問い掛け的な認識について…
「問い掛け」と「問い掛け的認識」の相違は?
「問いかけ的な認識」を「氷山」に例えるなら、
その「問い掛け」はその「氷山の一角」。
問い掛け的な認識が「全体」なら問いかけは「部分」。
ブログ記事「この不思議感は何?・あれは何だったのだろうか?!」は、
私の問い掛け的認識・氷山の一角・認識の部分。
では、その全体像とは、「私の死」についての問い掛け的な認識・全体像とは?
>「私の死後の、この世界の様子である」
>「私はいない!でも、この世界はある」
この上更に、追加で
「現世にいない私のいる来世・その様子」!
この考察が不足していた事に、今朝気付いた。
来世には、
天国と地獄的な「世界は二つ」・世界観。
世界は一つ・輪廻転生・生まれ変わってまた現生的な「世界は一つ」・世界観。
死とは「「肉体・頭脳の死滅」。
私・認識は「頭脳の機能」。
。
唯物論的世界観なら「私の死は⇒私の頭脳の活動停止⇔私認識の停止・消滅」。
観念論的世界観なら「認識・観念的な世界はある」だから「私認識はその後も永遠にある」
ならば、観念論的・唯物論的な統一結果、
「私肉体の死後の私認識とは」?
それは、
肉体のない自己の認識内で、
永遠に覚めない夢の中にいる状態。
自己認識・夢の範囲内での自己運動。
それが、地獄と天国の世界の想像夢。
単なる唯物論的世界観なら頭脳の死滅は、
私認識にとっては「虚無」⇒「無い事」さえ「無い」状態。
そんな虚無・世界の想像は、生きている人間には不可能。
だから、
「私の死後の世界なんて、私の死後に考えても十分に間に合う事」。
そうそう~本当~
師範の御言葉に、
ヘーゲルは「大論理学」を書く前に「エンクロペディ―」を書くべき…。とある。
私も…もしかして…
今回の上記のような記述・思考・思惟…を
「不思議感その物の中身を問う前に」書くべきだったのかも…
以上は、「その問い掛け感情」という氷山の一角に「何故?」といかけるのでなく、
その「感情的問い掛け」の「下の氷山は?」と問い掛けたら、良かったのかも…
その氷山の構造が、
「唯物論」と「観念論」のハッキリした世界観二つの内の一つか?
それとも…
「観念論的唯物論」or「唯物論的観念論」の二つの混合した世界観二つの内の一つか?
それを、現実・今の私・観念の中に、存在している世界観(観念内・事実的)へ唯物論的に問い掛けるのが、先だったのかも…
「問い掛け」と「問い掛け的認識」の相違は?
「問いかけ的な認識」を「氷山」に例えるなら、
その「問い掛け」はその「氷山の一角」。
問い掛け的な認識が「全体」なら問いかけは「部分」。
ブログ記事「この不思議感は何?・あれは何だったのだろうか?!」は、
私の問い掛け的認識・氷山の一角・認識の部分。
では、その全体像とは、「私の死」についての問い掛け的な認識・全体像とは?
>「私の死後の、この世界の様子である」
>「私はいない!でも、この世界はある」
この上更に、追加で
「現世にいない私のいる来世・その様子」!
この考察が不足していた事に、今朝気付いた。
来世には、
天国と地獄的な「世界は二つ」・世界観。
世界は一つ・輪廻転生・生まれ変わってまた現生的な「世界は一つ」・世界観。
死とは「「肉体・頭脳の死滅」。
私・認識は「頭脳の機能」。
。
唯物論的世界観なら「私の死は⇒私の頭脳の活動停止⇔私認識の停止・消滅」。
観念論的世界観なら「認識・観念的な世界はある」だから「私認識はその後も永遠にある」
ならば、観念論的・唯物論的な統一結果、
「私肉体の死後の私認識とは」?
それは、
肉体のない自己の認識内で、
永遠に覚めない夢の中にいる状態。
自己認識・夢の範囲内での自己運動。
それが、地獄と天国の世界の想像夢。
単なる唯物論的世界観なら頭脳の死滅は、
私認識にとっては「虚無」⇒「無い事」さえ「無い」状態。
そんな虚無・世界の想像は、生きている人間には不可能。
だから、
「私の死後の世界なんて、私の死後に考えても十分に間に合う事」。
そうそう~本当~
師範の御言葉に、
ヘーゲルは「大論理学」を書く前に「エンクロペディ―」を書くべき…。とある。
私も…もしかして…
今回の上記のような記述・思考・思惟…を
「不思議感その物の中身を問う前に」書くべきだったのかも…
以上は、「その問い掛け感情」という氷山の一角に「何故?」といかけるのでなく、
その「感情的問い掛け」の「下の氷山は?」と問い掛けたら、良かったのかも…
その氷山の構造が、
「唯物論」と「観念論」のハッキリした世界観二つの内の一つか?
それとも…
「観念論的唯物論」or「唯物論的観念論」の二つの混合した世界観二つの内の一つか?
それを、現実・今の私・観念の中に、存在している世界観(観念内・事実的)へ唯物論的に問い掛けるのが、先だったのかも…