新・悟りを求めて~

自由が故に退屈化し得る現代社会での日々へ、
新たな刺激を与えるべく、新たにブログ開設を…

絶対矛盾コメント

2023-02-12 11:17:48 | ~哲学~
「絶対矛盾」コメントの実例


以下は、記事「分かった!絶対矛盾」へのお宅コメントである。

このコメントに書かれた言葉・認識と雲海の行為は
絶対矛盾していると感じて、ここに記事にした。



Unknown (雲海)    2023-02-11 12:11:55


>「自由びとさんのコメントを否定するつもりはありません。」  

と書かれているが…
雲海の行為―他人である自由びとブログに反論を自分から進んでコメントを寄越した時点で「否定」になり得る。
本当に否定するつもりのない人々なら「否定するつもりはありません」とは書き込まないだろう…。
何故なら、自由びとは、他人の意見も持論も異論も共感…
他人の中を求めて書いていない、から…
だから、「ここは自由びとの精神世界」と言い切っている。
もっとも…求めてはいないが、自ら進んでコメントを寄越してくれる事には感謝している。

確かに、互いの議論・討論の中でなら、
自分の見解として「否定するつもりはありません」と言い切る事はありえる。

しかし、この議論・討論の場ではない、
自由びとブログに雲海持論の展開という行為そのものが「否定」と捉えられる。

この雲海のコメント記述・認識は「否定するつもりはありません。」であるが、
その雲海のコメント投稿した行為が「否定」となり得る。


「否定するつもりがない認識」で「否定する行為」の連続」を「絶対矛盾」と言わずに何と言う?!



>私は自由びとさんよりも実年齢としては随分と若者でしょうけれど、自分と異なる見識に強硬に反逆するには少し齢を重ねてしまっているのでしょうね。


反論コメントの連続書き込みが「強引な反逆」と書かずになんと書く?
度重なる反論・異論コメントの連続で」ありならも…
「強引な反逆には少し年齢を重ねて…」とは、
ここでも認識と行為の絶対(的)矛盾。



>「蟹は甲羅に似せて穴を掘る」といいますが、「実るほど頭を垂れる稲穂かな」で解っていけば解っていくほど相手に対して優しくなれる自分がいますね。


雲海自身の言動の矛盾に気付けずに、雲海自己正当化・自己美化の連続…
何の為に、この「自由びとブログ」を読み続けているのか?
その当初の目的and時々の目的意識は何のだろうか?



>乞食に対抗意識をもつ職業人もいないでしょうし。

そうでしょうか…
人間関係のしがらみ・苦しみに囚われない生き方・自由に憧れが無くはない…ですが…
また、会社・社会・相手と約束・拘束に縛られない日々自由にも…

乞食ではないですが…
職業人を止めて、ホームレスに転身する人達のいますよね。



>解ってくれば解ってくるほど、南郷氏の述べた「学歴コンプレックス」ということが著述の核心として理解され、自由びとさんに対して優しい気持ちになっている私がいますね(笑)


「馬鹿に付ける薬はない」如く「雲海お宅に書くべき言葉なし」

南郷氏の述べた言葉である「学歴コンプレックス」を、
雲海認識で「解れば解ってくるほど」、南郷氏の「学歴コンプレックス認識」から遠ざかっているのに…

なのに、雲海自身は「解れば解ってくるほど」に解かったつもりになって、書いている。

ここで言葉ではない、二者の「学歴コンプレックス」の認識・像を見た時、
雲海お宅と南郷氏とでは、その認識・像の一致はない…
なのに…雲海は「南郷氏の言葉」として学歴コンプレックス」を引用している。

他人の言語・認識・概念と自己の言葉・認識・概念の一致について…

この雲海お宅は、
他人の言語と自己の言語の一致が、
他人と自己の認識・概念の一致として確信している(本来は誤解・誤信なのに…)。
この場合の雲海お宅の認識と外界(南郷氏認識)は「絶対(的)矛盾」。


雲海氏が、南郷氏の引用ではなく、
雲海自身の「学歴コンプレックス」と言い切っていれば…
この「矛盾の発生」は無かったからである。


人間が、どんなに頑張って努力しても、
絶対に止められない阻止できないから矛盾だから「絶対矛盾」なのだろう。

もっとも…
他の人なら、上記のこのような事は「絶対的矛盾」であろうが…


馬鹿は死んでも治らない的なお宅だから、
「絶対矛盾」とい確信して言い切っても間違いはない…だろう。
↑~
さてさて~
上記の私的な記述・認識・像とお宅の実体は~
「絶対真理」?「絶対的矛盾」?「絶対矛盾」?







コメント (7)    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 「アキレスと亀の競争」につ... | トップ | 雲海and自由びとコメント »

7 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (雲海)
2023-02-12 21:47:40
私が誤解されていることを少し寂しく思いますね。

私のコメントを「反論」だと受け止められた、つまり自由びとさんに「アナタの考えは間違ってますよ、本当はこうですよ」と説いたのだと認識されたのは誤解なのだと私は思っています。

人間は一人一人が別々の肉体を持っているように、考えもまた違っているのが当然で、そこを「あー、私もアナタと同じ考えです、アナタに共感します!」というのは実はそうで無くて普通のところが偶然に合致したという「有り難いこと」だと思うんです。

ですが、私の誤解かも知れませんけど自由びとさんは「共感」というのは「感じるもの」ではなく規範的に同じにすべきものだと考えてらっしゃる節がありますあり。私の誤解であることを願うものですけど。

私が自由びとさんと違う考えを述べたからといって自由びとさんの考えを否定して「こっちのほうが正しいのだ」なんていう「あれかこれか」「あっちかこっちか」なんて発想の発言はしていませんので、自由びとさんと違う私の考えは「別の肉体を持つ別の人間が違った角度からモノを見た考えなのだな」とご理解いただければ宜しいかと思うのです。

ですから例えば自由びとさんはヘーゲルの「ミネルヴァの梟は黄昏に飛び立つ」という一節を「ある時代の哲学が完成したとき、その時代の現実社会は」という風に理解というか解釈していますけど、
私が考えるにはヘーゲルのこの文言は『法の哲学、自然法と国家学の要綱』の序文にある文句で、「ミネルヴァの梟」とはローマの智慧の女神の使徒なわけです。それで、『法の哲学』のその序文を確認すると「ルターがどうのこうの」と書いてあるんです。あのカトリックに対抗してプロテスタントを作った宗教改革のルターですよ。
つまりは「古代ローマの自然法思想がルターの宗教改革を経験した後でどうなったのか?」なんて私は想像して、まあ確認はこれからするんですけど、
それを自由びとさんや南郷氏も同じかも知れませんけど、「ある時代の哲学は、その時代の現実社会と」なんて場所も時代も特定されない普遍的といいますか、カント的に言ったら「空間と時間を超越した話し」なんてことになるのかも知れませんけど、
私はそれを否定はしませんけど私個人の主体的な考えを持っていますと述べるわけです。

自由びとさんに共感できるほど馬鹿じゃないといいますか(汗)、言葉というのは全く難しいものですね(笑)。
返信する
Unknown (雲海)
2023-02-12 21:59:28
誤解して欲しくないのは、私は哲学でも他の専門科学でも先達に学んで知識を蓄えることは重要だと考えてはいますが、
自由びとさんのように「知識など身につけなくとも今のままの自分の智慧というか頓知を使えば大丈夫、平常心」という姿勢を否定はしていないということです。

自分とは違う種類の人物だと存在を認めているわけで、それが「生きていることを許可します」という発言に集約されるわけですけど(笑)
返信する
Unknown (雲海)
2023-02-13 03:29:36
いつもの自由びとさんのコメントに戻ってますね。自由びとさんらしい性格というか、自由びとさんらしい思考パターンというか。

自由びとさんの考えを否定するものでもなく(私は教師でお前は生徒だから言うとおりにしろ、という姿勢は拒否しますけど)、あくまで私個人の意見だとして聞いて欲しいのですが、

ヘーゲルの『法哲学』の「ミネルヴァの梟は黄昏に飛び立つ」というのはヨーロッパでは宗教改革で長年戦争してましたでしょ?それでヘーゲルは「世界がいかにあるべきかの教訓を垂れるには哲学はいつも遅すぎる」と言っている。これって「勝てば官軍負ければ賊軍」みたいなもので戦争の結果によって決まってくるという話しでは?ミネルヴァって智慧の女神であると共に戦争の女神ともされた二重のイメージがそこに効いてくるように思うんですけどね。
返信する
Unknown (雲海)
2023-02-13 14:38:22
連続投稿してしまって自由びとさんには大変に申し訳ないのですが、またまた自由びとさんが引用したヘーゲルの「ミネルヴァの梟は黄昏に飛び立つ」という文言に興味をひかれて色々と調べていたんです。

そしたら高校の世界史の授業で宗教改革とルネサンスとが重なる時期があって、それがヘーゲルの『法哲学』に生きているらしいのだと悟ったんですね。

ですので「ミネルヴァの梟が灰色の黄昏に飛び立つ」というのは宗教戦争の殺し合いの世界に人道主義のローマの智慧が甦る」みたいな感じかな?なんてね。

何の興味もないと聞き逃してしまう学校の歴史の授業も、興味をもつキッカケがあれば深く探っていけるんですね。

おそらく小学校の教師だという自由びとさんは、いまだ将来何になるのかも分からない児童の教育に携わっているのだから、「アナタは将来こうなりなさい」なんて決めつけられずに児童が何かに興味をもって自発的に伸びていくお手伝いのような仕事をしてるのだと思うんですけど、どうです?私みたいなのは憤慨の対象なんですかね?(笑)
返信する
絶対矛盾 (自由びと)
2023-02-16 09:54:09
雲海殿

お宅には、私の言葉を理解できていない、ようですね。

このブログの記事内容は、私の精神世界であり、私の観念的世界なのです。
ここは、私の「観念論」的世界なのです。

外界・世界を語る時~
世界を、外界の世界から語る「唯物論」。
世界を、自分の世界から語る「観念論」。


この世界の中では、お宅の全ての言葉が「異論」・「反論」・「暴論」…なのです。
ここの自由びと認識に二重化できない、お宅だから、
上記の記述が理解不能なのでしょうね。

以下の記述こそが、「お宅の分かった」中身です。


>誤解して欲しくないのは、私は哲学でも他の専門科学でも先達に学んで知識を蓄えることは重要だと考えてはいますが、
>自由びとさんのように「知識など身につけなくとも今のままの自分の智慧というか頓知を使えば大丈夫、平常心」という姿勢を否定はしていないということ


誤解しているのは、このお宅自身なのに…
「誤解しているのはお宅自身」なのに…
その「誤解」を自由びとに押し付けて安堵しているお宅ですね。

>「知識など身につけなくとも今のままの自分の智慧というか頓知を使えば大丈夫、平常心」という姿勢を否定はしていないということ<

こんな事は思ってもいない…書いてもいません。
多くの知識を知る事は必要です。

書物・他人から頂いた知識過剰な子供より、
知識は少なくても、少ない知識を駆使して積極的・行動的な子供の方が
伸びる・成長していくモノです。

習得した多くの知識を整理して、自分の生活に活かせる事が出切れば…
「それら知識の総合・統括的な使い方が智慧」となり得ます。

 正確には「知識などをみにつける…」のでなく、「知識が活かせるように、知識の体系的な体得・智慧化」が重要なのです。
 また、今現在の智慧も新たな情報・知識で、常に更新・グレードアップする・できるのが、弁証法的・変化・運動的な智慧、ですね。


 ヤッパリお宅は、絶対矛盾的認識お宅です。
 お宅の中の「主観的な自由びと」と現実界の「客観的な自由びと」は、矛盾しています。

「分かった」つもりのお宅は、実は「全く分かっていない」のです。

お宅の主観的な「分かった」は、
現実・客観的には、「誤解している・分かっていない」です。

この自分の誤解を誤解だと認識できたなら、このお宅的な絶対矛盾的認識は解消される…のですが…
しかし…馬鹿は一度死んで、人生やり直さない限り、治らない…そうなので…
お宅も「一度死んでみる」といいです。

この場合の「死」とは、「知識的宅の死」であり、
多くの知識を無視して、幼子のような無知・無心・無邪気な認識をもって、
もう一度、世界と自分の人生と関わる・向き合う…事ですね。

現実の私なんて、特別支援学級の支援員、通常級の学習補助員…になって以来、
ここ10年間、過去の教師的な認識を否定され続けですよ。

そんなこんな…
児童・生徒から否定・現実を、己自身で受け入れられたから、
こそが今の知識・智慧が生じたのでしょうね。

まあ~何を言っても・書いても、お宅には真の理解は不能だとおもいますが…

今の己の人生・世界を変えるのは簡単です。
それは、己自身を変えればいいだけです。

難しいのは、
世界を変える事ではなく、
己自身・世界を変える事です。

例えば、不満で不幸な貧乏人が、現実に大金持ちになり得ても、
当人が、それに満足を感じなければ、
結局は「不幸・不満」のままなのです。


お宅の、今のような気持ち・認識のままで、
この自由びとブログを読めば読む程に、
お宅は、お宅自身で自分の馬鹿化を進めるだけですよ…
返信する
Unknown (雲海)
2023-02-17 12:22:38
おそらく自由びとさんは言いたいことを直接には言えないのでしょうね。

自由びとさんが「知識的な関わり」と言っているのは、おそらくは南郷氏の「知識秀才」という小馬鹿にした言い方と繋がりがあるのでしょう。

南郷氏の著書で否定的に「知識的」と書いてあるときの意味にはいくつかあって、「論理的ではない」つまり他の事柄と関連させられていないという意味の時と、「情緒的ではない」つまりイワユル「アタマとココロ」と区別したときのアタマだけでココロがこもっていないという、EQとIQだとかの話しの場合がありましたね。

自由びとさんが独りよがりに「知識的な関わり以外の」と言っているのは、
返信する
本当に馬鹿! (自由びと)
2023-02-17 16:53:13
「知識的な関り」とは、以下のような事である。

例えば、本を読んで、本に書かれた通りに、猫を飼ったとするなら、
なかなか本に書かれた通りに上手には飼えない。
本の記述・知識を頼りに、眼前の飼い猫との格闘レベルの生活が起こり得る。

私の場合~
家内が野良のトラ猫マニャを拾って飼い始めて…
本の通りにやろうとして、一度マニャと大格闘になった。
猫パンチで引っ掻かれるは、その鋭い牙で足に食いつかれるは…大変だった。

また、ゴールデンレトリバーイヌを育てた体験・経験的な知識で、柴犬を育てている現在だが…
これまでに、二度と程、左掌・指を思いっきり食いつかれている。
そんな事は、ゴールデンの時には、全く無かった事である。

知り合いが「柴犬はツンデレ」と言っていたが…
まさに、その言葉の通りである。

このような~
「本に書かれた・人から聞いた知識」、「自分の体験・経験的な知識」…
それらの知識優先で対象と関わる事を「知識的な関り」


この「雲海コメント」で言うなら、

南郷氏は「ミネルバのフクロウ」という言葉を使っているが、
それは、南郷氏の「ミネルバのフクロウ概念」であり、
その概念は、南郷氏の記述・文章と一体的である、筈である。


ところが、雲海氏は。己の知っている「ミネルバのフクロウ」の知識で
南郷氏の「ミネルバのフクロウ」を否定している。

これは自由びと記述を理解にも同様な問題が発生している。

そもそも「言語は認識の表現」である。
そして、言語は社会的、認識は個性的…

話し手が、個性を如何に社会的に表現するか努力・工夫しても、そこに個性的癖が生じてしまう。
しかし、その癖は非常に個人的が故に、前もって知識的には知り得ない…
なので、聞き手は、持ち得る全知識と想像力・智慧力を駆使しての関わりが不可欠である。

このような「私の知識的な関り」概念さえも、私の記述から読み取れず…
「知識的な関り」=「知識秀才」と解釈する姿には呆れてしまう。

南郷氏に言われる「知識秀才」が不味いのは、
己の秀才から得た知識を万能だと誤解している点であろう。

彼らが「弁証法」を体得して、その膨大な知識に一本筋を通せた時、
その知識と現実世界を一体化でたなら、秀才的な天才だろう…
返信する

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

~哲学~」カテゴリの最新記事