実の人間が百分の一歩ずつ走る・歩く事は不可能であろう…
しかも、走り続ける限り、歩幅と共に、その運動時間も流れていく。決して十分一秒では止められない…
それでも、上記のゼノンのように思い・考える事は可能である。
それは認識としての思考過程での「観念的な事実」であっても、現実界では、絶対にあり得ない・起こり得ない非現実的な事実である。同じ事実なのに、観念界と現実界では絶対に矛盾する思考であるから、
南郷師範は、ゼノンの「絶対矛盾」と主張しているのだろう…
自然・人為的に発生する運動・変化は、思考通りになり得るとは限らない。
眼前の現実を変える為には、自分の思考を変える。
それでも、その通りに現実を変化させられるとは限らない。
矛盾とは、あるモノ[AがBを背負っている」…
例えば、コインの表は裏を背負っている。
これは、事実であり、矛盾していない。
表も裏も確かに存在している。
しかし、その「コインの表と裏を同時に見た」くても、不可能である。
肉眼で直接に表から裏は見えないし、裏から表は見られない。
コインを表と裏の真ん中からカットしたなら、同時に見られる。
でも…その時は、初めのコインと異なったコインになってしまっている。
モノ・実体の「運動・変化」は、必ずそれに伴って「時の経過」を背負っている(矛盾)である。
人間は道具を使わない限り肉眼で直接見られな「コインの裏表」を記憶する事で認識内で観念的に見る事が可能である。
コイン全体を肉眼で見ている時、観念内では、裏表を確りと見る事。
上記のゼノンの言説は、現実の結果に一致しないように、運動における「位置・距離の変化」における「時の経過」を無視して、「位置の変化」のみに着目して説いているので、結果的に現実と矛盾した非現実的な結論となっている。
「モノの運動」には、「実体の運動」と「観念・時の経過」がワンセット・一体である。
ゼノンのアキレスと亀を分りやすく解説して考察する | AVILEN AI Trend (ai-trend.jp)
>昔、アキレスという名の恐ろしく俊足の人と、かわいそうなほどに足の遅い亀がいました。二人はある対決をすることになりました。アキレスが100メートル先にいる亀と徒競走をするというものです。ルールはシンプルであり、アキレスが亀を追い越したら、アキレスの勝ち。亀がアキレスに追い越されなければ、亀の勝ちです。時間制限や、距離の制限などはなく、アキレスが亀を追い抜きさえすればアキレスの勝ちです。当然、誰もがアキレスが勝つと思っていました。アキレスも「お前なんかすぐ追い抜いてやるよ!」と自信満々でスタートをきりますが、不思議なことに追いつけないのです。
>なぜか。アキレスが100メートル先の亀のいるところにたどり着くころに、亀はのろのろとではありますが、少しは進んでいるのです。例えば10メートルとか。今度はアキレスは10メートル先の亀を追いかけることになりますが、10メートル先の亀のいたところに着く頃には、亀はそれより1メートル先にいます。また、その1メートル先の亀の位置にたどり着いたときには、亀は0.1メートル前に進んでいます。これの繰り返しで、アキレスは亀のもといた位置まで行くことはできても、のろのろと、でも確実に前に進んでいる亀に追いつくことはできないのです。
>この理論によれば、亀のスタート地点がアキレスよりも前であれば、アキレスは亀に勝てないことになります。ここで、アキレスの速度がどんなに早かろうが、問題にはなりません。
>一見理論的には正しそうでありますが、現実問題、アキレスは亀に追いつきますし、追い越すことができます。この現実とは違うという点がミソであり、この問題がパラドックスたるゆえんです。
つまり、この理論には誤りがあるのですが、なかなかそれを指摘するのは難しいように思います。実際、この問題にはいくつもの解釈がありますが、全ての人が納得できるような説明はまだなされていないらしいのです。古くからある難問の一つとして、現在も残されています。
上記の問題を以下のように新たな視点・条件を加えて考えた。
亀の一歩が一秒間に1㎝、アキレスの一歩は一秒間で1m、として問題を考えた。
100m先の亀に、アキレスが追い付くのに100秒、その間に100㎝前に進んだ亀に、アキレスが追い付くのに1秒。
その間に、亀は1㎝進んだから、アキレスが追い付くのに、百分の一秒…
でも、アキレスの一歩は、1秒間に1mだから、百分の一秒=百分の一歩では止められない。
現実の競争では、全力で走り続けるので、一々歩幅を変える事はありない。
亀ならいざ知らず、現実の人間が百分の一歩ずつ走る・歩く事は不可能であろう…
しかも、走り続ける限り、歩幅と共に、その運動時間も流れていく。決して十分一秒では止められない…
それでも、上記のゼノンのように思い・考える事は可能である。
それは認識としての思考過程での「観念的な事実」であっても、現実界では、絶対にあり得ない・起こり得ない非現実的な事実である。同じ事実なのに、観念界と現実界では絶対に矛盾する思考であるから、
南郷師範は、ゼノンの「絶対矛盾」と主張しているのだろう…
自然・人為的に発生する運動・変化は、思考通りになり得るとは限らない。
眼前の現実を変える為には、自分の思考を変える。
それでも、その通りに現実を変化させられるとは限らない。
矛盾とは、あるモノ[AがBを背負っている」…
例えば、コインの表は裏を背負っている。
これは、事実であり、矛盾していない。
表も裏も確かに存在している。
しかし、その「コインの表と裏を同時に見た」くても、不可能である。
肉眼で直接に表から裏は見えないし、裏から表は見られない。
コインを表と裏の真ん中からカットしたなら、同時に見られる。
でも…その時は、初めのコインと異なったコインになってしまっている。
モノ・実体の「運動・変化」は、必ずそれに伴って「時の経過」を背負っている(矛盾)である。
人間は道具を使わない限り肉眼で直接見られな「コインの裏表」を記憶する事で認識内で観念的に見る事が可能である。
コイン全体を肉眼で見ている時、観念内では、裏表を確りと見る事。
上記のゼノンの言説は、現実の結果に一致しないように、運動における「位置・距離の変化」における「時の経過」を無視して、「位置の変化」のみに着目して説いているので、結果的に現実と矛盾した非現実的な結論となっている。
「モノの運動」には、「実体の運動」と「観念・時の経過」がワンセット・一体である。
お宅と私とでは生きている次元が違うのですよ。人間としてのレベル・スケールが丸で違う。
お宅の2020年6月28日の「「達人」について〜」の記事で露わになっている概念規定のやり方が十年一日でいつまで経っても進歩向上しない思考の本質ですし、それは南郷氏がヘーゲルと自分とを並べて観念論的と唯物論的とで概念の違いを示そうとしている「学問とは〜」を規定しようとしているやり方と全く一緒だということですよね。
端的には「考える」ということも体力ですから、年老いれば若かりし頃のように集中して考え続けることが出来なくなります。
要は「ボケ」ですよ。
吉本隆明が年老いてからのオウム真理教や原発への発言を見ても理解できますが、南郷氏がお宅が言うような「絶対的に違う」なんて阿呆な理由で「ゼノンの絶対矛盾」なんてことを唱えたとしたならば、老いて思考が働かなくなっただけのことでしょう。
学問の世界には巨星が綺羅星の如くにいますから、私は南郷氏なんて低い次元で満足する人間ではないのでね。
少々ニュアンスが違いますよ。
「観念と現実とでは絶対に矛盾する」のではなく、
「現実で、絶対に矛盾する(ありえない)認識を、観念内で意図的に創像する」てな感じ…ですかね…
何しろ~ゼノンの「パラドックス」ですからね♪♪♪
結果が「絶対矛盾」ではなく、
目的が「絶対矛盾」の創出です。
そうそれも…運動の否定の為のパラドックス…
まあ~お宅には、南郷氏の「絶対矛盾」という認識・像は創れないでしょうが…
もっとも…私にも無理でしょうが…
それでも、創ろう・創像しよう…という思いはあるのです。
私も南郷氏の著述を再検討してみなければ解らないのですが、この哲学史の大きな流れの中で神学と絡んで重要な観点であった「絶対者」に繋がる「ゼノンの絶対矛盾」なるものを南郷氏がどう評価しているか?ですよね。
ゼノンの詭弁が全体としては間違っていることは明らかで、運動が無いということも実際には無いわけですが、南郷氏には
確か「動を動とだけ捉えたのでは駄目で静を捉えなければいけない、それが空手でいえば基本稽古や型稽古である」というような弁証法的な考えを書いていた記憶がありますね。
そういう視点からすると、全体の概念規定をして形式論理学に沿って構成するというやり方は、自由組手を基本技や型稽古に還元することに類似した「静止化」の方法ではないかと思いますね。
南郷氏の「ゼノンの絶対矛盾」についてコメントすることをお許し下さい。
自由びとさんのいうような「観念と現実とでは絶対に矛盾するから絶対矛盾」という理解では古代中国の盾と矛の故事も観念と現実とでは一致しませんから絶対矛盾ということになって特にゼノンに固有のものではなくなると思います。
それに、そうした観念と現実との不一致を解消されるべき類いの矛盾は南郷氏が「弁証法の基本書」として挙げている三浦つとむの『弁証法は…』では「敵対的矛盾」とされていましたから、そこにさらに「絶対矛盾」などという言葉を付け加える意味も不明です。
私が想像するに「ゼノンの絶対矛盾」という概念は哲学史に関わるもので、ゼノンの矛盾した逸話が「不動」を説明するために為され、それが後の哲学史において「不動の動者」や「絶対者」となっていったところからの命名ではないかと思いました。
ですので、近現代において学知における絶対者や形而上学の否定が唱えられたのは、この「不動性」の否定からくるところもあったのではないかと考えられます。
「非連続性の中の連続性」の発見であろう。
それは、量質転化(化)が発生して、
そのままでは連続性とは捉えるられない事態の発生。
これこそが「唯物的弁証法認識力」の欠如ですかね。
↑
>「同調せず」とは?
>「現代哲学を低く見る」とは?
>「持続性の中の非連続性」とは?
全ては「一から始まり無限への変化・運動する」と思惟可能なら、
「連続性の中の非連続性」などは、考えられない・あり得ない。
それは、持続性・連続性から「非連続性」への変化・運動を認識能力不足であろう。
結局は、己の能力不足であろうか…
>大きく飛躍したいと望むなら過去の文化遺産に学ぶことは必須だと考えますが、自由びとさんが書いているように「コインの裏表」といいますか、一つの方向からモノを見ている・考えているときは違う方向から同時に見る・考えることは出来ません。
コインの裏表を同時にみる為の認識トレーニングです。
肉眼では同時に見えずとも、頭脳内では、同時ではなくても、瞬間的に交互に連続的に思い起こすのは可能です。
認識の瞬間的な交換・変化は、訓練次第で可能です。
頭脳内の記憶した文化遺産の数々を、眼前の事実と瞬間的に付き合わせて(思惟)、その一致の探索(思索)し、そして論じる(思弁)ですね。
大きく飛躍したいと望むなら過去の文化遺産に学ぶことは必須だと考えますが、自由びとさんが書いているように「コインの裏表」といいますか、一つの方向からモノを見ている・考えているときは違う方向から同時に見る・考えることは出来ません。
この「コインの裏表」という比喩もまた微妙なもので、それが過去にどういった事例で用いられたのかの知識を共有できた者同士ならば「あなたと私という別々の個人が、一つのコインという同じ対象を違った方向から見ている」という意味を言外に悟ることも出来ますが、そうでないならば「俺とお前が一つのコイン、同じ組織の構成員だと〜?」などと憤慨に繋がることもママあるかと思います。
この「アキレスと亀」を三浦つとむの『弁証法はどういう科学か』の視点・観点から考えるならば、つまりはマルクス・エンゲルス・レーニンらの系譜で考えるならば、端的には体系的・系統的に「誤謬の本質は逸脱である」ということになり、ゼノンの言っている「アキレスが亀のいたところに辿り着くときには、亀はその先に行っている」ということは「アキレスと亀とが横並びになるまでの間は」という条件内での現実に存在する紛れもない事実であり真実ですが、それを「いつまでも、どこまでも、永遠に続く真実であり事実であり真理だ」としてしまうと現実とは食い違い真理であったものが誤謬に移行してしまう、という「真理から誤謬へ、誤謬から真理へ」という対立物への《運動》として理解すべし!ということになるかと思います。
ですので、現実世界に生きる私たちが、この知見を実際に活用するときには「真理として成立する条件内で使う」ということになり、例えば亀(のように鈍間な運動能力の劣った者)がアキレス(のように高い運動能力を誇る者)よりも前を走ろうと欲したならば「アキレスと横並びになるまでの間は」という条件内で《そのまま進んで構わない》という判断にもなりましょうし、「アキレスと横並びになった後」という条件においては「己の運動能力ばかりかアキレスの運動能力さえも上回るバイクや自動車に乗り移る」という判断に移行し、あるいは(そんなことは実際には無い頭の中だけのイマージュかも知れませんが)アキレスと横並びになるまでの歩行過程の中に亀の運動能力がアキレスの運動能力を上回らせる内容を持たせることが可能ならば、引き続き亀はアキレスよりも先を行くことでしょう。
ですが、物理学的にモノを考えている人間が同時に心理学的にモノを考えられないのと類似して、あるいは粒子を観測している人間が同時に波動を観測できないのと類似して、三浦・マルクス・エンゲルス的な方向で思考している人間は同時にベルクソン的な方向で思考することは出来ません。
それでも私が考えるのは、つまりは南郷氏の関係者だという自由びとさんが「ヘーゲルを超点とした近代哲学」を至上のものとして現代哲学を低く見る南郷氏の考えとは同調せずに現代哲学的な考え方をすることは、「玄和会が変わる」「『学城』が変わる」ことを意味する可能性も有り得る、と。つまりは「論研」が「論研」としての同一性を持ちつつも「南郷学派」から「非南郷学派」への移行、連続性だとか持続性の中の非連続性を断行することやも知れない、と。
もっとも解散という選択肢もありますが、門外漢の無責任な放言だと失笑されて下さい(笑)。
お褒め頂き、恐縮です。
まだまだ書きたい事がたくさんあります。
今後も御贔屓のほどをお願いします。
私にとって有益なる文章であったと言えると思います。
自由びとさんよりも相当に若輩者の私が言うのも生意気ですが(汗)。
自由びとさんの奮闘をご期待いたします。