「歌曲」の不思議な効用~
長渕剛に「祈り」という歌曲がある。
過去に彼のアルバムを持っていた私なら、
当然に…聞いた事がある筈なのに…
全く記憶にない…
そのアルバム、
今はどこにあるか?
見つけられていない。
祈り 長渕剛 - Bing video
祈歌:長渕剛
作詞:長渕剛
作曲:長渕剛
発売:2005-10-13 01:28:30
お前が去ってくその前に
なぜに電話くれなかったか
やさしすぎるお前のことだから
それが思いやりのつもりだったのか
俺たちいつでもひとつなんだと
あれほど話し合ってきたよね
お前のことはすべてわかっている
つもりの自分がくやしすぎるよ
※二人でいくつもの夜をこえて
新しい朝が目の前だったのに
深く瞳を閉じて 今
天女のようにお前は一人
空へ帰る※
お前がえらんだ人生も
お前が歩いてきた道も
信じきれぬままのはがゆさの中で
ためらいながら
俺は人生を探すだろう
今度生まれてくる時は幸せな日々を
おくれるといいね
お前の好きだったあの唄を
今夜は朝まで歌ってあげるよ
(※くり返し)
深く瞳を閉じて 今
天女のようにお前は一人
空へ帰る
天女のようにお前は一人
空へ帰る
↑~
この「祈り」!過去に聞いていた筈なのに…
ここ何週間か、これに非常に嵌っている~
今の聞きながら書いているが…
今回のように「祈り」に嵌る事になったきっかけは、
ユーチューブ動画で「流星」や「永遠の嘘をついてくれ」…を流して聞いていた時、
途中に「祈り」が入っていて、
それを何回か聞いている内に、さびの部分~
「※二人でいくつもの夜をこえて 新しい朝が目の前だったのに」
↑
このリズム・歌詞が気に入って、初めは「祈り」とい曲名さえ不明だったのに…改めて調べて、
これまでは、他の多くの流れていた歌曲の中の一つだった、この曲名「祈り」取り出して聞き始めた。
すると不思議な事に、この「祈り」を聞けば聞く程に…
この「天女…」が、家内の事のように思えてしまう…のようなってきた…
そして私と生前の家内との関係が
さび~
>※二人でいくつもの夜をこえて
> 新しい朝が目の前だったのに
―のように思えてしまっていた私を発見した!
>お前がえらんだ人生も
>お前が歩いてきた道も
>信じきれぬままのはがゆさの中で
>ためらいながら
>俺は人生を探すだろう
↑
↑これも また私の今後の人生のような気がして…
>今度生まれてくる時は幸せな日々を
>おくれるといいね
↑
↑これも、このような事も痛感して思ったりして…
そんなこんな感じを痛感しながら…
淋しさ・悲しさ…を感じながらも…
何故か?そんな淋しさ・悲しさに
励まされて いるような…いないような…
これは、この「祈り」に込められた作者の悲しみ・淋しさを通して、
今の私の感情を見詰める事で、このように書かれているような感じと感じられている私、
私の感情を「祈り」の歌詞・曲に二重化している私…
初めに魅かれたのは、さびの「歌詞」ではなく「曲の高低・リズム」であった。
さびの曲リズムに前向きな明るさが感じられるのに…歌詞には「…だったのに」
「明るい希望」を前にしての突然の「淋しさ・悲しみ」…そんな矛盾に惹かれている私の発見…
結果的に、歌曲から 私は 悲しみ・淋しさを持って前向きに生きよう…的な感情・想いを抱かせて頂いている~。
>お前のことはすべてわかっている
>つもりの自分がくやしすぎるよ
↑
似たような「くやしさ」も感じ得るが…
長渕剛に「祈り」という歌曲がある。
過去に彼のアルバムを持っていた私なら、
当然に…聞いた事がある筈なのに…
全く記憶にない…
そのアルバム、
今はどこにあるか?
見つけられていない。
祈り 長渕剛 - Bing video
祈歌:長渕剛
作詞:長渕剛
作曲:長渕剛
発売:2005-10-13 01:28:30
お前が去ってくその前に
なぜに電話くれなかったか
やさしすぎるお前のことだから
それが思いやりのつもりだったのか
俺たちいつでもひとつなんだと
あれほど話し合ってきたよね
お前のことはすべてわかっている
つもりの自分がくやしすぎるよ
※二人でいくつもの夜をこえて
新しい朝が目の前だったのに
深く瞳を閉じて 今
天女のようにお前は一人
空へ帰る※
お前がえらんだ人生も
お前が歩いてきた道も
信じきれぬままのはがゆさの中で
ためらいながら
俺は人生を探すだろう
今度生まれてくる時は幸せな日々を
おくれるといいね
お前の好きだったあの唄を
今夜は朝まで歌ってあげるよ
(※くり返し)
深く瞳を閉じて 今
天女のようにお前は一人
空へ帰る
天女のようにお前は一人
空へ帰る
↑~
この「祈り」!過去に聞いていた筈なのに…
ここ何週間か、これに非常に嵌っている~
今の聞きながら書いているが…
今回のように「祈り」に嵌る事になったきっかけは、
ユーチューブ動画で「流星」や「永遠の嘘をついてくれ」…を流して聞いていた時、
途中に「祈り」が入っていて、
それを何回か聞いている内に、さびの部分~
「※二人でいくつもの夜をこえて 新しい朝が目の前だったのに」
↑
このリズム・歌詞が気に入って、初めは「祈り」とい曲名さえ不明だったのに…改めて調べて、
これまでは、他の多くの流れていた歌曲の中の一つだった、この曲名「祈り」取り出して聞き始めた。
すると不思議な事に、この「祈り」を聞けば聞く程に…
この「天女…」が、家内の事のように思えてしまう…のようなってきた…
そして私と生前の家内との関係が
さび~
>※二人でいくつもの夜をこえて
> 新しい朝が目の前だったのに
―のように思えてしまっていた私を発見した!
>お前がえらんだ人生も
>お前が歩いてきた道も
>信じきれぬままのはがゆさの中で
>ためらいながら
>俺は人生を探すだろう
↑
↑これも また私の今後の人生のような気がして…
>今度生まれてくる時は幸せな日々を
>おくれるといいね
↑
↑これも、このような事も痛感して思ったりして…
そんなこんな感じを痛感しながら…
淋しさ・悲しさ…を感じながらも…
何故か?そんな淋しさ・悲しさに
励まされて いるような…いないような…
これは、この「祈り」に込められた作者の悲しみ・淋しさを通して、
今の私の感情を見詰める事で、このように書かれているような感じと感じられている私、
私の感情を「祈り」の歌詞・曲に二重化している私…
初めに魅かれたのは、さびの「歌詞」ではなく「曲の高低・リズム」であった。
さびの曲リズムに前向きな明るさが感じられるのに…歌詞には「…だったのに」
「明るい希望」を前にしての突然の「淋しさ・悲しみ」…そんな矛盾に惹かれている私の発見…
結果的に、歌曲から 私は 悲しみ・淋しさを持って前向きに生きよう…的な感情・想いを抱かせて頂いている~。
>お前のことはすべてわかっている
>つもりの自分がくやしすぎるよ
↑
似たような「くやしさ」も感じ得るが…
むしろ歌詞は不要でしょうね。バッハの「G線上のアリア」だとかモーツァルトの「トルコ行進曲」「交響曲第25番」、ベートーヴェンの「運命」だとかを聞くと、長渕の元カノの死の話しではなく、自由びとさんの経験してきた物語が頭の中に湧き上がるはずですよ。
その過程で涙がこぼれることもあるかも知れませんけど、曲の旋律が経験していない他の誰にも分からない自由びとさんの経験像を整理して未来へ生きる意欲を湧き上がらせてくれるはずです。
・コメントが届いた記事
「歌曲」の不思議な効用~
・コメントが届いた記事のURL
https://blog.goo.ne.jp/satori2017dragong/e/76aad68774a7c7bcaf1779f5fce8e5ba
・コメントを書いた人
雲海
・コメント
長渕の「祈り」ですか…
むしろ歌詞は不要でしょうね。バッハの「G線上のアリア」だとかモーツァルトの「トルコ行進曲」「交響曲第25番」、ベートーヴェンの「運命」だとかを聞くと、長渕の元カノの死の話しではなく、自由びとさんの経験してきた物語が頭の中に湧き上がるはずですよ。
その過程で涙がこぼれることもあるかも知れませんけど、曲の旋律が経験していない他の誰にも分からない自由びとさんの経験像を整理して未来へ生きる意欲を湧き上がらせてくれるはずです。
・コメントの管理
雲海さま
コメントをありがとうございます。
私は、クラッシックは昔から苦手で…
大学or高校時代の教養行事で、何回か聞きに行かされましたが…
必ず…途中で居眠りをしていました。
また、生前、家内は「○○フィール・オーケストラ」に入っていて、
私も息子も毎回、コンサートに行っていましたが…殆ど途中で居眠りでした…
一度、最前列に息子と座って一緒に眠ってしまい…
家内から「居眠りするなら、もう聞きに来なくていい!」と言われ…
それ以来、コンサートへ行く事がなくなりました…
それでも、一昨年あたりですか…
家内から「最前列以外なら寝てもいいから…来ない?」と誘われましたが…
結局、聞きに行く事がなく…終わりでした。そんな事も心残りの一つですね…
私が初めに「祈り」に魅かれた部分は、「歌詞」ではなく、「寂びの部分の曲・旋律」なのです。そして歌詞への共感は後付けです。
残念な事に、クラッシックから情景を想像する能力は、私にはないようですね。
どうやら…中学時代の変声期で正しい音程が取れない音痴になっていたようです。
だから、高校の音楽の授業も苦で、歌う事も嫌でした。
社会人の時も、同僚と飲みに行ってもカラオケで歌うのがとても嫌でした。
後で気付いたのは、
私は自意識過剰で、自分の音程の正しさの意識が強すぎて、歌を楽しく歌えなかった…
という事でした。
忘れましたが…誰がかに、「歌手じゃないんだから…楽しく歌えばいい!」と教えられましたが…
一人なら可能でも…カラオケで他の人がいる時には…どうしても音程に意識がいってしまいます。
たぶん…私って自意識過剰のようなのです。
クラッシックが苦手な私は、
>「G線上のアリア」だとかモーツァルトの「トルコ行進曲」「交響曲第25番」、ベートーヴェンの「運命」だとかを聞<
いても…ダメでしょうね。
そうそう…師範が御講義で言っていました。
「クラッシックは、雄大な自然の中で、その自然を感じながら聞く事で分かる」…と言った内容の事を~
感性豊かな時代に、クラッシックに興味持てなく、
また…その後もクラッシック聞いて居眠りばかりの私には、
クラッシックの素晴らしさは感じ取れない…ようですね…
これは、悲しい事です。
家内と結婚した当初、「クラッシックを分かりたい!」と思い、
書店のCDと説明本が一緒のクラッシックシリーズ本を買って、
勉強しようとしましたが…
途中で挫折てしまいましたね…。
悲しい、寂しいと他者に訴える人間に居眠りするだけの心の余裕はありません。
愛する者が亡くなって心の持ちようが見つからない人への私からの助言でしたが、それは全くもって「クラッシックを作った作者の立場に立って鑑賞する、味わう」ということではなく、その音声的な刺激によって過去の記憶が想起されると共に、脳細胞が刺激されるからです。
ですが、お宅は「ああ言えばこう言う」という、クラッシックが苦手だと屁理屈を言ってるだけで、人類の文化史に残るバッハやモーツァルト、ベートーヴェンを聴いてられないという人間であるというだけで、お宅が好きだと言う玄和の武道空手とやらがゴミ屑同然なのを理解できます。
もっとも、南郷先生自身は「人類の全叡智(英知?)をアウフヘーベンする」と書いていた記憶がありますから、おそらくは奥さんが膵臓がんで死んだというお前の記述も単なる嘘だろう。
お前には音楽を聴いて想起される愛しき伴侶との楽しき記憶など無いのだろう。長渕の曲を聴いて満足できるお前に何らの助言をする必要はない。
>雲海
>・コメント
>居眠りできるなら最高ですね。
↑
それは、あくまで家内の生前の時の事ですよ。
>悲しい、寂しいと他者に訴える人間に居眠りするだけの心の余裕はありません。
↑
だから「家内の生前の事なのです」!
>愛する者が亡くなって心の持ちようが見つからない人への私からの助言でしたが、それは全くもって「クラッシックを作った作者の立場に立って鑑賞する、味わう」ということではなく、その音声的な刺激によって過去の記憶が想起されると共に、脳細胞が刺激されるからです。
↑
「愛する者の死」だから、苦手なクラッシック音楽を聞く心の余裕がない!という事なのです。
(その位は読み取りなさい!)
>「クラッシックを作った作者の立場に立って鑑賞する、味わう」…
↑
苦手なクラッシック・音楽・作者に「二重化」するには、心の余裕が必要です。
悲しい時は、悲しみの心から…しか聞けないのに…自分感情・心で一杯なので…苦手なクラッシックの無理でした。
家内は、終活で、葬儀に中島みゆきの「一期一会」とクラッシックの「レクイエム」を希望したので…
何回も聞きましたが…
数回聞いて「一期一会」には共感できましたが…
クラッシックの「レクイエム」は全くダメでした。
>ですが、お宅は「ああ言えばこう言う」という、クラッシックが苦手だと屁理屈を言ってるだけで、人類の文化史に残るバッハやモーツァルト、ベートーヴェンを聴いてられないという人間であるというだけで、お宅が好きだと言う玄和の武道空手とやらがゴミ屑同然なのを理解できます。
↑
「ああ言えばここう言う」…とは言い訳を言う時の言葉ですね。
しかし、私の場合は、私の事実を言って・書いているのです。
これって…お宅には、私の事実が事実として反映されない!と言う事ですかね…
その理由は、良くも悪くも「お宅と私の人間性が違い」過ぎる…から!?
>もっとも、南郷先生自身は「人類の全叡智(英知?)をアウフヘーベンする」と書いていた記憶がありますから、おそらくは奥さんが膵臓がんで死んだというお前の記述も単なる嘘だろう。
↑
何で?「単なる嘘だろう」になるの!
お宅なら、お宅の「嫁さんの死」を平気で嘘で書ける…という事ですかね。
>お前には音楽を聴いて想起される愛しき伴侶との楽しき記憶など無いのだろう。長渕の曲を聴いて満足できるお前に何らの助言をする必要はない。
↑
>音楽を聴いて想起される愛しき伴侶との楽しき記憶など無いのだろう。
↑
悲しみの真っ只中では、「伴侶…」を想った、思い出しただけで悲しい・淋しいモノがあり得ます。
「…楽しき記憶」を「楽しい」と感じ得るには、心の平安・悲しみ・淋しさ…の鎮今よりも、静化が必要ですね。
「助言をする」とは、相手の立場に立ち得て、
己の相手化・二重化し得てこそ可能であるのに…
全く、私にとっての「助言」になり得ていない、
お宅的な助言は、私への助言ではありませんよ。
最後は、「嘘つき」呼ばわりして…終了とは~
そんな非人間的なお宅って、人間相手への気配りを不要とするので…
私にとっては、非常に書きやすい・関わり易いモノ・動物レベルですかね♪
因みに、私と息子の飼いイヌの17歳の柴犬雄は、
チョット機嫌を害すると、私も平気で噛み付きます。
何しろ…お尻の感じが変・便がスムーズに出ない。
引っかかった感じ時に、自分のお尻・尻尾を追いまくり、
最後は、尻尾の先を二、三センチ嚙み切った程でしたから…
気に食わないと…すぐ「嘘先」とか「お前は…」とか…
なんか柴犬みたいな感情的「ツンデレ動物的」お宅ですね♪♪♪
さて本題に入ります。身近な人の死の悲しみと苦しみは 中道の方法でどう止揚されるのか?仏陀を観てください。苦行の果てに 衰弱し 死を待ったとき スジャータの看護・介護により一命をとりとめたと言われています。その彼女スジャータの心の有り様が すなわち 慈悲の心です。死の苦しみや悲しみは 慈悲の心に融和され 中道化されるのではないでしょうか?悲しみ苦しみのなかのやすらぎです。般若心経や龍樹クラスの空論ではあまりに論理学レベルであり 抽象性が高く 感情・心を吹っ飛ばしてしまう。現実レベルに落して認識しなければいけません。鶏を割くのに牛刀を用いんです。
ちなみに南郷武道論が苦行・死へのアプローチなら南郷看護論(教育論も含む)はケア・生へのアプローチとして考えられます。南郷先生の優れている点がわかりますね。
コメントありがとうございます。
「四人目の孫の誕生」ですか…
大学四年の息子が「子供を…私の孫を~」…
今の私に孫の姿は想像できても…
その時の私の感情は不明ですね…
息子が誕生した当初も…『え?これが自分の子供・息子!』
事実として理解できても…その感情が…今ひとつ…でした。
その後、首が座り始めた頃から、抱っこ紐でもって散歩へ連れ出す事を通して…
「息子」への感情的な想いが…なんとなく…分かり始めた、ようですね。
以前よんだ本に書かれていました。
母親は、母体の子供と共に10か月過ごしての赤子の誕生です。
でも、父親は、誕生時に初めて出会う赤子。
そこには、感情的に大きな相違が…あるそうです。
最近は、お産に・我が子の誕生の瞬間に父親も立ち会える、そうですが…
これなら、かなり感情的な感激でありえる、でしょうね…
今回の「家内の死」で、息子と二人だけで過ごす時間が増え、彼との会話量も非常に増えました。
その結果…「息子が非常に賢い!」と、改めて実感しています。
もしかして…私の息子は~とんでもなく凄い社会人になり得るかも…なんて希望を抱いたりして…
これって単なる「親ばか」ですかね?
「家内の死」の「悲しさ」について考え続けてしまっています。
雲海氏は、悲しいなら、「楽しい想い出を振り返りなさい」的な「対立物の統一」を示しましたが…
でも…私は実感しました!
過去の「家内との楽しい想い出」を振り返る時…
そこには、常に「そんな家内は…もういない」という思いが滲みでて…
その結果、「いない家内」を思い出し…悲しみが…
それでも…その悲しみ…当初は涙が一緒だった悲しみも…今は、もう涙なしです…
人が悲しい時、横に一緒に悲しんでくれる人がいれば…悲しみが「半分」、
また喜び時、一緒に喜んでくれる人が横にいれば「喜びは倍」…
という言葉が浮かんできました。
「慈悲の心」とは、相手の悲しみ・苦しみを痛感して…
それを自分のモノが如く感じ~
自分が、相手の、その苦しみ・悲しみを「なんとかしたい!・助けたい!」と想う心…ですかね。
自己の「苦しみ・悲しみ」と即自的な者でも、
横にいて一緒に悲しみ・苦しんでいる相手がいたなら、
その相手に対自的に自己の苦しみ・悲しみを客観視できるのでしょうね。
増してや、そんな自分へ、相手の必死な「看護・介護」姿を見たなら、
それこそ…「人生意気に感じ」…自分もまた必死に生きよう!と思う事でしょうね。
>ちなみに南郷武道論が苦行・死へのアプローチなら南郷看護論(教育論も含む)はケア・生へのアプローチとして考えられます。南郷先生の優れている点がわかりますね。
「南郷武道論と南郷看護論」とは、考えた事がなかったですね…
武道と看護、⇒苦行・死のアプローチと安楽・生へのアプローチ…
「対立物の統一」・「中道」ですかね!
因みに、最近実感した事があります。
「悟りとは、自己の感情コントロールの技」という事です。
苦しみ・悲しみ…とは、ある事実に対する感情です。
起こってしまった・過去の事実は変えられなくても、今の感情は変える事は可能です。
ただし…悲しみの感情の際中に、その感情を持って、喜びの感情への変換は至難ですが…。
その感情・心を変えるのは、理性・頭しかありません。
それでも…理性・頭はだけで感情・心は変えられません。
感情・心を変えるには、頭を使って身体を動かし、感情・心を制御する必要があります。
昨日、息子に
「最近やっとママの事を思い出して考えも…もうあまり悲しくなくなったよ」と言ったら…
息子は「僕は考えないようにしている…」と言っていました。
確かに、息子は大学のサークルの練習・試合と忙しくしているし…
時間がある時は、最近できた新しいガールフレンドと一緒、
または、中学・高校・大学の友達と食事や飲み会をしています…
以前息子が言っていました~
「最近、ママの夢をよく見る…ママまだ僕の中では死んでいない…」
悲しい感情のコントロールの方法には、
感情を見詰めない・避ける…為に何かに夢中になる。
酒を飲んで酔って忘れる。眠って忘れる…
「母親の死」の時には、再び小学校教員に復帰できたので…
日中は仕事に夢中、他の時間は殆ど、当時付き合い始めた家内と一緒にいました…
しかし…今回の「家内の死」では、仕事の時間は、半日・週三回で、教員時代よりずっと短く…
また息子は息子で忙しく帰宅は遅く…私独りの時間が、殆どでした。
そんなこんなで、自分のマイナス感情と向かい合う時間が非常に多かったです。
そんな悲しみ(家内の想い出)から逃げられないから、それと向かい合うしかありません。
そうそう…「母の死」の時は、私一人のアパート暮らしでしたから、そのアパートには「母の想い出」はない。
しかし…今回は、家中に「家内の想い出ばかり」なのです。だから…とてもキツカッタ…
本当、可能なら、こんな時こそ「場所の移動」による…感情の変化コントロールがベストですね。
「瞑想」も…心・感情コントロールですね。
身体固定・不動にする事で、瞑想中に頭に沸き起こる雑念・感情を「今この瞬間に固定」する方法なのでしょう。
それは、言うなれば、「思考停止」です。
だって、身体が「座禅」姿勢で「不動・固定」から、「今この瞬間(の現実認識)も固定・不動」でしょう。
弁証法的・運動的な「今この瞬間」は、変化の過程の結果の瞬間ですから、「結果かつ過程」なのです。
「今を生きる」とは、「今が点線の中の一点」という自覚をもって、今この瞬間を生きる事なのです。
それは、今こんなにも悲しめる感情を味わえたのは「家内の死」のおかげです。
この「家内の死」を体験し得た私だから、こんなにも悲しめるのです…
そして、「家内の死」の前に「母の死」を体験した私だから、「この悲しみ」なのです。
感情の元である心は一つです。
ある現実・事実に対して、深々と悲しめるという事は…
別の現実・事実に対して、深々と喜べる・楽しめる…という事にもなり得ます。
この考えるとも…確かに最近の私は、子供との関わりに以前より、深い感情が起こる(ようですね)
これは「人は悲しみかが深い程、人には優しくなれるのだから…」(武田鉄矢の「贈る言葉」)
ありがとうございます…
今回も最後まで読んで頂けて…