新・悟りを求めて~

自由が故に退屈化し得る現代社会での日々へ、
新たな刺激を与えるべく、新たにブログ開設を…

全体と部分の関係問題

2023-08-19 13:37:37 | ~ものは考えよう~
8月19日


全体と部分の関係問題~

なんごう つぐまさが説く
看護学科・心理学科学生への“夢”講義(1)  
を「羅甘菓」にて2023年3月9日から再読を始めて、

2023年8月12日に
なんごう つぐまさが説く
看護学科・心理学科学生への“夢”講義(6)
を自宅で読み終わった。

そんな途中で喜ばししい偶然的必然性的発見が発生した。

日時は8月初旬まだ“夢”講義(6)の途中に、
たまたま現代社のホームページ開いて見たら、
なんとビックリ「“夢”哲学原論[綱要]の発刊を知った。


早速、蔦屋へ行って取り寄せを頼んで、8月11日に読み始めた。
そう~この時は、“夢”講義(6)との併読となっていた。

そして、今日の朝、ハッキリと認識・自覚した事は、以下のようなモノである。

私は、ずっと分からずにいた…
何故に、柔道家・マラソンランナー達の失速・衰退の問題が、哲学の歴史・弁証法に関係するのか?
また、仰向け、這い這い歩き…等が関係するのか?
何故に、雑巾がけ、掃き掃除…が「這い這い」…なのか?

分からずとは、最近の公園トレーニングでは、
裸足で下向き「這い這い」歩き、上向き「這い這い」歩きを繰り返していた。


そして今日ハッキリした!
それは、全体・全身と手・足部分の関係性である…と。


過去の哲学の歴史は、無知から全体知へ向かい出発した。
全体知へ向かう為に部分知を集め始めた。

ギリシャ時代、何とかそれぞれの部分知から全体知への完成をみた。
その後ヘーゲルに至り、観念論的全体的・一体的な「哲学」の完成をみた。
その全体知を元に、部分知の深化・発展が始まり…
現代のような個別科学知の繁栄をみた、のだろう…

全ては妄想・推測・想像…(個人的な弁明)


問題は、子供時代の私、少なくても10年前までの私は、
全身が柔軟で、全力疾走が早い・遅いかは別として、
その走りは、違和感なく非常にスムーズであった。

しかし…ここ数年の私は、全力疾走ができ難い…
それは、走れても全身に違和感がある。

以前の私の全力疾走は、風を切るような感覚で、走れた。
でも、最近は、全力疾走なのに…全力で力んで歩いている、感覚である。


そうこれは、10年前までは、全身の筋肉・骨格・神経が一体的に全力で使えた。
でも、最近は、その全身の諸々のモノが一体的に使えない、という事だと理解した。
何しろ、当時は、開脚して座って、胸が床に付けられた。
それ程の全身的な柔軟性があった。

また、過去と現在の身体感覚の相違に気付けたのは、
最近始めた整体、内臓の位置矯正・調整や全身の骨格矯正・調整の結果だろう。
整体前と整体後の、それぞれの身体感覚の相違から…過去の感覚が思い起こせた。


師範が、武道としての空手を選んで正解、弁証法・哲学…に役立った、という理由。
それは、空手は「全身の武器化」、全身の一体的な武器化。
その全身の武器化の為には、部分の武器化から始めるから…
最終的には、全身的・一体的な武器化へ~



本能的な全身的運動から、意識的な部分的運動へ、
そして、それぞれの個別化した部分運動を全体的一体的な運動へ戻す「運動」。
そんな全体と部分の関係こそが「哲学の数千年の歴史」なのだろう。

「無知から部分的な有知」、「部分的有知は全体的無知」、「全体的一体的智慧」へ

これは、認識運動についても言える。
今年で67歳の私は21歳の息子のような柔軟な思考ができ難い。
「頭脳の柔軟性がない」とは、部分・部分の連携が悪い。
部分知と部分知を統括・統合する全体智の実力不足であろう…


以上のような思考が可能になった要因には、
今年の2月から始めた「毎朝のテレビ体操」の実践。
その5月から始めた毎朝の「骨ラブ体操」。
更に、数日前から始めた「下半身股関節の柔軟体操」。
それに室内での「ぶら下がり運動」。

思惟・思考の深化・発展には、
認識的な発展努力・読書と全身の統一的柔軟的な運動・体操が必要なのだろう…





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26 コメント

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Unknown (tada)
2023-08-19 14:10:55
自由びとさん こんにちは 南郷・滝村先生の国家の概念規定を簡単にまとめてみました。空海さん 相変わらずの難解な日本語 よくわかりませんでしたので とりあえず こちらを参考にしてみてください。
①南郷 国家とは 社会の実存形態である
滝村 国家とは 社会の政治的組織化である。
②南郷 政治とは 国家レベルでの支配手段(行使・アクション)である。
滝村 政治とは 統一社会的契機である。
③南郷 国家権力とは 国家レベルでの支配である。
滝村 国家権力とは 政治的権力である。
③が常識レベルで本質的ではなかったので 南郷 国家権力が どんな 国家権力であるか?を 南郷的「政治」概念②を使い まとめています。
南郷 国家権力とは 国家レベルで支配手段を行使する権力である。
これを 学説でみていくと ゲバルト支配説及び心理服従説に重なります。
南郷 国家権力とは 政治手段的権力である と規定します。
2人の「政治」概念の規定が違うので このようになります。南郷先生の政治規定ができていないと私は断定しています。原始共同体からの考察では統一社会的契機という概念規定ができないのです。原始共同体でははっきりわかる統一社会的契機がないからです。第三権力の規定が近代国家を正面にすえた中から規定されたように 政治という統一社会的事象も近代国家になり 明らかになったのです。政治の概念規定は社会的権力が政治的権力に転成するキーポイントなので ここがわからないと 国家・国家権力を理解することができません。南郷国家権力では 社会的権力から政治的権力という別ものに転成したことがわからないため 社会的権力そのままで 政治手段という機能で国家権力の本質を規定しているのです。
バラバラに複数ある 社会的権力が統一社会的契機によりひとつの組織(政治的権力)にまとまるというイメージを浮かべてください。ざっと 国家論の最初の大事なところをひろってきましたが どうでしょうか。この話には アリストテレスの部分の本質が全体の本質にはならないと言う問題も含まれていますよ。
返信する
Unknown (空海)
2023-08-20 06:05:45
「羅甘果」…そうでしたか、秋川の…
今日は午前中に都内で専門分野の勉強会がありましてね、午後は空いているからそちらに遊びに行こうかと思ったんですが…

残念ながら羅甘果は日曜日と月曜日が休みなんですね。まー、それでも秋川駅の周辺をぶらついていれば自由びとさんとお会いできる可能性はありますけども(笑)

秋川駅で思い出したんですけど、以前は玄◯幹部の高橋衛さんが立川駅で道場をやってたみたいですね。自由びとさんの正体は高橋衛さんかも知れません(笑)。

弁護士云々の件についてハッキリ答えていなかったのを思い出したので述べますけど、いま手元には『武道の理論』も『試行』も無いんです。それは何処かに書いてあったことではなく、自分で武道界の重鎮の先生方の処へ足を運んでお話しを伺ったことなんですね。

まー、風の吹くまま気の向くまま、午前中の勉強会が終わったら秋川に行ってみようかと思いますね(笑)
返信する
Unknown (空海)
2023-08-20 09:35:22
今日の勉強会は神田ですから、江戸時代の玄武館跡だとか名跡が所々にあるんです。

江戸のこんな場所に道場を建てたというところからも《共同体→生活の生産》を理解することができますけど、そんな江戸期に盛えた道場が現在はもう無いということからもヘラクレイトスの「万物流転」や仏教の無常観を理解することが出来ます。

今日は秋川に遊びに行くと決めて秋川渓谷について調べていたら自然の豊かな場所が都内にもあるのだと改めて知りました。

日帰り温泉だとか楽しみですね(笑)
返信する
Unknown (空海)
2023-08-21 11:12:53
tadaさんにはtadaさんのお考え、方向性があるでしょうから私はそれを批判や否定する気はありません。

ですが私の考えをお話しする価値もあるように思えますので少しご披露いたします。

tadaさんのお考えは南郷学派が「滝村は概念規定をしていない」と非難しているところに対して「いや、概念規定をしているのだ!」というような形で滝村先生と南郷先生との規定された概念を比較しようという方向だと思います。
私の言葉で言うと「tadaさんの方向は弁証法的ではなく、論理学的な方向」だということになるわけですけど。

私はどちらかと言えば南郷先生が『弁証法・認識論への道』で述べていた「三浦つとむの『弁証法はどういう科学か』を更に深く理解するために滝村の『革命とコンミューン』や『マルクス主義国家論』に向かった」というようなものに似た志向性を持っていますから、初期の『マルクス主義国家論』に説かれた考え、もっと言ったならマルクスやエンゲルス(そしてヘーゲル)から引用された考えの何処がどう弁証法的なのか?ということに関心があるのです。

それで、あらためて『マルクス主義国家論』を読んでみて重要だと再認識したのは「《共同体-内-国家》と《共同体-即-国家》との原理的な区別、特にマルクスとエンゲルスにとっては《共同体-即-国家》が重要だった」というような指摘でした。

私はこの《共同体-即-国家》という原理は「支配者側(統治者側)と被支配者側(被統治者側)」という対立関係において《租税》という形で、被統治者側(被支配者側)の生産物(生活の生産資料)の一部が統治者側(支配者側)の収益(生活の生産資料)となるという「直接的同一性」がそこにあるということです。

ですので、例えば日本が律令国家となった時に天智天皇が「公地公民」を打ち出して「班田収授法」を定めたなんて国政のやり方も、それが農民(被統治者側)の生活を苦しくすると共に統治者側(天皇家の側)の生活をも圧迫したという直接的同一性における相互浸透として理解することが、班田収授法の継続が困難となって平安時代の初期に廃止されたという事実としての結果(変化、運動)を理解する弁証法的な思考だと考えますね。

そのように見ていくと、『学城』で滝村批判を繰り広げていた近藤茂美さんや加納哲邦さん、ついでに「滝村国家論は革命という特殊性だけを考えたからダメだ」みたいな頓珍漢な発言していた瀬江千史さんらは「《共同体-内-国家》と《共同体-即-国家》」という「滝村→マルクス、エンゲルス→ヘーゲル」と継承された原理的な把握が全く理解できなかったのだと考えますね。
返信する
遅くなってスミマセン (自由びと)
2023-08-21 11:14:15
tadaさんへ

解説コメントをありがとうございます。
コメントの公開が遅くなってすみません、でした。
ここ数日、「呪術廻戦」のシーズン1を視たり、お出かけしたりと忙しく、
全くパソコンを開いていませんでした。
度々のコメント投稿…手数をおかけしました。

今回の南郷氏と滝村氏の対比的な記述、とても分かり易く感じています。
それでも、まだまだ…知識不足の私には、難解に感じられていますが…

ただ…今思った事は、「宇宙の誕生」・ビックバンについて、
一般的な見解と南郷学派の見解の相違に似ている、ような感じ…。

今の「現宇宙から分かる情報」から遡って、「宇宙の始まり」を考える方法。
現在の自然・社会・精神を元に、弁証法的に過去へ遡って、
生命の始まり、地球の物質の始まり、地球外物質の始まり…宇宙の始まり…へ

私には、一般的ビックバンと南郷学派的ビックバンのどちらが正解かは判断でき難いです。
結局は、どちらが方に、今の私が納得できるか、という判断ですかね。

たぶん…原始共同体とは、
純粋サルのみの群れの集団・行動から、(ボスもサル・他もサル)

サルとヒト的サルの混合群れ集団・行動へ、(ボスはサル・他はサル・ヒトサル)

原始的な国家的な集団(ボスはヒトサル・他はサル・ヒトサル…)


そんな、ヒトだけの集団ではない、ヒト・ヒトサル・サルの混合集団での関係性を、
人間だけの集団に用いる「国家」「政治」「社会」…概念との一致は至難…だと思いました。

今の私は、専門知識不足から、専門用語の概念理解も中途半端です。
だから、逆に、南郷氏の言説が、何となくですが…分かるような気がしています。

しかし、それでは、本当に分かった、とは言い難いのでしょうね…
返信する
まあ~いいっか! (自由びと)
2023-08-21 11:46:08
>コメントを書いた人
>空海

>・コメント
>「羅甘果」…そうでしたか、秋川の…

ほ~ご存知でしたか…
以前は自転車で行けた距離でしたが…
今では、息子の運転する車で行く距離になってしまっています。

>今日は午前中に都内で専門分野の勉強会がありましてね、午後は空いているからそちらに遊びに行こうかと思ったんですが…


私は「秋川」の川沿いに行った事はありませんが…
なかなかいい所だ、そうですよ。



>残念ながら羅甘果は日曜日と月曜日が休みなんですね。まー、それでも秋川駅の周辺をぶらついていれば自由びとさんとお会いできる可能性はありますけども(笑)


以前は、駅前の塾で講師をしていたので、その時なら出会っていたかも…
もっとも…互いに面識のない者どうしでは出会っていても、
分からない、「出会ったと認識不能」…でしょうね。

>秋川駅で思い出したんですけど、以前は玄◯幹部の高橋衛さんが立川駅で道場をやってたみたいですね。自由びとさんの正体は高橋衛さんかも知れません(笑)。


よくご存じですね。
確か、私が20代の頃、当時は母と二人で立川のマンション住まいで…
ある日、たまたまJR立川駅の掲示板で「…科学…空手」そんな広告を目にして、
早速、諏訪神社へ空手の稽古を見学に行きました。
その時に話した「高橋」さんは、
私が入会後に話した「高橋」さんとは、別人のように感じましたね。

>弁護士云々の件についてハッキリ答えていなかったのを思い出したので述べますけど、いま手元には『武道の理論』も『試行』も無いんです。それは何処かに書いてあったことではなく、自分で武道界の重鎮の先生方の処へ足を運んでお話しを伺ったことなんですね。


ふ~ん…まあ…いいっしょ!
確かに「武道の理論」で、社会的な成功を目前…と書かれていたので、
それが「弁護士」でも他の職業でも、大差なりませんからね。

でも…「空手と弁証法を相互浸透的に学んだ」…のページは、まだ見つけられていません。

ただ、もう少し詳しく書くなら~
「空手を教え・学び・稽古…を弁証法的に考え…」
「弁証法の著書を読む時は、その言葉を空手の事実で考え…」
そんな「相互浸透的…」ですね。

これを、
私は南郷氏の頭脳内で、弁証法と空手を相互浸透的に学んだ、
と理解しています。

>まー、風の吹くまま気の向くまま、午前中の勉強会が終わったら秋川に行ってみようかと思いますね(笑)


まあ~散歩には、いいでしょうね…
もっとも…過去、塾講師の仕事で秋川へ行っても、散歩はした事はありません…
とても残念でした。
返信する
Unknown (空海)
2023-08-21 13:27:08
>入会後に話した「高橋」さんとは、別人の

ほー、それはどういうことですか?高橋さんは早稲田のほうでも道場を開いていて、そちらでは見学者にもコワモテでしたけど…

>社会的成功を目前

そんなこと書いてありましたっけ?それは誰かに投影したのでは?
南郷先生は元々が武道家になる気などなかったと書いていたと思いましたし、
私が重鎮に聞いた話しでは何年受けても司法試験に受からなくて、それで仕事もしていなかったから収入がなかったらしいんですよ。
だから同じ埼玉大学OBのI先生が幼稚園に話しを通してきて「ここで空手の指導をして収入にしなさい」とお膳立てしてくれたそうですよ。埼大は元々が師範学校で教員になる人が多かったそうですし、I先生は県だか市だかの教育委員会で働いていて幼稚園だとかとも繋がりがあったらしいです。
返信する
Unknown (tada)
2023-08-21 16:31:08
自由びとさん こんにちは お忙しいところすいませんでした。こちらは暑さのせいでしょうか wifi環境が悪くなり 端末もフリーズしたりで コメントが正しく送られたどうか不安でした。急かすようで申し訳ないと思ってます。お手数かけました。
滝村国家論については 第2弾もあるのですが またの機会としますね。みなさん 消化できないみたいですから。
宇宙論のご指摘がありましたので 一言。時代はビックバンからマルチバース宇宙論です。空海氏へ 弁証法を事象のなかに発見しても 内的な構造、本質を見極めたことにはなりません。それは 意味の無いことです。
返信する
Unknown (空海)
2023-08-24 06:51:19
なぜだか自由びとさんのブログ活動が停止して私が投稿したコメントが公開されずにおりますね。

南郷先生が長年に渡って司法試験を受験していたことは知る人ぞ知る事実でありますし、南郷先生ご自身が著述の中でアンドレ・ルイ・モローの名前と共にそれを示唆しているところです。

当時の司法試験について調べてみると合格率が1〜2%という驚異的な狭き門で大学の法学部を卒業しながらも10年かけてやっと合格したなんて人もザラだったみたいですね。どうして南郷先生がそのような難関に挑んでいたのかは謎ですが、奥さんが働いていたから可能であったのは間違いないですね。

tadaさんの南郷先生と滝村先生との概念の比較を改めて見てみたのですが、これは私には分かりにくい却って難しい記述になっています。

それでも、一つ一つ検討してみることで少しずつ見えてくるものもありますから、これからそれを記述してみたいと思います。

きっと自由びとさんにも参考になるところが多々あると思いますよ。
返信する
Unknown (空海)
2023-08-24 07:30:37
tadaさんの概念規定の記載は小中学生でも理解できるように書いてみる、そこに意を配ることが大事だと私は考えるものですが、先ずは

①南郷 国家とは 社会の実存形態である
 滝村 国家とは 社会の政治的組織化である

これを検討してみたいと思います。こう書き出して想起されたのは、このtadaさんの記載は南郷先生の著述にある

「ヘーゲル 学問とは…
南郷   学問とは…」

という比較思考の形式そっくりで、いやソックリというよりも全くそのまま写しとったものだと言ってよく、tadaさんが南郷系の支持者であることを示唆するものだと想像されますね。

それで私は滝村先生の「命題形式は相応しくない」という考えに共感する者ですから、こうした命題形式⭐︎テーゼのような概念規定を見てもピンと来ないのですけど、
この「国家とは社会の実存形態」という規定は『学城』で南郷学派の近藤茂美さんが書いていたものだと記憶しています。

ここで問題となるのは「社会」という言葉と「実存」という言葉だと思います。日本では学校教育で社会科が出来たのは太平洋戦争で原爆が投下された敗戦後で、それは大日本帝國憲法が廃止されて日本国憲法になってからですよね。

この「社会」というのは元々がラテン語の「仲間」を意味する言葉から来ているということで、「現人神であった天皇陛下」が人間宣言をして、日本人が戦前の「天皇陛下の臣民」から等しく日本国民となった、そこで始めて「天皇陛下にお仕えする」のではなく「天皇陛下を含めて、みんなが仲間」だという意識が、まあGHQによる方向づけが大きかったんでしょうが成立できた。

それで、次に「実存」という言葉なんですけど、私なんかは実存と見ると対立概念として「理想」なんてのが頭に浮かぶわけです。つまりはプラトンによって提起された「イデア、まだ見ぬ理想国家」みたいな、ね。それに対して「実存」というとキルケゴールだとかニーチェだとかの実存主義で「神は死んだ」「私たちは神を志向するほど強くない」だとかの実存です。

そこから「国家は社会の実存形態」ということを鑑みるに、「日本国民が《仲間》としての現実を持ち得るのは観念内の理想的な倫理観によるものではなく、現行の立法・行政・司法という国家機構による「法の支配」、行政職としての警察による強制執行力があるからである!」なんて読み替えることも可能ではないかな?なんて思うわけですよ。

しかし、これは「国家は社会の実存形態」という命題形式(テーゼ形式)から強引に持って行った荒業的な無理無駄筋道とも言え、なかなか南郷学派の論理展開は難しいところがあります。

滝村先生の「政治的組織化」なる概念はまだ管見外ですので、これから調べてみたいですね。
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