言葉・言語について~
改めて書く事ではないが…
辞書の載っている言葉・言語の意味・解説は社会的・共通のモノ。
でも、特定の個人が発している・書いている言葉・言語は、その特定の個人の認識の表現である。
その個人が、辞書的な意味・解説を踏まえての言葉・言語での表現なのか?
顕著な例が、カタカナ語である。カタカナ表記の言葉は、外来語である。
しかしもその元の英語の意味とは異なっている事が多い。
それは、例えば以下のように~
>英語の「Tension」は「緊張状態や張力」を意味し、国際関係のニュースや政治問題で使われることが一般的です。一方、日本語の「テンション」は「ハイテンション」や「テンションが上がらない」など、気持ちや気分を表す意味で使われます。
>「テンションが高い」を英語で「High tension」と表現することはできません。英語の「Tension」は緊張や不安を意味するため、「High tension」と言うと、緊張が高まっていることを意味してしまいます。
>「テンションがあがる」は英語では「get excited」や「be pumped up」などで表現することができます。
また例えば~
漢字の「手紙」は、日本語では「てがみ」であるが…中国語では、「ちり紙」の事である。
それらは、ある言語が、同じ文字表記であっても、
その「言語表記の対象が異なっている為に、結果的に同じ言語表記なのに、その概念が違っている」、という事である。
例えば、南郷氏の弁証法は、「重層弁証法」。でも、三浦氏の弁証法の三法則は「単層弁証法」。
また…同じ言語表記でも、一般常識としての概念、その個人が概念化したその言語表記対象の概念も異なり得る。
A君とB君が、大喧嘩した!一般的には、「喧嘩」したんた゛!
でも、それを見ていたC君は、彼らが、殴り合って血を流している姿を伝えようとしたかったのかも…
弁証法用語としての「対立物の統一」や「二重化」も然り…
一般的な「対立物」と弁証法用語としての「対立物」の相違。
一般的な「統一」と弁証法用語としての「統一」の相違。
そこから弁証法用語である弁証法的な「対立物の統一」とは?
二重化についてなら、一般的には、「自分である私自身は自分であり私自身」である。
でも、心理学では、以下のように、自分は「自我」と「自己」に二重化している。
>心理学では、自我とは「自分が考える自分」であり、自己とは「他者との関係のなかにある自分」という違いがあります。
「自我の目覚め」とは、自分が他人とは異なる「かけがえのない存在」であることを認識することであり、アイデンティティ確立のための不可欠の要素です。
>自我は偽物の自分、真我は本当の自分とも言われています。真我は、あらゆる苦しみから抜け出しとても穏やかな状態と言われています。
>「自己」は抽象的なものに用いられますが、「己」は具体的な物や抽象的なものどちらの場合にも使われます。また、「己」は「自己」と同じ意味ですが、日常会話ではほとんど使われず、ことわざなどに使われます。
>「己」は「おのれ」であり、自分のことを指します。語源は曲がりくねった糸の象形で、糸の先端を表わすところから「はじめ」という意味を表わした指事字で、「紀」の本字です。今は「自己」というように使われていますが、これは仮借です。
>「自己」は自分が自分に向き合うことを指し、「他己」は他者を援用して自分に向き合うことを指します。
「自我と真我」と「自己と他己」とは、二重化の極致かね…
>自我は偽物の自分、真我は本当の自分とも言われています。
「自我は、自分は自分・他人は他人・自分vs他人」~
「真我は、自分も他人も自然の部分そのもの全体的・一体的」
「自己は自然の一部・他己も自然の一部」
「自己+他己=自然界」
でも…弁証法的に考えるなら、人間の誕生時には「自分・自我・自己」そんなモノ・認識はない。
それらの認識は、生後の生活・発育・成長…過程で生々・生成されていくモノと捉える。
弁証法は、眼前の対象を変化・運動するモノ・運動体として捉える、法則化する方法。
しかし…問題がある!
我々の眼前の対象は、変化・運動した結果のモノ・コトである。
今私が視ているテレビは、テレビの所持している機能で「サンデーモーニング」を映している。
それは、テレビの機能としての変化・運動であるが…
しかし、それは、テレビの中の機器類の変化・運動とは、大きく異なっている。
どんなに「サンデーモーニング」を確り見ていても…そのテレビ内の変化・運動は、見て取れない。
だからと言って、そこで、テレビを分解して、中を見ても…素人の私には、その運動・変化は理解不能である。
私は特に知りたくはないが…仮にそのようなテレビ機器類の運動知りたいなら、専門家の著書やテレビの製造工場へ見学となろう。
または、市販されているならば、…テレビ組み立てキットを作ってみる…
ここに飽きもせずに度々コメントを寄越しているお宅は、色々と物知りであるようだが…
現在の、このお宅は、「滝村国家論」に興味・関心がある、ようだが…
まあ~「好きこそものの上手なれ」だから…喜ばしい事であるが…
このお宅は、「滝村国家論」を熟知したいのか?
それとも、「滝村国家論」を足掛かりにして「国家」というモノを熟知したいのか?
それとも、単なる「暇つぶし」で自分の「好きな知識収集」をしたいのか?
自己の目的意識によって、その対象・著書・言語の理解の仕方も当然に異なってくるだろうに…
このお宅は、言葉・言語・表記の拘るあまり、その言葉・言語の示している対象の姿を見て取れなくなって、しまっている…ようだ!
別言するなら、その人の言葉の意味は理解できても、
その人の認識は、分からない・理解できない…
感情のない言葉・知識が豊富すぎるから?
相手の感情を感じ取れないから?
相手の立場に立てないから?
相手に二重化できていないから?
相手を馬鹿にしているから?
自分は有能・相手は無能たと思い込んでいるから?
改めて書く事ではないが…
辞書の載っている言葉・言語の意味・解説は社会的・共通のモノ。
でも、特定の個人が発している・書いている言葉・言語は、その特定の個人の認識の表現である。
その個人が、辞書的な意味・解説を踏まえての言葉・言語での表現なのか?
顕著な例が、カタカナ語である。カタカナ表記の言葉は、外来語である。
しかしもその元の英語の意味とは異なっている事が多い。
それは、例えば以下のように~
>英語の「Tension」は「緊張状態や張力」を意味し、国際関係のニュースや政治問題で使われることが一般的です。一方、日本語の「テンション」は「ハイテンション」や「テンションが上がらない」など、気持ちや気分を表す意味で使われます。
>「テンションが高い」を英語で「High tension」と表現することはできません。英語の「Tension」は緊張や不安を意味するため、「High tension」と言うと、緊張が高まっていることを意味してしまいます。
>「テンションがあがる」は英語では「get excited」や「be pumped up」などで表現することができます。
また例えば~
漢字の「手紙」は、日本語では「てがみ」であるが…中国語では、「ちり紙」の事である。
それらは、ある言語が、同じ文字表記であっても、
その「言語表記の対象が異なっている為に、結果的に同じ言語表記なのに、その概念が違っている」、という事である。
例えば、南郷氏の弁証法は、「重層弁証法」。でも、三浦氏の弁証法の三法則は「単層弁証法」。
また…同じ言語表記でも、一般常識としての概念、その個人が概念化したその言語表記対象の概念も異なり得る。
A君とB君が、大喧嘩した!一般的には、「喧嘩」したんた゛!
でも、それを見ていたC君は、彼らが、殴り合って血を流している姿を伝えようとしたかったのかも…
弁証法用語としての「対立物の統一」や「二重化」も然り…
一般的な「対立物」と弁証法用語としての「対立物」の相違。
一般的な「統一」と弁証法用語としての「統一」の相違。
そこから弁証法用語である弁証法的な「対立物の統一」とは?
二重化についてなら、一般的には、「自分である私自身は自分であり私自身」である。
でも、心理学では、以下のように、自分は「自我」と「自己」に二重化している。
>心理学では、自我とは「自分が考える自分」であり、自己とは「他者との関係のなかにある自分」という違いがあります。
「自我の目覚め」とは、自分が他人とは異なる「かけがえのない存在」であることを認識することであり、アイデンティティ確立のための不可欠の要素です。
>自我は偽物の自分、真我は本当の自分とも言われています。真我は、あらゆる苦しみから抜け出しとても穏やかな状態と言われています。
>「自己」は抽象的なものに用いられますが、「己」は具体的な物や抽象的なものどちらの場合にも使われます。また、「己」は「自己」と同じ意味ですが、日常会話ではほとんど使われず、ことわざなどに使われます。
>「己」は「おのれ」であり、自分のことを指します。語源は曲がりくねった糸の象形で、糸の先端を表わすところから「はじめ」という意味を表わした指事字で、「紀」の本字です。今は「自己」というように使われていますが、これは仮借です。
>「自己」は自分が自分に向き合うことを指し、「他己」は他者を援用して自分に向き合うことを指します。
「自我と真我」と「自己と他己」とは、二重化の極致かね…
>自我は偽物の自分、真我は本当の自分とも言われています。
「自我は、自分は自分・他人は他人・自分vs他人」~
「真我は、自分も他人も自然の部分そのもの全体的・一体的」
「自己は自然の一部・他己も自然の一部」
「自己+他己=自然界」
でも…弁証法的に考えるなら、人間の誕生時には「自分・自我・自己」そんなモノ・認識はない。
それらの認識は、生後の生活・発育・成長…過程で生々・生成されていくモノと捉える。
弁証法は、眼前の対象を変化・運動するモノ・運動体として捉える、法則化する方法。
しかし…問題がある!
我々の眼前の対象は、変化・運動した結果のモノ・コトである。
今私が視ているテレビは、テレビの所持している機能で「サンデーモーニング」を映している。
それは、テレビの機能としての変化・運動であるが…
しかし、それは、テレビの中の機器類の変化・運動とは、大きく異なっている。
どんなに「サンデーモーニング」を確り見ていても…そのテレビ内の変化・運動は、見て取れない。
だからと言って、そこで、テレビを分解して、中を見ても…素人の私には、その運動・変化は理解不能である。
私は特に知りたくはないが…仮にそのようなテレビ機器類の運動知りたいなら、専門家の著書やテレビの製造工場へ見学となろう。
または、市販されているならば、…テレビ組み立てキットを作ってみる…
ここに飽きもせずに度々コメントを寄越しているお宅は、色々と物知りであるようだが…
現在の、このお宅は、「滝村国家論」に興味・関心がある、ようだが…
まあ~「好きこそものの上手なれ」だから…喜ばしい事であるが…
このお宅は、「滝村国家論」を熟知したいのか?
それとも、「滝村国家論」を足掛かりにして「国家」というモノを熟知したいのか?
それとも、単なる「暇つぶし」で自分の「好きな知識収集」をしたいのか?
自己の目的意識によって、その対象・著書・言語の理解の仕方も当然に異なってくるだろうに…
このお宅は、言葉・言語・表記の拘るあまり、その言葉・言語の示している対象の姿を見て取れなくなって、しまっている…ようだ!
別言するなら、その人の言葉の意味は理解できても、
その人の認識は、分からない・理解できない…
感情のない言葉・知識が豊富すぎるから?
相手の感情を感じ取れないから?
相手の立場に立てないから?
相手に二重化できていないから?
相手を馬鹿にしているから?
自分は有能・相手は無能たと思い込んでいるから?
そして、「本質を掴む能力の欠如」であり、学問を希求する者たちの怒りを私が代弁することなんでしょうかね?
>弥勒
>・コメント
>この自由びと氏の記述を読んで、第一に思うことは「論理性の欠如」、それも「学的論理性の欠如」ですよ。
>そして、「本質を掴む能力の欠如」であり、学問を希求する者たちの怒りを私が代弁することなんでしょうかね?
↑~いや~!
>「論理性の欠如」それも「学的論理性の欠如」<ですか?
↑
実に興味・関心なる言葉!面白いですね。
言い変えるなら、「お前は馬鹿だ!」そう「大バカ者だ!」と、その「馬鹿な訳・理由」の説明なく、言い切っている形でかんね…
そもそも…「論理性とは?」
例えば、「泥棒の論理・論理性」と「警官の論理・論理性」が、同じでしょうか?
当然に、学問・哲学的一般レベルでの一致はあり得ますが…
それでも、現実レベル・事実レベルの論理・論理性でも不一致もあり得ます。
お宅には、全く理解不能な事は、どんな人にも、その人的・レベルの論理性があるのです。
それが無ければ、社会でまともに生活不能ですよ!
また、学問にしても、観念論・唯物論では、その学的論理・論理性に相違が生じてしまいます…
そもそも、「学問」とは、学び問う」モノですから、誰もが「学び」・「問うて」いるなら、それは、その人の学問なのです。
だから、他人から直接に「学問」は学べません。
学べるのは、「その人物的な学問の創出方法」なのです。
お宅には、他人の記述・言葉の中に、「学問」・「学問的論理」・「学問的論理性」を見て取る実力はない、ようですね…
真の学者なら、全ての人間の言動の中に、その人レベルの論理・論理性の発見が可能ですよ。
そして、時に、その論理・論理性が、自己に不足している事さえ、分かる者ですよ。
上記の短いコメントは、正に「こうお宅」の未熟さ・独りよがりさ…認識が顕著に表現されていますね。
もっとも…そんなお宅のコメントを書かせている自由びと記述・認識にも、問題があるのですが…
「自分・自己・自我的な感情的流れを、他者でも分かり得る「社会的な流れ論理的」な記述に出来ていない問題が…
だから、分かる人達・分かって頂ける人達には、分かってもらえても…
分からない人達を、分からせる実力はまだない!のですね。
まだ生きてますからね、死ぬまで人生の過程ですね。
>どんな人にも、その人的・レベルの論理性があるのです。
自由びと氏の自由びと氏的な個性的考えを否定するつもりはありませんね。個々人がどんな考えを持とうとも、他者に迷惑にならなければ全くOKな話しで、他者が「こう考えろ!」などと強要する話しではありませんからね。
因みに「構造主義人類学者」として歴史に名を残しているレヴィ=ストロースなんかは未開人の研究をして、それを「野生の思考」「構造」だと言ってますね。「未開人にも論理がある」とは言わずにね。
近代西洋的な論理性を持ってはいないけれど、コレの右にはコレ、左にはコレ、みたいな定まった構造を持っていることが、全体としての秩序性を維持している、ということへの評価なんでしょうか?
現実世界では、自由びと氏の言うような(理想的な?)現実社会で働く全ての人が論理的な考えを持っているのではなく、下の人間は言われた通りに働いてくれれば良い、何がどうなのかを判断できる情報を与えられないのが通常ですね。
そんな「石の上にも三年」を耐え切れた者だけに「認定証」の如くに与えられるのが「職場の論理的な繋がり」なのかも知れませんけどね。
自由びとにしろtadaにしろ、碌な話しをしていないなと感じるのは、長年の人生修行を経てきた私の特殊性なんでしょうか?
>弥勒
>コメント
>>まだまだ途中なのですね…
>まだ生きてますからね、死ぬまで人生の過程ですね。
↑
この「までまだ途中」が、「死ぬまで人生の過程」とは、誰もの持ち得る事実であり当然なのです。
なので「自由びとの『まだまだと途中』とは、「まだまだ悟り・悟得への道程・途中」のであり、。
自由びとの「悟り・悟得」とは、自由を悟り・自由の境地を悟得、といったモノですね。
>>どんな人にも、その人的・レベルの論理性があるのです。
>自由びと氏の自由びと氏的な個性的考えを否定するつもりはありませんね。個々人がどんな考えを持とうとも、他者に迷惑にならなければ全くOKな話しで、他者が「こう考えろ!」などと強要する話しではありませんからね。
↑
あれ!あれ!
「個人がどのように考えを持とうと…OK…」書きながら、
お宅は、自由びとに、お宅の<「…強要する話ではありません」…という思い考え>を「強要」していますね。
そもそも…お宅が、この自由びとブログに、ブログ主に求められてもいないのに…
ブログ主に対しての反論・異論を書き込む時点で、それはブログ主への反論・異論を強要…とも思い・考えられますが…
>因みに「構造主義人類学者」として歴史に名を残しているレヴィ=ストロースなんかは未開人の研究をして、それを「野生の思考」「構造」だと言ってますね。「未開人にも論理がある」とは言わずにね。
↑
「論理とは、目的意識も抱いて、対象に筋道を通そうとする」事。
「未開人に論理がある」か・否かは、彼らが、「自己の目的を意識」しているか否か、でしょうね。
まぐれ的な行動様式の繰り返しは習慣であり、そこに我々が「論理性を見て取れたとしても」、それを論理とは言い難い、です。
>近代西洋的な論理性を持ってはいないけれど、コレの右にはコレ、左にはコレ、みたいな定まった構造を持っていることが、全体としての秩序性を維持している、ということへの評価なんでしょうか?
↑
上記のような事は、単なる習慣・慣習的なモノであり…
そこには、「コレ・ソレ」や「右・左」といった概念もないのでしょうね…
>現実世界では、自由びと氏の言うような(理想的な?)現実社会で働く全ての人が論理的な考えを持っているのではなく、下の人間は言われた通りに働いてくれれば良い、何がどうなのかを判断できる情報を与えられないのが通常ですね。
↑
ほ・ほ~↑これがお宅の「通常」
ならば、私は、そのような「お宅の通常」・情報を与えられていない状況」に、当人が満足・不満足かの問題だと捉えます。
「学問とは、自ら学び自ら問う」モノ…
なのに自己の現実・仕事・労働に対しての情報がなく、不満に思わない者に「学問」はありえませんね。
>そんな「石の上にも三年」を耐え切れた者だけに「認定証」の如くに与えられるのが「職場の論理的な繋がり」なのかも知れませんけどね。
「石の上に(黙って働いているだけ)も三年」なら「石の上に(働きながら自ら思い・考え学び問い続ける)のも三年」~
さてさて、これらの結果の相違如何?
どちらが「学問」的ですかね…
学問とは、論文を書き、発表する事だけ、なのではなく…
その生き自体が「学問」的である事の方が、重要なのでは?
>自由びとにしろtadaにしろ、碌な話しをしていないなと感じるのは、長年の人生修行を経てきた私の特殊性なんでしょうか?
↑
お宅が「碌な話しをしていない」と感じるのは、
お宅が「自由びと・tada」言説に、有意義なモノを読み取れない、からですよ。
「金」を求めて発掘する人間は、石ころの中「金」を発できます。
「遺跡」を求めている人間は、土の中のガラクタに重要文化財を発見できます。
人間とは、「問い掛け的な実在」なのです。
ボロボロ問い掛けのお宅には、石ころの中の金やダイヤモンドは見えない!ようですね…
>弥勒
・コメント
>自由びと氏の述べていることは、やっぱり私には良く分からないですね。特段、軽視しているわけでも無いのですが、う~ん、やっぱり分からない(笑)。
>私は自由びと氏とは反対に知識というのは非常に大事なものだと思っていますから、自分だけの空っぽな頭だけでいくら考えても埒があきませんから先達の残した書物を読みますね。
↑
現実の対象と関りながら、その対象を(言語表現)化した人の知識は、言うなれば「理性・感情的なモノ」です。
その対象の「知識・言語化」をなした表現者には、その対象と関わる過程の感情の体感・記憶が知識・言語と一体化して存在しています。
でも…しかし、その知識・言語を読み取った人々には、体験者の事実的・現実的な体験を知りえても、その時々の感情は体感不能です。
このお宅には、言語・知識は嫌って程あっても、その知識・言語に付随している感情が皆無なのでしょうね…
>今回は自由びと氏が「禅問答をもっと勉強しろ」みたいなことを言っていたので京都大学の佐藤幸治さんと東京大学の恩田彰さん、どちらも心理学者ですけど、そんな本を読んでました。
↑
禅問答の本質は、その「禅問」に対しての「禅答」を体現できているか…なのです。
言葉だけでなく、身体・全身的な表現です。
そして、その「禅答」体現が、禅師の求める体感との一致・不一致が、その時の正解・不正解なのでしょう。
>佐藤さんの「禅には世界観・人生観を変える働きがある」という指摘には「う~ん!」と唸りましたよ。仏教・禅の世界観はキリスト教にも通じる愛やヒューマニズムであって、それが心の真に深いところからの安堵感をもたらすという話しは、心理士の行う「スキーマ療法」に通じるものがあると感じました。つまりは「一切衆生の恩を感じる」というわけで、それは私も理解できます。
↑
「…指摘・言葉」に「唸りました」…か?
では、聞きます…現代社会で、どれだけの一般人が「禅で自己の世界観・人生観」を変えられたのですか?
その現実をお宅は、目の当たりに、見たのですか?or聞いたのですか?
見もしない・聞きもしないのに…
ただ他人の、その言葉だけに「唸っている」のですか?
それって、唸りが感情的ではなく、知識的な唸り、になっていますね。
ある人が、世界観が人生観を変えた事実に「唸る」のではなく、
「世界観が人生観を変えた」という言葉に、唸っている、という事ですね。
そもそも…
本当に「禅的世界観で自己の人生観を変えられた人が」、この指摘を聞いたら「唸る」てはなく、「同感・共感」と感じる筈ですね。
>恩田さんの禅と創造性に関する研究も非常に刺激的なものですね。
>私にとって本を読むことは、自由びと氏の言うレクリエーションであり、正に「最高の娯楽の一つ」ですから、これはやはり人間として生まれてきた喜びを感じる瞬間ですね。
↑
それも一つの書籍の読み方でしょうね。
でも、そのように読書法で学問になり得るモノでしょうか?…それは疑問ですね!