再考~「アキレスと亀の競争」
「アキレスは亀より10倍速い」。
「亀はアキレスより100m前方からスタート」。
「両者は同時にスタート」。
ここで以下のように考える
アキレスが、一歩・100㎝=1m進んだ時、
同時にカメは、五歩・2㎝×5=10㎝=一歩・2㎝進む。
アキレスが一歩進んだ時、同時に亀は五歩進んでいる。
アキレスが一歩⇒1m=100㎝⇒カメは五歩⇒2㎝×5=10㎝、進んでいる
1mは10㎝の10倍である。
アキレスの一歩に、カメは五歩進んでいるが、亀の一歩が短い為、進める距離はアキレスと同じである。
この場合も、思考・思惟過程として、重要なのは、何が同じで何が違っているかの考慮であろう。
速さは、アキレスが亀の十倍。
歩数は、亀はアキレスの5倍。
アキレスの1歩と亀の5歩分。
アキレスの一歩はと亀の五歩が同じ距離。
アキレスと亀の一歩の初めが一緒(同時)、
アキレスの一歩目の終わりと亀の五歩目の終わり一緒(同時)。
では、アキレスと亀の全力競争の始まり・始まり~
カメ露アキレス、同時にスタート~
アキレス、前方1にいた00m前の亀に、100m÷1m/歩=100歩で追いついた。
その時、亀の歩数は100歩×5=500歩進んでいるので、亀は2㎝/歩×500歩=1000㎝=10m進んだ。
そこで、更にアキレスは、10m前にいた亀の位置へ10m÷1m/歩=10歩進んだ。
その時、亀は、5㎝/歩×10歩=50㎝アキレスの前にいる。
更に、アキレスは、50㎝=0.5m前の亀を目指して一歩1m進んだ、
この時、アキレスの一歩は、途中0.5m(半歩)・亀の元いた地点を通過して、
移動前のカメの地点より0.5m=50㎝先に着地した。
その時、同時にカメは、1歩×5=5歩、2㎝/歩×5歩=10㎝進んだ。
カメは、前回より10㎝、先の地点。
アキレスは、前回の亀のいた地点より50㎝前の地点。
トータル比較なら、
アキレス100m+10m=110m
カメ100m+0.5m=100.5m
両者は、各々の地点に同時に着地・到達している。
この時、アキレスは既に亀を追い越している。
この思考・思惟方法であれば、時・時間…という言葉・概念を使う事無く、
「ゼノンの絶対矛盾」は、
思考として可能であっても、
思惟としては無理がある…という矛盾を解決できた。
空間とは、何もない空間ではなく、人間に見えるモノの存在する周囲に、見えるモノがない場所・状態。
時・時間とは、物事・事象の変化・運動の始まりと終わりの間隔、と言えようか…
何かこの問題に熱中する理由でもあるのでしょうかね?
私は自由びとさんとは違って、このアキレスと亀のゼノンの問題をギリシャ哲学の問題だと改めて問題意識化してるんですね。
そのときに、やはり自分を導いてくれる師匠というものが必要で、私は哲学的には某組織に所属していますから、古代哲学の師匠は悠季真理と同じ先生なんです。先日もお電話でお話ししたのですが、声、話し方、話しの内容など学問を長年学び続けていくとこのように尊敬できる人格に磨き上げられていくのだと本当に心が震えました。
今は、先生から教えていただいた本を読み始めていますけど、やはりT大の古代哲学の学統は出隆先生から現代まで繋がっているのだと強く感じますね。
『城学』の主幹である悠季真理が出隆の学統を継ぐ人間である所に出隆批判がなされているところが弁証法的であるとも言えますけどね。
弁証法が哲学の遺産だという原点が丸で理解できていない。
でも批判すると弱い者いじめみたいになるから悩ましいところですよ(汗)
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「不思議な違和感」の正体!
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雲海
・コメント
>私の個人的な感想、というか数十年の人生経験を顧みて考えるなら「小学生の頃の遊び方がどのような方法で決められたのか?」に然程の大きな意味はありません。
↑
ここは、私の個人ブログであり、みんなの掲示板では、ありません。
だから…お宅の考え・意見は、どうでもいいのですが
普通の場合ならね子供達にとって「決め方」はどうでもいい事でしょう。
しかし、「お楽しみ会」という子供達が積極的に参加・決定する行事では、決め方が意味を持ち得ます。
「ジャンケン」で決めようと提案して児童は、多数決だと採用されない・少数意見を自覚しての提案だったのです。
従って、その少数意見の児童にとって、「ジャンケン決」意味ある・採用の可能性の発生・創出…でした。
「多数決」では、採用されないだろう事を予想しての「ジャンケン決」だったのです。
その方法決定を「多数決」で決めたなら、「多数同意」が゛採用!
お楽しみ会の遊びも「多数同意が採用」!
これでは、少数意見である「ジャンケン決」派の遊びの採用は初めからから不可能で…
この採決そのものが形式的であり、本質的には無意味なのです。
物事の意味について…
その子供にとって意味が無くても、私にとっては意味ある事。
それは、何故に「この子にとって無意味なのだろう?」と考える事に私の意味が見いだされます・
子供にとって意味ある事は、補助員としての私には意味があっても、個人的な私にとつて無意味な場合もあり得ます。
>幼かった頃の記憶をたどるなら「あの時、誰々ちゃんとこんな事して遊んだな、あんな事があって泣いちゃったな」なんて全てが過去の良い思い出となっていますけど、「その遊び方、関わり方がどのように決められたのか?」といった観点からの記憶は一切ありません。どうでも良いことです。
↑
お宅には、物事の区別と連関が理解不能ですね。
子供同士の遊びの中での「決め方」の意味。
子供同士が納得した方法・決め方。
授業中の「決め方」の意味。
教師・先生が納得した方法・決め方。
>ですが、穿った見方をするならば、義務教育の学校教員は大学で教育の専門課程を経て都道府県で認可されて公立の学校に採用された教育専門家ですから、当然に教育基本法などの国家的な教育のガイドラインに沿って教育指導を考えるのではないか?と想像されます。
>その義務教育の「将来、巣立って行く現実の国家・社会で生きていく人間を育てる」という目的からは、「多数決」という方法と「じゃんけん」だとか「くじ引き」とかの方法とでは「何事かを決定する方法」として平等・等価値のものではありません。
↑
平等・等価値?
パチンコの玉の商品・金銭の交換価値は、
店によって異なっています。
一つの玉=四円の等価交換から、一つ一円、二円、三円…と色々です。
それらを、客が納得してパチンコを楽しんでいます。
昔は物々交換でした。
ダイヤと石の物々交換はありえません。
動物にとっては、ただの石ころ無価値な石が、人間にとっては宝石…
平等・等価値の概念…お宅には狭すぎですね。
>古代ギリシャでソクラテスを死刑に処した衆愚制の多数決の反省から、現代では刑法上の有罪無罪の決定は司法試験に合格している裁判官という専門家の判断によっていますが、その判断の拠り所となる法律は国家での多数決によって可決されるという「多数決」と「多数決ではないもの」とが複雑に入り組んでいるのが現代社会ですから、その「多数決」を実際の生身で経験させるということは義務教育において必要なことだと考えられますね。
↑
私と論点が違っています。
この記事では、「多数決」・「ジャンケン決」のそれぞれの教育・有効性の問題ではなく、
お楽しみ会の決め方が「ジャンケンor多数決」を決めるのに、
「多数決」で決めようとする矛盾の指摘です。
これは、A氏の裁判員・裁判に、A氏も参加させるようモノですよ。
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雲海
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>このところゼノンのアキレスと亀に関する投稿を続けてらっしゃいますね。
▼ コメント ────
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・コメントを書いた人
雲海
・コメント
>このところゼノンのアキレスと亀に関する投稿を続けてらっしゃいますね。
>何かこの問題に熱中する理由でもあるのでしょうかね?
>私は自由びとさんとは違って、このアキレスと亀のゼノンの問題をギリシャ哲学の問題だと改めて問題意識化してるんですね。
>そのときに、やはり自分を導いてくれる師匠というものが必要で、私は哲学的には某組織に所属していますから、古代哲学の師匠は悠季真理と同じ先生なんです。先日もお電話でお話ししたのですが、声、話し方、話しの内容など学問を長年学び続けていくとこのように尊敬できる人格に磨き上げられていくのだと本当に心が震えました。
>今は、先生から教えていただいた本を読み始めていますけど、やはりT大の古代哲学の学統は出隆先生から現代まで繋がっているのだと強く感じますね。
>『城学』の主幹である悠季真理が出隆の学統を継ぐ人間である所に出隆批判がなされているところが弁証法的であるとも言えますけどね。
↑
「師匠」について、この程度の事しか書けない…なんて
これを読んだら~
その「師匠」、涙なのかも…
それとも、腹を抱えて爆笑?
それとも、憐憫の涙?
それとも、ダメ弟子への怒り!かな…
流石に…
師範の顔に泥を塗りたくないから、名前は書きませんね。
その点の賢さは評価できますね。
もっとも…想像・妄想・幻想・夢想・虚言…の雨・嵐的な連続お宅の書く事を誰が信じるか?という問題の発生ですが…
全員がジャンケンをして勝った者はそれぞれ自分のやりたいモノを選べるのか?
それとも最後の一人が残るまでジャンケンをやり続けて、最後まで残った勝利者が選択したものを全員が許容するのか?
誰か代表を決めてジャンケンするのなら、「私は負けてない」と言う子が必ず出てくると思いますから、決め方よりもそっちのフォローのほうが大事な気がしますけどね。
お宅は玄◯会の本部で南郷さんの指導を30年以上受けたと顔に泥を塗り、本部の講習会で親が死んだと泣き叫んで顔に泥を塗り、それすら忘れてしまったかのように本部道場には数ヶ月しかいなかったと法螺をふく人間が他人の師弟関係をつべこべ言わないほうがいい。
「その程度」とか抽象的なこと書いても相手には伝わらないから、もう少し具体的なこと書きなさい。
「ここは私の観念世界」だとか書いても、じゃあ自分が思えば観念の中だけは自由になるから言葉を使って私をどうこうしようとする必要はないでしょう。
だから一つ一つの文章に反応する気さえ起きないんだよね、お宅の文章は。
・コメントが届いた記事
再考~「アキレスと亀の競争」
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雲海
・コメント
>>師範の顔に泥を塗りたくないから
>お宅は玄◯会の本部で南郷さんの指導を30年以上受けたと顔に泥を塗り、本部の講習会で親が死んだと泣き叫んで顔に泥を塗り、それすら忘れてしまったかのように本部道場には数ヶ月しかいなかったと法螺をふく人間が他人の師弟関係をつべこべ言わないほうがいい。
↑
相変わらず~誤解・虚言・妄想・幻想・想像…コメント記述ですね!
馬鹿だね!
「本部道場所属」ではなく、支部道場所属でも、
本部登録すれば、本部主催の試合・講習会…に参加可能であり、
その試合・講習会では、必ず(以前は)「師範講義」がありました…。
以前の私の記事は、その時の事実の書き込みですが…
こんな事は、会システムを知らない者なら当然ですが…
そんな、知らない(無知)が当然なのに…知っているつもりのお宅…
この無知の自覚がないお宅は、
己の無知さ加減を知らないお宅は、
知りもしないで、知っているつもりの大バカ者ですかね。
この己が知らない事(無知)を知った者…
その者の先にあるのが「無知の智」ですかね。
>「その程度」とか抽象的なこと書いても相手には伝わらないから、もう少し具体的なこと書きなさい。
↑
このような公開している個人ブログで、
具体的な個人情報なんて…
書きたくありませんね。
お宅のような「変態ストカー」レベルの個人情報収集お宅のような存在がありますから…
>「ここは私の観念世界」だとか書いても、じゃあ自分が思えば観念の中だけは自由になるから言葉を使って私をどうこうしようとする必要はないでしょう。
↑
このブログの記述・記述の内容が「観念的世界」です。
より正確には、私の観念的世界の言語化・表現」です。
お宅の「自由概念」には、
観念内の「想像・認識の自由」と
現実的な「行為・行動の自由」の区別がない、ようですね。
成る程…お宅には、
観念内の事実(想像・妄想・幻想・夢想)が、
全て現実と一致していると感じられるのですね。
真のペテン師・詐欺師…は、
自分の吐いた嘘を本当の事実だと信じ切れる、そうですよ!
>だから一つ一つの文章に反応する気さえ起きないんだよね、お宅の文章は。
↑
え!?
「反応する気さえ起きない」割には、
このような、お宅「コメントの連続書き込み」…という事実は如何に解釈すればよいのか?
「コメントの連続書き込み」という行為と「反応する気さえ起きない」という認識~
どちらにも嘘がない場合の「対立物の統一」は~
お宅は「反応する気さえ起きない」ので、
お宅の連続投稿コメントは、反応でなく、極々自然なお宅の行為…という事になり、
片方が嘘の場合は、
連続コメント投稿は事実であり、
「反応する気さえ起きない」という認識が嘘という事になります。
結局は、お宅の「言語不一致」であり、ただの嘘つきですね!
お宅って、自分の虚言・幻想・夢想…が、事実だと信じ切っている、ようですね。
それって、お宅は、立派で偉大な「詐欺師・ペテン師」になり得る素質十分ですよ!
↑
イヌを飼って、可愛がって、可愛い!実感して者なら「イヌは買可愛い」。
イヌを飼って、飼いイヌに吠えられ噛み付かれて者なら「イヌは狂暴」。
私の「イヌの概念」、私の観念的世界に創り上げた「イヌの概念・像」です。
それを、言葉で表現する事は、至難です。
そもそも…専門家でも、突然に「イヌの概念規定とは?」と尋ねられて、即答できますか?
それでも、私の「イヌの概念」=「概略的な観念」⇒
私の世界の中のイヌ像は、私が関わって・育てた⇒
スピッツ像・ダックスフンド像・プードル像・マルチーズ像・
ゴールデンレトリバー像・セントバーナードの雑種犬像…血統書付き柴犬像⇒
それらの全体的なイヌの概略的な像・概念です。
>・コメント
>ちょっと思ったんですけど、「犬」という概念が揺さぶられるというか、大きく変わらされるのって一匹の個体と深く深く関わったときでなく、セントバーナードとかチワワとかが同じ犬だよと言われたときじゃないかと思うんです。
概念には、具体的概念・具象的概念・抽象的概念…と辞書には書いていましたが…
お宅って、概念の社会的・辞書的意味も知らずに「概念」をと考えているの?
それって…「無知者」そのモノですよ!
>それとも犬というのは動物だから人間とは違うと思っていたら実際に飼ってみたら人間と情が通い合うような感じがあって、みたいなのも概念なんですかね?好きとか嫌いだとかのイメージが変わるのも概念?「イメージ=概念」?
↑
お宅の思いからお宅レベルの自分勝手な「問い」ですね!
>それを「本部登録」という何時はじまったのか定かではないものを基準に南郷さんに手紙を書いたら返事がきて青空塾に通い始めたという記述を、尊敬する南郷さんから直々に手紙を貰って何故に数ヶ月で新宿支部へ移籍したのか?という疑問・不審が残るわけです。
↑
「本部登録」とは、支部が登録するモノで、個人が直接するモノではありません。
だから、除名・未登録の支部の会員は、本部主催の試合・講習会には、参加できません。
聞いた話では、「闇・隠れ玄和」⇒「未登録の玄和空手」もあるそうですが…
それらが、本部登録しない…支部と言えるのでしょうね。
お宅の知っている玄和会支部って「隠れ玄和」・「闇玄和」だったのでは?
お宅って、私の記述を正しく記憶していませんね。
「…直接に手紙…」ではなく、
武道のシリーズ時代に、私が「三一書房に送った手紙」or「武道の理論」シリーズを読んで「「三一書房に送った手紙」…
そのどちらかが、〇〇支部・支部長に送られて彼から日時指定の「見学の誘い」のハガキが届いたのです。
実際に行ったら、私の他に、二?三人?の見学者が来ていました。
私の手紙は南郷氏から支部長へ渡されたモノです。
それは、初めの手紙から数年!後の手紙からは数か月?…たったの事です。
だから…>「南郷さんに手紙を書いたら返事がきて…」いません!
自分勝手に、記事・内容を間違って記憶しないで下さい。
初めの手紙を書いて返事が来なかった私は、
市谷の「東海堂」へ空手着を買いに行ったついでに、
当時の店主に「玄和会って知っていますか?」と尋ねたら、
確か…「岩〇さんの電話番号をおしえてくれて…」、
そこへ電話し事情を話したら「それなら南浦和の本部道場がいいだろう」…といって、
○○幼稚園を教えてくれました。
実際に南浦和に言ったら、全く分からないので、近くの交番で聞いた記憶が…いま想起されました。