「しょうがない」話~
先日…と言っても四週間前の話。
水曜日の二校時の小二体育の補助の時である。
この日は、「島ドッジ」と言って…私は初めて見たドッジボールだった。
その時、男子K君が、投げられたボールが取れずにアウト!
横で見ていた私が~
「あれは…『しょうがない』よ!」
「前にいたA君、B君に急に避けられて当たった場所が足元では取れないよ!」
するとK君は、
「『しょうがなくないよ!』、だって、あれは取れないよ!」と言った。
私は「しょうがないよ!取れなくても…」
K君「しょうがなくないよ!取れないよ!」
私もK君も「取れない」では一致しているのに…
私は「しょがない」でk君は「しょうがなくない」
私「取れないから、しょうがない」
K君「取れないから、しょうがなくない」
といった不一致を感じた!
では、その不一致の理由は?
そこで考えたのは、
一つ、自分自身が、取れない事を実感して「しょうがない」という諦めの気持ちの表現。
一つ、他人から言われた、「あんなボールも取れないのか!…しょうがない奴だなぁ!」表現。
上記のどちらも正しい「しょうがない」表現と言えよう。
ただ、今回のK君にとっての他人の私の「しょうがない」表現は、少々違っていた。
今回の私の場合は、K君が、取れない理由が横で見ていてハッキリ理解できていた。
なので、私の「しょうがない」表現は「ドンマイ!全力ど取れないならしょうがない」
今回の一件で…
「しょがない」には、全力出してダメなら「しょうがない(次ガンバ)」。
できる!俺からすれば、そんな事も出来ないないお前は「しょうがない奴」(ギルガメシュお宅表現)。
さてさて本題である。以下のギルガメッシュコメントである。
>端的に言えば「自由びとお宅の思考癖はど~しようも無いものに習慣化している」ということですよ。
>これは抽象的な本を具体に逐一降りてくる鈍才的な学びを等閑視して秀才ぶって読んだ御仁がかくのごとき思考癖になるのでしょうね。
このお宅が指摘している「思考癖」とは、
自由びとが「二重化」というモノを具体的に思考するのではなく、
抽象的に思考している姿なのだろうか?
具体的な「二重化」…言うなれば、二重化の使い方を考えるのも「二重化」についての思考なら
人間にとっての「二重化とは何か?」「二重化の始まりは?」と言った~
二重化の生々・生成・形成過程の思考して、より確かな二重化能力の創出過程の思考であろう。
要は~具体的な「二重化の方法論」と「より確かに二重化の創出論」…
この二つが区別と連関で思考可能であればよし!
仮に「思考癖の習慣化」が事実であったとしても、
私自身が、時・場所・タイミングを確り感覚して、どちらの思考にするか正しく判断するばよし…
そもそも…現実界で相手との対話の中で、
「今、私は相手に、どのようにつ二重化している?」なんて思考の余裕はなし。
児童達の言動から彼らの欲しているモノは何か?
また、担任・教師の授業から児童達に教えたいモノは何か?
そこで、私のできる事は何か?
その為には、私は、何をどのように表現・体現すればいいか?
そんな事を必死に思考している場合に、
二重化についての抽象的な思考なんて余裕なし!無理!無理!
言うなれば…そんな「癖」を出せる程の余裕なし!
このギルガメシュお宅の言っている「私の思考癖」は、私に余裕のない場合には、表出しない癖でだろう…
それは、言うなれば、「スコーレ」の賜物みたいなモノですかね…
先日…と言っても四週間前の話。
水曜日の二校時の小二体育の補助の時である。
この日は、「島ドッジ」と言って…私は初めて見たドッジボールだった。
その時、男子K君が、投げられたボールが取れずにアウト!
横で見ていた私が~
「あれは…『しょうがない』よ!」
「前にいたA君、B君に急に避けられて当たった場所が足元では取れないよ!」
するとK君は、
「『しょうがなくないよ!』、だって、あれは取れないよ!」と言った。
私は「しょうがないよ!取れなくても…」
K君「しょうがなくないよ!取れないよ!」
私もK君も「取れない」では一致しているのに…
私は「しょがない」でk君は「しょうがなくない」
私「取れないから、しょうがない」
K君「取れないから、しょうがなくない」
といった不一致を感じた!
では、その不一致の理由は?
そこで考えたのは、
一つ、自分自身が、取れない事を実感して「しょうがない」という諦めの気持ちの表現。
一つ、他人から言われた、「あんなボールも取れないのか!…しょうがない奴だなぁ!」表現。
上記のどちらも正しい「しょうがない」表現と言えよう。
ただ、今回のK君にとっての他人の私の「しょうがない」表現は、少々違っていた。
今回の私の場合は、K君が、取れない理由が横で見ていてハッキリ理解できていた。
なので、私の「しょうがない」表現は「ドンマイ!全力ど取れないならしょうがない」
今回の一件で…
「しょがない」には、全力出してダメなら「しょうがない(次ガンバ)」。
できる!俺からすれば、そんな事も出来ないないお前は「しょうがない奴」(ギルガメシュお宅表現)。
さてさて本題である。以下のギルガメッシュコメントである。
>端的に言えば「自由びとお宅の思考癖はど~しようも無いものに習慣化している」ということですよ。
>これは抽象的な本を具体に逐一降りてくる鈍才的な学びを等閑視して秀才ぶって読んだ御仁がかくのごとき思考癖になるのでしょうね。
このお宅が指摘している「思考癖」とは、
自由びとが「二重化」というモノを具体的に思考するのではなく、
抽象的に思考している姿なのだろうか?
具体的な「二重化」…言うなれば、二重化の使い方を考えるのも「二重化」についての思考なら
人間にとっての「二重化とは何か?」「二重化の始まりは?」と言った~
二重化の生々・生成・形成過程の思考して、より確かな二重化能力の創出過程の思考であろう。
要は~具体的な「二重化の方法論」と「より確かに二重化の創出論」…
この二つが区別と連関で思考可能であればよし!
仮に「思考癖の習慣化」が事実であったとしても、
私自身が、時・場所・タイミングを確り感覚して、どちらの思考にするか正しく判断するばよし…
そもそも…現実界で相手との対話の中で、
「今、私は相手に、どのようにつ二重化している?」なんて思考の余裕はなし。
児童達の言動から彼らの欲しているモノは何か?
また、担任・教師の授業から児童達に教えたいモノは何か?
そこで、私のできる事は何か?
その為には、私は、何をどのように表現・体現すればいいか?
そんな事を必死に思考している場合に、
二重化についての抽象的な思考なんて余裕なし!無理!無理!
言うなれば…そんな「癖」を出せる程の余裕なし!
このギルガメシュお宅の言っている「私の思考癖」は、私に余裕のない場合には、表出しない癖でだろう…
それは、言うなれば、「スコーレ」の賜物みたいなモノですかね…
あやまあ、私の発言をそのように理解したのですね、私はそんなつもりは全然なかったのですが。
自由びとお宅は無視して気にしなくても構わない私(ギルガメシュ)の言葉の一つ一つが気になって、それを否定して自分が安堵できる思考の筋道を、私(ギルガメシュ)が理解できる道筋とは無関係に一生懸命に探していたのですかね?
ですが、まあ、事の発端は自由びとお宅の方にあると私は考えてますよ。それは「玄和会で黒帯になるまで南郷継正先生の指導を受けた」と書いたのは自由びとお宅ですから。
自由びとお宅が書いている島ドッヂのお話しが事実だとしたならば、自由びとお宅が自分の興味のある「同じ言語表現をしながら違う意味で言っている」と受け止めている「自由びとお宅が「しょうがないよ」と言った直後に自由びとお宅を否定・拒否するように「しょうがなくないよ」と言った小学校2年生の自由びとお宅に対する信頼感の度合いが問われるように思いますけどね。
まあ、南郷先生ご自身がヘーゲルの大論理学への流れからの関心かトマス・アクィナスのスコラ学に興味があるみたいですから、計画的に行われている学校の授業に「暇ではない瞬間的な余裕なき判断」なんかを持ち出してくる失笑さは必然的なのかも知れませんけどね。
>ギルガメシュ
>・コメント
>>お前は「しょうがない奴」(ギルガメシュお宅表現)
>あやまあ、私の発言をそのように理解したのですね、私はそんなつもりは全然なかったのですが。
↑
お宅に「…そんなつもりは全然なかった…」という事が事実なら…
それは、他人を馬鹿にする見下す「発言癖」というモノでしょうね…
または、お宅の普通の発言を、他人がどのように感じるか?という思考習慣がお宅には皆無!という事ですかね…
>自由びとお宅は無視して気にしなくても構わない私(ギルガメシュ)の言葉の一つ一つが気になって、それを否定して自分が安堵できる思考の筋道を、私(ギルガメシュ)が理解できる道筋とは無関係に一生懸命に探していたのですかね?
↑
>「自分が安堵できる思考の筋道」…とは、なかなか興味深い言説ですね。
また、>(ギルガメシュ)が理解できる道筋とは無関係に一生懸命に探していたのですかね?<とは…
これもなかなかのモノですよ!
私が「気になる」のは、私の思考の深化・整合性…の問題であり、本来お宅とは無関係なのです。
これは、私の内面・認識の問題です。
だから、お宅宛てに書いていても、その目的は私自身を納得させる為…とうモノでしょうね…
>ですが、まあ、事の発端は自由びとお宅の方にあると私は考えてますよ。それは「玄和会で黒帯になるまで南郷継正先生の指導を受けた」と書いたのは自由びとお宅ですから。
↑
え?>「玄和会で黒帯になるまで南郷継正先生の指導を受けた」と書いたのは自由びとお宅ですから<。
↑
そんな事、書きました?
今の私が、記憶している「南郷師範」の直接指導は、技術講習会での全体練習の時だけでしょう。
確かに南浦和での声掛けはありましたかが…直接指導はありません。
後、師範主催の「夏合宿」の参加した際の師範講義での質問、
海岸で中休みの際に一人で泳いでいる師範に「何をしているのですか?」質問した際に、師範が「中国拳法について新?大?発見した!」そんな御言葉を頂いた事は記憶にあります。
そもそも…私が黒帯を取ったのは、茶帯で参加した師範主催の夏合宿です。
それまでは、新宿支部で井〇先生の指導でした。
なので「黒帯まで、直接南郷師範の指導はない」と思っていますが…
そもそも…
ほとんど問題にしていない自由びと記述の内容を
お宅が正確に記憶している筈はないのです。
それらのお宅の記憶は、誤記憶でしょうね…
>自由びとお宅が書いている島ドッヂのお話しが事実だとしたならば、自由びとお宅が自分の興味のある「同じ言語表現をしながら違う意味で言っている」と受け止めている「自由びとお宅が「しょうがないよ」と言った直後に自由びとお宅を否定・拒否するように「しょうがなくないよ」と言った小学校2年生の自由びとお宅に対する信頼感の度合いが問われるように思いますけどね。
↑
>「信頼感の度合いが問われる」とは…
それは、少々間違っています。
この場合の「しょうがない」という言葉・概念は、その児童が生活の中で自然成長的に習得・体得したモノ。
例え、仮に、その児童が私に絶大の信頼感を抱いてしたとしても…
彼が、彼の日常生活の中で体得している、彼自身の「しょうがない」感を、
私の言葉だけから、彼自身が否定する事は至難でしょうね…
私にできたのは、彼に~
「この場合の『しょうがない』の意味は、取れなくて当たり前!という意味だよ…」といった説明です。
そもそも…児童の、教師に対する信頼感と、私達のような補助員に対する信頼感…とは違っていて当然です。
その「信頼感」が生じるのは、児童達の、始めたの体験(学習内容)を教師が教えてくれる時であり…
例えば、学校で、塾で既に習った内容の学習時は、児童によっては、教師の指導ではなく、塾の指導を優先するモノもいます。
現代の児童達の知識は、スマフォ・ネット…情報から得ていて、私の時代とは大違いです。
彼らは、物知りである意味自信タップリで自己主張の塊ですね…
ネット情報と、その児童自身の生活体験が一致しているモノについては、
教師や大人の意見や見解を受け入れ難い児童も大勢います。
児童達の私への「信頼感」には、ほとんど…期待していません。
週三回で、小1から小3までの計6クラスを補助している私への信頼感なんて…
「信頼感」は、多くの日々生活を共にしている中で、生じていくモノでしょうね…
私にとっては、信頼感ではなく、彼ら児童を、そのレベルで納得させられるか・否か?ですね…
最終的な私の切り札は、「私と君のどっちが正しいか、担任の先生に聞いてみましょう!」
>.まあ、南郷先生ご自身がヘーゲルの大論理学への流れからの関心かトマス・アクィナスのスコラ学に興味があるみたいですから、計画的に行われている学校の授業に「暇ではない瞬間的な余裕なき判断」なんかを持ち出してくる失笑さは必然的なのかも知れませんけどね。
↑
え!?
私の問題は、指導・教員としての指導の問題ではありませんよ。
補助員の問題は、先生の話を聞こうとしない児童への指導的な言葉かけ!
それは、初めから、その児童の反感を買ってしまうモノではなく…
何となく…ソフトで、何となく引き込まれてしまう誘導・発言…
お宅には、教師と補助員の相違が全く理解できていない!
教師も補助員も体験・経験している今の私には、明確に理解できています。
確かに担当教師には「計画的に行われている学校の授業」でも…
その授業の中身を全く知らされていない、補助員にとっては「暇ではない瞬間的な余裕なき判断」…
この「……判断」とは、その教科の内容の補助ではなく、
全然やろうとしない、聞こうとしない児童への対応・指導的な言語表現です。
その児童の屁理屈への理屈的な説得・納得…、感情的な同感・共感的な強要…。
知りもしない癖に…よくもまあ、
ここまで言いたい放題・書きい放題できますね!
確かに私は馬鹿にしていますね、「他人」ではなく「自由びとお宅」を。もっと言ったなら「自由びとの名のもとに綴られている思考の数々」を馬鹿にして見下してますよ。
>私が「気になる」のは、私の思考の深化・整合性…の問題であり、本来お宅とは無関係なのです。
(笑)失笑ですな。確かに私(ギルガメシュ)の態度は終始一貫して「自分を磨くこと」であり、真正面からそのようにハッキリと発言してきていますが、自由びとお宅の場合は違いますね。ですが、詐欺師が掌を返すようにこれまでそのように言葉を綴ってきた実績が無いにも関わらず「私の深化・整合性」なんて書けるのも「私自身ではない、他者(ギルガメシュ)への二重化なのだ!」という「自由びとお宅と私(ギルガメシュ)との関係性の中で作られるお話し」ではない「自由びとお宅が(玄和関係者としての)個人として持っていきたい一方的な方向への誘導」なんでしょうね。
>南郷師範の直接指導は、技術講習会での
私が在籍していた時には「技術講習会」なんてものはありませんでしたから、それは相当に最近の話しでしょうね。ですが、『武道修行の道』で「流派としての技術の統一」を打ち出して指導者の徹底教育を始めたなんて記述から省みたならば「南郷師範の指導と高弟の指導者の指導に違いはない!」と考えるのが当然で、「南郷継正の指導は井上高明の指導であり、馬場規子の指導でもあり、海保静子の指導でもあり、青雲・都築さんの指導でもあり、」と考えるんじゃないか?と思いますけどね。
以前、自由びとお宅は青雲さんに「南郷先生から何を教わったのか」みたいな否定的なコメント書いてましたけど、おそらく青雲さんの指導は南郷先生から教わった通りの指導だったんだと思いますね、玄和空手の。
それは私が何年か前にG県の玄和道場の先生を訪ねたときに、道場のホワイトボードに◯と直線で描かれた前屈立ちの姿があって、あー青雲塾で教わったそのままに「ホワイトボードを使った講義をして、それから実践させる」という流儀の伝承が為されているのだな、と感じたんですけどね。
それを「私が教わったのは南郷継正ではなく井上高明だ!」なんてところに線引きを作るのは「ブログの中での主導権を得るために相手を否定するという姑息な、目先のことしか見えてない視野狭窄のおバカ」なのだと私には映りますけどね。
>中国拳法について新?大?発見をした
そんなものはしてないと思いますよw まあ、別にしていたって関係ないですけど。
>黒帯を取ったのは師範主催の夏合宿です
私も記憶が曖昧ですが、玄和の夏合宿で昇段審査なんかやってましたっけ?ひたすら講義と鍛錬で、昇段審査はしなかった記憶がありますね。
色々な経験をした私にとっては夏合宿で昇段昇級の自由組手をさせられた団体もありますし、審査なしに「キミは昇級だ、昇段だ」と帯をくれる団体もありましたが、玄和の場合は審査なしで昇級昇段は無かったのでは?
南郷先生の古い本を読んでも玄和は夏合宿を「量質転化の場」と考えていましたから、普段は1日2時間くらいの練習を週に3回だとかやるところを、朝5時だとかから夜の8時9時までやる「急激なる量の積み重ね」が実際の動きの違いとして現れるのは合宿が終わって時間が経ってからだと思いますから、「合宿参加費」とは別に「審査受審料」と「昇級昇段した時の帯代」が必要になる「お金のやり取りという経済関係」を同時に行うのは「団体の活動資金を調達する」というお金を取る側からの都合としては合理的かも知れませんけどね。
これも以外な反応ですね。私は門外漢であることを自覚して「教員補助」について多少なりとも調べてから書いているのですけどね。もちろん、それは完璧ではありませんが、「教員補助」の仕事についた新人の方がした「他の教員経験のある補助員のいうことには素直に従ってくれる児童が、私のいうことには全然従ってくれない。何が違うのか?自分に適性がなかったのか、毎日仕事が終わってから泣いています」なんて投稿に対して「すべての仕事に適性というものはあります。就職の仕事を選ぶ時に自分に適性があるのか否かを熟慮しなかったのですか?」「子供が夏休みの間は自分も休めると思って仕事を選んだんじゃないですか?」なんて厳しい意見ばかり返ってきてるのを見てから自由びとお宅に投稿したわけですよ。
ですから、私としては「何も知らない」のではなく「知ろうと努力してくれたのですね」と察してもらえるのが当然だと考えていますが、それが出来るのも「実力のある、見えないところに意識が行く人間」であって「不特定多数のおバカでは無理」なことは私も承知しています。
そもそもが「教員補助員」というお仕事は「校長補助員」でもなければ「用務員補助員」でもなく、「学校補助員」でもなければ「教育委員会補助員」でもありませんから、小学校の担任のA先生なりB先生なりが仕事をしやすいように手助け=補助をする業務だと思いますよ。
それを一年間でどれだけの教科をどこまで進めなければならないと決まっている担任教員の「何よりも優先されるのは出来の悪い児童を出来るようにすることではなく、定められた指導範囲を間違いなく終了させること」だと私は思いますから、出来ない児童が出来ないのは致し方ない、出来なくても時間が過ぎれば上の学年に上がって卒業していくのが市区町村の住民の税金で為されている義務教育というもので、授業を聞かない児童は他の児童の邪魔にならなければ単に「出来ない児童」というだけで、それでも中学校は卒業できるわけですから、そんな児童に授業に集中させるために「教員補助員」なんて仕事を設けて税金を出費する必要はないと考えますね。
それはむしろ、児童のためというよりも、大人の収入を得るための仕事を国家が増やしたのだと思いますよ。失業者を減らすのも国の仕事ですからね。
それよりも、私は南郷先生の「青雲の志」の講義を聞いていた会員が「教員補助員」なんて仕事を選ぶのか?ということに疑問を持ちますよ。私だったら、そんな仕事は絶対にやりたくない。何だか「教員補助」というと菅野さんの「助教」も連想されますが、「本田克也の助教」に甘んじるよりも「自らのラボのトップとなれ!」というのが南郷先生の講義だったんじゃないか?と思いますよ。
何となく、但馬某が仕事をそっちのけで空手ばかりやっていた結果が義務教育の教員補助という惨めな事態だという気がしますね。
今回の長文コメント、読み応えがありますね…
読み応えがあっても、その中身・内容が…どうなのでしょうね?!
>・コメントを書いた人
>ギルガメシュ
>・コメント
>>それは、他人を馬鹿にする見下す「発言癖」というモノでしょうね…
>確かに私は馬鹿にしていますね、「他人」ではなく「自由びとお宅」を。もっと言ったなら「自由びとの名のもとに綴られている思考の数々」を馬鹿にして見下してますよ。
↑
自由びとも、お宅にとっては「他人の一部の筈」でしょうが…
もしかして…お宅にとっての自由びとは「他人ではなく…お宅の一部」なの?
それとも…自由びとの「他人」の意味・概念と、お宅の意味・概念との相違でしょうか?!
まあ~「○○癖」というのは、無自覚・無意識的に体得してしまうモノでしょうから…
ただ問題が… お宅の「馬鹿にしている」のが、自由びと言説・内容ではなく…
>「自由びとの名のもとに綴られている思考の数々」…という「思考の数々」が大問題ですね!
「馬鹿か否か」は、誰が言った!とか、誰の思考した!とか、ではなく
それは、「何について、どのように説いているか?」であり…
その「説くという言語化」までの過程の問題もありますが…
その思考結果を、現実・社会生活で、
どのような言動・行為として実践しているか?が「馬鹿か否か」の分かれ目だと思っていますが…
どんなに馬鹿と思えるような思考・過程でも、
それを現実化しない限りは全く問題はありません(馬鹿ではありません)。
例えば、自分自身で…それは・これは抽象過ぎて現実的では無い!
という自覚の元に、抽象的な思考続けている限り…
その現実化は、ありえないでしょう!
それは、馬鹿者が、自分の「馬鹿さ」を自覚している限り、それは馬鹿者ではない!という事です。
別の例えなら、精神異常者が、「自分の異常さを自覚」出来ているなら、それは精神異常者ではない!。
こんな簡単な論理・理屈も分からずに、
よくもまあ~飽きもせずに~
毎度・毎回の「阿保!馬鹿!」…の罵倒的な表現を書き続けているお宅は、
私からすれば「自覚なき大馬鹿者」ですかね!
>>私が「気になる」のは、私の思考の深化・整合性…の問題であり、本来お宅とは無関係なのです。
>(笑)失笑ですな。確かに私(ギルガメシュ)の態度は終始一貫して「自分を磨くこと」であり、真正面からそのようにハッキリと発言してきていますが、自由びとお宅の場合は違いますね。ですが、詐欺師が掌を返すようにこれまでそのように言葉を綴ってきた実績が無いにも関わらず「私の深化・整合性」なんて書けるのも「私自身ではない、他者(ギルガメシュ)への二重化なのだ!」という「自由びとお宅と私(ギルガメシュ)との関係性の中で作られるお話し」ではない「自由びとお宅が(玄和関係者としての)個人として持っていきたい一方的な方向への誘導」なんでしょうね。
↑~
う~ん…
お宅って…何を言いたいのか?
私の思考の深化・整合性は…
ここでのお宅との「具体的・具象的・抽象的なやり取り」を、
言うなれば、私の認識内で論理化して、
それを私の日々の実生活の過程で具体化して…実践しての結果を考察する…
だって…ここはネット界・仮想空間ですよ!
何を書こうが、妄想・幻想・夢想…自由びとの自由でしょうが…
ただ…仮想空間でも…実名、個人名、個人情報については問題発生ですが…
>>南郷師範の直接指導は、技術講習会での
>私が在籍していた時には「技術講習会」なんてものはありませんでしたから、それは相当に最近の話しでしょうね。ですが、『武道修行の道』で「流派としての技術の統一」を打ち出して指導者の徹底教育を始めたなんて記述から省みたならば「南郷師範の指導と高弟の指導者の指導に違いはない!」と考えるのが当然で、「南郷継正の指導は井上高明の指導であり、馬場規子の指導でもあり、海保静子の指導でもあり、青雲・都築さんの指導でもあり、」と考えるんじゃないか?と思いますけどね
>以前、自由びとお宅は青雲さんに「南郷先生から何を教わったのか」みたいな否定的なコメント書いてましたけど、おそらく青雲さんの指導は南郷先生から教わった通りの指導だったんだと思いますね、玄和空手の。
>それは私が何年か前にG県の玄和道場の先生を訪ねたときに、道場のホワイトボードに◯と直線で描かれた前屈立ちの姿があって、あー青雲塾で教わったそのままに「ホワイトボードを使った講義をして、それから実践させる」という流儀の伝承が為されているのだな、と感じたんですけどね。
>それを「私が教わったのは南郷継正ではなく井上高明だ!」なんてところに線引きを作るのは「ブログの中での主導権を得るために相手を否定するという姑息な、目先のことしか見えてない視野狭窄のおバカ」なのだと私には映りますけどね。
↑
私は、「南郷師範から直接に指導を受けたのは技術講習会」と書いただけです。
それでも、武道の理論シリーズから間接的な空手の指導は受け続けているつもりですが…
>>中国拳法について新?大?発見をした
>そんなものはしてないと思いますよw まあ、別にしていたって関係ないですけど。
↑
これは私の想像ですが…
当時の師範は、海の深い所で立ち泳ぎで、拳法技を試していたのでは…
その時の下半身・土台と上半身の技の意識・認識の関係性にある種の気付きを得た!のでは…
>>黒帯を取ったのは師範主催の夏合宿です
>私も記憶が曖昧ですが、玄和の夏合宿で昇段審査なんかやってましたっけ?ひたすら講義と鍛錬で、昇段審査はしなかった記憶がありますね。
↑
その通りでした!
確認の為に日記を調べたら、黒帯の昇段審査はは1996年6月6日に新宿支部でした。
多分、三級の初級審査が、夏合宿だったのでしょうね。
>色々な経験をした私にとっては夏合宿で昇段昇級の自由組手をさせられた団体もありますし、審査なしに「キミは昇級だ、昇段だ」と帯をくれる団体もありましたが、玄和の場合は審査なしで昇級昇段は無かったのでは?
>南郷先生の古い本を読んでも玄和は夏合宿を「量質転化の場」と考えていましたから、普段は1日2時間くらいの練習を週に3回だとかやるところを、朝5時だとかから夜の8時9時までやる「急激なる量の積み重ね」が実際の動きの違いとして現れるのは合宿が終わって時間が経ってからだと思いますから、「合宿参加費」とは別に「審査受審料」と「昇級昇段した時の帯代」が必要になる「お金のやり取りという経済関係」を同時に行うのは「団体の活動資金を調達する」というお金を取る側からの都合としては合理的かも知れませんけどね。
↑
社会的な組織運営として、「金銭」は、切っても切り離せないのでしょうね…
息子が小学生の頃、空手では審査料、ピアノでは、発表会の参加費…色々とお金がかかりましたね。
また、中三の塾通いでは、月謝・合宿参加費や毎回の模擬テスト受験料…等など…
玄〇会に限らず…どこもかしこも同じですね…
現代社会での、労働の対価は金銭ですから…
生きているとは、金銭の収得と消費ですかね…
しかも長文二発!
>・コメントを書いた人
>ギルガメシュ
・コメント
>>知りもしない癖に…よくもまあ、
>これも以外な反応ですね。私は門外漢であることを自覚して「教員補助」について多少なりとも調べてから書いているのですけどね。もちろん、それは完璧ではありませんが、「教員補助」の仕事についた新人の方がした「他の教員経験のある補助員のいうことには素直に従ってくれる児童が、私のいうことには全然従ってくれない。何が違うのか?自分に適性がなかったのか、毎日仕事が終わってから泣いています」なんて投稿に対して「すべての仕事に適性というものはあります。就職の仕事を選ぶ時に自分に適性があるのか否かを熟慮しなかったのですか?」「子供が夏休みの間は自分も休めると思って仕事を選んだんじゃないですか?」なんて厳しい意見ばかり返ってきてるのを見てから自由びとお宅に投稿したわけですよ。
>ですから、私としては「何も知らない」のではなく「知ろうと努力してくれたのですね」と察してもらえるのが当然だと考えていますが、それが出来るのも「実力のある、見えないところに意識が行く人間」であって「不特定多数のおバカでは無理」なことは私も承知しています。
↑~ヤッパお宅は、お宅ですね!
「指導補助員」と言っても、十人十色で千差万別です。
全くの未経験者が、他人の言葉・体験だけで、分かったつもりのお宅は馬鹿者ですよ。
「一を知って百を知った積りの馬鹿お宅」ですね!
この場合の「馬鹿者」とは、チョット知って、もう知ったつもり馬鹿者!
謙虚さ皆無の自信の塊お宅!
自覚なき馬鹿者お宅!
まあ~「知ろうする努力」は認めても、
それでも…その「知った現実」の条件が考慮されていない事が問題です。
誰が、何処の学校で、どのようなクラス、環境…
その学校の雰囲気・住民の人種、感じ…
ところ変われば、色々変わる!
そんな色々な具体的な条件を知らず・無視しての「知ったつもり」が、お宅の問題ですかね!
>そもそもが「教員補助員」というお仕事は「校長補助員」でもなければ「用務員補助員」でもなく、「学校補助員」でもなければ「教育委員会補助員」でもありませんから、小学校の担任のA先生なりB先生なりが仕事をしやすいように手助け=補助をする業務だと思いますよ。
>それを一年間でどれだけの教科をどこまで進めなければならないと決まっている担任教員の「何よりも優先されるのは出来の悪い児童を出来るようにすることではなく、定められた指導範囲を間違いなく終了させること」だと私は思いますから、出来ない児童が出来ないのは致し方ない、出来なくても時間が過ぎれば上の学年に上がって卒業していくのが市区町村の住民の税金で為されている義務教育というもので、授業を聞かない児童は他の児童の邪魔にならなければ単に「出来ない児童」というだけで、それでも中学校は卒業できるわけですから、そんな児童に授業に集中させるために「教員補助員」なんて仕事を設けて税金を出費する必要はないと考えますね。
>それはむしろ、児童のためというよりも、大人の収入を得るための仕事を国家が増やしたのだと思いますよ。失業者を減らすのも国の仕事ですからね。
>それよりも、私は南郷先生の「青雲の志」の講義を聞いていた会員が「教員補助員」なんて仕事を選ぶのか?ということに疑問を持ちますよ。私だったら、そんな仕事は絶対にやりたくない。何だか「教員補助」というと菅野さんの「助教」も連想されますが、「本田克也の助教」に甘んじるよりも「自らのラボのトップとなれ!」というのが南郷先生の講義だったんじゃないか?と思いますよ。
>何となく、但馬某が仕事をそっちのけで空手ばかりやっていた結果が義務教育の教員補助という惨めな事態だという気がしますね。
↑~
大した内容ではないのに…これ程の長文とは…恐れ入ります!
確かに「補助員」を本職にしている者はいません。
当然に、私も本職ではありません。
今の私には、月々の家賃収入があり、特に働かなくても日々の生活には全く困りません。
ただ…この歳で毎日すべきこと無く、自由な日々では、少し物足りないので、趣味と実益を兼ねて「学習補助員」です…
南郷先生に二重化できて良かったですねw
薄井先生が世帯主として稼いでいるのだから、別に扶養家族として養ってもらって働く必要のない南郷先生が暇だから道場やってたのと鏡に映れて幸せでしょう?w
おバカはやっぱりおバカですよw
私はおバカなお宅とは全く違う生活=性格ですから、この数日は精神医学・心理学の学習をしていて、それで「嘗ては南郷学派の主幹であっただろうY辺先生=F施先生」と専門分野の共感を得ていた喜びは幸いでした。
南郷先生が『ヤスパースの病理学』に関する本を上梓したのも、破門した嘗ての一番弟子への深き想いからだと私は想像して楽しんでいますが、そんなことも成熟した私の脳が描き出すことですから、貧困なお宅に披露するべきものでもありませんねw
>ギルガメシュ
>コメント
>家賃収入があり別に働かなくても構わないんだけど、暇だから教員補助の仕事をしているとはw
↑
私の言葉を勝手に変えないで下さい!
私は「暇だから…」と書いていません!思ってもいません!
私は「自由過ぎて…」が問題だと考えます。
息子は仕事で家に私独り、やる事は掃除・洗濯・犬の散歩、三度の食事の用意…
また、今後の為に、家の中を整理して引っ越し可能な状態へ…やるべき事沢山あります…
ただ…それらの全てが、私の計画・やり方…という自由ばかりなのが問題だと考えます。
そこで、私自身に社会関係の中での縛りを求めて、
過去の経験を生かして学校の補助員の仕事を続けています。
もっとも…人員不足で…なかなか勝手に、やめられない…という事実もありますが…
「暇」と「自由な時間」とは違いますよ!
お宅って、私の言語表現の意味・内容を正しく、正しく私的に理解していませんね!
それが、お宅の「二重化」であり、それは「私の言語・認識のお宅的な理解・把握」ですかね!
>南郷先生に二重化できて良かったですねw
↑
馬鹿だね!
ここでテーマにしている「二重化」とは、
人間の認識の二重化であり、他人と同じ人生を真似して歩む事ではありません。
仮に、私が南郷氏の認識に、正しく二重化できたとしても…
私は、決して南郷氏と同じ人生を歩めないでしょうね…
他人と同じ人生を望んで求めても、
人生には、その時々の運・不運があり、他人と同じ人生になる事は至難ですね。
>薄井先生が世帯主として稼いでいるのだから、別に扶養家族として養ってもらって働く必要のない南郷先生が暇だから道場やってたのと鏡に映れて幸せでしょう?w
↑
ハ!ハ!ハ!
それは、お宅自身が暇な時の生き方・考え方でしょうね…
「他人の認識の二重化は、自己認識の他人化ではなく、自己化から始まる」ですから…
初めから、他人の認識に正しく二重化はでき難いモノだ、そうですよ!
「二重化」に関して、無自覚的な馬鹿お宅の本性丸出し!ですよ!
そもそも…あの高齢で、動く事だけでも苦しい筈…
それを「暇だから道場…」なんて、発想はない!と思いますよ!
>おバカはやっぱりおバカですよw
>私はおバカなお宅とは全く違う生活=性格ですから、この数日は精神医学・心理学の学習をしていて、それで「嘗ては南郷学派の主幹であっただろうY辺先生=F施先生」と専門分野の共感を得ていた喜びは幸いでした。
↑
いいね♪♪♪
己を知らない無自覚的な大馬鹿お宅の自信は、実に素晴らしい!!!
その自信のままに、お宅の現実・人生を大いに謳歌・楽しんで下さいね!
もっとも…私は、そんなお宅との現実的な関りは「ゴメン」こうむりますが…
>南郷先生が『ヤスパースの病理学』に関する本を上梓したのも、破門した嘗ての一番弟子への深き想いからだと私は想像して楽しんでいますが、そんなことも成熟した私の脳が描き出すことですから、貧困なお宅に披露するべきものでもありませんねw
↑
いや~!実に素晴らしい無自覚的な馬鹿者の極地ですね…
妄想レベルの「想像」を楽しめる…だけではなく、
それをここに堂々と自信タップリに「楽しんでいます」と書けている、
そのお宅の認識が素晴らしい!
正真正銘の無自覚的な馬鹿者の典型ですね!
まあ~お宅からすれば、おバカな自由びと相手だから、
この位が丁度いい!なんて思っているでしょうが…
何とビックリ! お宅は、おバカな自由びとに合わせて、馬鹿者になれるなんて…
しかも…「ココロ中で、俺は自由びと、とは違う!」なんて自信を持って思って書いている事でしょうから…
そんなお宅を、私は「無自覚的な大馬鹿者」だと認識しています。
お宅が相手だと、私も馬鹿になれるから面白いし、楽しい、ですよ。
それは、学校で、小一の児童達に対して、
私も小一レベルになれるから楽しい♪…
そんな感じに、とても似ていますね!お宅が相手だと~
他人を罵る言葉にも中身がありませんね、自由びとお宅の文言はw
もっとも、私がお宅に述べている「中身がない」ということすらお宅には何のことだか理解不能なのかも知れませんけどね。
>ここでテーマにしている「二重化」とは、人間の認識の二重化であり、他人と同じ人生を真似して歩むことではありません。
私にとっては「観念的二重化」とは三浦つとむの『弁証法はどういう科学か』に説かれている二重化ですから、「弁証法の対立物の統一」における二重化ですし、それは戦後のマルクス主義者たちの間で「主体性論争」となったフォイエルバッハ・テーゼにある「客観的偏向、傍観者的な態度」を否定する「目的を持った人間の実践」という、「寝転んでいても理想の世界はやってくる」との「必然性解釈」を否定した「現在の現実と来るべき理想・目的意識を頭の中で二重化する」という相互浸透の話しですよ。
その意味で、南郷先生が『武道の理論』や『教育とは何か』に説いていた「目的意識論」が三浦つとむに学んだ者たちが共有していた「観念的二重化」だと理解しています。それは板倉聖宣や庄司和晃の仮説実験授業にも活きていましたし、神庭さんのような相手の心情を共感することが観念的二重化だとは考えませんね。
むしろ、心理支援の実践として観念的二重化を活用するということは、『武道への道』に「ヒステリーと悟りとは正反対の運動だ」みたいなことが書いてあった、そのフロイトの時代に他者への激しい攻撃心を顕にしていたヒステリー・神経症の患者が精神科医に心情を吐露していく過程で治ってしまった、みたいな「抑圧」と理解されたような
ギルガメシュ
>・コメント
>>素晴らしき無自覚的な馬鹿者よ!
>他人を罵る言葉にも中身がありませんね、自由びとお宅の文言はw
↑
先ず、これは他人を「罵る言葉」ではありません。
次に「中身がありません」では無く、お宅が、この私の言葉・表現の中身を理解していないのです。
そもそも…無自覚的な馬鹿者は、罵り言葉ではなく…
お宅が、お宅の「馬鹿さ」を分かっていない理解していない事実を表現したモノなのです。
なので私にとっては、「罵り」ではなく、お宅の事実的な姿・表現なのです。
>もっとも、私がお宅に述べている「中身がない」ということすらお宅には何のことだか理解不能なのかも知れませんけどね。
↑
「何のことだか理解不能」とは?
その答えは明白です!
そもそも人間が発した言葉・認識には、必ずその人なり・その人的な意味・概念が込められています。
なのに、他人・私の言葉を「中身がない!」と断言しているお宅の姿~~
それは、お宅には、私の真意が分からない・分かっていない…という事実の表現なのです。
お宅は、お宅が、分からない・分かろうとしないから、
「自由びとの言葉に中身がない!」と思っているだけなのです。
この姿を、私は「無自覚的な馬鹿者お宅」と表現しているのです
本当は、お宅が馬鹿者なのに、その「馬鹿さ」を自由びとのモノだと、お宅は思い違い・勘違いしています。
その傾向は、南郷師範へ対しても同様なのです。
その傾向から、結局、お宅は、最終的に他人の賢さ・良さを感覚不能にしています。
お宅の尊敬しいる人々に賢さ・良さがあるように…
お宅が馬鹿にしている人々にも、賢さ・良さがあります。
なのに…
お宅は、お宅の尊敬している人々の賢さ・良さは見て取れても、馬鹿さ・悪さは見ようとしません。
逆に、馬鹿にしている人々の馬鹿さ・悪さは見て取っても、彼らの賢さ・良さは、見て取ろう、とはしません。
お宅のその対象との、関わり方の全てが、一面・部分的であり、両面・全体的ではありません!
>>ここでテーマにしている「二重化」とは、人間の認識の二重化であり、他人と同じ人生を真似して歩むことではありません。
>私にとっては「観念的二重化」とは三浦つとむの『弁証法はどういう科学か』に説かれている二重化ですから、「弁証法の対立物の統一」における二重化ですし、それは戦後のマルクス主義者たちの間で「主体性論争」となったフォイエルバッハ・テーゼにある「客観的偏向、傍観者的な態度」を否定する「目的を持った人間の実践」という、「寝転んでいても理想の世界はやってくる」との「必然性解釈」を否定した「現在の現実と来るべき理想・目的意識を頭の中で二重化する」という相互浸透の話しですよ。
↑
それが、お宅の「二重化」なら…
この自由びとブログではなく、お宅自身のブログで解説・展開して下さいな!
ここでは、自由びと的な「二重化」がテーマなのです。
この理解ができ難いお宅、それも無自覚的な馬鹿者の現象形態ですね!
私の「二重化」とお宅の「二重化」が違うなら、
ここで、お宅の「二重化」持論の展開は、ブログ違い・場違いですよ!
以下は、どうでもいい事なので省略!
最後に~
以上のお宅のような、お宅自身の馬鹿さを、
無自覚的に表現し放題可能な姿・能力は、
私にとっては、尊敬対象ですかね♪♪♪♪
その馬鹿さを忘れずに、
辛い・悲しい・楽しい・面白い~だろうこれからの人生を、
思いっ切り、自由に馬鹿者面下げて生きて下さいね♪♪♪