この不思議感は何?・あれは何だったのだろうか?!
昨日書いていたなら「この不思議感は何なのだろうか?」
でも…今日書いているので「あの不思議感は何だったのだろう?」になるが…
この・あの不思議感とは、私の感情であり、それは「ある事」の妄想・幻想・夢想から生じた感情。
妄想とは、現実にはあり得ない事を事実だと信じ込む事。
幻想とは、現実に存在しないものや起こり得ない現象などを心に思い描く事。
無想とは、現実からかけはなれた場面を思い描く事。
感情は頭脳活動であり、そこには認識・像が伴なうモノ。
今回の「突然・再び」・「再びの突然」の想起から生じた「この・あの不思議感」の認識像とは?
私は、何年前からであろうか…その原因・理由も不明だか゛…
この・あの「想い」が、突然に生じてくる。
日頃は全く意識に上らない「あの・この認識」の正体とは?
初めて思った?考えた?時には、
特に今回のような「不思議感」はなかった。
その妄想・幻想・夢想とは~
私の死後の、この世界の様子である。
私はいない!でも、この世界はある。
私の、今この瞬間のような思い・考え・認識…がない!消えている筈…
それでも、そこに私がいる。
この私がいる・私の認識があるのに、そこに私はいない!
そこに私はいない筈なのに、私の認識がその世界を想像できるのに…
その世界に私はいない!
何もない筈!私がいない!でも世界はある。
以前、映画「僕だけがいない街」を観たが…私のこの認識は、それ以前から時々起こった。
それは、ある時・ある瞬間に突然に生じてくる~
この「私の存在していない世界」での私の認識が、非常に「ふ・し・ぎ」!
特に、今回は、その不思議感が以前に増して強烈であった!
それも、昨日までの話であり、今日には薄らいでいるが…
これは、「感情の量質変化」であろうか…
当初めは、強烈な感情でも…その継続・時間がある程度伸びると、
その感情に慣れてしまい…当初の強烈さが減少していく。
この事は、「家内の死」に対する私の「強烈な悲しみ」感情にも言えている…
そう~数日前の私は理由もないのに何故か「ウキウキ」♪♪♪
でも、一昨日の私は「シズシズ」で何故か少々の落ち込み…
それでも、今の私は、訳も分からずに「ウキウキ」。
その理由は、今の私には薄ぼんやりと、みえてきている…
それは、私が、私自身の感情・変化を捉えようとしているから…
感情は、生活している瞬間・瞬間に変化している筈なのに…
それなのに…多くの人は、そんな自分の些細な感情変化を殆ど気にする事はない…のだろう。
私の潜在的感情は、何気ない出来事・他人の態度に過敏に呼応されている、ようだから…
今ここに生きている私が、私の死後の私の存在しない世界を想像する事は矛盾であろう。
そんな想像を妄想・幻想・夢想レベルで、やり続けた結果が、あの・この「ふ・し・ぎ」感であろう。
ありえない想像なのに、幻想・夢想なのに、私は、それを妄想だと認識し続けてきた結果であろう…
それとも、想像し続けた結果の量質転化化の結果が、想像・幻想・夢想が、
妄想(現実にはあり得ない事を事実だと信じ込む事)に量質転化したのだろうか…
まあ~こんな他愛のない妄想なら、私・他人へ害を及ぼす事のない話だから…問題ないだろうが…
この今の私・今のような認識が、永遠にない世界は、想像不能の筈なのに…
その想像を繰り返し・妄想を繰り返している私は、ある無意味精神異常者なのかも…
ただ…この妄想に囚われて日々を妄想的に生活したら、真の精神異常者だろう…
幸いに…私は非常に忘れっぽい者なので…
数日経つと妄想内容は覚えていても、その感情は忘れてしまう。
ただ「ふ・し・ぎ」だった言葉は覚えているだろうが…
この不思議感は、忘れているのだろう…
昨日書いていたなら「この不思議感は何なのだろうか?」
でも…今日書いているので「あの不思議感は何だったのだろう?」になるが…
この・あの不思議感とは、私の感情であり、それは「ある事」の妄想・幻想・夢想から生じた感情。
妄想とは、現実にはあり得ない事を事実だと信じ込む事。
幻想とは、現実に存在しないものや起こり得ない現象などを心に思い描く事。
無想とは、現実からかけはなれた場面を思い描く事。
感情は頭脳活動であり、そこには認識・像が伴なうモノ。
今回の「突然・再び」・「再びの突然」の想起から生じた「この・あの不思議感」の認識像とは?
私は、何年前からであろうか…その原因・理由も不明だか゛…
この・あの「想い」が、突然に生じてくる。
日頃は全く意識に上らない「あの・この認識」の正体とは?
初めて思った?考えた?時には、
特に今回のような「不思議感」はなかった。
その妄想・幻想・夢想とは~
私の死後の、この世界の様子である。
私はいない!でも、この世界はある。
私の、今この瞬間のような思い・考え・認識…がない!消えている筈…
それでも、そこに私がいる。
この私がいる・私の認識があるのに、そこに私はいない!
そこに私はいない筈なのに、私の認識がその世界を想像できるのに…
その世界に私はいない!
何もない筈!私がいない!でも世界はある。
以前、映画「僕だけがいない街」を観たが…私のこの認識は、それ以前から時々起こった。
それは、ある時・ある瞬間に突然に生じてくる~
この「私の存在していない世界」での私の認識が、非常に「ふ・し・ぎ」!
特に、今回は、その不思議感が以前に増して強烈であった!
それも、昨日までの話であり、今日には薄らいでいるが…
これは、「感情の量質変化」であろうか…
当初めは、強烈な感情でも…その継続・時間がある程度伸びると、
その感情に慣れてしまい…当初の強烈さが減少していく。
この事は、「家内の死」に対する私の「強烈な悲しみ」感情にも言えている…
そう~数日前の私は理由もないのに何故か「ウキウキ」♪♪♪
でも、一昨日の私は「シズシズ」で何故か少々の落ち込み…
それでも、今の私は、訳も分からずに「ウキウキ」。
その理由は、今の私には薄ぼんやりと、みえてきている…
それは、私が、私自身の感情・変化を捉えようとしているから…
感情は、生活している瞬間・瞬間に変化している筈なのに…
それなのに…多くの人は、そんな自分の些細な感情変化を殆ど気にする事はない…のだろう。
私の潜在的感情は、何気ない出来事・他人の態度に過敏に呼応されている、ようだから…
今ここに生きている私が、私の死後の私の存在しない世界を想像する事は矛盾であろう。
そんな想像を妄想・幻想・夢想レベルで、やり続けた結果が、あの・この「ふ・し・ぎ」感であろう。
ありえない想像なのに、幻想・夢想なのに、私は、それを妄想だと認識し続けてきた結果であろう…
それとも、想像し続けた結果の量質転化化の結果が、想像・幻想・夢想が、
妄想(現実にはあり得ない事を事実だと信じ込む事)に量質転化したのだろうか…
まあ~こんな他愛のない妄想なら、私・他人へ害を及ぼす事のない話だから…問題ないだろうが…
この今の私・今のような認識が、永遠にない世界は、想像不能の筈なのに…
その想像を繰り返し・妄想を繰り返している私は、ある無意味精神異常者なのかも…
ただ…この妄想に囚われて日々を妄想的に生活したら、真の精神異常者だろう…
幸いに…私は非常に忘れっぽい者なので…
数日経つと妄想内容は覚えていても、その感情は忘れてしまう。
ただ「ふ・し・ぎ」だった言葉は覚えているだろうが…
この不思議感は、忘れているのだろう…
自由びとさん 認識は分裂するものというのはどうでしょうか?観念の対象化や二重化する前に分化・分裂するものだと考えてはどうですか?
弥勒さん 高岡英夫さんの著作は科学というより 哲学的著作ですね。直観や感性を元に構成しています。科学的な元ネタを自分流にアレンジしているのではないでしょうか。 例えば 彼のゆる体操には 野口体操の影響があると思っています。昔 それも少し読んだだけの判断なので これ以上はコメントできませんが 著作の量をみると 読者層も安定しており その人気の秘密を知りたいものです。弥勒さんの解説を期待しています。
>tada
・コメント
>自由びとさん 弥勒さんこんにちは
>自由びとさん 認識は分裂するものというのはどうでしょうか?観念の対象化や二重化する前に分化・分裂するものだと考えてはどうですか?
>弥勒さん 高岡英夫さんの著作は科学というより 哲学的著作ですね。直観や感性を元に構成しています。科学的な元ネタを自分流にアレンジしているのではないでしょうか。 例えば 彼のゆる体操には 野口体操の影響があると思っています。昔 それも少し読んだだけの判断なので これ以上はコメントできませんが 著作の量をみると 読者層も安定しており その人気の秘密を知りたいものです。弥勒さんの解説を期待しています。
tada 久振りのコメントありがとうございます♪♪♪
>「認識は分裂するもの…」、
>「観念の対象化や二重化する無前に分化・分裂するもの…」
この言葉から以下のような事を考えてみました。
元々…動物の認識が「本能的」・即自的な一重であるのに対して、
人間の認識は、本能的・反映的な認識vs自己の問い掛け的認識の二重性。
赤子・乳幼児…の頃は、自己の問い掛け的認識の自覚・意識がないので、「二重であっても即自的認識」。
でも、次第に自己の問いかけを自覚・意識する事で、可能になって「対自的認識」。
そうですね…
この「認識の分裂化」には、対象の反映的認識の分化・分裂、問いかけ的認識の分化・分裂、が考えられる。
ある対象の「眼前の現時点での反映・認識像」と「記憶している過去の認識像の想起」。
また、「その対象に対する現在の感情像」と「過去の感情像」。
例えば、一東京タワーへ行って、なんか違和感がある?と感じたとする。
その違和感の正体は、自分の中で無自覚に「前回と今回は同じモノ」と思い込んでいる事。
なのに…今は違っている…
私の「この不思議感」の正体は、同じ想像・対象(だから変化はない筈)
なのに、私の感情が変化している事に「不思議を感じた」事。
これが現実の対象なら、対象が変化・運動しているから、
その対する私の対象への感情・認識が変化しても「不思議ではない」。
例えば、
昨日「○○」と言ったら、その児童は喜んだ。
今日同じ児童に「○○」と言ったら、今度は怒った。
これは。不思議ではなく、その児童が変化しているのが原因であり、私にはない。
ただ、私の発音が不明瞭・児童の聞き間違い…で「○○を△△」と思っての怒り…
今回の「私の死後の世界」は、想像であり、決して事実ではない。そこには変化はない筈…
でも…加齢による頭脳能力の低下で、想像力の劣化はありえる…
それでも、劣化の結果なら、深い感情ではなく、浅く・不確かな感情だろう。
でも今回は…私の想像力の実力がアップして、想像の世界像が変化した!と考えられるが…
想像を想像だと自覚していの「私の死の世界」。
これを、非現実的な事の自覚なく本物の事実だと確信していたなら、
それは、他人から見て妄想でも、私には現実・事実となり得る。
認識の分化・分裂の理由は、認識像の量質転化化。
本来は、同一対象の認識像は、新たな情報によって常にアップグレードされている筈なのに…
その対象との関わり不足があると…対象のある状態が量質転化してしまう。
私は、私の死後の世界の想像を繰り返す事。
現実界では、母の死・父の死、家内の死…の現実的な悲しみ・感情の変化があった。
そんな肉親・愛するモノ死…感情を体験・経験した私の感情で描いた「私の死後世界」。
その想像した像の大きな変化は殆どなくても、その想像をしている私の感情像は大きく変化していた。
私は、「私の死の世界」に対する「過去の感情」と「現在の感情」を比較したから「不思議を感じた」のである。
これは、tada さんの書かれている「過去と現在」の「感情・認識の分化・分裂」であろう。
それは、即自的・無自覚的「分化・分裂」ではなく、
私の目的意識的・対自的分化・分裂であろう。
そして「過去・現在の両方の感情の統一」は、
対立物の統一で、その結果が「不思議感」。
これと同じような感情変化が、過去から現在まで、
度重なって発生している、私の「悟っちゃった!」言説・感情であろう。
過去に、弁証法の理解・習得・体得に嵌っていた時も、
何度も「弁証法が分かった!」・「悟っちゃった!」と感じて、
家内に、その分かった事を伝えたら、
「それって…この前の言葉と同じ!」言われた事。
これらは、全て「私の、その対象に対する、私の感情の変化」を私が実感してからである。
そもそも…「技の本質は、その人間の感情」だと、今の私は理解している。
感情が変化しても、その感情表現・言語の修得がないなら、結局、他人には「同じモノ」。
「好き」と「愛してる」の感情が分からない・(区別のつかない)なのに、平気で愛を語れる…不思議!
例えば、「空手の正拳突き」は、その突きの駆使の瞬間に、
その「突きの形・型…の意識はない」、
あるのは「倒してやる!」・「ビックリさせてやる」…といった目的意識的な感情であろう。
「悟る」・悟り」について、分かった事は、「悟り」も感情である事。
それは、宗教的には、神の世界に対する感情を人間が神の存在を信じて、
その感情を体得し駆使カ可能になった時が「悟りが開いた」時。
「悟る」とは、部分的・個々の部分としての全体を感情として知った・理解した・分かった・「悟った」。
部分の集合体である世界・宇宙を「悟る⇒悟り」・自分の生き方・関わり方を「悟り⇒悟る」=悟りを開いた。
×tada 久振りのコメントありがとうございます♪♪♪
〇tada さんへ
久振りのコメントありがとうございます♪♪♪
>弥勒さんの解説を期待しています。
それは中々に難しいことです。というのも勝手に情報発信などできないからです。
私は20年前は高岡先生のところに熱心に通っていましたが、ここ20年は格闘技の試合などやっていて離れていたんです。それで再びはじめてまだ一年ちょっとしか経っていませんので初心者みたいなものなんです。
高岡先生の指導されていることは、完全に高岡先生のオリジナルなものとして著作権がありますから、何をどの程度の情報発信するかは指導者の資格を取らなければ判断できないんです。
そこをご理解いただいた上で、敢えて「飽くまでも初心者に毛が生えたような私(弥勒)の個人的な私見」ということでお話しすれば、ゆる体操というのは命名されているように「筋肉をゆるめる、弛緩させる」ということを課題として作られている体操で、それは解剖生理的な原理を中心に構築されており、例えば拮抗反射という「ある筋肉が収縮すると、その拮抗筋は弛緩する」という対立関係を利用しているのではないかと思っています。
高岡先生は東京大学教育学部体育学科のご出身で、高名な猪飼道夫先生、宮下充正先生の学統にある方ですし、身体運動の指導者として解剖生理の学習を非常に深いレベルでなさった方ですから、野口整体や野口体操なども当然に知ってらっしゃると思いますけれど、それとは全く別のところからの身体運動科学としての課題を実現するために作られている科目というものがゆる体操であろうと考えています。
人気の秘密は実際の効果の高さだと思います。私は医療系の資格を持っておりますから医療人の集まる会合などに足を運びますけれど、医科歯科大学の先生だとかゆる体操のエビデンスなど共有している医療系の人は少なくありません。
こんなところで勘弁してください。
「認識の分化・分離」を昨日の学校での授業中の出来事で書こうと思い…
パソコン入力していたら、書いている途中で操作ミス!消えてしまって…落胆!
なので、一般論的に書く事にしました。
南郷氏の言葉で書くなら、
全体から部分の分化・分離⇒独立して、部分としての全体像への量質転化・変化。
私は、私の死を体験した事はない。
それでも、知り合い・友達・親戚・肉親・家族…の死は体験している。
その結果、「死」への感情は、以前より強くなっている(筈)
前回の「私の死」の想起は、「家内の死」の前であり、その時にも多少の違和感があった「記憶は残っている」。
この記憶に残っている事が、私の人生の中での「死の想起」という一コマの記憶を、その時の流れから分化している事。
これは、現実では体験不能な「私の死」の体験後の世界の想像…というあり得ない事だから、記憶していたのだろう…
「私の死」を体験した私は、この世に存在していない。
それは、体験したのに、体験・経験ではない事・(振り返れない事)だから…
今回の「私の死」の想起は、たぶん…
強烈だった「家内の死」体験から、死を以前より身近になった…という事だろう。
もっとも…家内の前には、高校から大学と親しかった友達の死、介護途中での父親の死…があったが。
これは、私の「死」への認識が、過去の私より数段深くなっていたのだろう。
でも、その「深まり」の感覚・感情・認識を私は知らなかった・感覚出来ていなかった。分からなかった。
これは、言うなれば、私は「死」を過去の感情・認識レベルだと思い込んでいた。
これは、言い変えるなら、現在の私の「死への感情」は、既に変化していたのに…
私の問い掛け認識は、過去感情をもその変化から分化・分離していた事。
成る程…
分化・分離…していた認識とは、私の「死」への問い掛け的な認識・感情だった!という事。
問い掛けの認識・感情のままで、「私の死」を想像した時、沸き起こった感情が、問い掛けた以上の感情だった!
私の問い掛け的認識・感情と、現実・対象からの反映から生じた私の感情のギャップ…
これって…もしかして…
サルからヒトへの進化過程に生じた、問いかけ的な認識の始まり…
小学一年生は、その時々の反応・感情も違えば、昨日と今日の感情も違って普通です。
だから、彼らへの私のマイナス的感情問い掛けは、無意味で有害ですね。
そんな私だから、自己の問い掛け認識・感情チェックは癖になっています。
認識の像は分裂する=変化する。今度は 認識の像は集中することを考えてみたらどうでしょうか?一般的に像は変化するものと考えると 特殊的に 像は変化を停止に近づける状態がある。つまり 悟りの状態や催眠状態など 狭い範囲で 変化する状態=集中です。無意識の状態を除けば 意識が有る限り 完全な像の停止はないと思うので 狭い意識の範囲での変化を集中とみます。
弥勒さん こんにちは
高岡英夫さんについてのご教授ありがとうございます。高岡さんの問題意識は その説明の是非を云々する以前にもどせば 正当だと思われます。身体意識 脱力 丹田 重心 呼吸 合気ですね。弥勒さんが言われるように ここに多数の人々の関心と実践があり それなりの効果があるということですね。人気の元はこの辺にあるかと推察しました。簡単に言えば 技の使用についての問題だと思います。この点では 玄和会のほうには 展開がないと思います。私としては 太極拳、大東流柔術、芦原空手に実践的回答があると思い当たりました。たぶん その他の流派でも おそらくこの点については 研究されているかと思います。勉強不足なので 確認できませんが…。
tada
・コメント
自由びとさん こんにちは
認識の像は分裂する=変化する。今度は 認識の像は集中することを考えてみたらどうでしょうか?一般的に像は変化するものと考えると 特殊的に 像は変化を停止に近づける状態がある。つまり 悟りの状態や催眠状態など 狭い範囲で 変化する状態=集中です。無意識の状態を除けば 意識が有る限り 完全な像の停止はないと思うので 狭い意識の範囲での変化を集中とみます。」
tada さん
再度のコメントありがとうございます♪♪♪
今日は、とても嬉しい朝でした。
先ほど気付いた事があり、早速、今朝一番で書き込もう…
と思ってパソコンを開いたら、なんとtadaさんコメントでした。
以下のコメントに強烈な感動を抱きました。
↓
「認識の像は分裂する=変化する。」
「今度は 認識の像は集中することを考えてみたらどうでしょうか?」
ただ…その事を書く前に、
私が今朝一番で気付いた事を聞いて下さい・読んで下さい。
私が、昨日書いた↓
「問い掛けが分化・分離する」・「問いかけが変わらない」…
この事に少々の違和感がありました。
そもそも…「問いかけ的認識」・「対象の反映的認識」の区別と連関・相違は?
著書「育児の認識学」・その他…に以下のような事が書かれていました。
…純粋な反映とは、赤子の生まれた瞬間の産声であり、次の瞬間からは「問いかけ的反映」…
…人間の認識が白紙なのは、生まれた瞬間だけであり、その瞬間に白紙に何かかが描かれてしまう…
上記のような事が思い浮かび…次の瞬間、私は「初登校の一年生」の問い掛けを思いました。
わざと「先生に叱られる」ような事をする児童の問い掛けの中身?
それには、「先生の注意を引きたい認識」と「先生の注意に無関係に自分のやりたい事をやる認識」。
それは、「純粋に目の前の対象に対する好奇心」と「先生に対する好奇心」的問い掛け言動。
「先生に対する好奇心と物事に対する好奇心」
先生の注意に反した事をして、その時の先生の反応を見たい!
自分の好奇心の満足優先で、先生の注意は後。
そう「問い掛け的認識」の分化・分離は、誕生直後から始まっています。
では…私の「私の死」に対する「問い掛け・感情」が変化しなかった理由は?
そもそも…「問いかけ的認識」の変化は、あるorない?
ここに、「狭い範囲で 変化する状態=集中です。」が関係するのでしょう…
「人間は対象を自己の理解の範囲で理解する」…これも集中でしょうね。
成長過程の子供の頭脳・認識は、日々大きく変化しています。
彼の「問い掛け」を変えるには、彼らの予想の範囲外の反応をする事です。
ワザと目の前で注意される事をする⇒無視する・褒めて注意する。
「例えば、授業中に口笛を吹いている児童には、
「へ~口笛吹けるんだ…上手じゃん!でも…授業中は止めて・休み時間にして!」
それでも…続けるなら、「先生!○○君、私が注意してもまだ吹いています」と担任に叱ってもらう。
まあ~これは、学習指導補助員である現在の私の注意の仕方。
対象に対する問い掛けが、変化するのは、
その対象が自己の問い掛けとは、大きく異なった予想外の反応をする時なのです。
私の「私の死」の問い掛け感情が変化しなかった理由は、
その問い掛けた結果に現実性がなかった事。
それは、私の頭脳内の空想であり、
それを実現するのは可能でも、それは体験・経験にはなり得ない事だから…
結局、実験・実践は無意味という事。
だから、「私の死」の問う掛け的認識は、その時々の私の感情の範囲内であった。
しかし、ここ数年間での友人・知人の死、更に肉親の死、極めつけは家内の死…
そんな出来事で、私の死への認識・感情が変化・深化…変質してしまった。
これは、客観的には人間的精神的成長で喜ばしい事であろうが…
主観的には、このような悲しみに出会う前に、「死んでしまっていた」ほうが、幸せだったかも…
特に、家内には、「俺より先に死ぬな!」と言っていたし、
また、日頃殆ど病気をしない・不調も訴える事ない家内なんて「私の想像の範囲外の事」だった。
さてさて…
「狭い範囲で 変化する状態=集中です。」の二重性~
それは、「意識・自覚的な集中」と「無意識・無自覚的な夢中」。
以前の私は、この区別と連関が出来ていなかった。
ゲームに夢中になれる子供なら、勉強に集中できる筈だと思っていた。
自分の 好き物事に夢中になれても、嫌いな物事には夢中になれない。
でも…集中能力があるなら、好き嫌いに無関係に、自分の意志で集中可能。
夢中は日々の生活の中で、自然成長的に形成。
集中能力は、目的意識的に創出すべき「技」と言える。
人間の最高度の集中とは、
「その人が死を覚悟して、それでも『生きたい・生きよう』と希求して、現実化しえる死と対峙し、生きる術を模索した時」
「私の死」の想像・妄想には、直接的に「その死の回避」の想像はない。
その想像・妄想的な「私の死」は、いつか必ず訪れるモノ。
それでも、今の時点なら延命な可能。
しかし…「家内の死」は回避不能だった。
「抗がん剤治療」なしなで、そのままなら余命五ヶ月?
そんな宣告を医者から直接された家内の心境を私には考えられなかった。
そもそも…私は、その医者の宣告を信じていなかった、ようだ。
だから、息子のように、家内と腹を割って話せなかった。
息子は、家内と多くの時間を使って、色々と話していたらしい…
でも、私は、『家内に少しでも体を休めてあげたい』と思って話さなかった…と思い込んでいたが…
本当の所、「家内の死」の現実が怖くて…話せなかったのかも…
今は、もっと家内と話し、幼少期の家内の話、家内にとっての私…とか色々と多くの事を話せば、よかった…
これは、「家内の死」に関する範囲の出来事の集中、であろう。
狭い範囲の集中とは、広範囲は全体を狭い範囲の部分に分けて「集中」。
でも、全体・部分、広い・狭いとは、相対的なモノ。宇宙全体に対して地球は狭い。
哲学のように世界を対象にして、世界は一つ・丸ごと一つとしたなら集中も可能だろう。
まだまだ考え書きたい事があるが…
横から窓ガラスから、響く庭にいる柴犬のマロンの「キャンキュン」が五月蠅い!
これは、お散歩のねだり…!犬の欲求の表現であろう…
その辺りは私には余りコメントできませんが、高岡先生に学んでいる方々は武道系に限った人ばかりではありませんから武道や武術に限定して話しを持っていきたがるtadaさんや自由びと氏の気持ちは私には理解できませんね。
高岡先生に学んでいる方々の中で武道や武術を専門としている人のパーセンテージは多くないかも知れません。それは「ゆる体操」などを見ても全く武道や武術の技の使用などではないからですよ。
大東流合気武術や芦原空手でもゆる体操のような練習をすることは無いと思いますし、そのような流儀を学んでらっしゃる方々が並行してゆる体操を学んでいる姿はあるようですけど、どうして「人間としての能力開発の方法」と謳われているゆる体操を「相手を殴打したり投げ飛ばしたりする武道武術の技術」という方向で考えたがるのかtada氏の人間性が理解できません。
私が思うに「技を作る、使うの区別」というのは南郷先生が本に書いた「日本刀からの喩え話」で、実際の日本刀ならば原料の砂鉄と作られた日本刀とは見た目でも別のものだと分かりますけど、空手の技の場合は同じ人間の手足の動きであって例えば巻き藁だとかを殴り続けて拳にタコができていれば角質層を厚くしたのが作ったことだと理解できますけど、そのためには腕の屈伸運動という「体の使用」をしなければなりませんから、形式論理学的な「作るのか?使うのか?作るということは使うでは無いわけで、使うならば作るではない」といった「同一律、矛盾律、排中律」で切り分けることはできなくなります。
そこを南郷先生は「武道技を作るとは人間技を使うこと」だといった「人間技の量質転化化が武道技の創出」だと書いていると読み取れますけど、どうも「作ると使う」という抽象的な喩え話では靴下掻痒というか話しが見えないのが実際です。
ですが、武道武術の内実は実際に入門しなければ知らされないのが常道ですから、それでも当然だとも言えますけどね。
2023-12-24 12:08:50
>tadaさんへ
>その辺りは私には余りコメントできませんが、高岡先生に学んでいる方々は武道系に限った人ばかりではありませんから武道や武術に限定して話しを持っていきたがるtadaさんや自由びと氏の気持ちは私には理解できませんね。
↑
理解不能なのは、お宅の弁証法・認識力の不足かな…
対象の者達の認識との相互浸透が、殆どなされていない。
相互浸透では、南郷氏・玄〇会…現実性を無視して、
対手がどのような事実・物事に対して抱いた認識か?が重要。
>高岡先生に学んでいる方々の中で武道や武術を専門としている人のパーセンテージは多くないかも知れません。それは「ゆる体操」などを見ても全く武道や武術の技の使用などではないからですよ。
↑
武道・スポーツ・稽古…で、身体を自然的な運動ではなく、
その対象に即した運動形態化した時に生じる、
身体的な矛盾(武道体と人間体の相克)の修正に「身体を「ゆる」め⇒自然体へ、
人間の自然的運動とは、動物的な「身体・全身の同時的な使用形態」と言える。
実際に、私は今はほぼ回復していますが…
数年前から、時々、右足の股関節が痛んで、ズボン穿きの時に、右足が上げられなかった。
そこで、ここ数年、整体院の通っています。
そこで、「背骨ゆらし」から始めて、今は「内臓矯正」をしています。
その効果で、今は殆ど痛みません。
この痛みの原因は、学生時代の寸止めに自由組手試合で、
右足前・左足後ろ立での、右前蹴りカウンターが得意技で、
それに頼ってばばかりだった後遺症でしょうね…
そんなアンバランスな蹴り運動の結果だと、考えています。
武道は、個別技習得・修得の為に、非全身的な操作・運動・行為・動作の連続。。
だから、真の武道家には、「ゆる」体操レベルの全身脱力体での動作・体操・運動…が必要。
これは、「武道技の使用の問題」ではなく、武道体から人間体への回復・修正…の問題です。
テレビ・ラジオ体操の基本は、「力を抜いて」です。
しかし…力を抜いて「手を挙げる」は無理…上げた手の力を突然抜くのも至難…
「ゆる」的な考えは、過去から現在まで、それこそ有限的な無限に続いています。
>大東流合気武術や芦原空手でもゆる体操のような練習をすることは無いと思いますし、そのような流儀を学んでらっしゃる方々が並行してゆる体操を学んでいる姿はあるようですけど、どうして「人間としての能力開発の方法」と謳われているゆる体操を「相手を殴打したり投げ飛ばしたりする武道武術の技術」という方向で考えたがるのかtada氏の人間性が理解できません。
↑
このお宅は、真の武道修業・修練を知らないのに、…分っているもりお宅ですね。
武道技の問題ではなく、武道技の体得過程で武道体化した、その身体(の回復)問題ですよ。
「ゆる」体操は、知らなくても、
過去から現代まで、多くの人々が、身体を「緩め」る事は実践していますよ。
>私が思うに「技を作る、使うの区別」というのは南郷先生が本に書いた「日本刀からの喩え話」で、実際の日本刀ならば原料の砂鉄と作られた日本刀とは見た目でも別のものだと分かりますけど、空手の技の場合は同じ人間の手足の動きであって例えば巻き藁だとかを殴り続けて拳にタコができていれば角質層を厚くしたのが作ったことだと理解できますけど、そのためには腕の屈伸運動という「体の使用」をしなければなりませんから、形式論理学的な「作るのか?使うのか?作るということは使うでは無いわけで、使うならば作るではない」といった「同一律、矛盾律、排中律」で切り分けることはできなくなります。
↑
このお宅は、「論理」を直接「論理として書ける・表現可能」だと誤解していますね。
論理は、例え話・ある事実で表現するしかできないモノ。
技を「創る・使う」は、武器・武具を使用している剣道が一番、論理的表現してしやすいのです。
高校時代に、少林寺拳法部での経験から…
普通のモノを使った喧嘩で、落ちている「棒」を拾って闘う場合、武器の使用とするなら…。
予め隠し持っていた日本刀で闘うのもの、武器の使用。
この場合、ただの棒でも使い方次第では、相手を倒せる。
でも、武器自体の威力は、日本刀が格段上であろう。
技を創るとは、使用形態にない「技の威力」そのモノを創る事。
使用形態にない技でも、静止状態での技威力の増加は至難。
「巻き藁突き」での、拳の強化を左手に板を持って、右拳を叩いてだと…
拳頭の骨強化になり得ても、突きの形での拳頭の意識が難しい…
技の使用とは、その技の使用形態で上手に相手を倒す威力を創る事。
>そこを南郷先生は「武道技を作るとは人間技を使うこと」だといった「人間技の量質転化化が武道技の創出」だと書いていると読み取れますけど、どうも「作ると使う」という抽象的な喩え話では靴下掻痒というか話しが見えないのが実際です。
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武道技を創る時~
例えば、
日本刀なら研ぎ氏が、自己の五体で鉄の棒を研いで作るモノ。
もっとも…現代なら機械で制作可能ですが…
それでも、その機械は人間が操作しています。
>ですが、武道武術の内実は実際に入門しなければ知らされないのが常道ですから、それでも当然だとも言えますけどね。
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このお宅は、「人間体」を使うが、分かっていない。
現代の武道空手の修業の始まりは、自分の五体を使って、武道空手技の学習から…
その「武道技」は、その技を習得・体得したモノから学ぶ事が始まり…
武道空手技を知らない、自分自身から学ぶ事は不可能。
これがスキーなら、斜面を滑れば自己流で習得可能。
それでも、初めからスキー学校で基本から学んだ者と、
初めから自由に滑って滑れるようになった者とでは、その上達に違いが…
双方とも、単純に滑る事は可能でも…
自力の者は、複雑な技は、他人の滑りを盗まねば不可能でしょうね。
それでも…フォームの美を求めないなら、
レベルアップで至難な斜面にチャレンジし続ければ、その技の向上はあり得るモノ。
>高岡英夫さんについてのご教授ありがとうございます。高岡さんの問題意識は その説明の是非を云々する以前にもどせば 正当だと思われます。身体意識 脱力 丹田 重心 呼吸 合気ですね。弥勒さんが言われるように ここに多数の人々の関心と実践があり それなりの効果があるということですね。人気の元はこの辺にあるかと推察しました。簡単に言えば 技の使用についての問題だと思います。この点では 玄和会のほうには 展開がないと思います。私としては 太極拳、大東流柔術、芦原空手に実践的回答があると思い当たりました。たぶん その他の流派でも おそらくこの点については 研究されているかと思います。勉強不足なので 確認できませんが…。
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「身体意識 脱力 丹田 重心 呼吸 合気ですね。」
「簡単に言えば 技の使用についての問題だと思います。」
「技の使用」ですか…
納得ですね…
南郷氏は、「技の使用」ではなく、「技の始まり」・「技の創出」重視でしょうね。
南郷氏は、他人が説・解ける問題ではなく、他人説・解けない問題を論じ続けている…のでしょうね。
技の多用した結果、身体に生じた
「武道体vs人間体」の相克・矛盾・問題の解決法ですかね。
早々「高岡英雄」さんには、思いで深いモノがあります。
彼の初期の著作…(過去の自宅の本棚に並んでいますが…ここは元父の自宅)
初期の頃の武道関係の著作をたくさん(一冊に二・三千円?)購読しました。
当時の私は、「武道の理論」シリーズを読み続けていた…(たぶん…まだ武道講義シリーズはなかった…)
そんな中、ある日、突然に何故か不明ですが…
「高岡英雄は南郷継正だ!」と確信するようになりました。
そうそう…
ある夜、突然ベッドから飛び起きて「俺は南郷継正だ!」、
家内に「お前は○○(南郷氏の奥さん)!」叫んだ事を思い出しました。
更に、その後、その感情・思い込みは、二チャンネル玄〇会スレッドで、
「梅雨さんを師範だ!」と信じ込んだ事へと続きました。
それから随分たって、南郷氏の著書で、
「…論理的な盗用…のと記述を読んで以下のように思いました。
もともと…小説読みが嫌い・国語が苦手で…
何しろ…高校時代の夏休みの現国の読書感想文は、
一二年生の頃は、「書籍紹介の本」を購読して、ほぼ丸写し…
三年になって、少林寺拳法部に可愛い一年の後輩ができ、全部彼女に書いてもらっていました。
その女子…当時、大好きだったのに…
催眠術で彼女の好きな人を知ってしまって…
結局告白出来ずに卒業…
そんな理解語彙が少なく、当然使用語彙も少ない私は、
細かな語彙・語句の理解が不得手で…
でも…当時の数学の成績は、トップクラスだった、ようです。
一度、「順列組み合わせ」のテストで学年の秀才数人から、私の得点を聞かれました。
今、考えると、どうやら彼らは数学の教師に私の点数を聞いて
彼らより高かった私に、私に興味・関心を抱いたのでしょうね…
当時の数学女性教師曰く「○○君(私)は、公平に採点したら百点以上…」
どうやら…みんなの点数が低すぎて、底上げをしていた、ようです。
その底上げの点数を私には加えたなら「百点以上」なのでしょうね…
数学、それに加えて物理も得意でした…
どちらも論理的な教科ですよね…
そんな私は、高岡英夫の記述をアバウトに論的に読み取っていたのでしょうね…
その結果、著書の中の高岡英夫の論理・流れが、南郷氏の同一的だったからの思い違いでしょう…
これは、「論理を論理として読み取っていた私の未熟さ」でしょうかね。
論理と事実は、合わせて一つ。
論理は、事実を通して観る。
事実は、論理的に観る。