弁証法について~
弁証法とは、対象の弁証法性・変化・運動性の法則化
この対象は、森羅万象であり・万物
弁証法には、「否定の否定」、「相互浸透」・「量質転化」の三法則
弁証法には、自然の弁証法・社会の弁証法・精神の弁証法がある。
また弁証法性は、「外界・現実界の弁証法性」と「内界・観念界の弁証法性」とに二重化可能。
(人類の関わらない)外界・現実界・自然界の弁証法性の法則化。
社会の法則は、「外界の弁証法と内界の弁証法性」の法則化。
精神の弁証法性は、内界の弁証法性+外界の弁証法性の法則化。
内界・観念の弁証法性を対象とするなら認識論。
認識の弁証法性とは、認識とは対象の反映である。
認識とは、対象の五感情報の映像化。
我々人類は、その対象の反映・映像を元に生きている、という事である。
我々が、生きているのは、現実界であっても、その情報は内界・対象の反映・映像・情報。
我々の体感・痛み・感覚・感情は、対象そのモノではなく、反映された対象からのモノ。
我々が、対象に何か働き掛ける時、その言動・行為・感情は、
感覚・反映された対象情報を自己の頭脳内の認識と統一した結果のモノ。
この頭脳内の認識が「その人の問い掛け」(認識)であり、反映・映像・認識が外界情報。
弁証法認識論レベルの「対立物の統一」とは、頭脳内での「内界(問い掛け)認識と外界(情報)認識の統一」。
学問をするなら、学問・哲学レベルの問い掛けと学問レベルの外界反映情報が必要であろう・
学問レベルの問い掛けとは、その本質・構造・論理を問うモノ。
眼前の対象の元は何?また元の元は何?
何と何がどのようにして、こう・そうなったの?
学問的な外界反映情報とは?その人類の文化遺産・その時代の学問・科学・情報…
いや…いや…何を言いたい!のやら…書きたい!
「対立物の統一」は、現実世界にはない!
あるのは、相互浸透(運動)・そして量質転化化(変化)、だろう。
「土」と「種」は、土であり種である。
この二つを「対立物」とするのは、その人の認識内であり、外界では「対立物」でなく、ただの「モノとモノ」に過ぎない。
例えば、街中に力士が二人歩いていたなら、二人の力士である。
しかし、その二人が土俵で対戦するなら、相対立する二人の力士。
外界に存在するのは、弁証法性であり、ただの変化・運動性である。
それら弁証法性の法則化の方法の法則が「弁証法」なら、
されは、その弁証法性を法則化した結果もまた「弁証法」である。
これらが「弁証法の二重性」。
「物体を機能と実体に分けるのは二重化」
「弁証法性の法則化・結果が観念レベル実体的弁証法」なら、
「弁証法の法則化の方法の法則は、観念レベル機能的弁証法」
三法則が、その時代の観念的結果的・実体的な弁証法だから、
その三法則を「法則化の方法の法則」・機能として駆使して、更なる弁証法の高みへ~
単層弁証法から重層的弁証法⇒重層的・体系的弁証法へ
弁証法は、人類の認識内にありえるモノ。
学問的知識が「学的アタマ」なら学問的弁証法は「学的ココロ」。
対象の「知識・アタマと感情ココロの一体化」があり得て、初めてその知識が、己が人生・生活に役立つモノになり得る。
以上は、全て言葉・言語…ただの単なる記号・符号に過ぎない書き込み…
さてさて…これらに対する自由びとの感情はどこに?
果たして…
それらの感情は、私のココロの中に、弁証法的変化・運動性として実在しているのだろうか?
これらを書いた事・書く事の意義・意味とは?
それは、自己の認識の言語化であり、頭脳内のバラバラ認識を言語で「集中」する事。
「完成は崩壊の始まり」とは弁証法の教えである。
別言するなら「完成は変化の始まり」でもある。
更なる弁証法的「悟り」の高みを求めての崩壊であり変化の始まり、なのだろう…
弁証法とは、対象の弁証法性・変化・運動性の法則化
この対象は、森羅万象であり・万物
弁証法には、「否定の否定」、「相互浸透」・「量質転化」の三法則
弁証法には、自然の弁証法・社会の弁証法・精神の弁証法がある。
また弁証法性は、「外界・現実界の弁証法性」と「内界・観念界の弁証法性」とに二重化可能。
(人類の関わらない)外界・現実界・自然界の弁証法性の法則化。
社会の法則は、「外界の弁証法と内界の弁証法性」の法則化。
精神の弁証法性は、内界の弁証法性+外界の弁証法性の法則化。
内界・観念の弁証法性を対象とするなら認識論。
認識の弁証法性とは、認識とは対象の反映である。
認識とは、対象の五感情報の映像化。
我々人類は、その対象の反映・映像を元に生きている、という事である。
我々が、生きているのは、現実界であっても、その情報は内界・対象の反映・映像・情報。
我々の体感・痛み・感覚・感情は、対象そのモノではなく、反映された対象からのモノ。
我々が、対象に何か働き掛ける時、その言動・行為・感情は、
感覚・反映された対象情報を自己の頭脳内の認識と統一した結果のモノ。
この頭脳内の認識が「その人の問い掛け」(認識)であり、反映・映像・認識が外界情報。
弁証法認識論レベルの「対立物の統一」とは、頭脳内での「内界(問い掛け)認識と外界(情報)認識の統一」。
学問をするなら、学問・哲学レベルの問い掛けと学問レベルの外界反映情報が必要であろう・
学問レベルの問い掛けとは、その本質・構造・論理を問うモノ。
眼前の対象の元は何?また元の元は何?
何と何がどのようにして、こう・そうなったの?
学問的な外界反映情報とは?その人類の文化遺産・その時代の学問・科学・情報…
いや…いや…何を言いたい!のやら…書きたい!
「対立物の統一」は、現実世界にはない!
あるのは、相互浸透(運動)・そして量質転化化(変化)、だろう。
「土」と「種」は、土であり種である。
この二つを「対立物」とするのは、その人の認識内であり、外界では「対立物」でなく、ただの「モノとモノ」に過ぎない。
例えば、街中に力士が二人歩いていたなら、二人の力士である。
しかし、その二人が土俵で対戦するなら、相対立する二人の力士。
外界に存在するのは、弁証法性であり、ただの変化・運動性である。
それら弁証法性の法則化の方法の法則が「弁証法」なら、
されは、その弁証法性を法則化した結果もまた「弁証法」である。
これらが「弁証法の二重性」。
「物体を機能と実体に分けるのは二重化」
「弁証法性の法則化・結果が観念レベル実体的弁証法」なら、
「弁証法の法則化の方法の法則は、観念レベル機能的弁証法」
三法則が、その時代の観念的結果的・実体的な弁証法だから、
その三法則を「法則化の方法の法則」・機能として駆使して、更なる弁証法の高みへ~
単層弁証法から重層的弁証法⇒重層的・体系的弁証法へ
弁証法は、人類の認識内にありえるモノ。
学問的知識が「学的アタマ」なら学問的弁証法は「学的ココロ」。
対象の「知識・アタマと感情ココロの一体化」があり得て、初めてその知識が、己が人生・生活に役立つモノになり得る。
以上は、全て言葉・言語…ただの単なる記号・符号に過ぎない書き込み…
さてさて…これらに対する自由びとの感情はどこに?
果たして…
それらの感情は、私のココロの中に、弁証法的変化・運動性として実在しているのだろうか?
これらを書いた事・書く事の意義・意味とは?
それは、自己の認識の言語化であり、頭脳内のバラバラ認識を言語で「集中」する事。
「完成は崩壊の始まり」とは弁証法の教えである。
別言するなら「完成は変化の始まり」でもある。
更なる弁証法的「悟り」の高みを求めての崩壊であり変化の始まり、なのだろう…