「認識と言語表現」・「事実と真実」の話
先ずは以下のネット情報から~
↓
>「現実」「事実」「真実」「真理」の違いは、次のとおりです。
>現実: 現実に存在する事柄
>事実: 現実に存在する事柄
>真実: 嘘偽りがない、本当であること
>真理: 誰も否定できず、変わることのない道理
>「真実」と「事実」は似た状況で使われる言葉ですが、意味が少し異なります。「真実」は、抽象概念と具体的な内容をもった概念を表わします。抽象概念としては「嘘偽りではない」ことを、具体的な内容としては「実際の事実そのままでうそ偽りのないこと」を表わします。
>「真理」は、現実や事実とは特に関係なく、道理として全く正しいこと、だれもが認める本当のことを表わします。宗教や物理の世界で永遠に変わらないものを指す言葉として捉えることもできます。
「現実」「事実」は、人間の外界・物事表現
「真実」「真理」は、人間の内界・認識表現。
以下が「事実と真実の話」
>真実と事実は、似た状況で使われる言葉ですが、意味が少し異なります。
>真実~
>嘘偽りがなく本当であること、信頼する、信ずるという意味があります。人の解釈や心の動きであり、人の数だけあります。
>事実~
>現実に存在する事柄、結果、再現できる対象という意味です。人が関与しないため、反論できません。
さて~ここからは「事実と真実の話」ここで以下の問題です!
「たとえば、日本で軟水を出された外国人にとって~「これは水です」は事実ですが、
自分の認識している水とは違っているから「私にとってこれは水ではない」は真実です。」
上記の言語表現では、「日本での事実」と「外国人の真実は違う」と説いている。
本当に、そうだろうか?!
少々言葉・表現を加えてみます。
たとえば、
「軟水は、日本では日常生活での「飲み水」です。」事実。
でも、日常生活で、硬水を飲んでいる外国人には「飲み水ではありません」。
これは、出された「日本の水」が「外国人には水」ではない!…
ではなく、日本の飲み水(軟水)は、外国人には飲み水(硬水)はない…いう意味。
従って、「日本の水は、外国人にっても水である」ただ「飲み水ではない」だけ…
上記の場合は~
「水」レベルの事実の言語表現なら同じ<水と水>」
しかし「軟水と硬水」レベルの事実表現なら<水は水でも 異なった水>
そして「「飲料軟水・日本」と「飲料硬水・外国」とでは、<飲み水であり飲み水でない>
結論を書くなら、
日本では、「これは、飲み水です」
外国人である私にとっては「これは、飲み水ではない」
事実は、「日本の飲み水は軟水」
真実は、「外国人にとって軟水は飲み水ではない」
事実の言語表現対象は眼前の、「水というモノ」。
真実の表現は外国人には、それは「飲まない(飲めない)水」(眼前の水の性質)。
事実とは、現実のモノコトの変化・運動表現。
真実とは、その現実の変化・運動の、その者の観点・立場からの個人的な事実・意味。
~真実レベル色々~
個人的な真実、
組織・社会的な真実、
神的な真実、
絶対精神的な真実、哲学・学問的な真実、