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「虚偽と真実」の話

2024-08-08 11:42:28 | 「わたし事・学」
「虚偽と真実」の話


今回も以下のような言語の意味確認から始めよう。

【虚偽】
うそ偽り。真実でない事を、誤ってまたは故意に、真実だとすること



「真実」と「事実」はどちらも「うそ偽りのないこと」を指す言葉ですが、ニュアンスが異なります。

「真実」とは、「嘘偽りがなく本当であること」という意味で、事実に対する偽りのない解釈を指します。人によって見え方や捉え方が変わるもので、想像や推測を排除しません。

「事実」とは、「現実に存在する事柄」という意味で、実際に起こった客観的な出来事のみを指します。揺るぎようのない不変的な出来事や状況を表すもので、想像や推測、夢、デマ、うそ、まちがいなどの反対にあたります。

「真実」とは、「嘘偽りがなく本当であること」という意味。 「事実」は「現実に存在する事柄」という意味。 似たような言葉ではあるが、それぞれの違いが上手く描かれた作品であると感じました。 また事実の上から第三者が様々な思考を凝らし、さもそれが真実であるかのように語る局面は日常生活の中でも多々あるのではないでしょうか。


次は以下のような例え話である。


Aさんは、親から相続した宝石ダイヤモンドを持っている。
親の遺言では、宝石が数百万円の価値があるから、金に困った時に有効活用して…

ある時、急に現金が必要になったAさんは、
一時的な換金の為に質屋へ宝石を持ち込んだ。
その時、質屋から「これは精巧な模造品なので…」と言われて、Aさんショック!




さて~上記のような場合~
Aさんにとってのダイヤモンドは~
「宝石・価値は数百万」という親の遺言を鵜呑み確信による観念的・主観的な事実。
しかし、実際は「精巧な模造品・そんな価値はない」という現実的・客観的な事実。

観念内の主観的な確信している事が「主観的」な事実なら、
現実界での社会的に信じている事は「客観的」な事実。

実際に、「神」を信じている者にとっては「神の存在は現実・事実」。
しかし、「神」を信じていない者にとっての「神は人類の創造物」。
それは、心霊、幽霊、宇宙人、陰謀説…の全てに言える事実・物事。

またまた例えば~
朝起きて、息子が「頭痛い!病気だ!学校休む!と言ったとす。

「頭痛い」は、息子の個体・主観的な事実。
でも「病気だ!」は、病気という客観的事実。
この「病気か否か」は、気怠さ…発熱…頭痛以外の症状が「あるか否か」
そんな身体的異変・症状の確認が必要。

ただ、「頭が痛い!体調不良!欠席したい!」なら、虚偽の無いほぼ(主観的な)事実(だけ)。


事実の二重性
一つ、現実界で起きた客観的な出来事。
一つ、現実の(客観的な)事実に、人の解釈が入っている「主観的な出来事」。


また、人々の主観的事実を多く集めて、論理化・全体的な事実を構成した時、それが真実。

現実の部分的な真実。
現実の全体的な真実。

ただ、今この瞬間に全体も部分のない。
一人の人間が一度に感覚可能な事実とは、常に全部であり、それは全体の一部。
でも、同じ時・場を共有している人々が、その個々の事実を総括・総合したなら、それはその場・時の真実。


人を信じる・友を信じる事~

去年他界した家内の父親は、若い頃に親友の数千万円の銀行からの借金の連帯保証人になった。
その後、その友人は返済できずに…結果的に義父が全額返済する事になり…大変な思いをしたそうである。

その親友には、義父を騙すつもりは、なかったのだろう。
それでも結果的に義父は騙された、ようモノであろう。
何故なら、その親友は後に、義父に返済をしてもった借金を返してないようだから…

騙すつもり・嘘のつもり・もない主観的な(自分で返済する思い)観念的事実でも…
客観的な(返済不能)客観的な事実になったら、初めの認識は、結果的に虚偽・騙した・嘘をついた!になり得てしまう。


「虚偽⇔真実」関係は、人類の場合は、
現実界と認識界の「二重の事実」の関係性・運動性で、時々に変化・運動している。


人類にとっては~

今日の虚偽は、明日の真実。
今日の真実は、明日の虚偽。

昨日の真実は、今日の虚偽。
昨日の虚偽は、今日の真実。





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