アキレスは何故…?
ゼノンのアキレスは何故にカメに勝てないのか?
それは端的には、「アキレスの目的意識が間違っている」から~
そもそも、この「アキレスとカメの競争」の場合の勝利とは、先に「ゴール」する事。
従って、目指すは「ゴール」であり、ゴールへ一直線走行が正解…
なのに…ゼノンのアキレスは「カメに追い付く事を目標」にして必死に走っている…
そう~「追い越す」でも「追い抜く」でもなく「追い付く」である…
しかも…余りにも必死だった…のか?!
アキレスは自分の歩調・一歩の間・歩幅…の変化に気付けずに必死の走行~。
もっとも…仮に~
「アキレスはゴールを知らない」とか…
「アキレスは近視で、遠くのゴールが見えない!」とか…
「カメはゴールを知っている」とか…
「遠視のカメにはゴールが見える」とか…
そんな理由があるなら…また別の話になるが…
そのような場合ならば、アキレスは、カメを追い越す時に、
カメを抱きかかえ、道案内にして一緒にゴールを目指せばいい~
そして…ゴール寸前にカメを横の抱え、胸からゴールすれば…アキレスの勝利!
師範が御著書で説いている「絶対矛盾」とは~(時代の)哲学は完成とともに…未完になり得るという事。
その理由は、世界・哲学が自然・社会・精神…の変化運動の論理化・理論化・学問化であるから…
それらが、全体的に学問・哲学として完成した時点での、
現実の世界・自然・社会・精神は…もう新たな変化・運動が始まっている。
我々人類は、変化・運動している現実・世界の中で、その変化・運動性の法則化をしている。
それと、同時に人類は、その法則化した法則に基づいて現実・世界を改造・改革している…
それは、人類は人為的に現実・世界を変えながら、その法則性を法則化している。
現実・世界の法則を把握した時点の「現実・世界」と、
その法則化した法則駆使して現実・世界に働き掛けた後の「現実・世界」とでは…少々異なっている
その哲学完成前の過去の「現実・世界」に、更なる人為的(自然的とは)異質の変化・運動が生じている…のだろう。
従って…哲学の完成した時点では、
現実・世界では、既に新たな変化・運動の生々生成が始まっている…のだろう。
人類の哲学・学問は、どんなに頑張っても…現実・世界との一致は不可能!
しかし…そこで弁証法の技化がなされれば、
完成した哲学に弁証法を適用して、「新たな現実・世界の予想・推論」は可能!
ゼノンのアキレスは何故にカメに勝てないのか?
それは端的には、「アキレスの目的意識が間違っている」から~
そもそも、この「アキレスとカメの競争」の場合の勝利とは、先に「ゴール」する事。
従って、目指すは「ゴール」であり、ゴールへ一直線走行が正解…
なのに…ゼノンのアキレスは「カメに追い付く事を目標」にして必死に走っている…
そう~「追い越す」でも「追い抜く」でもなく「追い付く」である…
しかも…余りにも必死だった…のか?!
アキレスは自分の歩調・一歩の間・歩幅…の変化に気付けずに必死の走行~。
もっとも…仮に~
「アキレスはゴールを知らない」とか…
「アキレスは近視で、遠くのゴールが見えない!」とか…
「カメはゴールを知っている」とか…
「遠視のカメにはゴールが見える」とか…
そんな理由があるなら…また別の話になるが…
そのような場合ならば、アキレスは、カメを追い越す時に、
カメを抱きかかえ、道案内にして一緒にゴールを目指せばいい~
そして…ゴール寸前にカメを横の抱え、胸からゴールすれば…アキレスの勝利!
師範が御著書で説いている「絶対矛盾」とは~(時代の)哲学は完成とともに…未完になり得るという事。
その理由は、世界・哲学が自然・社会・精神…の変化運動の論理化・理論化・学問化であるから…
それらが、全体的に学問・哲学として完成した時点での、
現実の世界・自然・社会・精神は…もう新たな変化・運動が始まっている。
我々人類は、変化・運動している現実・世界の中で、その変化・運動性の法則化をしている。
それと、同時に人類は、その法則化した法則に基づいて現実・世界を改造・改革している…
それは、人類は人為的に現実・世界を変えながら、その法則性を法則化している。
現実・世界の法則を把握した時点の「現実・世界」と、
その法則化した法則駆使して現実・世界に働き掛けた後の「現実・世界」とでは…少々異なっている
その哲学完成前の過去の「現実・世界」に、更なる人為的(自然的とは)異質の変化・運動が生じている…のだろう。
従って…哲学の完成した時点では、
現実・世界では、既に新たな変化・運動の生々生成が始まっている…のだろう。
人類の哲学・学問は、どんなに頑張っても…現実・世界との一致は不可能!
しかし…そこで弁証法の技化がなされれば、
完成した哲学に弁証法を適用して、「新たな現実・世界の予想・推論」は可能!