「武道の理論」・「武道講義」と私~
この表題は、どこかでお目にかかったモノに似ているようだが…
う~ん…過去の玄和会の昇段審査でのレポートの課題に似ている?!
さて、私は、今回の空海お宅のコメントから想い出した事がある。
それは、「武道の理論」を初めて読んだ時の理由・状態…である。
当時の私は、大学のサークル「松濤館流空手道愛好会」所属の大学三回生。
大学図書館で色々な空手関係の著作を読み漁っていた。
そこでの、私の気持ちは「空手が強くなりたい」。
空手の試合(寸止め)・空手の自由組手(寸止め)…で勝ちたい・強くなりたい!であった。
そんな当時の私だから、「武道の理論」よりも、「武道の復権」…の方に魅かれいた…ようだ。
それでも…「感動」というより、そんな風に考えられるとは、凄い…だった。
それが、試合での勝敗の決め方の以下の二通りの視点。
「技の形の優勝さの判定」と「技の使い方・強さの判定」
これには、当時の私に、新たな気付きが与えられた。
そんな私が、その後、月刊空手道誌連載の「武道講義」との出会いでは、大きな感動を得た。
その理由は、当時の私が空手・武道ではなく、日々の暮らしの中での仕事・遊び・恋愛・人生の生き方…に関心があったから、だろう。
「武道講義」との出会いの当時は、一度「青雲塾」へ入会(教員時代)して、その後中途で挫折して数年後であったが…。
その時は、教員を止めて、父のパチンコ店の手伝いをして、それも父との口論で止めて…
その後、父の知り合いのパチンコ店の事務手伝いをしていた頃…。
言うなれば、そんな「人生の迷い人」時代の私が、
出会った「武道講義」だから、非常なる感激・感動が感じられた、のだろう。
人生・環境の突然・急激な変化は、個人レベルの新発見・新たな出会いがあり、
そこには、個人レベルでの新たな気付きが起こり得る。
もっとも…この認識は、今ここでの振り返りをしたから…
今の私の認識で、過去の私の人生を振り返ったからの起こり得た気付きであろうが…
まあ~これも、
私が空海お宅のコメント(時に糞が混じり臭いが…)
と真面目に関わり続けた恩恵であろうか…
糞コメントに出会う「不運」、そんな臭い思いをした「不幸」を、
「新発見・新たな気付き」のと出会いの「幸運」を、
そして、それらを生かして更なる「幸福」を掴み取る為に~
この表題は、どこかでお目にかかったモノに似ているようだが…
う~ん…過去の玄和会の昇段審査でのレポートの課題に似ている?!
さて、私は、今回の空海お宅のコメントから想い出した事がある。
それは、「武道の理論」を初めて読んだ時の理由・状態…である。
当時の私は、大学のサークル「松濤館流空手道愛好会」所属の大学三回生。
大学図書館で色々な空手関係の著作を読み漁っていた。
そこでの、私の気持ちは「空手が強くなりたい」。
空手の試合(寸止め)・空手の自由組手(寸止め)…で勝ちたい・強くなりたい!であった。
そんな当時の私だから、「武道の理論」よりも、「武道の復権」…の方に魅かれいた…ようだ。
それでも…「感動」というより、そんな風に考えられるとは、凄い…だった。
それが、試合での勝敗の決め方の以下の二通りの視点。
「技の形の優勝さの判定」と「技の使い方・強さの判定」
これには、当時の私に、新たな気付きが与えられた。
そんな私が、その後、月刊空手道誌連載の「武道講義」との出会いでは、大きな感動を得た。
その理由は、当時の私が空手・武道ではなく、日々の暮らしの中での仕事・遊び・恋愛・人生の生き方…に関心があったから、だろう。
「武道講義」との出会いの当時は、一度「青雲塾」へ入会(教員時代)して、その後中途で挫折して数年後であったが…。
その時は、教員を止めて、父のパチンコ店の手伝いをして、それも父との口論で止めて…
その後、父の知り合いのパチンコ店の事務手伝いをしていた頃…。
言うなれば、そんな「人生の迷い人」時代の私が、
出会った「武道講義」だから、非常なる感激・感動が感じられた、のだろう。
人生・環境の突然・急激な変化は、個人レベルの新発見・新たな出会いがあり、
そこには、個人レベルでの新たな気付きが起こり得る。
もっとも…この認識は、今ここでの振り返りをしたから…
今の私の認識で、過去の私の人生を振り返ったからの起こり得た気付きであろうが…
まあ~これも、
私が空海お宅のコメント(時に糞が混じり臭いが…)
と真面目に関わり続けた恩恵であろうか…
糞コメントに出会う「不運」、そんな臭い思いをした「不幸」を、
「新発見・新たな気付き」のと出会いの「幸運」を、
そして、それらを生かして更なる「幸福」を掴み取る為に~
お前の「糞」は犬や猫が尻から出す排泄物のことで概念的には何ら普通の人間と変わりはない。
それが再利用可能だという「有価値、無価値」ということならば、昔から農作物の肥料などに使われていたもので、それで「糞」という言葉の概念が変わるということはない。
それよりも自分が30年も在籍していた空手団体の歴史を知らないということのほうが異常だよ。そんな流派、他にないから。誰もが自分の流派の創始者や歴史を知っているものだし、後進に伝えようとするだろう。
やはり、お前は実際には玄和の会員ではないようだ。
お前は南郷先生と酒席を共にしたことはあるか?
>マルクス
・>コメント
>お前は相変わらずデタラメな言葉を並べて誤魔化すだけの人格だなww
↑
「お前も相変わらず汚い言葉で罵るだけのお宅的人格だな」♪♪♪
お宅の「デタラメ」は、私には「私の論理」または「私の事実」ですね。
お宅の「誤魔化す」とは、私には「より詳しく認識を表現する」ですかね。
>お前が書いたのは「嘘くさい」ではなく「糞が臭い」だろう。お前が飼っている?犬や猫の糞が臭いように(私はお前の家畜を見たことがないから、その糞の臭さは知らないし、あたかも知っているが如くに語るつもりもないがww)、私の発言が臭いと書いた。
↑
「そうそう「糞くさい」とも書いましたね!思い出しましたよ!
お宅が、
「>自由びとさんは私のコメントを「嘘が混じっていて臭い<などと書いていますけど…」
と書いていたのから…そのように受けて書いきました。
そう「糞くさい」の解説なら、また少々違いますね。
その解説には、私の「糞概念」の解説から始めなければ…
もっとも…どうせお宅は、真面に読んで分かろうとしない事は分かっていますが…
私の「糞概念」とは、
(一)「出がらし的で全く栄養分のない糞コメント」と
(二)「まだ少々栄養のある糞コメント」の二通りがあります。
(一) の「栄養分のない糞コメントは、お宅的な事実の羅列で私に全く納得不能・無意味なモノ。
(二)の「まだ栄養分のある…」の方は、多少は私の納得可能な事実的記述部分があるモノ。
その糞の見分け方で、「栄養分のないコメント」を愛柴犬マロンのような
「匂いでの判定」で例えて~純粋な「糞くさい」と書きました。
何せ・どうせ・どの様に書こうが~
お宅は「…真面目に読まない・読めない」といった事を書いていたので、
遊び心で、愛柴犬マロン的な「ウンチ表現」です。
なんせ…糞を食べられる糞と食べられない糞を臭い分けが可能な本能の持ち主犬でからね…
でも…実際は、「匂い」ではなく、読後の総合的・感覚的な感情での判断なのですが…
どうしても思い出せない・記憶にないので、今調べました。
私は以下のように書いていますよ!
>この正規分布コメントの~
>この匂い~
>愛柴犬マロンなら絶対に食べない糞コメント~
>愛猫マニャの真っ黒で硬い糞レベルですね。
↑~でしたよ!
「この匂い~」を お宅を納得させるレベルで解くには…
それを正しく解説するには、過去に読んだ正規分布の本の再読が必要ですね。
>玄和会が玄制流と和道流からできたと書いてあったのは以前のWikipediaだろう。しかし、玄和会創設メンバーである門倉利彦、岩谷忠也、中村勇作、高橋洋一、あと一人忘れたの中に和道流の人物がいるとは思えない。
↑
よくぞ!御存じですね!
私には、「そうですか…」としか書けませんが…
でも…ただ…「そのお宅が忘れた人物が和道流」の可能性もあり!ですかね。
>このWikipediaの記事が書いてあった時期は丁度田熊氏が玄和会会長だったという噂も聞いているから、そこからもたらされたガセかも知れないとは想像しているが。田熊氏は早稲田大学の和道流の黒帯から玄和会へ鞍替えしたらしいからな、風の便りによるとw
↑
これも、お宅の想像した事実を恰も…真の事実・真実の如く説いていますね!
これは、「純粋ではなく栄養の混じった糞くさい」コメントですかね。
>祝嶺先生と南郷先生とが犬猿の仲だったのは玄制流から玄和会に至る黎明期に在籍していた幹部の手記によってハッキリと書いてあることで、そうした史料は大学のOBたちの手元にあるのだろう。
↑
これも私には「そうですか…」レベルですかね。
果たして、これが真実であるか否かは、この事を知り得る立場の人にしか分からない事。
そもそも…「幹部の手記」とか「史料」とか…さもあり得るかのように書かれていても…
実際に、そのようなモノを書いて残すモノでしょうか…私から書きません・残しませんね。
だから、これも私的には「…混じり糞くさい」ですね。
>私はそこに興味があるのだ。松濤館流、玄制流、錬武館という本土の空手を代表する流派が交錯する空手史の1ページだから。そこに玄和会も付け足しで存在する。
↑
どうぞ御自由に調べ下さいな!
お宅の調べたモノが、真実である…事を祈っていますね!
お前が書いたのは「嘘くさい」ではなく「糞が臭い」だろう。お前が飼っている?犬や猫の糞が臭いように(私はお前の家畜を見たことがないから、その糞の臭さは知らないし、あたかも知っているが如くに語るつもりもないがww)、私の発言が臭いと書いた。
玄和会が玄制流と和道流からできたと書いてあったのは以前のWikipediaだろう。しかし、玄和会創設メンバーである門倉利彦、岩谷忠也、中村勇作、高橋洋一、あと一人忘れたの中に和道流の人物がいるとは思えない。
このWikipediaの記事が書いてあった時期は丁度田熊氏が玄和会会長だったという噂も聞いているから、そこからもたらされたガセかも知れないとは想像しているが。田熊氏は早稲田大学の和道流の黒帯から玄和会へ鞍替えしたらしいからな、風の便りによるとw
祝嶺先生と南郷先生とが犬猿の仲だったのは玄制流から玄和会に至る黎明期に在籍していた幹部の手記によってハッキリと書いてあることで、そうした史料は大学のOBたちの手元にあるのだろう。
私はそこに興味があるのだ。松濤館流、玄制流、錬武館という本土の空手を代表する流派が交錯する空手史の1ページだから。そこに玄和会も付け足しで存在する。
>マルクス
>コメント
>自由びとさん、自由びとさんは私のコメントを「嘘が混じっていて臭い」などと書いていますけど、私は私として自分で調べて理解したまでを書いているに過ぎません。
↑
その調べて理解した過程に、仮に少々の「間違い・誤解」が混じれば、それは「嘘が混じり」ますね。
>私のコメントを嘘だというのなら、では本当のことはこれこれこうだと述べるのが本筋でしょう。
↑
そうですね!
「…嘘が混じっていた臭い」事にについて、今少し解説しましょう!
もっとも…この私の解説をお宅が理解し分って、本当だと思える保証はどこにもありませんが…
さて…
一般論的に書くなら~
「私が本当だと信じている事実(他から知った・手に入れたモノ)違っている事のような感じのお宅の言葉」
「私の体験・経験した事実(自分で体得したモノ)違っている事のような感じのお宅の言葉」
そう~
ここで、敢えて私が「臭い・匂い」と表現したのは、「そのような感じ」であり、本当だとは思えない・確信不能だ、、からです。
「確信」出来ない理由~
その理由の一つに、お宅の言葉の裏にあるお宅認識が、上手く読み取れない。
二つ目の理由として、お宅の使用言語そのものが、私の理解言語にない場合。
私の「理解言語」にない場合は、辞書・ネットで検索しますが…
「何分…もともと理解言語」でないので、当然に「使用言語」でもなく、
辞書・ネット検索しても、お宅の文脈での、辞書・ネットの解説では、ヤッパリ理解できない場合が多い、からです。
なので…「…臭い・匂い…」表現の場合では、「本当の事はこうだ!」答えられない場合が多いのです。
もっとも…その後、その事についてのお宅言説が多くなるにつれて、指摘可能な場合もあり、
その時は、上手く説明が可能な場合ならば、指摘するようにしています。
例えば以下の記述について…
>一つには南郷先生が幼稚園で空手の指導を始めたのは収入が無かったから友人がお膳立てしてくれて生活費のためだったというのは南郷先生の高弟だった先生から私が直接に聞いた話しです。実際、1970年頃の武道の理論の連載では「明日のメシに泣いたことがあるか」なんて経済的なことを書いているでしょう。
↑
これは、確かに私も読んだ事があります。
>それから自由びとさんは「玄和会」という会派の名前の由来をご存知ですか?「玄」というのは前身が玄制流ですから玄制流の玄だとして、「和」というのは私は「共和」の「和」、「和をもって尊しとする」の和だと想像しています。
この「玄和会」の名称の由来は、
「玄制流」を学んだ者と「和道流」を学んだ者達で
新たに新流派―「玄制流の玄」と「和道流の和」を合わせての「玄和会」だった、と何かで読みました。
このような場合は、今の、お宅の想像と私の記憶のどちらが、
正しい現実界の事実・真実かは、ここでは、証明できません
>というのも玄制流は祝嶺制献先生が創始した流派で、「制献」の玄制だったのでしょうが、南郷先生はそれが嫌だったに違いありません。
↑
この「…違いありません」表現は、私には「嘘くさい」妄想・幻想・想像なのです。
その理由は、それはお宅の想像する南郷先生の感情であり、
これが事実か否か、南郷氏当人に確認するしかありません。
このように、お宅の自身の感情を、恰も他人(この場合は南郷氏)の感情のように表現する事も「…嘘くさい匂い」なのです。
>それで中村、門倉、ら5人で共和の合議制の流派を立ち上げたのが始まりではなかったか?と
↑
上記のような、お宅にとっての想像?事実?が、
現実界の事実・真実なのか否かについて、この事を全く知らない私には判断不能です。
私の全く知らない事について記述には、「嘘くさい」は使えませんね…。
仮にそれが、上記の事が事実あり、
またそのメンバーが、
「玄制流」・「和道流」の空手家達なら、
「玄制流の玄、和道流の和」も、ありえる話ですね。
私のコメントを嘘だというのなら、では本当のことはこれこれこうだと述べるのが本筋でしょう。
一つには南郷先生が幼稚園で空手の指導を始めたのは収入が無かったから友人がお膳立てしてくれて生活費のためだったというのは南郷先生の高弟だった先生から私が直接に聞いた話しです。実際、1970年頃の武道の理論の連載では「明日のメシに泣いたことがあるか」なんて経済的なことを書いているでしょう。
それから自由びとさんは「玄和会」という会派の名前の由来をご存知ですか?「玄」というのは前身が玄制流ですから玄制流の玄だとして、「和」というのは私は「共和」の「和」、「和をもって尊しとする」の和だと想像しています。
というのも玄制流は祝嶺制献先生が創始した流派で、「制献」の玄制だったのでしょうが、南郷先生はそれが嫌だったに違いありません。
それで中村、門倉、ら5人で共和の合議制の流派を立ち上げたのが始まりではなかったか?と
まあ、一番実感するのは空手だとか拳法だとかを例に挙げても、それをそれ自体として論じてはおらずに「武道」だとか、あるいは「技一般」だとかで説いているところです。
それで「将来、私が《空手の理論》を説くときは」なんて書いて「だから、今はまだ《空手の理論》は説いていないのだ、説いているのは《武道の理論》なのだ」みたいな、三段論法でいう「ソクラテスを説くために人間という広い範疇(カテゴリー)にいく」ということをして、そこから「ソクラテスという個人」に還ってくることなく「人間一般」みたいな解答を出して満足している、みたいな感じですよね。
私のような人間(というか多くの人が同様だと思いますけど)が一番理解しやすいのは「空手の試合」だったなら「その試合(何時の何処の大会の誰と誰との試合)の実際の動画映像」を見せて貰って、どこのどの動きがどうだった」と指摘してくれることだと思いますよ。
それは通常為されているような野球やサッカーの試合の動画を見せながらプロ選手上がりの解説者が「何処が如何だ」と説明するようにです。
私が10代の時に学んでいた先生は南郷先生の本に一時期非常に影響されたようですが、玄和会には所属していませんでしたから独自の道を歩いていて、私は先生から「映像の動きを徹底的に解析する」ということを教わりましたね。
それで、『武道の復権』で取り上げられている1972年にパリで行われた第2回全世界空手道選手権大会の映像が、今はYouTubeで見れるのですね。そうした動画映像を見ていくと南郷先生が書いている「日本は、技では勝っていたが技の使い方で負けた」なんてそれ自体が意味が良く分からなかった文言が「アナタは何を述べているの?」と明確な間違いであり妄言の類いだと理解できていきます。
パリ大会の外国選手の動きをYouTubeで公開されている玄和会の荻江選手の動きと比較してみても興味深いものが見えてきますね。
ですが、まあ、自由びとさんは犬の糞のほうに興味があるようですから、私とは根本的な趣味嗜好が違う人物ですけどね。
どこの流派でも自由組手なり型試合なりの勝ち負けの基準があって、それに従って審判が勝敗を宣告する、ということでは?
それが玄和会には玄和会の独自の判定基準があるというだけのことだとしか理解できませんね。
まあ、時間を見つけて再度目を通してみようかと思いますけど、そんな大層なこと書いてなかった記憶しかありません。
私と「武道の理論」・「武道講義」~
・
>コメントを書いた人
>マルクス
>・コメント
>ですが、この記事は確かに何処かで見たモノに似ています。
>そこから想起される人物像は本田克也さんですけど、本田さんは確か統計学の本を出していたんですね。
>その統計でいったら自由びとさんが凄いと思った「形と自由組手(乱取り)」の両方があるのは空手というカテゴリーでいったなら正規分布の中央値(平均値)で、極々普通で、それが型だけの流派だとか自由組手だけの流派だとかで左右に偏差値が高くなったり低くなったりするんじゃないですか?
↑
「両方がある」があるのが「凄い」のではなく、
一つの技を「型」と「威力・使い方」と分けて、
「寸止め試合の判定の正当性・不当性」の指摘が凄かった(武道の復権?の中での)
また「無防具の試合判定」の「正当性・不当性」…を説いた事が「凄かった」
そして、その気付きを元に、玄和会の試合・審査・判定…方法の変更が「凄い」
>これがスポーツだったなら、同じ種目と言って良いか分かりませんけれど、それで「形と乱取り」みたいなのの二つの試合があるみたいなのは珍しいんじゃないか?と思いますね。
↑
これは、言うなれば、「バッティングの競争・試合」や「ピッチングの競争・試合」…
それは、武道的空手とスポーツ野球の相違です。
野球は、普通に試合で・やる気・上達が可能。
しかし、現代の空手では、「型試合」と「組手試合」に分けなければ、やる気・上達は難しい。
以下は、私からすれば、全くの見当違いですね。
それもこれも、武道・武道空手…の理解が「スポーツ・身体競技」レベルという事であり、
あろう事が…あってよくない事なのに…「正規分布」まで、持ち出して、訳の分からない事を考えている。
>正規分布の中央値に「形と乱取り」の両方があるものを置くとして、偏差値の高いほうが「乱取りだけ」、偏差値の低いほうが「型だけ」としたならば、右側には野球やサッカーだとかが来るでしょうし、左側にはバレエやダンスだとかが来るのかも知れませんね。
>それは野球だとかサッカーだとかの特定の種目を超えて「スポーツ」だとか「身体運動競技」だとかの広いカテゴリーの群というか集合の統計になると思いますね。
そもそも…これって…正規分布の使い方が、違っているように私には、思えますよ!
さてさて…どのように私とは違うのか…?
でも…これを探求する為の、上記の正規分布の使い方の理解が至難ですね…
この正規分布コメントの~
この匂い~
愛柴犬マロンなら絶対に食べない糞コメント~
愛猫マニャの真っ黒で硬い糞レベルですね。
私と「武道の理論」・「武道講義」~
>・コメントを書いた人
>マルクス
>・コメント
>コテハンを空海からマルクスに変えました。京都大学系の先生たちの「そっち系(マルクス主義系)」の本が届いたので、そんな気分になったんです。
↑
では、今からは「マルクスお宅」ですね!
>自由びとさんの記事に「糞が!」「糞が!」と書いてあると、何だか地球の裏側の凄く遠い所にいる人が私とは関係ないことで気分を害して憤慨している、みたいな感じになりますね。
↑
非常に残念です…
私とマルクスお宅の「糞の概念」の相違が…
私にとっての「糞」とは、普通に役立てられない糞「廃棄物」なのに…
その捉え方・考え方次第で、役立てる事が可能なモノ。
私の愛柴犬マロンの場合~
いつも排便の後、自分のウンチの匂いを嗅いでいる。
そして、時々、そのウンチを食べてしまう。
そんな繰り返しを見ていると「食べてしまうウンチ」は、食べないウンチと色・硬さ…が違う事に気付いた。
また、愛猫マニャのウンチは、いつも真っ黒で硬い。またマニャ絶対に自分ウンチを食べない。
そんなマニャが餌を食べた直後、音を立てて戻した事がある。
その時は、他の事で忙しかったので「後で片付けよう!」と思い、そのままにした。
後で、片付けようとしたら、それが跡形もなく消えていた。
その時、「ほ~自分の戻した物でも食べる」事。
この事か連想したら、マロンの場合、
「消化不良のウンチと消化されてウンチ」を臭いで嗅ぎ取り
「まだ栄養ある消化不良のウンチ」を選んで食べているのだう。
分かるかな? マルクスお宅に、私の「糞の概念」が…
分からないだろうな…「私の体験・事実を信じない」マルクスお宅には…
>自由びとさんが述べている「技の形の優秀さ(優勝さ?)」と「技の使い方・強さ」とを分ける考えは、数多の空手流派は勿論のこと、剣道や柔道にもあると思いますよ。
>それが空手ならイワユル「型試合と自由組手試合」で、柔道なら「形試合と乱取り試合」、両方で優勝するならば2冠というわけですから。
>当然に松濤館流にもあるもので、「そんな風に考えられるとは凄い」というのは空手や武道に関する無知の証明じゃないですか?
↑↑
お宅の、その理解は玄和会の理解とは、少し違うんだな…
「組手試合と型試合」に分けるのは、「相対的独立的審査方法」で、
玄和会の審査法は、直接的同一」的審査・判定方法で、
「型試合」も「組手試合」も、両方ともそれぞれ常に、「型と威力」の総合審査判定である。
型の試合では、
「形の完成度」(玄和会の理想型との論理的な距離)にウエイトを置きながら、
「使い方の完成度」(その技形・その技が当たるだろう部位・そのタイミング)審査・判定の総合判定。
自由組手の
「受験級・段位に見合ったレベルの技の完成度」(そのレベルの論理的に正しい形)の審査・判定をしつつ、
大きく崩す事無く、相手が倒れるだろう部位に当てているか…の総合判定。
そこから想起される人物像は本田克也さんですけど、本田さんは確か統計学の本を出していたんですね。
その統計でいったら自由びとさんが凄いと思った「形と自由組手(乱取り)」の両方があるのは空手というカテゴリーでいったなら正規分布の中央値(平均値)で、極々普通で、それが型だけの流派だとか自由組手だけの流派だとかで左右に偏差値が高くなったり低くなったりするんじゃないですか?
これがスポーツだったなら、同じ種目と言って良いか分かりませんけれど、それで「形と乱取り」みたいなのの二つの試合があるみたいなのは珍しいんじゃないか?と思いますね。
正規分布の中央値に「形と乱取り」の両方があるものを置くとして、偏差値の高いほうが「乱取りだけ」、偏差値の低いほうが「型だけ」としたならば、右側には野球やサッカーだとかが来るでしょうし、左側にはバレエやダンスだとかが来るのかも知れませんね。
それは野球だとかサッカーだとかの特定の種目を超えて「スポーツ」だとか「身体運動競技」だとかの広いカテゴリーの群というか集合の統計になると思いますね。
自由びとさんの記事に「糞が!」「糞が!」と書いてあると、何だか地球の裏側の凄く遠い所にいる人が私とは関係ないことで気分を害して憤慨している、みたいな感じになりますね。
自由びとさんが述べている「技の形の優秀さ(優勝さ?)」と「技の使い方・強さ」とを分ける考えは、数多の空手流派は勿論のこと、剣道や柔道にもあると思いますよ。
それが空手ならイワユル「型試合と自由組手試合」で、柔道なら「形試合と乱取り試合」、両方で優勝するならば2冠というわけですから。
当然に松濤館流にもあるもので、「そんな風に考えられるとは凄い」というのは空手や武道に関する無知の証明じゃないですか?