「分からない」について~「分からない」の二重性~
相手の言っている事が分からない場合。
一つ、相手の言葉の意味が分からない(認識化・映像化できない)。
一つ、自分が、何故に「相手の言葉が分からない」のかが、分からない。
例えば、
一つ、「起承転結」そのモノが分からない。
一つ、「起承転結」の意味は分っても、どれが「起」?「承」?「転」?「結」?分からない。
例えば、欧米人の会話が分からない場合、
一つ、その英語の意味は分かるのに、相手の言いたい事が分からない(から不安)
一つ、英語・言語自体分からない から 意味が分からない(何故分からないか分かっている「から安心」)
さて今朝の事である。
郵便受けに一枚のハガキが届いていた。
そこには、〇〇……様 三菱UFJ……と書かれていて、
剥がしてみたら、「お支払い日に指定に口座からお引き落としができませんでした。」と書かれていた。
私には、全く身に覚えがない事なので…再度、確認したら宛名は息子だった。
そこで、息子にこのハガキ話をしたら…
「…アプリで入金したから大丈夫」と言われた。
私は、「入金して大丈夫」は分ったが…
『何故にハガキが来たの?』が分からず、
息子に聞いたら、「引き落とされなかった時点で、ハガキが発送されたのでしょう」と言われ。
私、「そうか時間差だったのか…、うん?でも…アプリって何?」と息子に質問した。
あ~あ!「銀行口座の内容が分かるアプリ!」息子曰く。
私―「そのアプリで どのように入金したの?」
息子―「アプリで、引き落としできない連絡メールがあり、それから入金した!」…
ここで、私はやっと事の次第を理解した。
ハガキを再度よく見ると「三菱UFJニコス株式会社」と書かれていた。
アプリは「銀行からの知らせ」であり、ハガキは「カード会社」から…だから二回の連絡だった。
ハガキを受け取った後~
初めの私の分からない・疑問―このハガキは何?
再度確認・解決―息子のハガキ(事実)
息子に確認―「入金した・大丈夫」は分った。
でも大丈夫なのにハガキが来た理由・その過程が分からない。
息子に「アプリの意味を確認した」
ハガキを再再度確認した「銀行は私の誤解で、実はカード会社だった」。
最終的に納得した!
今日のこのやり取りから「分る事の二重性」が分かった。
そこから、私が「息子の言葉を分からなかった理由・構造が分かった」
息子の「アプリ」とう言葉を一般的(カード会社かな?レベル)で分かり、
決して銀行のアプリとは理解していなかった。
銀行アプリなら、私も持っている。確かにそこには、「お知らせ」連絡もある。
相手の言葉が事実的表現であり、全く嘘偽りのない表現でも、その言葉の中の語彙の意味を相手レベル・一致して理解していにいなら、言葉として分っても、その内容を相手的な認識・映像化しをする事は至難である。
それは、今日の私が、
最初の息子の言葉の一つ一つ語彙の意味は分かっても、
それが私の疑問全体の答えとは認識(映像化)出来なかった。
どんなに細かく正確な言葉・記述の数々 or アバウトな銘文でも…
それを認識・映像化不能な読み手にとっては、訳の分からない奇文・怪文・空虚…そのモノであろう。
さて…ここから以下の記述について…である。
>・コメントを書いた人
>空海
>・コメント
>自由びとさん、自由びとさんは確かに何かを書いたんですね。新しい記事が投稿されて色々と文字が書いてありますから、確かに何かを書いているわけなんです。
>そしてそこには私・空海の名前を書いていますから、私に向かって何かを書いているらしいことまでは理解できるのですが、さて私に何を語っているのかは全く理解できないわけです。
>何となく、何やら私に向かって否定的なニュアンスのことを書いているらしいことは何となく理解できるものの、それ以上のことは全く理解できないでいます。
>まあ、それも今に始まったことでもなく、特に聞く価値のあることを自由びとさんが述べれるとも思っていませんから、問題なくOKです。
この空海お宅には、「自由びと記述が分からない」事は分かっている、ようである。
(このお宅が負けず嫌いの嘘つきではないなら…)
しかし、このお宅は、
自身が自由びと記述を分からない理由・訳・構造」が分からない事を考えよう・分かろうとしていない…
端的に書くなら空海お宅が、自由びと記述を分かる事が出来ない原因・理由は、ある特定の語彙の意味・概念…の相違であろう。
例えば、「弁証法」という語彙である。
私は、初めは「…変化・運動性の法則化」だったが…
今は、「…変化・運動性の性質の法則化」と理解している。
このような「変化・運動性の法則化」と「変化・運動性の性質の法則化」の相違が、
たぶん空海お宅には分からない、のだろう。
事物・事象の変化・運動性の性質そのモノが異なれば、言うなれば別物となり得る。
例えば、同じ動物と言えども、
猫の本能(変化・運動性)を持っているなら「ネコ」。犬の本能(変化・運動性)なら「イヌ」
「ネコ」と「イヌ」とは、別種の動物である。
しかし…弁証法的に思惟するなら、これらは、変化・運動性の性質が異なる同じモノ(動物)…となり得る。
これは、「対立物」も「統一」…・「対立物の統一」も然り、「否定の否定」も然り…
相手の言っている事が分からない場合。
一つ、相手の言葉の意味が分からない(認識化・映像化できない)。
一つ、自分が、何故に「相手の言葉が分からない」のかが、分からない。
例えば、
一つ、「起承転結」そのモノが分からない。
一つ、「起承転結」の意味は分っても、どれが「起」?「承」?「転」?「結」?分からない。
例えば、欧米人の会話が分からない場合、
一つ、その英語の意味は分かるのに、相手の言いたい事が分からない(から不安)
一つ、英語・言語自体分からない から 意味が分からない(何故分からないか分かっている「から安心」)
さて今朝の事である。
郵便受けに一枚のハガキが届いていた。
そこには、〇〇……様 三菱UFJ……と書かれていて、
剥がしてみたら、「お支払い日に指定に口座からお引き落としができませんでした。」と書かれていた。
私には、全く身に覚えがない事なので…再度、確認したら宛名は息子だった。
そこで、息子にこのハガキ話をしたら…
「…アプリで入金したから大丈夫」と言われた。
私は、「入金して大丈夫」は分ったが…
『何故にハガキが来たの?』が分からず、
息子に聞いたら、「引き落とされなかった時点で、ハガキが発送されたのでしょう」と言われ。
私、「そうか時間差だったのか…、うん?でも…アプリって何?」と息子に質問した。
あ~あ!「銀行口座の内容が分かるアプリ!」息子曰く。
私―「そのアプリで どのように入金したの?」
息子―「アプリで、引き落としできない連絡メールがあり、それから入金した!」…
ここで、私はやっと事の次第を理解した。
ハガキを再度よく見ると「三菱UFJニコス株式会社」と書かれていた。
アプリは「銀行からの知らせ」であり、ハガキは「カード会社」から…だから二回の連絡だった。
ハガキを受け取った後~
初めの私の分からない・疑問―このハガキは何?
再度確認・解決―息子のハガキ(事実)
息子に確認―「入金した・大丈夫」は分った。
でも大丈夫なのにハガキが来た理由・その過程が分からない。
息子に「アプリの意味を確認した」
ハガキを再再度確認した「銀行は私の誤解で、実はカード会社だった」。
最終的に納得した!
今日のこのやり取りから「分る事の二重性」が分かった。
そこから、私が「息子の言葉を分からなかった理由・構造が分かった」
息子の「アプリ」とう言葉を一般的(カード会社かな?レベル)で分かり、
決して銀行のアプリとは理解していなかった。
銀行アプリなら、私も持っている。確かにそこには、「お知らせ」連絡もある。
相手の言葉が事実的表現であり、全く嘘偽りのない表現でも、その言葉の中の語彙の意味を相手レベル・一致して理解していにいなら、言葉として分っても、その内容を相手的な認識・映像化しをする事は至難である。
それは、今日の私が、
最初の息子の言葉の一つ一つ語彙の意味は分かっても、
それが私の疑問全体の答えとは認識(映像化)出来なかった。
どんなに細かく正確な言葉・記述の数々 or アバウトな銘文でも…
それを認識・映像化不能な読み手にとっては、訳の分からない奇文・怪文・空虚…そのモノであろう。
さて…ここから以下の記述について…である。
>・コメントを書いた人
>空海
>・コメント
>自由びとさん、自由びとさんは確かに何かを書いたんですね。新しい記事が投稿されて色々と文字が書いてありますから、確かに何かを書いているわけなんです。
>そしてそこには私・空海の名前を書いていますから、私に向かって何かを書いているらしいことまでは理解できるのですが、さて私に何を語っているのかは全く理解できないわけです。
>何となく、何やら私に向かって否定的なニュアンスのことを書いているらしいことは何となく理解できるものの、それ以上のことは全く理解できないでいます。
>まあ、それも今に始まったことでもなく、特に聞く価値のあることを自由びとさんが述べれるとも思っていませんから、問題なくOKです。
この空海お宅には、「自由びと記述が分からない」事は分かっている、ようである。
(このお宅が負けず嫌いの嘘つきではないなら…)
しかし、このお宅は、
自身が自由びと記述を分からない理由・訳・構造」が分からない事を考えよう・分かろうとしていない…
端的に書くなら空海お宅が、自由びと記述を分かる事が出来ない原因・理由は、ある特定の語彙の意味・概念…の相違であろう。
例えば、「弁証法」という語彙である。
私は、初めは「…変化・運動性の法則化」だったが…
今は、「…変化・運動性の性質の法則化」と理解している。
このような「変化・運動性の法則化」と「変化・運動性の性質の法則化」の相違が、
たぶん空海お宅には分からない、のだろう。
事物・事象の変化・運動性の性質そのモノが異なれば、言うなれば別物となり得る。
例えば、同じ動物と言えども、
猫の本能(変化・運動性)を持っているなら「ネコ」。犬の本能(変化・運動性)なら「イヌ」
「ネコ」と「イヌ」とは、別種の動物である。
しかし…弁証法的に思惟するなら、これらは、変化・運動性の性質が異なる同じモノ(動物)…となり得る。
これは、「対立物」も「統一」…・「対立物の統一」も然り、「否定の否定」も然り…
本当は、もっと難しいのですが…これで勘弁!
それって、学問的に書けば、書く程に、事実から離れて論理的・理論的になり得る事…
そうだから結果的に「身体意識が浅く」なのかも…
そう言えば、漫画「がんばれ元気」の中で、
世界タイトル挑戦の前夜に、
彼と会った友達が「元気くん!消えそう!」と…
心配している場面がありました。
それって、もしかして「身体感覚が浅い」事なのかも…
>空海
>・コメント
>あくまでも《単なる感想》ですから他意も悪気もありませんけど、南郷先生の『哲学論理学原論』を改めて読んでみて「身体意識が浅い」んです。
↑
私には、そのような感じは皆無ですが…
でも…それが事実なら凄い事ですよ。
ヘーゲルの絶対精神は実体を持たない観念的な存在です。
肉体を持っている南郷氏が、自然に「身体意識が浅」くなっているなら、
南郷氏は実体を持っていながら、精神的実在である絶対精神化、した事になります。
それって、「対立物の統一」⇒「唯物論哲学と観念論的哲学の統一」、ですかね。
>こんなこと言っても自由びとさんには何のことか理解できないかも知れませんけど、身体・肉体を持っている人間は肉体を使って考えるわけで、その肉体の使っている領域が浅いと思慮も浅くならざるをえないんですね。
なんと~思慮浅き空海お宅よ!
「気配を消す」事も可能な人間です。
生きて否が、完全に気配を消せるのが達人ですよ!
>ノーベル賞ものの私の先生から学んだ内容ですから、あまり詳しくはお話しできなくて残念ですけどね。
↑
それって、昔の武道達人や忍者…の人間研究をしていない…ただのモノレベルのノーベル賞でしょう。
>空海
>・コメント
>引き続き、対話でもなく私の単なる感想です。
↑
何で?
自由びとの個人的ブログに、
こんな長い感想書くの?
別にいいけど…自己陶酔お宅なのは分かっているから…
>本記事の冒頭に「「分からない」の二重性」なんてことが書いてありますけど、その「分からなさには2種類ある」みたいな形式が、どーも自由びとさんの以前から習慣化されている思考スタイルみたいなんですね。
↑
理由は簡単です。
一つのモノ・コトを二重化・二つに分けた時点で「変化・運動」の発生がある!から…
>「何か◯◯という事柄がある、それには2種類あり…」というのが例外なく自由びとさんが記述する思考のスタイルだということです。その「例外なく用いる」という形式が、自由びとさんにとっては論理的な「一貫性」ということなのかも知れませんけどね。
↑
対象を、弁証法的に捉える為に、自分の認識内でも「対象」を変化・運動させる為~
>それで「一つ ◯◯、一つ ◯◯」と挙げられた内容は「相手の言葉の意味が分からない」と「自分が、何故に「相手の言葉が分からない」のかが、分からない」という、
実際に相手の言ってることが分からない事例はそんなことではないでしょう?という現実の問題を考えるには全く役に立たない無益な言葉の羅列になっています。しかし、確かに専門用語は使われてはいけないわけですよ。
↑
別に空海お宅が分からなくてもいいんじゃない!
分かる人には、分かるから…
>ここで自由びとさんが「構造」と言っているのは「一つの事柄に二つの事が考えられる」という形式を「構造」と言っているようですね。
例えば「1つの家(分からない)には2つの部屋(2つの分からなさ)がある」みたいな、ね。
↑
この「構造」とは、私の認識内で、対象を運動させるモノ。
「家」なら、一部屋・二部屋ではなく、「アパートとマンション」や「借家と持ち家」…ですね。
私の二重化が、お宅には分かっていない!
>つい昨日、参照した南郷先生の『哲学論理学原論』(2017年)にも「対立物の統一」を《弁証法の構造》だと記載していますから、自由びとさんが言っていたような南郷先生が対立物の統一という考えを捨てたということは無いと判断されます。
↑
「考え」ではなく、運動性の発生の為のモノであり「対立物の統一」ではなく、物事の二重化、ですよ。
>問題は、「分からなさの2種類」と挙げられた自由びとさんの事例は、弁証法的な対立関係ではないということです。
↑
「弁証法の対立関係」とは、事実的ではなく、論理的であり、
それは当人が認識内で「何かと何か」を対立させれば成立です。
この場合は、当人の観念内・認識・意志でから、現実はどうでのいいのです。
>南郷先生は何処かで弁証法を使うことはカリタで入れるコーヒーのように個人の技能が関わるもので万人平等ではないと説いていましたけど、それは強く感じますね。
↑
そうですか?
でも…たぶん南郷氏の言葉・認識とは、大きく違っているでしょうがね…
>この形式は滝村先生の「国家には2つの国家(《共同体-即-国家》と《共同体-内-国家》)がある」という考えから形式だけを抜き出してきたもののようにも感じますけどね。
↑
それは、その通りでしょうね。
南郷氏自身が、そんなような事を書いていますよ。
ただ「二重化の形式」を学び取った…らしいですが…
以下省略
>tadaさんは専門が国家論だとか経済学だとかの非理系なのかも知れません。だから「対立物の統一を探していっても対立物の統一が反映するだけで本質は分からない」なんて考えを持っている可能性があります。
>でも私の若い頃の専門は理系の自然科学で、そこでは対立関係を見ていくことは真理探究の常道だったわけです。もっとも、その対立関係は三浦つとむの体系からすると《敵対的矛盾の解消》に向かうのが通例で、形式論理学的には排中律に当たるわけですが。
>具体的な事例でいったら、古代ローマのガレノスという医者がいましてね、豚を柱に縛りつけて生きたまま喉のあたりをメスで切ったわけです。当然に豚はギャースカだかブースカだか叫び声を上げるわけです。それでガレノスは「どうして声が出せるのか?」を「どうしたら声が出せなくなるのか?」という逆方向で探っていって、振動している声帯を切ったら声が出せなくなった」という事実から、「声というのは肉体の中の声帯の機能」だという本質に至るわけです。
>自然科学の歴史では、そうした対立関係の探究が真理として積み上げられた知識の裏にあるわけですから、「こうなったらこうなるはず、逆から言えばああなったらああなるはず」だという未知の事柄への推測、仮説、類推」といったところに《構造》という《類似の関係》を使う《論理学的な方法》が《対立関係》というものを中心として成立するのだと私には思えますけどね。
>空海
>・コメント
>>だって…本当にtadaさんの方がわかり易い、ですよ
>>その理由は、tadaさんは、その人のレベルに合わせて
>>その典型が「まんじゅう国家論」ですね。
>それは自由びとさんの個性の問題でしょうね、と敢えて述べておきます。「まんじゅう国家論」で理解できるなら、それは逆に自分びとさんが国家について詳しく知っているか、それとも「まんじゅう」という誰でも知っている和菓子のイメージで分かった気になっただけかじゃないですか?
↑
「個性の問題」なのは当然なのです。
tada氏は、こここが自由びとの個人ブログと確り認識できているから、
わざわざ丁寧に、私が誤解無くチャンと理解して分かるように、コメントを書いているのです。
これもtada氏の個性なら~
空海お宅のように、そんな事は全く考慮する事無く、自分勝手に書き放題も、空海お宅の個性なのです。
結局は、全ての異なる行為・言動は個性の相違であり、その人間性の違いなのですよ!
>>「まんじゅう」だとか「吉備団子」だとかのアナロジーは逆に難解なものとなり、専門用語を使うということは逆に分かりやすいものだと私は考えていますけどね。
>ですが、まあ、自由びとさんには「専門用語は難しい」という先入観があるようで、「専門用語を使わないこと」が話しを分かりやすくするという思想?に凝り固まっていますから、
敢えて専門用語を使うのを止めることは「私に譲歩してくれた」という心情を自由びとさんには感じさせるかも知れませんね。自由びとさんには、そんな女性的?というか政治的?な感じがありますからね。
↑
馬鹿だね!本当に~
先入観も何も、日頃から聞きなれない・使わない「専門用語」が難しく感じるのは当然。
それを使うも使わないも当人の自由意志です。
ほ~宅には「譲歩」ですか?
結局は、丸暗記している専門用語の言い変えが出来ない!言い訳ですね。
>私自身はtadaさんが「まんじゅう」だとか「吉備団子」だとかのそれ自体は滝村先生が言ったことかも知れない話しを、南郷学派の「缶詰め」というのと「同じ土俵に乗せる」「勝ち負けの世界に引き寄せる」ために述べたという方向づけに意識が行きましたけどね。
>それは滝村先生の「論戦に勝つ」という方向性なのかも知れませんし、南郷先生の「競わせる」という方向性と類似のものかも知れませんけど、自由びとさんのいう「相手のレベルに合わせて分かり易く」というのとは違うと私には感じます。自由びとさんご自身は「相手に合わせる、観念的な二重化」というのが自己を満足させる、望みのものなんでしょうから、心情的に好意を持っている相手は自分の欲しいものを与えてくれていると自己暗示をかけているんでしょう。
普通、相手に分って欲しい前提で書くならば(目的)、
相手のレベル合わせた説明・記述にする、でしょう。
そう思えない、空海お宅は、自己満足・自己陶酔の為に書いているのですね!
>本来、専門的な内容を専門用語を使って説くことは必然的なことで分かりやすくするものですが、それを敢えて専門用語を使わないで説くというのは至難のことだと私には思えますけど、自由びとさんの記述は単に専門用語を使っていないだけでなく何らかの意図的な方法で抽象化しているのでしょうね。
↑
本当に分かっていないね!
普通の人々に「専門用」を使う!
「専門用語」とは分っても、その専門用語の意味を知らない・分からない人に、「分かりやすい筈ない」しょ!
全く英語を知らない人に、三歳レベルの非常に優しい言葉で話しても、全く通じない事と同様です。
専門家にとって簡単・使いやすい「専門用語」も、素人には、意味不明なのです。
こんな簡単な事実・「論理」が、分からないお宅こそかが真の馬鹿者ですよ!
>それが他の看護学の先生の論文は分かりやすいのに神庭さんのお馬鹿な文章は分かりにくいのと同様に、自由びとさんの記述が分からない・論理性のないものとなっている理由だと想像しますけどね。
↑
そんな簡単な言い回しが「分からない」理由は、
お宅が「専門用語の暗記」は出来ても、
その「専門用語の概念化」が出来ていない証明ですよ。
その「専門用語」の論理性が分かっているなら、
別の言い回し・言葉でも、同一の論理性の発見は可能ですよ!
それが、できないのも宅の個性、ですかね!
こんなこと言っても自由びとさんには何のことか理解できないかも知れませんけど、身体・肉体を持っている人間は肉体を使って考えるわけで、その肉体の使っている領域が浅いと思慮も浅くならざるをえないんですね。
ノーベル賞ものの私の先生から学んだ内容ですから、あまり詳しくはお話しできなくて残念ですけどね。
本記事の冒頭に「「分からない」の二重性」なんてことが書いてありますけど、その「分からなさには2種類ある」みたいな形式が、どーも自由びとさんの以前から習慣化されている思考スタイルみたいなんですね。
「何か◯◯という事柄がある、それには2種類あり…」というのが例外なく自由びとさんが記述する思考のスタイルだということです。その「例外なく用いる」という形式が、自由びとさんにとっては論理的な「一貫性」ということなのかも知れませんけどね。
それで「一つ ◯◯、一つ ◯◯」と挙げられた内容は「相手の言葉の意味が分からない」と「自分が、何故に「相手の言葉が分からない」のかが、分からない」という、
実際に相手の言ってることが分からない事例はそんなことではないでしょう?という現実の問題を考えるには全く役に立たない無益な言葉の羅列になっています。しかし、確かに専門用語は使われてはいけないわけですよ。
ここで自由びとさんが「構造」と言っているのは「一つの事柄に二つの事が考えられる」という形式を「構造」と言っているようですね。
例えば「1つの家(分からない)には2つの部屋(2つの分からなさ)がある」みたいな、ね。
つい昨日、参照した南郷先生の『哲学論理学原論』(2017年)にも「対立物の統一」を《弁証法の構造》だと記載していますから、自由びとさんが言っていたような南郷先生が対立物の統一という考えを捨てたということは無いと判断されます。
問題は、「分からなさの2種類」と挙げられた自由びとさんの事例は、弁証法的な対立関係ではないということです。
南郷先生は何処かで弁証法を使うことはカリタで入れるコーヒーのように個人の技能が関わるもので万人平等ではないと説いていましたけど、それは強く感じますね。
この形式は滝村先生の「国家には2つの国家(《共同体-即-国家》と《共同体-内-国家》)がある」という考えから形式だけを抜き出してきたもののようにも感じますけどね。
tadaさんは専門が国家論だとか経済学だとかの非理系なのかも知れません。だから「対立物の統一を探していっても対立物の統一が反映するだけで本質は分からない」なんて考えを持っている可能性があります。
でも私の若い頃の専門は理系の自然科学で、そこでは対立関係を見ていくことは真理探究の常道だったわけです。もっとも、その対立関係は三浦つとむの体系からすると《敵対的矛盾の解消》に向かうのが通例で、形式論理学的には排中律に当たるわけですが。
具体的な事例でいったら、古代ローマのガレノスという医者がいましてね、豚を柱に縛りつけて生きたまま喉のあたりをメスで切ったわけです。当然に豚はギャースカだかブースカだか叫び声を上げるわけです。それでガレノスは「どうして声が出せるのか?」を「どうしたら声が出せなくなるのか?」という逆方向で探っていって、振動している声帯を切ったら声が出せなくなった」という事実から、「声というのは肉体の中の声帯の機能」だという本質に至るわけです。
自然科学の歴史では、そうした対立関係の探究が真理として積み上げられた知識の裏にあるわけですから、「こうなったらこうなるはず、逆から言えばああなったらああなるはず」だという未知の事柄への推測、仮説、類推」といったところに《構造》という《類似の関係》を使う《論理学的な方法》が《対立関係》というものを中心として成立するのだと私には思えますけどね。
>その理由は、tadaさんは、その人のレベルに合わせて
>その典型が「まんじゅう国家論」ですね。
それは自由びとさんの個性の問題でしょうね、と敢えて述べておきます。「まんじゅう国家論」で理解できるなら、それは逆に自分びとさんが国家について詳しく知っているか、それとも「まんじゅう」という誰でも知っている和菓子のイメージで分かった気になっただけかじゃないですか?
「まんじゅう」だとか「吉備団子」だとかのアナロジーは逆に難解なものとなり、専門用語を使うということは逆に分かりやすいものだと私は考えていますけどね。
ですが、まあ、自由びとさんには「専門用語は難しい」という先入観があるようで、「専門用語を使わないこと」が話しを分かりやすくするという思想?に凝り固まっていますから、
敢えて専門用語を使うのを止めることは「私に譲歩してくれた」という心情を自由びとさんには感じさせるかも知れませんね。自由びとさんには、そんな女性的?というか政治的?な感じがありますからね。
私自身はtadaさんが「まんじゅう」だとか「吉備団子」だとかのそれ自体は滝村先生が言ったことかも知れない話しを、南郷学派の「缶詰め」というのと「同じ土俵に乗せる」「勝ち負けの世界に引き寄せる」ために述べたという方向づけに意識が行きましたけどね。
それは滝村先生の「論戦に勝つ」という方向性なのかも知れませんし、南郷先生の「競わせる」という方向性と類似のものかも知れませんけど、自由びとさんのいう「相手のレベルに合わせて分かり易く」というのとは違うと私には感じます。自由びとさんご自身は「相手に合わせる、観念的な二重化」というのが自己を満足させる、望みのものなんでしょうから、心情的に好意を持っている相手は自分の欲しいものを与えてくれていると自己暗示をかけているんでしょう。
本来、専門的な内容を専門用語を使って説くことは必然的なことで分かりやすくするものですが、それを敢えて専門用語を使わないで説くというのは至難のことだと私には思えますけど、自由びとさんの記述は単に専門用語を使っていないだけでなく何らかの意図的な方法で抽象化しているのでしょうね。
それが他の看護学の先生の論文は分かりやすいのに神庭さんのお馬鹿な文章は分かりにくいのと同様に、自由びとさんの記述が分からない・論理性のないものとなっている理由だと想像しますけどね。
>空海
>・コメント
>自由びとさん、お宅が引き続き私と関わり合いたい感情を持っていることは理解しました。
↑
この理解は間違ってはいないが…
それでも…これは私の感情の一部であり、関わりたくない二度と書くな的な感情の存在も事実です。
>ですが残念ながら私のほうにはそうした感情がありません。理由はお宅も理解されているように対話の相手としてはお宅は余りに馬鹿だからです。否、自分が馬鹿なことさえ自覚のない真性の大馬鹿者かも知れませんね、お宅は。
↑
誘ってないのに…「残念ながら…」とは変な言葉だ!
お宅と私が、いつ・どこで対話をしているのか?
私は、お宅が自分勝手に読み取った事柄への訂正、
または、私のお宅への勝手な感情的な思いは書き綴っているが…
>お宅が馬鹿な理由も簡単で、勉強していないからに尽きます。
↑
お宅の「馬鹿」と私の「馬鹿」は、同じ概念なのだろうか?
ここでも、「馬鹿」の概念的一致は望めない、だろう…
>私にはお宅と対話するメリットが何一つありませんが、今日は暇つぶしにコメントを残しましょう。
↑
「メリット」は、ヒマ潰し?
>先ずは今回の自由びとさんの投稿の後半部分、私に名指しで書いたものに対してです。
↑
え?コメントに「自由びと」のHDを書き込んだのは、空海お宅ですよ!
>>自身が自由びと記述を分からない理由・訳・構造」が分からない事を考えよう・分かろうとしていない…
>そんな事は考える必要もない事です。何を考え何を考えないかは自分の主体性の問題ですよ。もしも必要ならば「自由びとさん、ここのこの発言はどういう意味ですか?」といった質問をするでしょうが、そんな事を問う必要もないと考えています。
↑
それは、空海お宅の勝手です。
このような発言は、他人のブログに書き込む必要のないモノ。
空海お宅が、自由びとブログにコメントを寄越すから、書いているだけ…
自由びとブログで、空海お宅事の言説・展開は不要ですよ。
>私が自由びとさんの記述を分からない理由も私自身には理解できていて、端的には「自由びとの記述は論理的ではないから!」の一言に尽きます。
↑
どうぞ!それは空海お宅の理解です。
そもそも…「論理的」の概念もお宅と私では、異なっているでしょうし…
人は、どんな人でも、その人なりのレベルでの理解・納得を抱いているモノですよ!
互いの言葉の不一致点を見つけるか!or一致点を見つけるか!
それとも…不一致と一致を同時に見て取るか!
>ただ、ここで自由びとさんが「理由・構造」と書いていることには一瞬だけ「ん?」と反応しましたね。というのも最近、私自身に「構造」ということの問題意識が生じたからです。ですが、今回はその話しは止めておきましょう。自由びとさんが書いた「理由が構造」ということは私の問題意識とは違う考えですから、自由びとさんご自身で発展なさって下さい。
「理由が構造」ではなく、理由の中の構造です。
>>端的に書くなら空海お宅が、自由びと記述を分かる事が出来ない原因・理由は、ある特定の語彙の意味・概念…の相違であろう。
>自由びとさんはこんな事を書いて、そして弁証法の概念に繋げていくわけですが、自由びとさんの弁証法についての記載も私には何らの興味ある内容はありませんでした。それでも、そこから想起されることがあり、これは南郷先生が本で書いている方向を進んでいるのだな、ということですよ。
↑
…他の言葉が浮かばなかったので…弁証法用語にしました。
>「弁証法は変化・運動性の法則化」→「弁証法は変化・運動性の性質の法則化」
と自由びとさんの概念が変化したというのは、南郷先生が何処かで似たこと書いていたなと思い『哲学・論理学原論』を見てみたらp395~398にかけて南郷先生の「学問とは何ぞや」との概念規定の変遷が説いてあり、〔3〕に至って完結したのだと説いています。
↑
より正確には、南郷氏の御著書の言葉を手掛かり・参考にして、私が私の日々関わっている現実の物事に問いかけた結果なのです。
>京都の寄筆さんが「『哲学・論理学原論』で南郷先生の学が完成した」と述べていたのは、ここだったかと思いましたけど、それ以上の感慨はありませんでした。
↑
「感慨なくても」別にいいんじゃない!
また、ここに書く必要も皆無ですし…
感動・感慨できるのも…その人物の能力・実力だし…
>南郷先生にとって、そして自由びとさんにとっては「◯◯とは何ぞや」という概念規定をすることが学の完成というか学的な目標なんでしょうね。ですが、私にとってはそうではありませんから、南郷先生の「学問とは何とかかんとかである!」なんて規定を見ても、自由びとさんが新たに「性質」なんて言葉を加えて「弁証法とは何とかかんとかである!」と述べても私からすると「ふーん」ぐらいのもので興味が湧かないんです。
「概念規定」が目標ではなく、事実・事柄…を的確に言葉表現・認識可能にするのが目標かな…。
一つ一つの言葉・言語で表現された物事・事柄の本質・概念を識りたい…かな。
>そして、南郷先生の『哲学論理学原論』のもう少し前のp384に「(1)わが研究会における闘論の学的意義」というのがあって、そこに「喧嘩をするレベルで論じ合う」というのが書いてあります。
>それを見て、私はようやく自由びとさんの意味不明な言葉の羅列が、自由びとさんの中には南郷先生を慕い追いかける認識があり、私(空海)を南郷学派の研究会の闘論に誘っているのだという《意味》を理解したわけです。
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ここで、私が「誘っている」という認識は、空海お宅の「入会したい」感情・願望の現れですね。
空海お宅の外界の発生した私の言葉を、お宅の認識・感情で問いかけた結果ですね。
>しかし、南郷学派の人間でもなければ、そちらの方向に行こうともしていない私には全く理解できなかった、と。
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お宅の中の個人的な願望・感情を、上記のお宅自身の言葉で自分を納得させて、いるようですね。
>ここまで説いても自由びとさんはご自分の馬鹿さ加減を自覚できず空海よりもtada氏のほうが分かりやすいと言いますかね?
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だって…本当にtadaさんの方がかかり易い、ですよ
その理由は、tadaさんは、その人のレベルに合わせて、その人が分かり易く説いてくれてから…
その典型が「まんじゅう国家論」ですね。
それに比べて、空海お宅は、小難しい専門用語を駆使して、言葉を組み立てているね。
だから、専門用語に疎い私には、そもそも、その記述の意味理解が至難…
それでも、至難に耐えて、ネット解説を頼りに何とか理解しても…
その用語を駆使した空海お宅の文面・内容に、どうしても論理的一貫性が、読み取れない・感じられない事。
以上ですね…
これは「対話」ではなく、
自由びとブログに寄越された、
空海お宅の記述・コメントへの私の感想です。
ですが残念ながら私のほうにはそうした感情がありません。理由はお宅も理解されているように対話の相手としてはお宅は余りに馬鹿だからです。否、自分が馬鹿なことさえ自覚のない真性の大馬鹿者かも知れませんね、お宅は。
お宅が馬鹿な理由も簡単で、勉強していないからに尽きます。
私にはお宅と対話するメリットが何一つありませんが、今日は暇つぶしにコメントを残しましょう。
先ずは今回の自由びとさんの投稿の後半部分、私に名指しで書いたものに対してです。
>自身が自由びと記述を分からない理由・訳・構造」が分からない事を考えよう・分かろうとしていない…
そんな事は考える必要もない事です。何を考え何を考えないかは自分の主体性の問題ですよ。もしも必要ならば「自由びとさん、ここのこの発言はどういう意味ですか?」といった質問をするでしょうが、そんな事を問う必要もないと考えています。
私が自由びとさんの記述を分からない理由も私自身には理解できていて、端的には「自由びとの記述は論理的ではないから!」の一言に尽きます。
ただ、ここで自由びとさんが「理由・構造」と書いていることには一瞬だけ「ん?」と反応しましたね。というのも最近、私自身に「構造」ということの問題意識が生じたからです。ですが、今回はその話しは止めておきましょう。自由びとさんが書いた「理由が構造」ということは私の問題意識とは違う考えですから、自由びとさんご自身で発展なさって下さい。
>端的に書くなら空海お宅が、自由びと記述を分かる事が出来ない原因・理由は、ある特定の語彙の意味・概念…の相違であろう。
自由びとさんはこんな事を書いて、そして弁証法の概念に繋げていくわけですが、自由びとさんの弁証法についての記載も私には何らの興味ある内容はありませんでした。それでも、そこから想起されることがあり、これは南郷先生が本で書いている方向を進んでいるのだな、ということですよ。
「弁証法は変化・運動性の法則化」→「弁証法は変化・運動性の性質の法則化」
と自由びとさんの概念が変化したというのは、南郷先生が何処かで似たこと書いていたなと思い『哲学・論理学原論』を見てみたらp395〜398にかけて南郷先生の「学問とは何ぞや」との概念規定の変遷が説いてあり、〔3〕に至って完結したのだと説いています。
京都の寄筆さんが「『哲学・論理学原論』で南郷先生の学が完成した」と述べていたのは、ここだったかと思いましたけど、それ以上の感慨はありませんでした。
南郷先生にとって、そして自由びとさんにとっては「◯◯とは何ぞや」という概念規定をすることが学の完成というか学的な目標なんでしょうね。ですが、私にとってはそうではありませんから、南郷先生の「学問とは何とかかんとかである!」なんて規定を見ても、自由びとさんが新たに「性質」なんて言葉を加えて「弁証法とは何とかかんとかである!」と述べても私からすると「ふーん」ぐらいのもので興味が湧かないんです。
そして、南郷先生の『哲学論理学原論』のもう少し前のp384に「(1)わが研究会における闘論の学的意義」というのがあって、そこに「喧嘩をするレベルで論じ合う」というのが書いてあります。
それを見て、私はようやく自由びとさんの意味不明な言葉の羅列が、自由びとさんの中には南郷先生を慕い追いかける認識があり、私(空海)を南郷学派の研究会の闘論に誘っているのだという《意味》を理解したわけです。
しかし、南郷学派の人間でもなければ、そちらの方向に行こうともしていない私には全く理解できなかった、と。
ここまで説いても自由びとさんはご自分の馬鹿さ加減を自覚できず空海よりもtada氏のほうが分かりやすいと言いますかね?