これって「私の非常心」!?
そろそろ…新たな記事投稿の再開…かな?!
非常心について…
より正確には「私の非常心について~」ですかね♪♪♪
非常心とは、「♪♪♪」が付く程に楽しいモノではない!
それでも…「非常心が何であるか!」を知った・分かった事は「♪♪♪」レベルであろう…
非常心の反対語は、「平常心・普通心・通常心」。
そもそも…自己の「平常心・普通心・通常心」を、人は自覚できているのだろうか…
普通は普通、異常は異常…本当に、そうなのだろうか?!
平常心だと確信しつつ…異常な言動を繰り返している者達はいない!だろうか?
私は、心が普通でない時でも、普通に暮らそうと努力した過去がある…
結果的に、殆どの他人からは、当時の私は、普通の私だったよう見えていただろうが…
唯一、まだ家内ではなかった、当時の彼女には、大きな不安を抱かせ続けたしまった…
今の私的認識で過去の私事を振り返るなら…
私の非常心の始まり生々は、離婚後の両親からの私への言動であった…ようだ…
もっとも…その少し前には、離婚騒動の不安定な状況での就職・社会人への不安(心)もあったが…
工学部・電子工学専攻で技術者を目指したのは、両親のアドバイスだった…
それは、言うなれば、両親の判断への私的な信頼感からの職業選択だった…
それが、二人の不和・離婚で、双方から相手の悪口を聞かされ続けた事で、二人への信頼感は消失へと向かった…
そんな心理状態から、私は「(両親の判断)機械・機器…相手の仕事は嫌だ!人間相手がいい!」と思うようになった…ようだ~
そんな時、親戚の叔父さんから、「母校の教員はどう?」とアドバイスされ…
ダメ元で、面接・試験を受けに行った事で、教師への道に嵌ってしまった…
教師・教員への就職が決まった事で、今度は、全く未知の教職への不安(心)が…(あった!ようだ…)
その不安を若さ・勢い…で自分の心・気持ち…を誤魔化して、教員になった…
その一週間後が、「児童にとって俺は神だ!彼らの欲する事は叶えてやるべきだ!」事件である。
この「一週間が非常心」の結果であった、ようだ…
その「非常心」は、休養・睡眠…で一ヶ月少々で沈下・安定した…
ただ…この事件以来、今!思い考えると…
私は、初めての教師・教員生活を、両親への信頼感なく、教職課程もなく、教員・教職・教師・教育的な専門知識もなく、
よくもまあ~「行き当たりばったり」的に、それでも正しい!と自分で自分自身を無理やり確信させて、一週間を過ごしたモノである…
その結果の当時の私認識が~
「教師は、児童にとって神であり、教師である私は児童の欲する事は実現すべし!」であった。
結果的に、校門から「腹減った!何か食べたい」と言う児童達をレストランへ食事に連れ出そうとして、他の教員呼び止められ…「不発」だったが…
今、考えると、仮に何もなく校門を出られて、レストランへ到着できていたら…私の人生は、また違ったモノになり得ていた事だろうに…
私は、両親への信頼感に疑問・不安・消失…また自己への信頼感も特になく…確信持てる専門知識もなく…
そんな状態で、三年間の教員・三年⇒四年・新三年…の担任を過ごせた…
しかし、その三年間で自身の教育観・教育法…に疑問を抱いた結果、玉川大学・文学部・教育学科・初等教育専攻への編入だった。
さてさて…非常心とは?と問うならば、
その人の「平常心・通常心」の変化である「非常心」であろう。
それは、その人に「平常心」と言えるココロ運動の量質転化化と対比しての「非常心」。
従って、ココロ運動の量質転化化が得難い幼子・子供には、「非常心」は、ほぼあり得ない。
私の社会人・人生は、両親への確固たる信頼感の崩れ始めた状態から始まった!
と言えるだろう…今ここに考えるならば…
このような、確固たる信頼が可能なモノなく、人生の荒波に突入させられてしまった私…
そこ後は、必然的に非常に無残な人生と言えるモノであろう…
今こうして考えると、(社会的・職業的な達成感なく)無残とも言える人生だったにも関わらず…
現在の不思議な幸福感・達成感・満足感…とは、何なのだろうか?
人生に対する諦めなのか?
諦めた事への満足なのか?
それとも…新たな人生の始まりとしての可能性への期待なのだろう?
そうそう…最近偶然見た「NHK特集・永平寺」の修行では、
そのココロを、日々の変化が少ない普段通りの生活心の技化を目指しての修行だと感じた。
仮に過去の戦国時代のような、寺の外での世間・社会的な戦争・騒乱…の不安(心)が「普通・当たり前」の時代なら、その「永平寺の修行」も有効だろうが…
現代の日本のように、平和・安定が普通の時代では、
その「平常心」の技化・修行は、真の「悟りへの道」になりえるだろうか…
また…そもそも…神ない時代人達に、
宗教的な「悟り・悟りを開く・悟得の境地」への到達は、可能なのだろうか?!
私には大いなる疑問である!
そろそろ…新たな記事投稿の再開…かな?!
非常心について…
より正確には「私の非常心について~」ですかね♪♪♪
非常心とは、「♪♪♪」が付く程に楽しいモノではない!
それでも…「非常心が何であるか!」を知った・分かった事は「♪♪♪」レベルであろう…
非常心の反対語は、「平常心・普通心・通常心」。
そもそも…自己の「平常心・普通心・通常心」を、人は自覚できているのだろうか…
普通は普通、異常は異常…本当に、そうなのだろうか?!
平常心だと確信しつつ…異常な言動を繰り返している者達はいない!だろうか?
私は、心が普通でない時でも、普通に暮らそうと努力した過去がある…
結果的に、殆どの他人からは、当時の私は、普通の私だったよう見えていただろうが…
唯一、まだ家内ではなかった、当時の彼女には、大きな不安を抱かせ続けたしまった…
今の私的認識で過去の私事を振り返るなら…
私の非常心の始まり生々は、離婚後の両親からの私への言動であった…ようだ…
もっとも…その少し前には、離婚騒動の不安定な状況での就職・社会人への不安(心)もあったが…
工学部・電子工学専攻で技術者を目指したのは、両親のアドバイスだった…
それは、言うなれば、両親の判断への私的な信頼感からの職業選択だった…
それが、二人の不和・離婚で、双方から相手の悪口を聞かされ続けた事で、二人への信頼感は消失へと向かった…
そんな心理状態から、私は「(両親の判断)機械・機器…相手の仕事は嫌だ!人間相手がいい!」と思うようになった…ようだ~
そんな時、親戚の叔父さんから、「母校の教員はどう?」とアドバイスされ…
ダメ元で、面接・試験を受けに行った事で、教師への道に嵌ってしまった…
教師・教員への就職が決まった事で、今度は、全く未知の教職への不安(心)が…(あった!ようだ…)
その不安を若さ・勢い…で自分の心・気持ち…を誤魔化して、教員になった…
その一週間後が、「児童にとって俺は神だ!彼らの欲する事は叶えてやるべきだ!」事件である。
この「一週間が非常心」の結果であった、ようだ…
その「非常心」は、休養・睡眠…で一ヶ月少々で沈下・安定した…
ただ…この事件以来、今!思い考えると…
私は、初めての教師・教員生活を、両親への信頼感なく、教職課程もなく、教員・教職・教師・教育的な専門知識もなく、
よくもまあ~「行き当たりばったり」的に、それでも正しい!と自分で自分自身を無理やり確信させて、一週間を過ごしたモノである…
その結果の当時の私認識が~
「教師は、児童にとって神であり、教師である私は児童の欲する事は実現すべし!」であった。
結果的に、校門から「腹減った!何か食べたい」と言う児童達をレストランへ食事に連れ出そうとして、他の教員呼び止められ…「不発」だったが…
今、考えると、仮に何もなく校門を出られて、レストランへ到着できていたら…私の人生は、また違ったモノになり得ていた事だろうに…
私は、両親への信頼感に疑問・不安・消失…また自己への信頼感も特になく…確信持てる専門知識もなく…
そんな状態で、三年間の教員・三年⇒四年・新三年…の担任を過ごせた…
しかし、その三年間で自身の教育観・教育法…に疑問を抱いた結果、玉川大学・文学部・教育学科・初等教育専攻への編入だった。
さてさて…非常心とは?と問うならば、
その人の「平常心・通常心」の変化である「非常心」であろう。
それは、その人に「平常心」と言えるココロ運動の量質転化化と対比しての「非常心」。
従って、ココロ運動の量質転化化が得難い幼子・子供には、「非常心」は、ほぼあり得ない。
私の社会人・人生は、両親への確固たる信頼感の崩れ始めた状態から始まった!
と言えるだろう…今ここに考えるならば…
このような、確固たる信頼が可能なモノなく、人生の荒波に突入させられてしまった私…
そこ後は、必然的に非常に無残な人生と言えるモノであろう…
今こうして考えると、(社会的・職業的な達成感なく)無残とも言える人生だったにも関わらず…
現在の不思議な幸福感・達成感・満足感…とは、何なのだろうか?
人生に対する諦めなのか?
諦めた事への満足なのか?
それとも…新たな人生の始まりとしての可能性への期待なのだろう?
そうそう…最近偶然見た「NHK特集・永平寺」の修行では、
そのココロを、日々の変化が少ない普段通りの生活心の技化を目指しての修行だと感じた。
仮に過去の戦国時代のような、寺の外での世間・社会的な戦争・騒乱…の不安(心)が「普通・当たり前」の時代なら、その「永平寺の修行」も有効だろうが…
現代の日本のように、平和・安定が普通の時代では、
その「平常心」の技化・修行は、真の「悟りへの道」になりえるだろうか…
また…そもそも…神ない時代人達に、
宗教的な「悟り・悟りを開く・悟得の境地」への到達は、可能なのだろうか?!
私には大いなる疑問である!
「非常心」というのは南郷先生が『武道とは何か』や『武道への道』に説いた言葉ですよね。1977年頃ですから、南郷先生がまだ40代前半の若かりし頃の著述です。
確かそれを「今の禅宗だとかの高僧の考えは間違っている」みたいな感じで書いていたと思いますけど、私は南郷先生の「平常心」の理解に問題があったと考えますね。
「平常心」の対義語というか反対は「非常心」ではなくて「非・平常心」でしょうね。つまり「平常心」というのは「常に平らな心」ということで反対の対立物は「平らでは無い心」であって「常(つね)ならぬ心」ではないと思いますよ。
その「平(たい)らな心」「心が平(たい)らである」ということは、「明鏡止水」という言葉もあるように「風で波立つことのない静まり返った水面のような」ということですし、対立物の「風で波立った水面のような心」というのは「心が波立つ」とか「心がざわめく」という日本語の表現が歴史的にあるように「ああ、あのことね」と多くの人が経験的に共感できるものですよ。
「ざわめく」というのは漢字では「騒めく」と書きますけど「うるさい」「騒々しい」ということですし、英語では「ノイズ」、換言すると「雑念」とも言います。要するに「不必要な、余計な心」ということでもありますね。
「一心不乱」という言葉もありますが心が「平らでは無い」ということは「乱れている」ということでもあります。
これは初体験のことに緊張して意識的にゆっくり行うこととは全然別のことで、南郷先生は「平常心と非・平常心」の話しを「意識的と無意識的」の話しに錯乱させているのだと思いますね。
要するに「論理的な能力に欠ける」というか「短絡的」というか、話しが「粗雑」であるために日本語として形成されてきている文化の体系性を理解できていないのでしょう。
「心が平(たい)らである」とか「安らぎ」といったことが「感情像」として「絶対知」で理解できないからこそ「非常心」という「いつもの心に非ず」という「いつもの心って何?いつも落ち着いてる人と、いつも神経質な人といるけど?」という「相対知」に留まって回答が不明瞭になるのでしょうね。
「たいらな心」「まあるい心」が理解できていなくて「日常の」「非日常の」という「護身術を用いる万が一の場合」に話しをすり替えているからこそ、避難訓練などの「非日常的な火災」などの場合に「慌てず、落ち着いて」という心の持ちように考えが及ばないのでしょうね。
平らなココロ等はありえない!
心はコロコロ変化・運動が常態である。
この「平らな」心とは、平常な運動=言うなれば、その人の既に常に慣れ親しんだココロの変化・運動性(質)事。
例えるなら、現代の私達の地球の自転・公転…のような規則正しい四季の変化・体感不能な地球の動き…
動いているのに実感ないココロ…常に変化・運動しているのに実感ない心…
既に常に慣れ親しんでいる変化・運動性の範囲内であるから…
それに比して、非常心とは、全く親しみ・慣れも無く…
全くコントロール不能なココロの劇的・無軌道的な変化・運動の発生の事。
例えば、過去に全く体験した事のない大きな悲しみ・怒り・苦痛・苦しみ…の結果、その時点でのアタマが、そのココロの感情・変化・運動性を全く理解できない…という非常事態が「非常心」である…と私は体感している。
パニック障害…も「非常心」と言えるだろう…ただし…そのパニックの原因が過ぎれば、再び平常心へ~
非常心の克服は、ココロの非常時でも、常に対応可能な柔軟性を頭に持たせる事。
非常心の設定とは、目的的に、非常時を想定して、訓練の繰り返しの結果の量質転化化であろう。
大地震・大火事…等を想定しての避難訓練も、非常心の設定と言えるだろう…
ただし…問題は、訓練している当人が、何処まで真剣なココロになり得るか…が問題だが…
自由びとさんは 高岡さんの本は読まないのですか?蔵書をお持ちだとか。南郷さんと比較すると かなり面白いです。認識論や技のとらえ方を 考えさせられます。最初は高岡先生もなかなかやるなと思ったのですが(まだまだ 読書の途中なのですが…) やっぱり 南郷先生のほうが秀でているとの思いが強くなっています。
弥勒さんへ
言葉と概念の違いがわからないのでは? 非常心を辞書的に理解してはダメですよ。論理的用語として 南郷先生が設定している概念的意味をとらえないとダメなんです。
第三権力も同じ。概念的把握ができていないうちに 相対的な言葉で考えるから わからないのです。ちなみに 第三権力が現れるのは近代以後であり アテネの都市国家や アジア的国家は未分化の状態であり 顕在化していないのです。これは 政治的権力という概念が把握できていないかぎり わかりません。そして 政治的権力がわかるには 政治とは何か 権力とは何か 近代とは何か 前近代とは何か アテネの民主主義の本質 アジア的国家の本質などなど 一つ一つ概念化していかないとわからないのです。
>・コメント
>自由びとさん こんにちは
>自由びとさんは 高岡さんの本は読まないのですか?蔵書をお持ちだとか。南郷さんと比較すると かなり面白いです。認識論や技のとらえ方を 考えさせられます。最初は高岡先生もなかなかやるなと思ったのですが(まだまだ 読書の途中なのですが…) やっぱり 南郷先生のほうが秀でているとの思いが強くなっています。
tada さん
>高岡さんの本は読まないのですか?蔵書をお持ちだとか。
高岡氏の初期の頃の「武道の名の付くモノ」、「武道の理論」シリーズと同時期の著作は、結構持っていると思います…と言うのは、
それらは、今は母の離婚後のパートナーに無料で住まわせている元母の家(今は私の持ち家)の本棚に並べてある…ので、そのように思うのですが…
過去にも何度も書きましたが…それら高岡氏の数冊の著書を読了…と言って当時は訳も分からずの終いでしたが…
その途中で自分勝手に痛感・思い込んだのが…「高橋氏は南郷継正に違いない」でした…
今度…また是非に再読したいですね…
ただ…今は、家内の遺品・漫画本遺本の「ブッタ」・手塚治虫第三巻から読み始めています。
足りない三巻分は市の図書館から借りて読み始めました
tadaさんから仏教の話を聞いて、またコメント欄の弥勒を始め…
菩薩…如来…の言葉から興味を持って本棚を見たら、その「ブッタ」を発見しました。
そこでの読み始めでした。
それが、読み・見終わったら…再度、高岡氏の本の読み始めたい…ですが…
実は、その前に再度の南郷氏の「武道講義」全集の一巻から十二巻まで読まねば…との思っていました…
その前にも小学校の図書室から借りている「ハリー・ポッターと呪いの子」の読みたいのですが…
日々の生活に追われて…なかなか実行・実読できていません…
でも、高岡氏の著書を読んだら…ここに、今の私が抱いた感想・思いを是非に書いてみたいと思っています。
で…話はかわりますが…今朝寝床の中でふっと思い…起床後に痛感した事があります。
それは、非常心・平常心・通常心・ココロにいて思い・考えていたらの事でした。
それは「概念」にいて…でした。
現代人…私もそうですが…「そのモノ・コトの概念を他人の言葉で・言葉から分かってしまっている」という事です…
しかし、南郷氏のように独力で対象の概念化をできた時には、その<概念≠言語>であり、<概念=対象の概ね認識>なのです。
その概念を言語化するには、「新たな言語を創造する必要がある!」という非常事態発生です。
だから、南郷氏は「世界的発見がある!」公言していても…
キットその概念の言語化に苦労しているのでしょうね…という事なのです。
他人の言葉を使って、その概念の表現も可能ですが…
その場合は、他人の・その言葉の概念の範囲内での、その新たな概念の解説となり、
なかなか他人に「その新たに深化した概念」を理解・理会してもらえない…非常事態となり得ます。
さて…全く話は変わりますが…
ここ最近、愛柴犬マロンの食欲が旺盛なのです。
それと呼応している訳ではないのですが…私の食欲も旺盛なのです…
そして、全く関連しない事なのに、昨日、突然に非常的な、家内のいない私ひとりのな淋しさ・悲しさ…の痛感でした。
そこで、思ったのは、「これは季節の変わり目の変化の結果なのでは?」でした。
過去の私は、毎年ではありませんが…その年によって冬から春へ、夏から秋へ…
の季節の変わり目に、精神的というか心の変動が激しく…
訳も分からない不安・淋しさ…異常心…に見舞われる事が度々ありました。
でも…そんな非常心・異常心も…慣れてくると「アタマで、今年もまた来たか!」と悟り…それなり対応が可能なのです。
それは、環境・現実・周囲の大変化・異常ではなく、単なる気候・気温…の自然環境の変化であり、
「特に自己の身体へ直接的な打撃・危機感はなし」で終了なのです。
「ココロの変動が異常・非常」でも、「身体的には無害!」、
「アタマの安全確認=ココロの安心・安堵」という事なのでしょうね♪♪♪
特に自問自答するわけでもないのですが、ここでコメントを書くと私の中で何やら閃くものがあるのですね。1%の閃きと99%の汗、みたいな(笑)。
tada氏への第三権力についてのコメントで古代ギリシアの民主政について書いてから弓削達さんや橋場弦さんの本を書いましてね、古代ギリシアの民主政について知っていくに従って大きな知的喜びが溢れてきました。
自由びと氏へのコメントでも「平常心の《平》」に気づいたことは有益でした。平和、平気、平定、平城京、平安京、平らげる、平地、平氏etc. 日本人の文化に「平」という認識は大きなものとして根づいています。
この日本文化の「平」は当然に中国から入ってきたものでしょうけれど、少し調べたところでは史記や書経にあるみたいですね、「平成」の由来となった「平」ということが。
そこから四大河文明の黄河文明から日本人への系譜が想像され、また楽しいものでしたが、さてインダス文明系ではないのか?との疑問もまた湧いてきます。
メソポタミア文明からギリシアへの移行も楽しいものでしたが、「思考」という大脳皮質が大きく果たす活動は霊長類からかも知れませんけど「心」は哺乳類からなんて説もあるようですね。
心が痛むとどうして胸が痛く苦しくなるのか?それはストレスから交感神経が働かされて心臓の拍動を高めるのと関係がありそうです。自分で自律神経をコントロールすることが出来るならば「平らな心」を得ることが出来るように思われますね。
マインドフルネスを行う僧侶のように。
>言葉と概念の違いがわからないのでは? 非常心を辞書的に理解してはダメですよ。論理的用語として 南郷先生が設定している概念的意味をとらえないとダメなんです。
第三権力も同じ。概念的把握ができていないうちに 相対的な言葉で考えるから わからないのです。
そうなのです!
非常心が分かるには「ココロの概念化」が必要なのです。
先ほど、ネットの生成AIで「心」を検索したら…
結論は「まだ…よく分かっていない」でした。
だから…私は頭脳を粘土に例えて以下のように考えました。
以前は「紙粘土」に例えて考えていましたが…
それは間違いであり、自然界の粘土に例えるのが賢明だという事に気付きました。
紙粘土は、人為・人工的な創造物。
粘土は、自然界の粘土であり岩からの始まりですね…
粘土に刺激を加えて、こねくり回す事で柔軟性を付ける時、
その「こねくり回し方・刺激をアタマ・知識」、
その「柔らかくなった結果の柔軟性をココロ・感情」
人間の頭脳は。直接にこねくり回しは不可能です。
だから、その対象と他人の概念・言葉を元に関わり、対象をこねくり回す事で、間接的に己の頭脳のこねくり回し…が必要なのです。
このココロ・感情の柔軟性に弁証法を適応して、
自然的・社会的・精神的な生々・生々・発展・衰退・消滅…的な学問的レベルの弁証法性を持たせる事…
弓削達さんや橋場弦さんの本は全然スリリングで面白いですから。
面白くない学問に存在意義はないと思います。
高岡さんの本。私が読んでいるのも初期の10冊ぐらいです。自由びとさんと語りあう日を待っていますね。手塚治虫先生のブッタ。私も若い時に読んでいます。全巻の表紙を並べるとまた感動ですね。手塚先生についても少し語りたいですね。ところで 弥勒さんのことですが どうやら 彼には本質論がわからないようです。不可知論者です。簡単に言えば 経験実感主義者と言えるでしょう。だから経験を知性と勘違いでき 感情像を絶対知と言える。こういう人は 思想や自分がないから ニヒリズムに陥るのです。文章に虚無感を感じるのは ニヒリズムだからです。他者に対してのうそや中傷を平気で書くのは ニヒリズムからの自暴自棄の現れです。南郷先生や滝村先生の足を引っぱり 引きずり降ろそうとする姿勢に 当初 劣等感からのルサンチマンを感じていたのですが 彼には劣等感すらなく 恥も外聞もない。ある意味 無敵の男なのです。kuwabara kuwabara 。
それで確かに近代以降に社会権力から政治権力が独立してなんてことが書いてあり、国家権力はなんとかかんとかの政治権力である、なんてことが書いてあります。
ようするに権力つまりは誰かがこうしろと命令したなら他者が従わなければならない意志の関係の中には、何とか権力と何とか権力と何とか権力といった複数の種類のものがあり、その中の一つに政治的権力というのがあるという構図は読み取れるんですよ。
良くは理解できませんけど、これはヘーゲルが国家と市民社会とを区別した、フランス革命で既存の王朝をブルジョアジーが倒したことを「倒した側と倒された側」というザックリした区別を「国家と社会」と区別したことから来るんですかね?
ですが、社会ソーシャルという概念がそもそも人間が協力して生きていく関係を指すものだと思いますし、政治に関わる人間たちの中にも生活していくための収入・お金の動きがあるわけですから、そこに働く命令系を社会権力でも経済権力でも無いと考えるのは理解できませんね。
権力machtというものは様々な組織の内外にあると思いますけど、法令で「政治的権力」といったなら「国家や地方自治体が統治する権力」だということですから、第三なのか第四なのか分かりませんけど国会だとか内閣で決まったことを国民に従わせるのが国家権力で、会社の重役会議で決まったことを社員に従わせるのが社長の権力だとか、そんなイメージですかね?
社会権力からの国家権力・政治権力の分離・独立という事実が知識不足なのか分かりませんね。何となく近代になってブルジョアジーの台頭というか、経済力を得たことで政治的な発言力をも得た人が沢山いたイメージですし、政財官の癒着というか独立してないのが自然な気もしますしね。
どっちにしても第三権力という考えは滝村先生がエンゲルスから貰ってきた発想で政治学や国家論の世界で一般的な考えではないのでしょうから私が第三権力なんて考えなくても構わないのだと考えますね。
自由びと氏が「非常事態」なんて言葉を使っていましたけど、どういう考えが表現された言語かということを私は大事にしますから、非常事態というのは単に普段と違うというわけで例えばコロナで政府が店を早く閉めろとか客と客とのソーシャルディスタンスを2m以上とれとか命令してくるなんてのは普段はないわけですからその意味で非常ではありますが、それに対して「緊急事態」という別の言葉もありますよね。それはまた、全然別の意味合いを感じさせますけど、どちらにしても「コロナでパンデミック、全世界的に死者が出ている」なんて具体性が出てくると単なる「非常事態」だとか「非常心」なんて言葉が不必要なくらいの危機意識が湧きますでしょう?
それと同じで私は滝村先生の文体も非常に馴染みにくいと感じてますけどね。