新・悟りを求めて~

自由が故に退屈化し得る現代社会での日々へ、
新たな刺激を与えるべく、新たにブログ開設を…

認識の「二重化」について書く!

2024-07-02 13:08:08 | 「わたし事・学」
認識の「二重化」について書く!


これから「二重化」・「認識の二重化に」について書く事にした…
でも、一つの不信が…
それは、今の私は「認識の二重化」の像を描けているとい確信がある。
しかし、それを、今の私が言語表現しようとして・した時~
その一つ一つの語彙・言語は、全て南郷氏の著書・著作や南郷学派の書籍の中に使われているモノ。
それは、その中には、彼らが創出した独自・独特のモノが多数含まれている。
そんな言語表現で、「二重化」像を表現している今の私の~
その「二重化」の認識像は本当に映像なのだろうか?
もしかして…単なる語彙・言語…を羅列した表現を、
今の私は自分勝手に「二重化の像」と、確信して信じ込んでいるのでは???


さてさて…上記の記述が~
今の私の認識の「二重化」である事実に読者は気付けているだろうか?

二重化を映像化できている、と「確信している私!」と「否!単なる言葉の羅列かも?」という私…


さてさて~そもそも、
認識の「二重化」とは何なのだろう?
認識を「二重にするとは?」


哺乳類・動物も人間も現実の対象を五感器官で感覚して頭脳に反映する事は同じなのだろう…(他人の学説)
何故なら~私も眼前の日々の現実を見て・聞いて・体感して、嗅いで、味わって体験している事実がある。

ただ…学者に曰く、動物は、その感覚・刺激に対して本能的即反応する。
でも…人間は、考えたり・思ったりして反応したり・しなかったりしている…と。

我が愛柴犬のマロンは、出された餌を直ぐ食べようとする。
でも…私が餌を手に持って「お座り」・「お手」・「伏せ」・「よし」までは我慢するよう躾けているが…
しかし、マロンは、目の前に置かれた「餌」の我慢は、できない…
以前の愛ゴールデンレトリバーのマファは、ちゃんと待てだ!

そう~動物は感覚した外界の五感覚・情報をその動物種の本能が瞬時に判断・対応して反応している。
それは、言うなれば「即自」的反応。

では、人間はどうなのだろうか?
「育児の認識学」によると…人間の場合は、
眼前の現実の対象の五感覚情報・外界の反映像・認識に対して、
その反映像・認識を見詰めているもう一つの認識の存在がある…と私は理解した。

この「外界の反映像(認識)」と「その外界像を見ている内界の認識(「?」的な問い掛け像)…
上記の表現は「例え的である」…
ここは、この「外界認識像と内界認像が重なった」時の~
ココロの「不思議感・違和感・納得感・疑問感…」的な感情なのだろう。
そんなココロの感情に対してアタマ・知識・知恵…が「じゃ~こう・ああしよう!」とする?

また、重なった時に、何の違和感なく反応可能な場合もあり、それは習慣化・癖化・技化している反応なのだう。
イヤイヤ~飛ばし過ぎ!

本来の本能的な動物は、反映像即本能像…で一重!
でも…人類は、サルの樹上生活の過程で、新たなもう一つの「問い掛け的な認識の芽生え」を起こしてしまった…


それは、この私が、今まで多くの他人の言葉「二重化とはこうだ!」的に納得して、
特に「二重化とは何なのだろう?」とは、自身に問わずに過ごしていた…
なのに…ギルメッシュお宅から、私の「二重化認識」に突っ込みを入れまくられて…

私自身が「俺って本当に二重化を分かっているの?」とか、
「このギルメッシュお宅め!俺の二重化認識を書いてやる!」とか…

そんな負けん気から…再度・思考・思惟・思索・思弁…を起きている時、
そして、たぶん…
今の私は睡眠中の夢の中での思考を続けているようである。
夢の内容は、ほとんど全くと言っていい程に記憶していないが…
起床時の床の中で、突然に「あれはこうなのかも?!」起きがけの閃きが発生している事実から~


師範が「夢講義」の著作完成を何故に、あそこまで喜んでいるか分からなかった。
頭脳活動が「弁証法化」したなら、その人物は、「夢の中で自分が心底解決したい欲しているモノ」の獲得手段を弁証法的に頭脳が勝手に思考してくれている。


こんな・そんな・全ては、妄想・幻想・夢想・自由びとのひとり事だが…


人類が認識の二重化が可能になったのは、現実・対象に対して「何故?」という「違和感を抱いたから!」。
その結果、「対象の認識」に対して、「問い掛け認識」・「何故?⇔きっと〇✕だ!」的に二重化してしまった。


何故?で「こうなのだ!」が出せない人類は、その答を求めて、進化していったのだろう。


さてさて…ただ…
会話の中での相手への二重化とは、
自己の中の「相手の言葉・言動・感情表現・マイクロジェスチャー…の反映」から
自分の中の問い掛け的な認識を、その「相手のココロ・アタマレベルに合わせる」事…

あの著書では、更に、その問い掛け的な認識の他に、
もう一つ「看護師的な確固たる義務・責任の自覚・思い・感情…の強力な意志・認識の構築・保持が求められる…」と言いたいのだろう。

「対象の認識」と「問い掛け的認識」(二重化)の統一から、
その結果に対する、現時点での「自己の社会的・責任・義務の認識」(自己・意志・行動認識)












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33 コメント

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Unknown (ギルガメシュ)
2024-07-02 18:33:43
新たに何かを思いついて、そのために文章を認めていくことは当人にとって、そしてその文章が心の琴線に触れた者にとっては大事なことだと思います。

そして、その自由びと氏の文章が数多の読み手の側に深く印象づけられるものであったなら幸いですね。

私は自由びと氏が扱っているような事例を「観念的二重化」というフレームでは扱いませんし、それは時代的な要請でもあると同時に学的な体系性のゆえでもあります。

それと共に「三浦つとむが著作で説いた観念的二重化というのは何だったのか?」という根本的・アルケーの問題を、自分の知的欲求に任せて探究しようと考えてますね。

つまりは南郷先生が70年代に説いていた「秀才的と鈍才的」、「桃太郎の繰り返し」とは何を繰り返すのか?という本質的な問いなわけですが、

私の周囲の人が最近は盛んに「京大ぶっ殺せ」とメッセージを送ってくるのは、呑気な私が対話している自由びとという人間が京都大学を出た寄筆一元氏なのかも知れないとは、インフォメーションテクノロジーに疎い私には対話している相手が誰なのか皆目分からないものでも、岡目八目で客観している人間にはガラス張りのように透けて見えるのか!と。
返信する
ネットと現実は別物! (自由びと)
2024-07-03 16:56:35
>・コメントを書いた人
>ギルガメシュ

>・コメント
>新たに何かを思いついて、そのために文章を認めていくことは当人にとって、そしてその文章が心の琴線に触れた者にとっては大事なことだと思います。


同感・共感!

>そして、その自由びと氏の文章が数多の読み手の側に深く印象づけられるものであったなら幸いですね。


私も「幸い」を求めています!


>私は自由びと氏が扱っているような事例を「観念的二重化」というフレームでは扱いませんし、それは時代的な要請でもあると同時に学的な体系性のゆえでもあります。


その「時代的な要請」とは、いつの時代でしょうか?
もしかして…お宅の学んでいる「学問」は、もう時代遅れ?
仮に、時代の最先端だとしても…現代での革新スピードでは、直ぐ追い抜かされてしまうのでしょうね…
だから、「時代の一歩先を行く学問」が最高…なんて事を南郷氏が説いていたかも…

そうそう…それでの「アキレスと亀の競争」ではないですが…
時代の学問は、どんなに頑張っても、現実社会の歩みを追い越す事は不可能…と書いていましたね…


>それと共に「三浦つとむが著作で説いた観念的二重化というのは何だったのか?」という根本的・アルケーの問題を、自分の知的欲求に任せて探究しようと考えてますね。


他人にとっての「二重化」、他人の説いている観念的に二重化ではなく…
自分自身が使える・駆使可能な「観念的・観念の二重化」を、私は追い求めています!

>つまりは南郷先生が70年代に説いていた「秀才的と鈍才的」、「桃太郎の繰り返し」とは何を繰り返すのか?という本質的な問いなわけですが、


秀才とは、「器用貧乏」的なモノ、鈍才とは「馬鹿の一つ覚え」・「苔の一念岩をも通す」~

「何を繰り返すのか?」
自己の目的意識的な問い掛けを、意識的に「問い」続ける事だと、今の私は認識しています。
自己の自然成長的・感情的な問い掛けの「感情」部分を「目的意識的感情に量質転化化」する。
問題は、その「目的意識的な問い掛けの中身」…それが「弁証法的認識・思考活動」なのでしょうね♪♪♪

勉強を勉強し続ける事!
正体が明確でも、捉え難い・自分のモノにし難い~
そんな「弁証法的思考」の技化を求めての「桃太郎の繰り返し」ですかね…



>私の周囲の人が最近は盛んに「京大ぶっ殺せ」とメッセージを送ってくるのは、呑気な私が対話している自由びとという人間が京都大学を出た寄筆一元氏なのかも知れないとは、インフォメーションテクノロジーに疎い私には対話している相手が誰なのか皆目分からないものでも、岡目八目で客観している人間にはガラス張りのように透けて見えるのか!と。


成る程ね~「岡目八目…ガラス張り…透けて見える…」ですか?
確かに、私達二人のやり取りを第三者として、客観的に読み・理解するなら、私達二人の長短はハッキリ見えるでしょうが…
それでも、現実界の私達二人を知っている人物が読んでいる事は稀でしょうし…
仮に、読んでいたとしても、私達二人を現実的に特定する事は至難でしようし…。

更に、現実的に特定できたとしても、現実界の私とネット界「自由びと」は全くの別人レベルです。
このブログで書いているような事を、私の周囲の知人に話せる訳ないし…
仮に、話したとしても、「お前!何言っての!それってマジ・正気?」…と相手にされないでしょうね!
返信する
Unknown (ギルガメシュ)
2024-07-04 12:15:04
>その「時代的な要請」とは、いつの時代でしょうか?

「現代」ですよ。「現代」の「医療専門職」の資格を得るための専門的な養成機関で学んだ人間ならば、医師だろうが看護師だろうがリハビリ士だろうが必ず学ぶことを義務づけられている解剖学・生理学的な観点ですよ。では、それが「いつから?」と言ったなら遥か古代から正しいものとして受け継がれているものもあれば、つい近年に発見されたものもあるわけですから、発見された年度というのは本質的なことでもないとは思いますけれど、
そういう奥歯にモノが挟まったような核心に触れない言い方だと釈然としませんから明確に述べるなら、それは「脳の《連合》」という機能です。「いつから始まったか?」というならば、ポール・フレクシッヒ(Paul Emil Flechsig)という精神科医で神経解剖学者が命名した脳の解剖学的な場所であり機能だということですよ。

年代でいったなら19世紀に当たるようですが、それが20世紀でも21世紀でもないということで「今はもう新しいことが発見されているだろう、そこ(連合野)は今は連合させる場所ではないと認識されているだろう」と夢想するのは、医学的な学習・訓練を受けた私らのような医療専門職ではない学校教育者としての訓練を受けた自由びとお宅には共感できないかと思いますけども、分かる人によっては私の言う「中身のない自動思考の弊害」を理解していただけると痛感していますよ。
返信する
難しい問題! (自由びと)
2024-07-05 15:37:00
・コメント
>その「時代的な要請」とは、いつの時代でしょうか?

「現代」ですよ。「現代」の「医療専門職」の資格を得るための専門的な養成機関で学んだ人間ならば、医師だろうが看護師だろうがリハビリ士だろうが必ず学ぶことを義務づけられている解剖学・生理学的な観点ですよ。では、それが「いつから?」と言ったなら遥か古代から正しいものとして受け継がれているものもあれば、つい近年に発見されたものもあるわけですから、発見された年度というのは本質的なことでもないとは思いますけれど、
そういう奥歯にモノが挟まったような核心に触れない言い方だと釈然としませんから明確に述べるなら、それは「脳の《連合》」という機能です。「いつから始まったか?」というならば、ポール・フレクシッヒ(Paul Emil Flechsig)という精神科医で神経解剖学者が命名した脳の解剖学的な場所であり機能だということですよ。

年代でいったなら19世紀に当たるようですが、それが20世紀でも21世紀でもないということで「今はもう新しいことが発見されているだろう、そこ(連合野)は今は連合させる場所ではないと認識されているだろう」と夢想するのは、医学的な学習・訓練を受けた私らのような医療専門職ではない学校教育者としての訓練を受けた自由びとお宅には共感できないかと思いますけども、分かる人によっては私の言う「中身のない自動思考の弊害」を理解していただけると痛感していますよ。









>「現代」ですよ。「現代」の「医療専門職」の資格を得るための専門的な養成機関で学んだ人間ならば、医師だろうが看護師だろうがリハビリ士だろうが必ず学ぶことを義務づけられている解剖学・生理学的な観点ですよ。


「時代の要請」が、<現代>ですか?
現代・社会の要請ですね!

しかし、そんな現代・社会の要請に対して、
現代の学問レベルで、応える事が可能でしょうかね…

それが、「解剖学・生理学的な観点」ですか…
私が、思うに現代社会の要請に応えるには、そんな学問的な延長線上の「観点」でなく…
現代を越えた・新たな量質転化化した「真・観点」が求められるでは?





>それは「脳の《連合》」という機能です。
>…脳の解剖学的な場所であり機能だということですよ。
そこ(連合野)は今は連合させる場所ではないと認識されているだろう」と夢想するのは、医学的な学習・訓練を受けた私らのような医療専門職ではない学校教育者としての訓練を受けた自由びとお宅には共感できないかと思いますけども、分かる人によっては私の言う「中身のない自動思考の弊害」を理解していただけると痛感していますよ。


>「脳の《連合》」という機能…ですか?

私が思うに…連合も何も…本来の脳は、全身の神経の一体的・全身的なのは当然でしょう。
問題は、そんな全身・神経が一体的てある筈の人類が、
何で「頭脳の連合」という問題が生じたのか?を解く事でしょうね…

そもそも…認識・像も、本来は全頭脳が一体的な映像化であり、全身の神経が一体的に感覚・感情化している筈なのに…
低学年の児童なら全身で表現する喜怒哀楽…が、何故に成人・大人に、でき難いのか?
そんなテーマが、学的な問題となり得ていたなら…

やはり…現代の学問は、現代社会の要請には応えかねるのかも…

>「中身のない自動思考の弊害」…ですか?
なかなか興味深い言語表現ですね…

この表現・記述から連想されるのは以下のようモノです。
日々の生活習慣・日々の生活の癖化…「自動思考」


子供時代の生活習慣…成長期の正常な成長・発育・促進の為の「早寝・起き」…
その習慣を社会人になっても、深く考えずに続けている大人。
何も考えずに「それは常識だ!」と過去の悪しき慣習を続けている者達~

私からすれば…
お宅も、お宅の習得した知識類を、深く考える事無く「自動思考」的に書き綴っているような感じですがね…
返信する
Unknown (ギルガメシュ)
2024-07-06 04:18:29
今回「連合」について自説を述べたことで、あらためて「弁証法の教科書」である三浦つとむの『弁証法はどういう科学か』を読み返したんですよ。

それで「観念的な二重化」について改めて気がつくことが出来たんです。三浦の『弁証法は〜』において「観念的な二重化」というのは「対立物の相互浸透」の所に出てくるわけですけど、それは「いま現在の現実的な反映」と「未来の来るべき世界」との二重化なんですね。

それを三浦は「自己の二重化と世界の二重化」といってますけど。これはプラトンの「ニ世界論」だと思います。つまりは、三浦のいうところの「哲学の遺産を科学として生かす」ということで、南郷先生の著述でいったなら「トーマス・ヒル・グリーンから河合栄治郎へ繋がる《理想主義》」、私の先生の著述でいったなら「レアール(現実)とイデアール(理想)」という《二重》なんだと思いますよ。

それがマルクス主義の場合には現実世界の「資本主義」に重ねられた「共産主義」という理想像が《観念的な二重化》だったのでしょうが、それがどういった経緯で海保静子や南郷学派の「自己の他人化」が即ち観念的な二重化だと考えられるようになったのか?確かに三浦の「相互浸透」の説明には他者と対話をしていく過程で互いに相手の性格を受け取っていくと説明されていますが、そもそもの「観念的な二重化」の「プラトンのイデア論」からの遺産という性格(対比的には東洋的な諦観(そういうものだと諦める、観念することの否定)から省みれば、医療従事者(もしくは心理カウンセラー?)が現在の患者さんの状態を超えたところに未来の回復した姿を重ねて見ることが「ドイツ観念論=ドイツ理想主義」の本質的なところだと思いますから、神庭さんの「そーだ、男を許すな!」みたいな対応がクライアントと同じ感情を共有した・同じ考えを持った、だから二重化なのである、みたいな理解は「観念的な二重化」の根本的な基本「プラトンのイデア論やドイツ理想主義の遺産を継承する」を分かっていないのだと思いますね。

それが自由びとお宅の、私がこれっぽっちも尊敬の気持ちが湧いてこない「信じろ!信じろ!信仰しろ!神庭純子と同じ考えになれ!」という軽蔑すべきおバカな繰り返しだと認識しています。

それが三浦も『弁証法は〜』で触れているように「連合」ということならば「現実世界の理解に関する連合」と「まだ見ぬ未来へ向けての連合」というように「連合の中身」が二つに区別される所以だと考えますね。
返信する
Unknown (ギルガメシュ)
2024-07-06 04:41:34
しかし、私の「何を繰り返すのか?」という発言に南郷先生が書いている「基本技」という言葉が出てこずに「バカの一つ覚え」なんて発言がなされたのには苦笑してしまいましたよ。

様々な文化に「基本」というものがありますし、それは空手だとかでも流儀や流派によって相当に違っていたりもしますが、立ち方だとか拳の位置だとか突きの軌道だとか、非常に沢山の注意点が細かく分析されて伝えられていて、「基本の発見」というのは人類の文化史上に残る最高の発見だと私には思えますけども。

試しに弓道を調べてみても立ち方から呼吸の仕方、手の使い方、胸郭の使い方など沢山の基本の注意点があって、これを自分が入り込んだ文化の中で自分で基本を作り上げてみろ!と言われたなら中々に難しくて容易に何を意識したら良いのか?を認識するのは困難ですよ。

「バカの一つ覚え」とは笑いましたが、基本ならぬおバカを繰り返すのはお宅(自由びと)だけで十分だと進言しておきます。
返信する
「二重化」違い! (自由びと)
2024-07-06 11:15:42
>コメントを書いた人
>ギルガメシュ



>今回「連合」について自説を述べたことで、あらためて「弁証法の教科書」である三浦つとむの『弁証法はどういう科学か』を読み返したんですよ。

>それで「観念的な二重化」について改めて気がつくことが出来たんです。三浦の『弁証法は~』において「観念的な二重化」というのは「対立物の相互浸透」の所に出てくるわけですけど、それは「いま現在の現実的な反映」と「未来の来るべき世界」との二重化なんですね。


それって…「世界の二重化」それも、「未来予想の為の二重化」なのでは?
「二重化」には、それ以外にも色々あり~
眼前の現実を正しく認識する為の二重化⇒「過去から現時点までの自己の記憶の想起」or現実界の事実・事件の調査…
眼前の相手をより正しく・詳しく分かる・理解する為の二重化⇒「相手の体験・経験…語り事・言動・感情変化…への二重化
または、ペットの習性を正しく分かる・理解する為の二重⇒一般的学説・事実…を調べ…ペットの日頃の行動と比べて…
一言で「二重化」と言っても、その人の目的に合わせて、色々な二重化があり得ます。


それでも…二重化とは、自己の認識内に、
眼前の現実的な対象の反映・認識に対して、その反映とは別に認識内での対象に関する新たな認識を生じさせる行為。

現実からの反映されている対象・認識と認識内での対象・認識という「二重の認識(化)」の事。
ただ…その時、その二重化された対象認識とは、別に自己の「問い掛け的な認識」があろうが…
それは「二重化」されている認識と一体的になっているのだろう…
言うなれば、「●〇?」的な問い掛けの結果が、認識内の対象認識であろう。



>それを三浦は「自己の二重化と世界の二重化」といってますけど。これはプラトンの「ニ世界論」だと思います。つまりは、三浦のいうところの「哲学の遺産を科学として生かす」ということで、南郷先生の著述でいったなら「トーマス・ヒル・グリーンから河合栄治郎へ繋がる《理想主義》」、私の先生の著述でいったなら「レアール(現実)とイデアール(理想)」という《二重》なんだと思いますよ。



ふ~ん…
私的には、
「哲学の遺産を科学として生かす」ではなく、
哲学の遺産を使って「自己の世界を豊かに広げる」と思えるのですが…



>それがマルクス主義の場合には現実世界の「資本主義」に重ねられた「共産主義」という理想像が《観念的な二重化》だったのでしょうが、それがどういった経緯で海保静子や南郷学派の「自己の他人化」が即ち観念的な二重化だと考えられるようになったのか?確かに三浦の「相互浸透」の説明には他者と対話をしていく過程で互いに相手の性格を受け取っていくと説明されていますが、そもそもの「観念的な二重化」の「プラトンのイデア論」からの遺産という性格(対比的には東洋的な諦観(そういうものだと諦める、観念することの否定)から省みれば、医療従事者(もしくは心理カウンセラー?)が現在の患者さんの状態を超えたところに未来の回復した姿を重ねて見ることが「ドイツ観念論=ドイツ理想主義」の本質的なところだと思いますから、神庭さんの「そーだ、男を許すな!」みたいな対応がクライアントと同じ感情を共有した・同じ考えを持った、だから二重化なのである、みたいな理解は「観念的な二重化」の根本的な基本「プラトンのイデア論やドイツ理想主義の遺産を継承する」を分かっていないのだと思いますね。


>現在の患者さんの状態を超えたところに未来の回復した姿を重ねて見ることが…<

南郷学派の医学では、「未来の回復」ではなく、「病気になる以前のような健康状態への復帰・回復…」であり
そんな「イディア的な」理想の状態への「未来に回復した(理想的な)姿」ではないのでしょうね…
病気になって完治しても、それは、病気になる前の、その人の健康状態以上にはなり得ませんよ。

更に、精神疾患…等の精神的な病気では、その精神状態の把握が至難なのでしょうね…
この状態の正確な把握の為の
「相手のと会話・関わりを通して相手へ二重化が必要・大切…」と神庭さんが説いていると理解していますが…



>それが自由びとお宅の、私がこれっぽっちも尊敬の気持ちが湧いてこない「信じろ!信じろ!信仰しろ!神庭純子と同じ考えになれ!」という軽蔑すべきおバカな繰り返しだと認識しています。


だから…お宅の考えを根本的に否定するつもりはありませんが…
神庭さんの書いている「二重化」は、
言うなれば「その時点の、その患者精神疾患を患っている人物の世界への二重化」であり、
お宅の書いているような「哲学的・一般的な世界への二重化」ではないのですよ!

「信じろ」とは、神庭さん、「二重化の方法」・やり方であり、
それは眼前の患者への二重化。そして、それが「患者を理解するのに有効なモノ」(この事を信じよう)

彼女の説く「二重化」は、このコメントでのお宅が書いているような、
書物に書かれている「二重化」というモノへの理解の為の二重化ではありません。



>それが三浦も『弁証法は~』で触れているように「連合」ということならば「現実世界の理解に関する連合」と「まだ見ぬ未来へ向けての連合」というように「連合の中身」が二つに区別される所以だと考えますね。


だから…人間の認識というモノは「連合」と思おうが・思うまいが…
その人物的には、全てを区別と連関的に連合してしまっている、のです。

その「連合」の失敗例が、多重人格的な認識の保持者です。
その人達は、自己の中で区別と連関で、個々の思惟・思考の「連合」に失敗した人々でしょうね…
「連合」できないなら…バラバラにして、別人格的な扱えば、それはそれで納得・整合性がある…から~

問題は、哲学・学問的な「連合」と自己の自然成長的な「連合」の相違を自覚して、
自己に中に、新たな合・現実世界的な「連合」の創出でしょうね…
返信する
観点の相違ですね♪♪♪ (自由びと)
2024-07-06 11:53:56
「バカの一つ覚え」ですか…「バカの一念岩をも通す」なんてね♪♪♪

う~ん!
「基本技」ですか?
確かに…私には、事実「基本技」という言葉・概念は出てこなかったな…。
また、言葉で言われれば、「基本技の繰り替えし」は当然の「当たり前だのクラッカー」ですね。
確かに[基本技」を繰り返す事に間違いはないのですが…

しかし「基本技」を飽きずに繰り返し続けられるモノは何?
私自身が非常に飽きっポイ性格で、同じ事の「繰り返し」だと直ぐ飽きて止めてしまいます…

そんなこんなで、出て来た結論が、
「バカの一つ覚え」的に、兎も角「繰り返す」という信念・精神・意志…の「一念」!

その場でのテーマは「二重化」です。
ならば、「同じ事の繰り返し」と「二重化」の関係は?

同じ事の「繰り返し」わ続けられる事、
その苦痛に耐えられ続けモノは、その者の意志・精神という事ですかね。

師範が説いていました「受け技とのコミュニケーション」~
意志・精神と基本技との相互浸透・二重化てすかね…



そもそも…本来の「基本技」とは、応用範囲が広く、とても役立つだろうモノ…ですが…
それが、組織・流派・団体で同じではありません。
また、そのモノが「役立つ・役立たない」が、初心者には分かりかねます。
だから、初心者は、指導者に言われた「稽古・練習」を「バカの一念」で繰り返す…という結論でしょうか…

また、達人・名人になれば…
「その自己の闘い方の基本形式」を自己の基本型として創出して、
日々繰り返し稽古・練習をしていた、ようですし。

なので~
基本技と言われた・教えられたモノを繰り返し続けるには、
「バカの一つ覚え」的な反復稽古・練習が不可欠なのでしょう!

ただ…現代の空手界では、
その「基本技の約束組手」の方法がマズイのでしょうね…

本来の約束組手では、その基本技の使い方を創る練習であるべきモノが…
現実は、ただ「突い」、ただ「受ける」…だけ~

そこには、
「ゆっくり・確りと相手の突きを見るだけ稽古」もなく、
次に「見た突きに対して、ゆっくり・確りと受けを出す」稽古もなく、

また、見える・受けれる…なら、本気で突いて、本気で受ける稽古。
こんな稽古をすれば、本気で受けられない・受け技が確りできてない…
自覚が生れたなら「基本創出練習にも力」が入るだろう。

言うなれば、同じ「基本の繰り返し」を飽きさせずに、
目的・意識的に続けさせられる、ような練習体系になっていない!という事。
だから「バカの一つ覚え」が有効!

しかし、上記のような確りとした体系的な練習ならば、
使えない受けの「バカの一つ覚え」的から、使えるの受けに「繋がる賢者の一つ覚え」的練習になろうが…
返信する
Unknown (ギルガメシュ)
2024-07-06 13:09:50
自分がバカだという理解が出来ないなら、何をコメントし続けても変化はないでしょう。

「基本」という最重要事項に関する理解もなく、それを指摘した私のコメントも非公開で、これがまた『学城』で勝手に利用されるであろうことを残念に思いますけどね。

「弁証法は様式」だと結論づけたお宅自身の癖になっている思考習慣も、tada氏が指摘した「庄司和晃、特殊性」ということもお宅には何の気づきもなく、相も変わらずおバカな思考の繰り返し。

私には自由びとお宅と玄和会総長まで辿り着きながらもおバカゆえに新井さんに代筆をしてもらっている田縞某とが二重に映りますね。

『学城』の加納某という御仁も実力ある人物とは思えませんね。

どんな約束組手やろうが玄和は弱いわけですから、私にとってはどーでもいーことですが、バカの一つ覚えでドリルを解くのとバカの一つ覚えで基礎理論を考察するのとでは雲泥の違いですよ。
返信する
バカの一つ覚えで求めるモノ~ (自由びと)
2024-07-06 17:42:53
>・コメント
>自分がバカだという理解が出来ないなら、何をコメントし続けても変化はないでしょう。


ほ~う…
自由びとを分からせられない・納得させられないお宅の能力不足を嘆くのでなく…
お宅の書いている事が分からない自由びとの事を「バカ」と言い切るのですね…

そもそも…お宅は初めから「自由びとの変化」なんか望んでないしょ!
お宅勝手な持論を自由びとブログのコメント欄で、お宅勝手に展開している…だけでしょうが…
自由びと言説へ言い返す事ができなくなると…
いつも~お宅は「自由びとがどうの・こうの…」と「負け犬の遠吠え」ですよね!




>「基本」という最重要事項に関する理解もなく、それを指摘した私のコメントも非公開で、これがまた『学城』で勝手に利用されるであろうことを残念に思いますけどね。

↑~
「基本という最重要事項」…とは…
基本が、重要なのは、それを基本として、正しく、体得・修得する事で可能性が広がるだろうからなのです。
そもそも…空手の基本にしても…流派ごとに大きな相違はありません。
重要なのは、どのような目的意識で、どのような過程で、その基本をどのように体得・修得させるか?という事です。
その基本に対する基本的な目的意識的な「認識の指導・教育」の部分ですかね!
闘魂・不屈の精神・意識の持ち方の教育・指導…

だって…確か、合気道では、「初めに奥義あり」でしたね!

>「弁証法は様式」だと結論づけたお宅自身の癖になっている思考習慣も、tada氏が指摘した「庄司和晃、特殊性」ということもお宅には何の気づきもなく、相も変わらずおバカな思考の繰り返し。


え!?「弁証法が様式」なんて…言った事も書いた事もありません。
そもそも…私は「○○様式」なんて言語表現は使いません。
そもそも…確か、私は「弁証法とは、弁証法性の法則化」と書いていたと思います。
そして、技化した弁証法は、その人の思考活動です。
そうそう「思考様式」とも言いません・書きません・書いた事もありません。
自由な思考活動には、「様式」といモノはありません。
「様式を求め囚われたら、不自由ですね…」

それは、技を出すのでなく、「動けば技になる」と同様に「思考活動そのものが弁証法的」

>私には自由びとお宅と玄和会総長まで辿り着きながらもおバカゆえに新井さんに代筆をしてもらっている田縞某とが二重に映りますね。


そんな本当か嘘か、事は知りませんが…
「代筆してもらったらおバカ」とは…なんと浅はかな認識~
人間は、得意・不得意があって当然なのです。

とても深い想い・思いがあって、眼前の特定の相手に個人的に伝える事は上手でも…
不特定多数に伝える事が不得手な者が、その認識・感情を代筆してもらって何が「おバカ」なの?
問題は、自己の認識を如何に正確に大勢の会員に的確に伝えられるか…でしょうね…


>『学城』の加納某という御仁も実力ある人物とは思えませんね。

上・上記のような事が平然と書けているお宅に、正しく相手の実力が読めるとは思えませネ…

>どんな約束組手やろうが玄和は弱いわけですから、私にとってはどーでもいーことですが、バカの一つ覚えでドリルを解くのとバカの一つ覚えで基礎理論を考察するのとでは雲泥の違いですよ。

そうですね!
でも、私の「バカの一つ覚え」は、お宅の想像とは違っていますよ!
それは、「バカの一つ覚えで弁証法の追求」ですかね…

過去の大勢の偉人は、バカの一つ覚え的に人生を生きた者達も大勢いますね…
「トロイの木馬」遺跡発掘した誰だっけ…なんて…確か周囲から馬鹿にされ続けていたでしょうが…


お宅は、上記のように長々とコメントを書こうが…その内容は、殆ど毎回いつも同じ!

私のコメントの否定のみであり…
私のコメント・言説を自らの思考過程に加えて、新たな思考展開を求めようとはしていない!
だから…お宅の思考活動は、毎回「お宅様式」で、いつも同じモノ。
そう変化がないから、「様式」!「様式に拘り過ぎて自由度のない・ガチガチ様式ですかね…


私にとって、ここで書かれている言説・コメントの結果なんて…どうでも良いのです。
現実の生活で、私が、ここでのお宅のコメントと私コメントの統一の過程で得た「ウイン・ウイン」的な思考法が使えればOK!なのです。
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