新・悟りを求めて~

自由が故に退屈化し得る現代社会での日々へ、
新たな刺激を与えるべく、新たにブログ開設を…

続・全体と部分の問題~

2023-08-28 12:10:17 | ~ものは考えよう~



全体と部分の本質について…


単細胞体は、一つで全体(生命体として全体)。
カイメン体は、単細胞が集まって全体。
ただ…単細胞の更なる分解も可能。
ただし、それ以下の分解では非生命体化してしまい、生命体の本質を離れてしまう…


単細胞体は、単細胞の本質=単細胞体の本質。
カイメン体では、単細胞の本質が集まって量質転化してカイメン体の本質。
単細胞の本質≠カイメンの本質


では、人間・人体は、どうなのだろうか?

多くの細胞が集まって、頭脳、神経組織、感覚器官、内臓、骨、筋肉…から構成されている。
それらが、頭脳によって総括・統括されて、人間として生活している。

ここには、単細胞としての本質があり、
また、多細胞から構成された、頭脳、神経組織、感覚器官、内臓、骨、筋肉…のそれぞれの本質があり、最後に、人間としての本質、が考えられる。

そう、本質とは事実してある、のではなく、論理として人間が見て取るモノ。

全体には、部分があり、その部分の一つ一つもまた全体として見て取る事が可能。
より正確には、全体の本質を見て取る事も可能なら、部分・部分の本質も見て取る事が可能。
部分が集まって全体なら、集まっている一つ一つの部分も全体と捉えられる。

もっとも…それは、現代の人類だから言える事で、
過去の人類にとっては、部分は部分で、全体は全体であったのだろう。

本質の二重性⇒、実体的な本質・機能的な本質。
合わせて、本質的な本質。

↑のように考えられるのは、人間の本質的な特性であろうか…

それは人間の頭脳には、「実体的な頭脳細胞の本質」と「機能的な頭脳活動・認識の本質」があるからだろう。
人間だけが、対象の二重化が可能なのは、人間には「本能的な認識と非本能的な認識」があるから…

オマケを書こう!

ピンチはチャンス⇒ ピンチ=チャンス。
ピンチがチャンス⇒ ピンチこそがチャンス。
ピンチをチャンス⇒ ピンチをチャンスに換える。

上記のような言い回しが可能である。
これが可能なのは、「ピンチ」と「チャンス」の本質が同じだから…であろう。
それは、人間が、「ある事・ある状態」を「ピンチorチャンス」と認識している、から、である。


なので、ある一つの事実(ある事・ある状態)を、ピンチと認識するもチャンスと認識するも、その人の自由選択である。


例えば、野球の9回裏で、二死満塁で、
バッターが2ストライク・3ボールの状態を「チャンスorピンチ」?

攻撃側は、ワンヒットで勝利(チャンス)、一回限りのチャンス(ピンチ)…
守備側は、ストライク一本で勝利(チャンス)、ボール一球で敗北(ピンチ)

「ピンチ・チャンス」のそれぞれの言葉・意味・認識としての本質は異なっていても、
そのように解釈している対象・事実は、同じモノ物事という事もあり得る(本質)。


上記の後半の「オマケ」部分は、↓以下のtada氏の以下の言説を意識して書いてみた!

>「ピンチはチャンスのコメント読ませていただきました。ピンチからの(主体的な)脱出ですね。面白いです。映画「ショーシャンクの空」を思い出しました。主人公アンディ・デュフレーンは私のヒーローです。原作はスティーブン・キングですが この作品は本歌取りで 元歌 つまりモデルがあるんですね。答えは次回ですよ。(笑) 」


「答えは次回…」を期待していますよtadaさん!



また、↑の
「ピンチからの(主体的な)脱出」という言葉…なかなか意味深の言葉ですね♪♪♪
tadaさんの認識・表現力に改めて感激しています。
もっとも…その能力を読み取れる私になり得た事への感激でもありますが…



前半部分は、以下の記述を意識して書きましたが…

>「思考方法としては 演繹的方法が哲学的です。帰納的方法が科学的です。が 実際は両方が複雑に関連しています。煎じて詰まれば 弁証法になります。全体と部分について それぞれの本質論は実際の対象次第で決まりますので 全体と部分が同じ場合もあれば 違う場合もあるわけです。」

どうですか?tadaさん!

私の今回の記事・内容は、tadaさん認識に近似的になりえていますか?近づいていますか?


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35 コメント

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Unknown (空海)
2023-09-09 06:56:47
秦河勝にしろ小野妹子にしろ物部守屋や蘇我馬子にしろ単なる個人ではなく、それぞれの地域を支配していた豪族なわけで、
聖徳太子を含めた天皇家の「国家権力」というのは、その豪族と豪族との間に入っていく、諫言するならば《豪族-間-権力》なわけで、支配されている地方の農民だとかは別に関係ないんだと思います。地域の豪族たちが言わば《地方自治》的に支配していたのでしょうから。

その意味で《第三権力》という言葉を使うならば、この《第三》というのは決して「豪族-農民-間権力」ではなく、「物部-秦-間権力」だとか「蘇我-小野-間権力」ということになり、そこから《国家の生成》というのを改めて考えたなら、うーん、色々と見えてきますね。
返信する
Unknown (空海)
2023-09-09 06:36:37
いまだ何となく腑に落ちぬ《第三権力》という観点ですが、歴史上の具体的な事例で考えることによって色々と見えてくるものがあると思います。

エンゲルスの説いた?「支配者と被支配者との間に立った」という《結果的な?》ものではなく、滝村先生も説いているような「国家の生成」という過程を見ると《第三の》ということも見えてくるようです。

そこで私が想起したのは聖徳太子の《冠位十二階》だとか徳川家康の《幕藩体制》だとかでした。
これは「支配者と被支配者との間に立つ」のではなく、「それぞれバラバラに存在している各支配者たちに序列をつける」ということで、
聖徳太子が丁未の乱で物部守屋らを滅ぼしたときに功績のあった秦河勝を《冠位十二階》の「大仁」にしたといったことや、
徳川家康が関ヶ原の戦いの後に《幕藩体制》として日本全国の大名を「親藩、譜代、外様」といった序列で区別したといったことだと考えますね。

丁未の乱で聖徳太子に経済的な支援をして共に戦った秦河勝の「大仁」よりも、遣隋使を果たした小野妹子の「大徳」のほうが上ですから、その「組織化」というか「上下の序列」が国家としての秩序の形成だと考えることも出来ます。

tadaさん、如何ですか?
返信する
Unknown (tada)
2023-09-08 22:35:36
空海さん 残念でした。滝村先生の考えを理解することは無理なようですね。生前の滝村先生が相手にしなかった理由がよくわかりました。
返信する
Unknown (空海)
2023-09-08 11:49:54
tadaさんの導きによって《第三権力》というものへの関心が生じましたが、どうもそれは歴史的事実にそぐわないようです。

滝村先生が三権分立の中でも特に司法に関心があったらしいとのことから日本の法務庁のサイトを開いてみたところ「公正な」とか「第三者の立場で」といった記載があり、そこにどうも「支配者と被支配者との間に入る第三の権力」という理念に通じる考えがあると感じたものの、

弁護士さんが発信している「戦前の《天皇のための裁判》」は警察や検察が拷問したりの不公正なもので、それは全くの《支配者の権力》であり、どこに第三の権力があったのかは良く分からぬところです。

資本家側に対する労働者側の待遇改善も第三権力によってというよりもストライキや労働組合などの労働者たちの運動が資本家側に条件をある程度は飲まなければ自分が追い詰められるとの現実によって果たされてきたもので、それは嘗てのイギリスで国王に貴族階級が法による支配を認めさせて王権を制限させたのと同じことではないでしょうか?

やはりエンゲルスの時代の《第三権力》とは、アンシャンレジームの頃の第三身分であった商人=資本家が権力を握ったために起こったブルジョア権力という私の理解で正しいように思われますね。
返信する
Unknown (空海)
2023-09-08 07:42:37
>空海さん ちょっと見直しました。

そうですか、tadaさんに私がどのように映っているのかは分かりませんけど正の方向に心情が動いたのでしたら幸いですね。

>いまこそ 第三権力論を学んでください。そこに 専制から議会制民主主義・三権分立にいたる 「政治」の本質である 統一社会的契機の究極的姿が見えるのです。

滝村先生の「第三権力論」というのは何処にあるのか?と思ったんですけど、『マルクス主義国家論』の目次を見たら「第II部 マルクス主義権力論の復元と展開」の中の「市民社会論→国家論」の《国家の生成》に第三権力というのを発見しました。

元ネタはエンゲルスの『反デューリング論』なんですね。『ドイツ・イデオロギー』から記述のある、マックス・シュティルナーらの青年ヘーゲル派なんかも唱えていた「国家権力は支配者側の権力と被支配者側の権力から相対的独立な第三の権力だ」という考えだと。

私は、この考えに《弁証法的な対立関係》として、「国家権力は第三の権力ではなく、支配者側の権力」だという考えも想定してみました。これは滝村先生も述べながら、紙数の関係で今は説かないなんて書いていて。

陰謀論者なんかの考えにも通じるところがあるかも知れないけれど、田中角栄だとか安倍晋三さんだとか、金権政治と呼ばれるものだとかも、良く言ったら政財官が相対的に独立しているという、政治家には政治家の収入を得る道があるということかも知れませんけどね。
返信する
暗黙の条件設定 (自由びと)
2023-09-07 18:48:57
>・コメントを書いた人
>空海

・>コメント
>「軍歌」=歌詞+曲(リズム)
>歌詞は、戦争的なモノ、曲・リズムは精神を奮い立たせるモノ

>私は少し考えが違いましてね。曲というのはメロディ(旋律)とリズム(律動)で出来ていると思います。
リズムというのは「数学的な音の長さ」ですよ。《一小節》の長さを基準として、その《全音符》の半分の長さが《2分音符》、そのまた半分の長さが《4分音符》、そのまた半分の長さが《8分音符》、そのまた半分の長さが《16分音符》というわけで。

>ですので「小楠公=歩兵の本領=アムール虎の闘いや=玄◯の血潮」のリズム(律動)は
”タッカタン タタタン タッカタタタン タッカタン タタター タタタッカタン タッカタン タタタン タタタッカタン タンタッカ タタタン タタタッカタン”
となりますね。

>音楽(ムシカ)が数学でもあるといのは私も興味あるところですけど、この《リズム》=音の長さの変化を実際にそれ単独で表現できる楽器はドラムだとかカスタネットだとかの打楽器だと思います。

>でも、おそらくこの《リズム》が何の脈絡もなく、それ自体で人間の精神を奮い立たせることは無いのではないか?と、まあ知識が足りなくて知らないだけかも知れませんけど、私は思いますね。

>ここにメロディが加わっても、同じことで、精神が奮い立つには、精神が奮い立つような物語を聞いているとか、経験しているとか無ければ奮い立たないと私は思いますよ。

>私は以前、旧ソ連の心理学の研究をしていた時期があって、パブロフの条件反射を基礎とした「人間は生まれながらに何かに感動したり悲しんだりするようには出来ていない」という、ベルの音を聞いてヨダレを流すように条件づけされた犬のように、人間の心理を過程的に理解しようとするマルクス主義的な心理学でしたけど。

>そこから類推するに、玄◯の血潮だとかの曲(メロディにしろリズムにしろ)は、それ自体で単独に人間の精神を奮い立たせる機能は無いと思います。その曲を聴いて奮い立つようなイデオロギー教育を経ているとか、南郷先生の講義を聴いて「よし俺もやるぞ!」と意気込んだとか、飛翔隊の動きを見て奮い立ったとかの過去の経験が音楽と条件づけられて、曲を聴いたら奮い立つというパブロフの犬になるのだと考えますね。

>私の思考は自由びとさんとは異質でしょうけれど、必ず世間一般には受け入れられるものだと信じておりますけどね。



成る程ね…確かに空海お宅の書いている通りですね。
でも…上記の事は、弁証法的に考えるなら、常識レベルでしょうね。

今ここでは、玄〇会の歌も軍歌も…
赤ちゃん・幼児・子供…の体験・経験の少ない者達ではなく、若者・青年・大人が歌う場合を想定しています。
そんな者達なら、それ相応の体験・経験から、歌詞・旋律・律動…で精神的な影響が起こり得る筈です。

ただ…育った社会・体験・経験が大きく異なっていた場合は、精神の影響は違ってきます。
だから…軍歌を聞いて「高揚」する者がいれば、「悲しく」泣く者も、「怒る」者…もです。

これは、暗黙の条件設定です。
そもそも会話・コメントのやり取りには、話題の条件設定があるモノです。


また、過去の学校教育で、子供達への軍歌教育でも、子供は大人達の歌う姿から「精神・認識面」の感化を受けたのでしょう。
当然に過去の教員達も、そのような軍歌を歌わせる事で、精神面の教育をしたでしょうし…
返信する
私は身体運動の指導者ではありません! (自由びと)
2023-09-07 18:25:38
>空海

>・コメント
>自由びとさんのこのコメント欄は私自身が普段は考えていないことに気づかせて貰えているから全体的には有り難いわけですが…

>>例え…お宅に邪魔されても、私は私のやりたい事をやりたいようにやります。

>話しの流れが見えていないようですからお伝えしますけど、この話しは元々が自由びとさんが「南郷先生から夏の暑いときでも長袖を着ているように言われた」ということから始まるわけです。
>それに対してtadaさんが「それでは脳内温度が高くなり脳細胞が死滅する。年寄りにそんな事を求める南郷超人思想には惹かれない」と返した。


そうなのですか?
暑くして汗を流して「脳細胞が死滅」なら、サウナの同じですね。
サウナに入ると、「脳細胞の死滅」なんて…聞いた事ありませんよ!

そもそも…汗をかく事が「超人思想」なんて…初めて知りました。
私には、そんな大それた考えは、ありません。
半袖だと、前腕部分の涼しさと他の部分の暑さのアンバランスが嫌で「長袖を着る事にした」のです。



>それで自由びとさんが「果たして誰が炎天下での拍手・合宿を超人思想による人間破壊だと思うのだろう」となった。要するに「私がやっていることを団体外の人間にそんなこと言わせない!」というわけです。


え!それも「超人思想」てすか?
そもそも…炎天下での肉体労働者は皆「超人思想」の持ち主ですなのですね。

>ですから私は「どーぞ、自由びとさんのお好きになさって下さい。でも、団体外の人に強制的に独自のやり方をゴリ押ししないで下さい」となったわけです。


私にとつては、「超人思想」ではなく、ただの炎天下トレーニング。
夏バテ予防の為に、夏に暑さに慣れるトレーニング+体力増強トレーニングですよ。

>ですが、あらためて自由びとさんの言った「夏でも長袖でいる」ということは「南郷先生独自の、南郷先生が発見したこと」ではなく、文科省が児童の熱中症対策として国家的に発信している「暑熱馴化」の一法だと知ったんです。これは医学的・生理学的に根拠のある、徐々に暑さに身体を馴らしていくと汗をかきやすく体温が上がりにくい身体になっていくということです。

>ですからtadaさんの「脳内温度が上がり脳細胞が死滅する」という考えは違っていて、それでもそれに対して指導者側として科学的な説明が出来なかった自由びとさんは身体運動の指導者としては失格ですよ。


は?ビックリですよ!
>「自由びとさんは身体運動の指導者」ですか…
何を寝ぼけているの、空海お宅さん!
私が、いつ「身体運動を他人の指導しましたか」?してないしょ!



>自分が自分でやりたいようにやるなら構わないんですが、他人を指導する際に想定されるリスクを如何に回避するか説明できないようじゃ。


私には、誰には、真夏の長袖を勧めていませんよ。
これって、真夏の暑さ我慢比べレベルでよ!

>「誰もができることを」なんて説明になっていないというのが理解できないのは、早稲田の法学部卒という優秀な学歴を持ちながら下らん居合の本をだした◯熊さんと一緒でしょうね。


何を勝手にお宅・妄想を書き続けているの?空海お宅さん!
返信する
欲張りな弁証法 (自由びと)
2023-09-07 18:00:39
>・コメントを書いた人
>tada

>・コメント
>自由びとさん こんにちは 超人思想で盛り上がってしまいましたね。ちょっと反省。南郷先生の炎天下の砂利道修行での脳の活性化について 言及していただきたかったのですが 説明不足で 炎天下の修行そのものになって しまいました。武道やスポーツ ビジネス、政治 第一線で活躍するなら 体力つけなければいけません。どんな場所どんな状況でも勝負する必要がありますから。必要な人は 八田一朗イズム 黒崎健時イズム 木村政彦イズムです。
本当は 砂利修行で南郷先生の頭脳はダメになったと皮肉を言いたかったのです。それは 滝村先生のパソコン入力(国家論大綱)で 論理能力が落ちたと言い切ったことに対する意趣返しなのです。大体 砂利修行でよい論文が書けるわけないですよ。脳を認識の土台と考えるなら 直接鍛えるのではなく 認識自体を磨く 教養の問題です。



tadaさん コメントありがとうございます。


「砂利道修行での脳の活性化」について、ですが…
南郷氏の言う通り、足裏に火傷の水膨れが程の過激な修業は、
普通の人がやればtadaさんの御指摘の通り、殆どの人が「…ダメになる」でしょうね。

それは、日頃足腰の鍛錬を怠っている人達が、
突然の「うさぎ跳びの連続」鍛錬をしたら、どうなり得るか!と同じでしょう。

南郷氏は、自身のマラソン訓練の事を書いています。
それは、今日は少し張って、次の日は、もう少し距離を延ばす、三日目は更に伸ばす…的な、一歩・二歩、三歩…的な訓練です。
更に、「もっと走れそう!だから今日は止める」、「ダメそうだから、もう少し走る」…的な事も書いています。

その言葉と裏腹に、水ぶくれができ程の熱砂利歩行訓練をも説いています。
この二つは少々矛盾しています。
しかし、「マラソンの話は中学か小学生の頃」で
「足裏火傷の話はずっと後…空手修業の頃?」。

月日が経ち、頻繁な足裏火傷・水ぶくれ修行の結果、
それらに慣れて普通になった者なら、矛盾ではないのでしょうね。

そうそう…その歩行訓練の開始は、五月のゴールデンウィーン辺りから、少しずつ…(青雲ブログ?)で書いていたようですね。
結局は、「過ぎたるは猶及ばざるが如し」で、自分の現在の能力に合わせて、少し上を求めての修業なのでしょうね。

確か…南郷氏は、コンクリートの電柱への千回?の平手突き…と言った事も書いて?言って?いました。
たぶん…大袈裟・ホラ話的な部分もあり得る…と思いますが…。
それでも…そんな「ほら」を通して、南郷氏は彼自身にハッパをかけているのでしょうね…

ただ…私の体験では、真夏の裸足砂利道歩きは、非常に刺激的です。
流石に…火傷の水膨れにならないように、歩いて「熱すぎ!」、即・「水道水で冷やす!」の繰り返しですが…

それでも…その繰り返しの結果、脳細胞の活性化は、実感できました。
その実感とは、その繰り返しの結果で全力走が可能になり得た、と言う事実です。

>大体 砂利修行でよい論文が書けるわけないですよ。脳を認識の土台と考えるなら 直接鍛えるのではなく 認識自体を磨く 教養の問題です。


ご指摘の通りに「砂利修業だけでよい論文は書けません」。
それでも、「適度の脳細胞の活性化+認識自体を磨く訓練」でのダブル効果は大きいです。

弁証法は欲張りです!だから「あれもこれも」の全部なのです。
ただ…欲張りすぎて消化不良では逆効果ですね。

多分、多くの人達は南郷氏の論理ではなく、
その事実を真似してやるから上手くいかないのでしょうね…

たぶん…南郷氏の精神力は驚異的ですよ!」
その理由の一つに、

南郷氏は著書で「幼少期から、数回もの死にそうな体験をしている」という事実の記述があります。
振り返って「死にそう」ではなく、「死ぬ!死にそう?」という思い・覚悟をして助かったから凄いのです。

私は、過去の出来事で、
今、考えると「大怪我・死んでいたかも?」という体験はあります。
でも…これって、ある意味大した事はない!事なのです。
人間の精神力は、現実体験の中で「死との対面・覚悟」の機会が多いい程に、強くなり得るモノでなのしょうね。
返信する
Unknown (空海)
2023-09-06 06:58:09
>「軍歌」=歌詞+曲(リズム)
>歌詞は、戦争的なモノ、曲・リズムは精神を奮い立たせるモノ

私は少し考えが違いましてね。曲というのはメロディ(旋律)とリズム(律動)で出来ていると思います。
リズムというのは「数学的な音の長さ」ですよ。《一小節》の長さを基準として、その《全音符》の半分の長さが《2分音符》、そのまた半分の長さが《4分音符》、そのまた半分の長さが《8分音符》、そのまた半分の長さが《16分音符》というわけで。

ですので「小楠公=歩兵の本領=アムール虎の闘いや=玄◯の血潮」のリズム(律動)は
”タッカタン タタタン タッカタタタン タッカタン タタター タタタッカタン タッカタン タタタン タタタッカタン タンタッカ タタタン タタタッカタン”
となりますね。

音楽(ムシカ)が数学でもあるといのは私も興味あるところですけど、この《リズム》=音の長さの変化を実際にそれ単独で表現できる楽器はドラムだとかカスタネットだとかの打楽器だと思います。

でも、おそらくこの《リズム》が何の脈絡もなく、それ自体で人間の精神を奮い立たせることは無いのではないか?と、まあ知識が足りなくて知らないだけかも知れませんけど、私は思いますね。

ここにメロディが加わっても、同じことで、精神が奮い立つには、精神が奮い立つような物語を聞いているとか、経験しているとか無ければ奮い立たないと私は思いますよ。

私は以前、旧ソ連の心理学の研究をしていた時期があって、パブロフの条件反射を基礎とした「人間は生まれながらに何かに感動したり悲しんだりするようには出来ていない」という、ベルの音を聞いてヨダレを流すように条件づけされた犬のように、人間の心理を過程的に理解しようとするマルクス主義的な心理学でしたけど。

そこから類推するに、玄◯の血潮だとかの曲(メロディにしろリズムにしろ)は、それ自体で単独に人間の精神を奮い立たせる機能は無いと思います。その曲を聴いて奮い立つようなイデオロギー教育を経ているとか、南郷先生の講義を聴いて「よし俺もやるぞ!」と意気込んだとか、飛翔隊の動きを見て奮い立ったとかの過去の経験が音楽と条件づけられて、曲を聴いたら奮い立つというパブロフの犬になるのだと考えますね。

私の思考は自由びとさんとは異質でしょうけれど、必ず世間一般には受け入れられるものだと信じておりますけどね。
返信する
Unknown (空海)
2023-09-06 06:12:36
私は自由びとさんの「夏でも長袖でいる」というお話しも、tadaさんの「超人思想」という話しも、どちらも勉強になりました。

初めは「夏の長袖」というのが社会的に認知された有効な方法なのかをネットで調べにかかったんです。そしたら「ファッション」の方向がヒットしました。
女性から「夏に長袖着てる男性は素敵!」みたいな。でも長袖は暑いし、如何に暑さを回避させる風通しの良い素材の服を選ぶか?みたいな話しになりましてね、やはり色は白系だろう、とか。
医者でも全ての医者が「暑熱馴化」を理解しているわけではないようで、皮膚科の医師で「夏に長袖は紫外線を防ぐ以外にメリットは無い。紫外線を防ぐためには色は黒が好ましいが、黒は更に暑く感じるから」と述べてる人もいました。

「暑熱馴化」で調べるとサウナに入るとか運動習慣をつけるとかありましたが、長袖を着ることを暑熱馴化の方法として上げてるサイトは見つかりませんでしたね。

文科省や医療機関が出している情報からは、長袖を着るまでもなく日常的に運動習慣があるならば発汗能力は高くなっていて炎天下でも体温上昇は少なく平気でいられる可能性は高いでしょう。

ですから、大学生などの場合は4月に入部して稽古を始め、毎週のように身体を動かす習慣がついてから夏の合宿へ!となるわけで「暑熱馴化」は出来ていることになります。長袖とか関係なく。
それを、8月に入門して、その日に「よし、今日から合宿で海に行くぞ!」では身体が環境に順応しないということにもなるのでしょう。

tadaさん、ポイントは「それは南郷先生独自のやり方ではありません、国家的に普通に共有されている知見ですよ」という理解です。
返信する
Unknown (空海)
2023-09-06 05:33:51
自由びとさんのこのコメント欄は私自身が普段は考えていないことに気づかせて貰えているから全体的には有り難いわけですが…

>例え…お宅に邪魔されても、私は私のやりたい事をやりたいようにやります。

話しの流れが見えていないようですからお伝えしますけど、この話しは元々が自由びとさんが「南郷先生から夏の暑いときでも長袖を着ているように言われた」ということから始まるわけです。
それに対してtadaさんが「それでは脳内温度が高くなり脳細胞が死滅する。年寄りにそんな事を求める南郷超人思想には惹かれない」と返した。
それで自由びとさんが「果たして誰が炎天下での拍手・合宿を超人思想による人間破壊だと思うのだろう」となった。要するに「私がやっていることを団体外の人間にそんなこと言わせない!」というわけです。

ですから私は「どーぞ、自由びとさんのお好きになさって下さい。でも、団体外の人に強制的に独自のやり方をゴリ押ししないで下さい」となったわけです。

ですが、あらためて自由びとさんの言った「夏でも長袖でいる」ということは「南郷先生独自の、南郷先生が発見したこと」ではなく、文科省が児童の熱中症対策として国家的に発信している「暑熱馴化」の一法だと知ったんです。これは医学的・生理学的に根拠のある、徐々に暑さに身体を馴らしていくと汗をかきやすく体温が上がりにくい身体になっていくということです。

ですからtadaさんの「脳内温度が上がり脳細胞が死滅する」という考えは違っていて、それでもそれに対して指導者側として科学的な説明が出来なかった自由びとさんは身体運動の指導者としては失格ですよ。

自分が自分でやりたいようにやるなら構わないんですが、他人を指導する際に想定されるリスクを如何に回避するか説明できないようじゃ。

「誰もができることを」なんて説明になっていないというのが理解できないのは、早稲田の法学部卒という優秀な学歴を持ちながら下らん居合の本をだした◯熊さんと一緒でしょうね。
返信する
Unknown (tada)
2023-09-05 22:22:38
自由びとさん こんにちは 超人思想で盛り上がってしまいましたね。ちょっと反省。南郷先生の炎天下の砂利道修行での脳の活性化について 言及していただきたかったのですが 説明不足で 炎天下の修行そのものになって しまいました。武道やスポーツ ビジネス、政治 第一線で活躍するなら 体力つけなければいけません。どんな場所どんな状況でも勝負する必要がありますから。必要な人は 八田一朗イズム 黒崎健時イズム 木村政彦イズムです。
本当は 砂利修行で南郷先生の頭脳はダメになったと皮肉を言いたかったのです。それは 滝村先生のパソコン入力(国家論大綱)で 論理能力が落ちたと言い切ったことに対する意趣返しなのです。大体 砂利修行でよい論文が書けるわけないですよ。脳を認識の土台と考えるなら 直接鍛えるのではなく 認識自体を磨く 教養の問題です。

空海さん ちょっと見直しました。滝村先生の本から そのエッセンスを自ら抽出することは 良いことです。いまこそ 第三権力論を学んでください。そこに 専制から議会制民主主義・三権分立にいたる 「政治」の本質である 統一社会的契機の究極的姿が見えるのです。空海さんはおいくつですか?我々より若いということは財産です。滝村先生は教えすぎで みんなをダメにしてしまったようです。直系のひとがダメで 傍流のひとが成功しています。自ら試行錯誤し 考えることが近道です。滝村本を道具にするぐらいではない とダメですよ。蓮實先生については 滝村隆一最大のライバルと私は思っています。もちろん 二人の面識はなく お互い著作も読んだことはないはずです。その方法論の対象性と徹底性が私には 最大の強敵同士だと考察しています。三島由紀夫については 南郷思想の先行形態と思っています。三島思想が転成したのが南郷思想ではないかと思います。三島由紀夫は「グズの天才」です。ちなみに 私は 蓮實先生も 三島先生も 大好きです。追伸 ニーチェの超人思想とはルサンチマンの克服であり 主体性の確立  あるがままの肯定ですよ。大小楠公からの中世論や水戸学も面白いね。
返信する
分りました! (自由びと)
2023-09-05 19:25:27
>・コメント
>自由びとさんにコメントしたわけでも無かったのですが、「逆だね」なんて私に向かってコメントされたものですから、
玄◯で用いられている軍歌について少々お調べしたんです。

>会歌??玄◯の血潮の元歌の元歌たる永井建子の「小楠公」は、やはり人間の認識の本質たる「反映」に基づいていて
明治期に欧米から輸入した軍楽隊のために作られたものですね。

>その歌詞のリズムが奈良時代以降の貴族文化たる和歌の七五調であることが、その規則的・記号的な違和感を身体運動として感じさせる所以かも知れませんね。

>その「軍楽」の目的として、自由びとさんがあげた「意気軒昂」とは似て非なる「士気昂揚」というのがあります。
「楠木正成」は《日本史上最大の軍事的天才》だと評価されてもいるらしく、その息子を日本陸軍の軍楽のテーマとしたのも理由あってのことでしょうね。

>いや、誤解して欲しくないのは私は決してこの軍歌の採用だとかを否定しているわけではなく、大変に勉強になっていますけどね。




聞いた話だと、最近では「ラジオ体操」やリズムに合わせてダンス…のやっている、そうです。
そもそも…「武道の理論」の始まりは、「弱者・運動神経0?的な者達の空手、でしたね…



>「意気軒昂」とは似て非なる「士気昂揚」というのがあります。

しきこうよう【士気高揚】
集団で事を起こす時に、
全員の熱意や意気込みが高まること。やる気が、皆に満ちあふれること。

「意気軒昂」は、
進んでしようとする張り切った気持ちが盛んなありさま、元気のある様子という意味を持ちます。

成る程…分りました。

私は、個人的捉えて「私の意気軒高の為の歌」。
でも玄〇会としては、「集団・全員のやる気の向上の為の歌」。

組織的な目的を、私は個人レベルで捉え・理解した、という事ですかね。


>Unknown (空海)

>自由びとさんもtadaさんもご高齢者ですから、ブログが止まっていると安否が気にかかります。

>お元気ですか?




考え過ぎですね!
たぶん空海お宅も、相当な高齢でしょうに…
何を御自分だけを棚上げして…
お互いに逝ってしまう時は一緒でしょうに…

本当に嘘吐きお宅ですね…
もっとも…私はもう慣れて免疫ができてしまいましたが…

御心配ありがとうございます。
私は、元気に毎日汗イッパイかいて・流していますよ。
ただ…最近は、目が疲れやすいですね。
多分テレビの視すぎにスマフォ・ゲームのやり過ぎでしょうね。
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その本質を求めるなら… (自由びと)
2023-09-05 18:55:22
>コメントを書いた人
>空海


>蓮實先生は三島由紀夫の本を読んで「何という運動神経の悪さだ!」と見抜いたらしいですけど、私が玄◯が軍歌を採用していることに感じたことも似たようなことなんです。つまり実際の組手からするとリズムが遅すぎるんですよ。

>例えば「玄◯の血潮」という会歌の元歌に「歩兵の本領」というのがありますけど、兵隊としての思想を植えつける以外には身体運動のリズムとしての価値は無いと思っています。
あれなら、東大の駒場キャンパスで休み時間にダンスを踊っている学生さんたちのヒップホップのリズムのほうがフレキシブルに身体を動かせますから。



この空海お宅には、「軍歌」=戦争の為の歌…とい理解止まりのようである。

でも本来は、「軍歌」=歌詞+曲(リズム)

歌詞は、戦争的なモノ、曲・リズムは精神を奮い立たせるモノ。

普通の歌では、歌詞と曲の意味・求めるモノが異なっている事もある(相対的独立関係)。

軍歌も歌詞が戦争的でなくなれば、軍歌≠戦争の歌…
なのに、この空海お宅には、この二重性が理解出来ていない。

また、曲にはリズムがある。
精神の奮い立たせ方には、
ゆっくり・少しずつ奮い立たせる方法・リズムム。
素早く・急速に奮い立たせる方法・リズム。

その目的によって、選ぶ曲・リズムの相違…

本質という言葉を使うなら「歩兵の本質」とは、
粘り強く・死を恐れず・確実に歩いて(馬より遅いが)…ジワジワ増してくる恐怖に耐える精神、恐怖に押しつぶされない自分に奮い立たせる…

軍歌=戦争の歌、で終わらすのではなく、
戦争の本質(求め・考え・想像)から、軍歌の本質を…
そして、武道空手の本質から、初心者に必要なモノの本質を求める…

それらの本質の共通性とは、「人間の生命を賭けた勝負の道」だから…軍歌の(歌詞は不要)曲・リズムの採用なのだろう。
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学校・教育について (自由びと)
2023-09-05 18:28:21
空海お宅の以下のコメントについて考えた。

>それに対して「まんじゅう」という皮とアンコの二重性というのは、国家と社会の二重性で、
私は学校教育は門外漢の素人ですけど教育業界にいる自由びとさんが考えやすいように学校教育で考えてみると、
教室内で指導をする先生と指導を受ける児童との関係が国家と社会の二重になっている、と考えてみたんです。



「このことをまんじゅう国家に適用するとまんじゅうそれ自体を国家 まんじゅうの皮を国家権力 あんこが社会になります。」(by tadaさん)


小学校が、饅頭ならば、
実体的な皮は校舎・校庭・教室…
機能・精神的な皮は「教育基本法」…

あんこが教師と子供・保護者…の小学校指導要綱に基づく社会(関係)

学校での教育内容は、その国家で今必要な事―常識・知識・技術…の教育。
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暗黙の前提 (自由びと)
2023-09-05 18:05:50
>Unknown (空海)
2023-09-04 06:14:36
>自由びとさんへ

>私は有る意味、極めて常識的な人間ですから自由びとさんが自由びとさんのやりたい事をやる自由を邪魔立てする気は一切ありません。どーぞご自由に(笑)。




そんな事は、念を押す必要なく当たり前です。
例え…お宅に邪魔されても、私は私のやりたい事をやりたいようにやります。
なので「どーぞご自由に(笑)」と書くのは可笑しくアホな言葉でね。

そもそも…空海お宅の一々私の記事・コメントへのイチャモン的な記述は、私の自由な記述権の侵害ですよ。
そんな事をしておいて…「ど―ぞご自由…」とは、それこそ(笑)(笑)(笑)ですよ。


>私自身が過酷な修業だとかトレーニングだとかを好んでやってきた人間ですから、「夏の炎天下での稽古なんか当たり前だろ!」という意見は非常に理解できるものです。



この当たり前の暗黙の前提が、忘れられていますねか。
武道・空手・修業・修業には、必要(あたりまえ)でも、
普通の人達には、「当たり前」にはなり得ません。

お宅の記述・思考は、私の記述・思考とは、異質なのですよ。
その「お宅自身が自由びと とは異質」理解無く、
私の記述を読み取ろうとするから、解釈がブレるのです。



>ですが、昨今は学校体育の水泳なども「熱中症になる危険があるから屋内の空調の効いた環境での温水プール」が選択されたりするそうです。私なんぞは「え?学校のプールって夏の暑い時期に身体に蓄積された熱を放散させるために行うんじゃないの?」と思ったりもしたのですが、学校体育の体系からするとプールでの水泳は水の抵抗を使った体力づくりみたいですね。

学校(教育)は、その国家での普通事が、普通にできる為の集団的な学びの場です。
過去の学校なら「スポーツ最中の水分補給は極力禁止」が普通でも…
現代では、「常に積極的な水分補給」が普通です。
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参考になります♪♪♪ (自由びと)
2023-09-05 16:57:31
>・コメントを書いた人
>tada

>・コメント
>自由びとさん まんじゅう国家論の補足です。ついでに弁証法について一言。
滝村先生はまんじゅうの皮を国家 あんこを社会と言いました。少し気になったので 訂正補足してみます。国家と国家権力は違います。国家は社会の政治的組織化です。そして 国家自体は政治的権力です。国家権力もまた政治的権力で 国家中枢を意味しました。このことをまんじゅう国家に適用するとまんじゅうそれ自体を国家 まんじゅうの皮を国家権力 あんこが社会になります。あくまでお遊びの話ですが 気になったので 比喩を正確にしてみました。
>弁証法について 滝村先生は2つの効用をのべています。概念弁証法による方法論の明確化と表現の論理化です。すでに本質論まで到達したとき その過程を弁証法で位置付けできること。本質論を論文化するとき 弁証法で学的レベルに表現することが可能であること。の2つです。念を押しますとあくまでも本質論を提出したあとの話で 弁証法を使うと本質論を導くことができるというのはありえません。それは錯覚です。私自身の経験からも弁証法は本質論を探求するときには 直接は役に立たないことを実感しています。

tadaさん

補足コメントをありがとうございます♪♪♪


国家について、私には、まだ明確な像は描けていませんが…以下の言葉は、とても参考になります。

>国家に適用するとまんじゅうそれ自体を国家 まんじゅうの皮を国家権力 あんこが社会になります。

また、以下の言葉には、共感しています。

>弁証法を使うと本質論を導くことができるというのはありえません。それは錯覚です。私自身の経験からも弁証法は本質論を探求するときには 直接は役に立たないことを実感しています。
返信する
Unknown (空海)
2023-09-05 12:14:36
自由びとさんもtadaさんもご高齢者ですから、ブログが止まっていると安否が気にかかります。

お元気ですか?
返信する
Unknown (空海)
2023-09-05 07:41:53
自由びとさんにコメントしたわけでも無かったのですが、「逆だね」なんて私に向かってコメントされたものですから、
玄◯で用いられている軍歌について少々お調べしたんです。

会歌⭐︎玄◯の血潮の元歌の元歌たる永井建子の「小楠公」は、やはり人間の認識の本質たる「反映」に基づいていて
明治期に欧米から輸入した軍楽隊のために作られたものですね。

その歌詞のリズムが奈良時代以降の貴族文化たる和歌の七五調であることが、その規則的・記号的な違和感を身体運動として感じさせる所以かも知れませんね。

その「軍楽」の目的として、自由びとさんがあげた「意気軒昂」とは似て非なる「士気昂揚」というのがあります。
「楠木正成」は《日本史上最大の軍事的天才》だと評価されてもいるらしく、その息子を日本陸軍の軍楽のテーマとしたのも理由あってのことでしょうね。

いや、誤解して欲しくないのは私は決してこの軍歌の採用だとかを否定しているわけではなく、大変に勉強になっていますけどね。
返信する
Unknown (空海)
2023-09-05 06:36:32
tadaさんは蓮實重彦先生についてお話しされようとしてましたよね?

蓮實先生はドゥルーズの翻訳をしたりしていて私も関心があるのです。以前は「せんだいメディアテーク」で連続講演もされていたそうで、私も仙台には良く遊びに行ってメディアテークの辺りをウロウロしてましたから、何だか親近感も湧いてきます(笑)。

蓮實先生は三島由紀夫の本を読んで「何という運動神経の悪さだ!」と見抜いたらしいですけど、私が玄◯が軍歌を採用していることに感じたことも似たようなことなんです。つまり実際の組手からするとリズムが遅すぎるんですよ。

例えば「玄◯の血潮」という会歌の元歌に「歩兵の本領」というのがありますけど、兵隊としての思想を植えつける以外には身体運動のリズムとしての価値は無いと思っています。
あれなら、東大の駒場キャンパスで休み時間にダンスを踊っている学生さんたちのヒップホップのリズムのほうがフレキシブルに身体を動かせますから。
返信する
Unknown (空海)
2023-09-04 14:48:19
tadaさんの「まんじゅう国家論と缶詰め国家論」の話しは普段は国家論など考えていない私にあらためて考える機会を与える有益なものでした。

大事なのは、この例え話に用いられている「まんじゅう」や「缶詰め」が具体的な事柄の《何処に》対応するのか?だと私には思えました。

南郷学派の「缶詰め」は《軍事》を意識しているとおりに世界地図上の「国境」、この他国との線引きされた境界に缶詰めの缶が相当するのだと思います。

それに対して「まんじゅう」という皮とアンコの二重性というのは、国家と社会の二重性で、
私は学校教育は門外漢の素人ですけど教育業界にいる自由びとさんが考えやすいように学校教育で考えてみると、
教室内で指導をする先生と指導を受ける児童との関係が国家と社会の二重になっている、と考えてみたんです。

同じ幼稚園や保育園に行って仲が良かったお友だちが、小学生になったら学区が違うということで違う学校の別れ別れになった、なんて話しがあります。
それは市区町村で運営されている公立の小学校は児童が住んでいる居住区によって何処の学校に入学するかが決定するという、詳しくは調べないと分かりませんけど「国家的な判断」によるのだと思います。

生まれて成長していく人間の教育過程のうち、学齢期という小学生から中学生までの間は「大人が子供の成長を手助けする」という社会関係が「住んでいる居住区に対応した特定の学校において、その市区町村への住民の住民税によって運営される」という国家的な判断で行われているということが、国家と社会の二重性だと考えて構わないでしょうかね?

そして、学校の教員免許は国家資格ではないらしいですけど、そこで行われる学校教育は教育基本法を初めとした国家的な判断によって為されている、と。

私の専門分野も国家が定めた国家資格を所持していなければ行えず、国家と社会の二重性というのを考える材料には不足ないところですけれども。

近代になって初めて国家と社会の二重性が明らかになったということは、「自然の人間化」といいますか、細部に至るまで二重にしたのだ!と私には思えますね。
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Unknown (空海)
2023-09-04 06:14:36
自由びとさんへ

私は有る意味、極めて常識的な人間ですから自由びとさんが自由びとさんのやりたい事をやる自由を邪魔立てする気は一切ありません。どーぞご自由に(笑)。

私自身が過酷な修業だとかトレーニングだとかを好んでやってきた人間ですから、「夏の炎天下での稽古なんか当たり前だろ!」という意見は非常に理解できるものです。

ですが、昨今は学校体育の水泳なども「熱中症になる危険があるから屋内の空調の効いた環境での温水プール」が選択されたりするそうです。私なんぞは「え?学校のプールって夏の暑い時期に身体に蓄積された熱を放散させるために行うんじゃないの?」と思ったりもしたのですが、学校体育の体系からするとプールでの水泳は水の抵抗を使った体力づくりみたいですね。

tadaさんへ

tadaさんの「超人思想」という言葉を、学識豊かなtadaさんのことだから「ニーチェの超人思想」を念頭においての発言だろうと捉え返してみたんです。

ニーチェの「超人思想」は《ニヒリズム(虚無主義)》が基本にあると知り、つまりは般若心経の色即是空、すべては無であり空であるとする思想から「民衆に命令をする存在」だと説かれています。

要するに否定的な価値観の言葉なわけですね。

つまりは、そこにも《支配-被支配》関係が、あるということで、
私は滝村先生の学的志向性が徹頭徹尾ヘーゲルとマルクスに導かれた「自由への志向」だと理解できたとき、
滝村先生が何歳くらいからマルクスだとかヘーゲルだとかを読み始めたのか分かりませんけど、
中学校を卒業した15歳のときに東京大学出身の優秀な生物学の研究者であった父親と別れて津田道夫さんと同居してマルクス主義の学習をみっちりやったんだと思うんです。

その10代の幼い頃に津田さんと三浦つとむさんとの関係から滝村先生も三浦さんと面識があって、33歳年下の滝村先生を三浦さんは我が子のように可愛がったんだと思いますよ。

そうした蜜月の感情の交錯も、人間が老い亡くなると無かったことにされてしまう、それが大乗仏教の空や無の思想なんでしょうか?
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Unknown (tada)
2023-09-03 16:51:34
自由びとさん まんじゅう国家論の補足です。ついでに弁証法について一言。
滝村先生はまんじゅうの皮を国家 あんこを社会と言いました。少し気になったので 訂正補足してみます。国家と国家権力は違います。国家は社会の政治的組織化です。そして 国家自体は政治的権力です。国家権力もまた政治的権力で 国家中枢を意味しました。このことをまんじゅう国家に適用するとまんじゅうそれ自体を国家 まんじゅうの皮を国家権力 あんこが社会になります。あくまでお遊びの話ですが 気になったので 比喩を正確にしてみました。
弁証法について 滝村先生は2つの効用をのべています。概念弁証法による方法論の明確化と表現の論理化です。すでに本質論まで到達したとき その過程を弁証法で位置付けできること。本質論を論文化するとき 弁証法で学的レベルに表現することが可能であること。の2つです。念を押しますとあくまでも本質論を提出したあとの話で 弁証法を使うと本質論を導くことができるというのはありえません。それは錯覚です。私自身の経験からも弁証法は本質論を探求するときには 直接は役に立たないことを実感しています。
返信する
逆だね… (自由びと)
2023-09-03 16:42:30
>・コメントを書いた人
>空海

>・コメント
>tadaさん

>>とどのつまりは脳と神経の強化だったのでしょうか?
>>歳を取ってきますと 南郷超人思想ではなく 吉本先生の弱者寄りの思想に惹かれますね。

>ここの評価・判定は難しいところだと思います。確かに南郷先生は少なくても30年以上前から「廃用性」について語られていたと思います。それは市販された著述の中には無かったかも知れませんけど「科学技術の発展によって生活が便利になったがゆえに肉体を使わなくなったことで衰えていく人間の能力」といったことです。

>それは近年、「フレイル」や「サルコペニア」といった医学用語でご高齢者の日常生活能力や寿命に関わる問題として重要視されるようになってきています。

>ここも対立関係の非常に難しいところではありますが、科学技術による自動化やロボット化によって障害者のバリアフリーが実現し、他者による介助の割合が減って自立度が高くなることは喜ばしいことです。生まれながらに重度の障害をもった人が健常者と同じレベルの日常生活能力を持とうとリハビリを繰り返すことは、tadaさんの言う「超人思想」にも相当するものかも知れませんね。

>ですけど南郷先生の周囲には奥さんを含めてお弟子さんだとか医学系・医療系の人が沢山いたわけでしょう?医療専門家によるリハビリが個々の患者さんの状態に合わせて達成可能な目標を立てるのとは裏腹に、練習生の個別の体力だとかを無視した過激な訓練がそこで行われていたとしたならば、それはやはり「超人思想による人間破壊」だと思われても仕方がないでしょう。

>「真理を誤謬に転化する方法は、それを度はずれに拡張すること」だという弁証法的(ヘーゲル的)な金言が、「量質転化」という小論理学に説かれた認識方法?を有益なものだと再認識させるところかと思いますね。

>ただ、自由びとさんが記述した夏合宿の場面は、私が参加したのと同じ流派のものとは思えないということだけは述べておきたいと思います。
>玄◯は南郷先生が著述で述べていたような思想性を、少なくても南郷先生が現役で指導していた頃まではもっていて、ですから合宿で歌わされる歌というのは「軍歌」が元歌になっていました。要するに「歌謡曲だとかPOPsを聴いて敵と闘えるか!」というわけです。

>その「歌っているのは軍歌に基づく戦争歌だ!」ということを会員が自覚するよう機関誌でも明確に文章化されておりましたし、道場でも「ニヤニヤするな!」「顔付きをしめろ!」といった指導が怒声と共に行われていて、まあそれは玄◯という流派に限った話しでもなく「昭和」という時代の空手道場では普通に見られたことかも知れませんけど。

>「相手がどのように自分には映った」というのは主観的なものですから自由びとさんには「大学生が楽しそうに歌って見えた」というのを否定はできませんけど、それは単なる体力だけの体育的な観点で、玄◯の夏合宿では本来考えられない事だと私には思えます。

>頭の中で「J-POPsの聖子ちゃんや明菜ちゃんが流れている」ことで楽しく歌い続けられるくらいなら、「体力の限界で、私にはもう出来ません」としゃがみ込んでも良いというのが南郷先生の考えじゃなかったか?と私には思われますけど。



上記のコメントは、tadaさん宛てではあるが…
この空海お宅の解釈が、このブログの私との理解とは、
大きく異なっている部分を発見したので…指摘しておこう!


>練習生の個別の体力だとかを無視した過激な訓練がそこで行われていたとしたならば、それはやはり「超人思想による人間破壊」だと思われても仕方がないでしょう。


果たして誰が、炎天下での拍手・合唱を「超人思想による破壊」と思うのだろう。
真冬の空手少年や大人たちの寒稽古・寒水泳を「人間破壊」と思うだろうか?

確かに「武道の理論」で、武道とは、人間技を越える為の超人技…と、いうような記述・内容がある…
しかし、どこにも「超人的な訓練」をして「超人技」を習得…と書かれていない。

普通の人々が普通に出来る事の繰り返し・桃太郎の繰り返しで、武道技の習得を目指すモノ。
ただ言える事は、単純で普通の人が普通に出来る事の飽くなき繰り返しは、簡単ではない。
そこには、それをやり続ける為の強烈な目的意識の持続が求められる。

そんな普通の人が普通に出来る事の連続・訓練では、決して精神も肉体も破壊されない…
疲れ果てて、出来なくなれば、拍手・合唱が止まるだけであろう…

超人思想の何が悪いのか?
今の自分を超える思想も「超自分・人思想」。
あるスポーツの世界でただ一人のトップ選手・超人を目指すのも「超人思想による人間破壊」?
超人になる無ことを夢見たら、「超人思想による肉体破壊」?
世界でただ一人の超人になろうと大志を抱いたら「超人思想のよる人間破」?


「超人思想」が「人間破壊」になり得るのは、
その超人への道・方法が、その人間にあっていなかった場合であろう。
ある人の超人への道は、その人の道・方法であり、他の人に適しているとは限らない。

「軍歌」のリズム・曲が、歌詞を変えられて歌われる効用。
それは、意気軒高・テンションを上げる事が可能だから…
逆から説くなら、意気軒高さ・テンションアップに「軍歌のリズム・曲」が適している事。

この場合、「戦争」「戦い」を求めるのではなく、戦える精神を創る為のモノ…
この空海お宅の思考の全てが、私とは逆に思えてしまうが…


>…自由びとさんには「大学生が楽しそうに歌って見えた」…
>>…頭の中で「J-POPsの聖子ちゃんや明菜ちゃんが流れている」ことで楽しく歌い続けられるくらいなら、


ここでの「大学生が楽しそう」の私の解釈は以下のようなモノです。
続ける事の辛さ・苦しさに耐えて全力で拍手・合唱が出来ている自分に喜びを感じ・楽しい…

この空海お宅には、目的達成の為に、
困難・苦痛に耐えて頑張り続ける自分が嬉しいし、その事が楽しい…
こんな感情は理解不能のようですね。


耐え付けて達成した結果の快感の初体験は、大学時代の空手愛好会の合宿です。
当時、OBが参加した冬合宿での早朝ランニングに私を含めた現役生全員が寝坊してしまった。
起きて慌てて外へ出たら、OBの゜足跡が点々と付いていて、急いで後を追ってランニング…
帰りに道場に寄ったら、そのOBが黙々と道場の乾いた雑巾での空拭きをしている。
私達は全員で同じ空拭きを始めた…
それが…OB先輩が、止めるまで続いた…その時間は、今はハッキリ覚えていないが…
とんでもなく、続いた時の経過である。
目的も終了時刻も不明のまま…ただOB先輩と雑巾がけの繰り返し…だった。
あの時、雑巾がけが終了した時の解放感…そして達成感(俺達はこんなにやった!)

そして、無言で道場を吹き続けたOB先輩の思い・もどかしさ…が何となく分かった。
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Unknown (空海)
2023-09-03 07:43:58
tadaさん

滝村先生の「方法」についてなんですけど、滝村先生の遺された著述を眺めてみるに、「こういう方法でやれば、こういう結果がでる」といった、何て言うんだろう、《機械論的》だとか《客観主義的》だとか昔呼ばれた方向性ではなくて
《人間⭐︎滝村隆一》という個人の中の問題意識に導かれて思索や著述が為されたと私には感じるところがあるんです。

ですので、tadaさんが言う「普遍性-特殊性-個別性」の概念弁証法を回し続けるという「方法」は私にはピンと来ませんけど、

滝村先生って最初は私に「俺の本以外は読むな!」と言っていたんです。それって、どーゆーことか?というのが今の私の中では思い当たるところもありますけど、
最期の最期には「古今東西万巻の書籍を読破すべし!」との言葉を贈られました。

「方法」の根幹の根幹は、私は「反映」だと考えます。つまり、既にコトを成している先人の業績を自分の中に映し取ることですよ。そうした観点から、つまりは滝村先生が著述に書いている事柄だとか対象を著名な識者はどう書いているのか?みたいな、ね。

そうすると、『マルクス主義国家論』の後の作業が、「北一輝」や「アジア的国家」、「モンテスキューの三権分立」なのは全て「専制」というところに収斂すると気がついたんです。
滝村先生は「支配-被支配」なんて書き方していたと思いますけど、
そうすると、「イギリスでは絶対王政を正すのに議会が果たした功績が評価されているから三権分立が徹底されていないが、アメリカでは議会が専制を行おうとした歴史から三権分立が徹底されている」といった識者の指摘が、
南郷先生なんかは「三権分立なんか有り得ない」と言っているみたいですけど、それはイギリス系・日本系の内閣での話しじゃないか?とか
滝村先生が三権分立でも特に司法に意識が向いた視点だとか色々と見えてきます。
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Unknown (空海)
2023-09-03 07:08:48
tadaさん

>とどのつまりは脳と神経の強化だったのでしょうか?
>歳を取ってきますと 南郷超人思想ではなく 吉本先生の弱者寄りの思想に惹かれますね。

ここの評価・判定は難しいところだと思います。確かに南郷先生は少なくても30年以上前から「廃用性」について語られていたと思います。それは市販された著述の中には無かったかも知れませんけど「科学技術の発展によって生活が便利になったがゆえに肉体を使わなくなったことで衰えていく人間の能力」といったことです。

それは近年、「フレイル」や「サルコペニア」といった医学用語でご高齢者の日常生活能力や寿命に関わる問題として重要視されるようになってきています。

ここも対立関係の非常に難しいところではありますが、科学技術による自動化やロボット化によって障害者のバリアフリーが実現し、他者による介助の割合が減って自立度が高くなることは喜ばしいことです。生まれながらに重度の障害をもった人が健常者と同じレベルの日常生活能力を持とうとリハビリを繰り返すことは、tadaさんの言う「超人思想」にも相当するものかも知れませんね。

ですけど南郷先生の周囲には奥さんを含めてお弟子さんだとか医学系・医療系の人が沢山いたわけでしょう?医療専門家によるリハビリが個々の患者さんの状態に合わせて達成可能な目標を立てるのとは裏腹に、練習生の個別の体力だとかを無視した過激な訓練がそこで行われていたとしたならば、それはやはり「超人思想による人間破壊」だと思われても仕方がないでしょう。

「真理を誤謬に転化する方法は、それを度はずれに拡張すること」だという弁証法的(ヘーゲル的)な金言が、「量質転化」という小論理学に説かれた認識方法?を有益なものだと再認識させるところかと思いますね。

ただ、自由びとさんが記述した夏合宿の場面は、私が参加したのと同じ流派のものとは思えないということだけは述べておきたいと思います。
玄◯は南郷先生が著述で述べていたような思想性を、少なくても南郷先生が現役で指導していた頃まではもっていて、ですから合宿で歌わされる歌というのは「軍歌」が元歌になっていました。要するに「歌謡曲だとかPOPsを聴いて敵と闘えるか!」というわけです。

その「歌っているのは軍歌に基づく戦争歌だ!」ということを会員が自覚するよう機関誌でも明確に文章化されておりましたし、道場でも「ニヤニヤするな!」「顔付きをしめろ!」といった指導が怒声と共に行われていて、まあそれは玄◯という流派に限った話しでもなく「昭和」という時代の空手道場では普通に見られたことかも知れませんけど。

「相手がどのように自分には映った」というのは主観的なものですから自由びとさんには「大学生が楽しそうに歌って見えた」というのを否定はできませんけど、それは単なる体力だけの体育的な観点で、玄◯の夏合宿では本来考えられない事だと私には思えます。

頭の中で「J-POPsの聖子ちゃんや明菜ちゃんが流れている」ことで楽しく歌い続けられるくらいなら、「体力の限界で、私にはもう出来ません」としゃがみ込んでも良いというのが南郷先生の考えじゃなかったか?と私には思われますけど。
返信する
私が思うに… (自由びと)
2023-09-02 16:30:47
>tada

>・コメント
>自由びとさん こんにちは コメントありがとうございます。

>夏合宿の話 興味深いです。熱さ・汗・砂・アンダーシャツ・大声・手拍子・走る・行進する・チームメイト。夏の高校野球、甲子園、応援団を連想しました。若さの訓練、「青春」の再認識化。とどのつまりは脳と神経の強化だったのでしょうか?私自身の考えですが 脳の健康には悪いと思いました。脳内温度が高くなると 脳細胞が死滅するからです。南郷先生は脳が 歳をとるほど活性化しているとのお話でしたが 武道講義以降の著作はダメだと思っています。目次はすごいのですが 論文ではなく エッセイにしか見えないからです。この辺に遠因があるのでは。歳を取ってきますと 南郷超人思想ではなく 吉本先生の弱者寄りの思想に惹かれますね。

>モンテクリスト伯は大河小説ですから 単に復讐だけではなく 友情恋愛教育政治サスペンスなどなど 様々な話が挿入され 読むことができる総合小説でもあります。この小説があれば 他の小説はいらないくらい。言い過ぎですね。

>缶詰国家については 自由びとさんのお考えでよろしいかと思います。南郷先生は 一般的な国家と機能(軍事警察)を念頭において 表現していると思われます。宇宙人による地球人の団結 米国中心の多国籍軍や連合軍のような形態ですね。中国の動きが足かせになります。

>まんじゅう国家の話 ご理解していただき うれしく思っています。
国家について 論理学レベルで言うと 普遍性―特殊性―個別性またそこから普遍性―特殊性―個別性へという概念弁証法(考察のサイクル)を何十年まわし続ける地道な方法論が滝村先生の方法論です。概念の層が厚くなり 概念すべてが紐付けされている状態です。学説自説、理論・実証性を秤にかけ 批判と肯定を繰り返し 磨き上げられた概念 明確な国家像があるからこそ 冗談のように 国家論を語れるのです。滝村先生は面白いけど、超人だったかも。




tadaさん

コメントありがとうございます。
滝村先生って本当に凄い学者さんだったのですね。
きっと南郷氏も滝村先生を心から尊敬していたのではないでしょうか…
返信する
Unknown (空海)
2023-09-01 07:49:08
>ご指摘を感謝です。

いえ、私のほうこそ感謝しています。自由びとお宅さん、ここでのコメントのやり取りは私に有益な学習の機会を与えるものとなっています。

tadaさんの「本歌取り」という歌道の専門用語から歌道について調べ始め、それが日本文化の大きなる核心であることに気がつけたのも大きいです。

私の先生は芸術家の指導も沢山やってきた人ですから、先生にまた少し近づけたという喜びもあります。

>個々に分解した結果、生命体→非生命体ならば、非生命体→生命体の過程を考えることが必要。

論旨が良く分かりかねます。「生き物を殺すと死体、ならば死体から生き物への過程を考えることが必要」ということ?
フランケンシュタインという小説も昔はありましたけど。

常識的には「死んだら生き返らない」じゃないですか?

>まだ常識化していません

常識というのは分かりませんけど、現在の主流はアストロバイオロジーで、生命は宇宙から来たというのが有力な考えらしいですね。
返信する
Unknown (tada)
2023-08-31 10:04:43
自由びとさん こんにちは コメントありがとうございます。

夏合宿の話 興味深いです。熱さ・汗・砂・アンダーシャツ・大声・手拍子・走る・行進する・チームメイト。夏の高校野球、甲子園、応援団を連想しました。若さの訓練、「青春」の再認識化。とどのつまりは脳と神経の強化だったのでしょうか?私自身の考えですが 脳の健康には悪いと思いました。脳内温度が高くなると 脳細胞が死滅するからです。南郷先生は脳が 歳をとるほど活性化しているとのお話でしたが 武道講義以降の著作はダメだと思っています。目次はすごいのですが 論文ではなく エッセイにしか見えないからです。この辺に遠因があるのでは。歳を取ってきますと 南郷超人思想ではなく 吉本先生の弱者寄りの思想に惹かれますね。

モンテクリスト伯は大河小説ですから 単に復讐だけではなく 友情恋愛教育政治サスペンスなどなど 様々な話が挿入され 読むことができる総合小説でもあります。この小説があれば 他の小説はいらないくらい。言い過ぎですね。

缶詰国家については 自由びとさんのお考えでよろしいかと思います。南郷先生は 一般的な国家と機能(軍事警察)を念頭において 表現していると思われます。宇宙人による地球人の団結 米国中心の多国籍軍や連合軍のような形態ですね。中国の動きが足かせになります。

まんじゅう国家の話 ご理解していただき うれしく思っています。
国家について 論理学レベルで言うと 普遍性―特殊性―個別性またそこから普遍性―特殊性―個別性へという概念弁証法(考察のサイクル)を何十年まわし続ける地道な方法論が滝村先生の方法論です。概念の層が厚くなり 概念すべてが紐付けされている状態です。学説自説、理論・実証性を秤にかけ 批判と肯定を繰り返し 磨き上げられた概念 明確な国家像があるからこそ 冗談のように 国家論を語れるのです。滝村先生は面白いけど、超人だったかも。
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空海お宅へ (自由ひど)
2023-08-30 12:57:45
>>単細胞以下の分解では非生命体化してしまい、生命の本質を離れてしまう…

>これだけでは当たり前のことで何が言いたいのか?とも思うのですが、これが別の何かの喩えだとしたら、例えばtadaさんが言っている「解体学」というのがこれに相当するのか?しないのか?とか。


ご指摘を感謝です。

個々に分解した結果、生命体⇒非生命体。
ならば、非生命体⇒生命体の過程を考える事が必要。

個々の分解されてモノが、
どうような過程で「生命化」したか?

生命体の分解は比較的容易でも…
その分解された個々の非生命体を集めての「生命体化」は至難。

サルのヒトへの進化。ヒトの人間への進化。
それらは、比較手的に簡単の分かります・言えます。
それらは、現代の常識レベルですから…
ただ、信じれるだけでOK、間違いない事。

では、その進化の過程は如何に?
それは、まだ常識化していません。
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効果絶大! (自由びと)
2023-08-30 12:39:39
>・コメントを書いた人
>tada

>・コメント
>自由びとさん コメントありがとうございます。暑さに強いんですね。私は普通に暑いのは苦手です。体を使う時は大丈夫です。汗ダラダラでも平気です。もちろん 水分塩分ミネラルをとりながらです。 逆に頭を使うときはエアコンで寒くなるくらいにしないと効率があがらないです。あと田舎に住んでいることもあり 夜の9時過ぎになると エアコンなしで 扇風機だけで 寝られます。資料室が2階にあるので 2階の寝室で物を書くのが理想ですね。2階は寝るだけなんです。昼間は熱くなっていて 利用できないのです。 歳をとったのこともあり 1階と2階の移動も面倒になって 寝室へのエアコンの購入を毎年検討しています(笑)。夏をすぎると忘れてしまうんですね。


>ところで映画の話を続けながら 蓮實重彦先生のことを書くつもりでしたが またの機会にします。映画「ショーシャンクの空に」の元ネタはモンテクリスト伯でした。わかりましたか?それも 主人公ダンテスが刑務所から脱出するところまで ダンテスは刑務所で教育を受けるのですが 映画のほうは 逆に刑務所で周囲を啓蒙するのです。その他 比較すると面白いことが発見できます。南郷先生もモンテクリスト伯 お好きなようですね。 

>自由びとさんの全体と部分の話に付け加えますと まんじゅうの皮とあんこでは 素材の違いを 本質がちがうことの比喩にしています。きびだんごは皮も中身も同じなので 本質が同じことを比喩しています。あんこ玉は皮も中身もあんこで同じなので 本質が同じことを比喩しています。まんじゅうが普通の国家で社会の自由があり 国家が全体をまとめているイメージ きびだんごがソ連のような国家 厳密に言えばナチスドイツとソ連は体制が違うのですが ファシズム国家のイメージ 国家が社会を飲み込みガチガチに管理しているイメージ あんこ玉は マルクスが言った国家死滅後の共産主義社会のイメージです。国家がない社会だけのイメージ。あくまでもお遊びですので むずかしく考えないでください。ここは笑うところだったんですよ。缶詰国家論だとソ連や共産主義社会がうまく表現できないので 南郷先生の例え話の負けという話でした。まんじゅうのことでこんなに盛り上がるなんて まんじゅうこわいです。おあとがよろしいようで。



tadaさん お返事をありがとうございます。

暑い日が続いていて、今日もとても暑いですね…
ふと思い出したのは~初めて参加した玄和会の夏合宿の事です。

今、その記録を見つけて来て、再度書き始めました。
時は、1990年(36歳)の紫帯時代、
場所は、千葉の岩井海岸、
名称は(確か?)、「師範主催の夏合宿」。

すぐに思い出したのは、「全員での炎天下での手拍子・合唱」です。
いつ終わるかが不明、限りなく続くかのように感じられ、延々と続いた強烈な手拍子・大声(要求)の合唱。

堪え性がなく飽きっぽい私は、途中でめげそうになりました。
その時、目に入ったのは、大学支部の男性会員の姿。
それは、いかにも、楽しそうな表情で、大きく口を開けて、強烈に手拍子しながら歌い続ける姿でした。
そこで、私は、彼の姿を見ながら、自分の感情を棚上げ・忘れて、手拍子・大声で歌い続けました。

ただ…殆ど記憶に残っていないのは、
「炎天下の砂浜での移動稽古?」と…
あと、確か電車の駅から宿までの行進です。

練習では、5、6人一組で、何回もの砂浜での全力走・競争の想い出が…
一回は一番をとっても、少々の休息での二度目では、一番の無理でした。

そうそう思い出したのは、同じ支部で同じ部屋で参加した同輩が、電気カミソリで髭を剃って叱られている姿です。
合宿では「ひげ剃り禁止」と言われていた事は記憶にあります。
でも、私達の班長が、髭剃りで髭を剃っている姿の記憶があります。
当時、私は、思いました。『○○(同輩)さんは、班長の髭剃り姿を見たから剃ったのだろうと…』

私が夏の暑さが平気なのは、たぶん、あの夏合宿のお蔭なのかも…
覚えてしませんが…たぶん師範の御講義でも「炎天下練習の意義・効果」…の話があったのかも…
その為か、その後は、真夏での中央公園で全力走・トレーニングを始めました。
当時は、よく家内から「熱中症になるなら、止めた方がいいよ!」と言われていましたが…。

また師範が御講義で、半袖姿の弊害を説いていました。
半袖だと「皮膚表面の温度差?により頭脳の統括が乱れる・一致しない…」と言っていたかは不明ですが…
体に良くはない…と言っていたように理解して、それ以後、なるべく夏でも長袖にするようにしています。

以前は、半袖のTシャツで、ウインドパーカーを着ていましたが…
今では、真夏でも長袖の肌着です。この為、一日に数回肌着を着替えています。


「モンテクリスト伯」は、たぶん…私が一番すきな小説です。
「巌窟王」という名称は知っていましたが、読んだ事無く、
初めて師範の著書で「モンテクリスト伯」を知って、
初めて読んだ時の感想は「復讐できた事が痛快」。
その後、数回目の再読の時の感想が「虚しい復讐」、でした。
それは、「復讐過程の痛快さ」と「その結果への虚しさ」ですかね。
「復讐は果たせた自分的な満足感」
「復讐を果たした結果の周囲の人達の不幸」の虚しさ…

もともと…長編小説・読書が大嫌い(推理小説・探偵ものは好き)の私が、初めて読んだ長編でしょうね。

当時は、同じ小説に対する感想なのに、その中身が変化していた事に驚き・好奇心…不思議な感じがしました。
でも、今は、それが人生体験・経験の連続の結果での私の感性の変化…かな、と思っています。

数年前に、「モンテクリスト伯」再読を!と思って、所有している文庫版を開いたら…「文字が読み難い!」ビックリしました。
こんな小さい文字でも普通に平気で読んでいた過去の私を痛感しました。


饅頭国家の解説を非常に感謝しています。
そんなにも、深い意味があったのですね。

私の想像ですが…「缶詰国家論」は、現代の完成した国家を表現したのかも…

缶詰の「缶」は、実体的な武器・兵器…の防衛力だけではなく、
「缶」の如く、国家規範での内部への縛り、外から入れない、中からも出られない「缶」。

「缶」の中での、「缶」に守られ、「缶」に縛られての生活・自由。
無条件・無限の自由ではなく、条件付き・有限の自由、ですね。

「缶詰め国家」が、強固な現代の単細胞なら、
全地球を一つの多細胞体として、個々の「缶詰」間を自由に移動可能な世界が欲しいです。
全ての個々の缶詰・国家を総括・統括可能な、全地球・脳が欲しいですね。

それには、SF小説ではありませんが…
宇宙人から地球への攻撃で、全ての国家の一致団結…ですかね…


tadaさんの言説は、
私の妄想・幻想・夢想の輪を広げる効果絶大ですよ!
毎度・毎度のコメントをありがとうございます。

お互いに、暑さに負けないではなく…
暑さと仲良く付き合っての生活をしましょうね。

そうそう…私も9月1日から仕事が始まります。
全教室に個別にエアコンが装備されていて、子供達は快適な学習をしています。
去年、全校一斉の空調が壊れて使えなくなり…今は個別教室対応のエアコンです。
多分…電気代が、とんでもない金額でなのでしょうね…
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Unknown (空海)
2023-08-29 07:45:46
tadaさんの言う「方法」というので想起したのですけど、アリストテレス以来の論理学的方法で上位概念から類推するというのがありますけど、三浦つとむも『弁証法はどういう科学か』で述べているように弁証法では「不明瞭、ヌエ的、合の子的」なモノを扱いますよね?

それは論理学でいう上位概念が対立する・矛盾する二つ以上のものが重なるからで、それを南郷先生の派では「二重」なんて言っていると思うんですけど、
南郷先生が『弁証法・認識論への道』で「発展性のないピラミッドに収斂する可能性を秘めての出立」なんて書いていたでしょう?
あれって、もしかしたなら滝村先生の話しかもと思ったんですよ。
というのが『マルクス主義国家論』だと国家の原理(方法)を《共同体-内-国家》と《共同体-即-国家》の二つを上げていて、弁証法的だということは、この二つが重なるんじゃないか?と思うんですけど、『国家論大綱』だと「権力は権力、国家は国家」みたいなバラされた構成になっていた気がするんですよね。

いや、これは今思いついただけで、確認してみないと分かりませんけどね。
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Unknown (空海)
2023-08-29 07:32:41
tadaさん

>方法論を再確立してください。

tadaさんにとっては「方法」ということが非常に重要なことのようですね。それで改めて滝村先生の本を見始めたのですが、遺作となった『国家論大綱』では「方法としての世界史」なんてことを書いているわけですが、遡ると『マルクス主義国家論』でも盛んに「方法」ということを書いてます。

滝村先生にとっても「方法」というのが自覚的に追究するべき最重要事項だったみたいですね。
ただし、『マルクス主義国家論』では《共同体-内-国家》だとか《共同体-即-国家》だとかの視座を使うことを「方法」だと説いているようですね。

それで想起したのがアリストテレス『オルガノン』だとかデカルト『方法序説』、フランシス・ベイコン『ノヴム・オルガヌム』だとかでした。

要は三段論法(シュロギスモス)でソクラテスという「個人」を考える際に「人間」という類的というか上位概念を介するという「方法」ですよね。それによってソクラテス以外の別の人々の情報でソクラテスを考えるという「類推」という方法かと思いますよ。

これをtadaさんは一気に「普遍、特殊、個別」というセットで書いていたみたいですけれど、私からすればこの「普遍と個別」という関係こそが弁証法の基本である「対立関係」なわけですけども。対立関係であるからこそ、後に中世の普遍論争なんてことが生じたわけで。

>対立物の統一で物事をみても 対立物の統一が見えるだけで 本質は見えません。

私は逆に対立関係こそが本質観取のキーポイントだと思いますけれど。例えば南郷先生なんかは武道の本質を「生命のやり取り」だと述べて、それをスポーツ(娯楽)と対立関係として説いているわけじゃないですか?
それって基本的に日本の武家社会で用いられてきた《日本刀》という道具が「人間を斬る」という目的で作られたものであって、同じ刃物でも食肉を切る包丁だとか農作業のための草刈り鎌とは区別される、対立関係にあるからですよ。
その「日本刀」という道具とスポーツのための「ボール」だとかの道具の違い=人間を殺傷する道具と共に楽しむための道具という対比的な差異(対立関係)が「本質規定」というところに繋がるのだと考えますけど?

昔、勝新太郎の息子さんが映画の撮影で真剣を使い、相手を殺してしまいましたけど、ああいう「日本刀」という道具=武器の機能に武道の本質をみるということは、空手において糸洲安恒が体育目的で創作した「平安」を他者の生命を奪う目的の「玄◯1の型」に変えるということでしょうから、剣を拳に変えるといっても慎重にならねばならぬと思いますけどね。
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Unknown (空海)
2023-08-29 06:51:52
前の記事のコメントが25を超えたな…と気になった頃に自由びとさんが新しい記事を書いてくれたので息苦しさが消えましたね(笑)。

今回の自由びとさんの記事は私には何ということの無い内容ですが、少し想起したことがあります。

>単細胞以下の分解では非生命体化してしまい、生命の本質を離れてしまう…

これだけでは当たり前のことで何が言いたいのか?とも思うのですが、これが別の何かの喩えだとしたら、例えばtadaさんが言っている「解体学」というのがこれに相当するのか?しないのか?とか。

確か南郷先生も『弁証法・認識論への道』で「ピアノを分解して、あーこんな部品で出来ているのか!と見てとるのと、バラしたピアノを組み立てて元通りの音が出せるのか?」みたいなことを書いていましたね。

確かに自由びとさんが示唆しているように「ピンチはチャンス」だと直接的同一に理解するのと、「ピンチとチャンスは違うからピンチからの脱出」だと媒介的に理解するのとは違うようにも思えます。

>本歌取り

tadaさんは歌道にも造詣が深いのですね。「本歌取り」を調べてみて万葉集と古今和歌集との関係に出会いました。確か以前、『試行』に藤川隼人さんという南郷学派の人が論文を書いていて、藤川さんのご専門が万葉集だったかと記憶しています。おそらく、もう70歳くらいになっているかと。

万葉集には東北から九州までの歌が収められているという、正に「統一国家」となったが故の成果だと改めて感じると共に、『日本書記』に「今から必ず銅銭を用い、銀銭は用いないこと」と書いてあるのを知って《やはり国家統一は経済圏の拡大という経済・流通のため》なのだと確信しました。小学校だか中学校で習った「和同開珎」なんて通貨の知識も、「あー、ここに効いてくるのか!」という「私同」という名称が「みんなで同じ通貨を使うこと」だという統一国家の本質を言い当てている感動がありますね(笑)。

併せて、当時の日本(畿内)では旱魃による飢饉が多く、そこからの救済策として「飢饉の生じていない地域からの食糧調達」が必須の課題としてあったことが、中国型の統一国家を模倣した理由だと考えられます。
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Unknown (tada)
2023-08-28 22:14:08
自由びとさん コメントありがとうございます。暑さに強いんですね。私は普通に暑いのは苦手です。体を使う時は大丈夫です。汗ダラダラでも平気です。もちろん 水分塩分ミネラルをとりながらです。 逆に頭を使うときはエアコンで寒くなるくらいにしないと効率があがらないです。あと田舎に住んでいることもあり 夜の9時過ぎになると エアコンなしで 扇風機だけで 寝られます。資料室が2階にあるので 2階の寝室で物を書くのが理想ですね。2階は寝るだけなんです。昼間は熱くなっていて 利用できないのです。 歳をとったのこともあり 1階と2階の移動も面倒になって 寝室へのエアコンの購入を毎年検討しています(笑)。夏をすぎると忘れてしまうんですね。

ところで映画の話を続けながら 蓮實重彦先生のことを書くつもりでしたが またの機会にします。映画「ショーシャンクの空に」の元ネタはモンテクリスト伯でした。わかりましたか?それも 主人公ダンテスが刑務所から脱出するところまで ダンテスは刑務所で教育を受けるのですが 映画のほうは 逆に刑務所で周囲を啓蒙するのです。その他 比較すると面白いことが発見できます。南郷先生もモンテクリスト伯 お好きなようですね。 

自由びとさんの全体と部分の話に付け加えますと まんじゅうの皮とあんこでは 素材の違いを 本質がちがうことの比喩にしています。きびだんごは皮も中身も同じなので 本質が同じことを比喩しています。あんこ玉は皮も中身もあんこで同じなので 本質が同じことを比喩しています。まんじゅうが普通の国家で社会の自由があり 国家が全体をまとめているイメージ きびだんごがソ連のような国家 厳密に言えばナチスドイツとソ連は体制が違うのですが ファシズム国家のイメージ 国家が社会を飲み込みガチガチに管理しているイメージ あんこ玉は マルクスが言った国家死滅後の共産主義社会のイメージです。国家がない社会だけのイメージ。あくまでもお遊びですので むずかしく考えないでください。ここは笑うところだったんですよ。缶詰国家論だとソ連や共産主義社会がうまく表現できないので 南郷先生の例え話の負けという話でした。まんじゅうのことでこんなに盛り上がるなんて まんじゅうこわいです。おあとがよろしいようで。
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