昨日、風呂で洗髪せず!
「昨日は風呂で洗髪をしなかった。」
↑⇒これは事実である。
「一昨日も洗髪しなかった」
↑⇒これも事実である。
ならば、これらの言葉に含まれる論理は?
それは、昨日は洗髪すべき日だったのに洗髪しなかった。
幼い頃から習慣で、私は一日おきに洗髪している。
そのようになった理由は、
毎日の洗髪は面倒。
でも二日間連続でしないと髪の毛が痒くなる。
以前、風呂は一日おきだったので、毎回必ず洗髪していた。
でも、父親の家に引っ越してからは毎日風呂に入っている。
風呂は二日間入って入れ直し。
なので、新しく入れた風呂の日は洗髪と決めていた。
ならば、洗髪すべき日にしなかった理由は何か?
それを「忘れた!」と言い切るなら…的確ではない。
失念でも忘れた訳でもなく。
私の「思い込み」からであった。
別言するから「勘違い」でもある。
昨日、「息子が新しく風呂を入れた」事は知っていた。
なのに…何を思ったか…
入浴した時『今日は追い炊きの日』と思い込でいた。
子供時代なら、新しい知識・行動パターンの定着に時間が必要である。
その定着までには、忘れる、覚えているのに思い出せない…事もある。
「忘れる」とは、「亡くす心」と書くが…
「心を亡くす」とは、心ここにあらず、であろうか…
昨日の私は、昨日の私の心は昨日になく、一昨日にあった。
昨日の私の心は、新しく入れた風呂に入ろうとしている心。
一昨日の私の心は、追い炊きの風呂に入ろうとした心。
新しい風呂なら洗髪。
追い炊きなら湯船に浸かるだけ。
一昨日の心で、昨日を生きた私…。
今の私…
果たして、
今の私の心で今を生きているだろうか?
今の私の心は、
昨日と一昨日の事を思い出そうとしている心。
幼少時からの風呂に関わる心。
今を生きる為の心とは、
過去から現在までの私を思い起こし、
その流れに乗せたモノであろう。
過去は、どの時点に設定するか?
現在は、今の何に焦点を合わせるか?
今は、ブログを書いている。
テーマは「昨日、風呂で洗髪せず!」である。
ならば、
過去は、昨日であり一昨日であり、更に幼少期であった。
現在は、パソコン画面を見て入力している今、である。