「無量寿福寺」境内の見晴らし台から「丸山城跡」の山を望む。
(左)2023/1/28撮影、(右)2022/1/10撮影
『伊賀びとの原点・天正伊賀の乱超入門
【無量寿福寺と丸山城跡を歩いて感じる中世伊賀の風】』
案内文から
「伊賀惣国一揆の12人の評定衆が議会を開いた場所の1つ、無量寿福寺。
中世伊賀の風を感じながら、戦火を生き残った本尊阿弥陀如来と大黒天を仰ぎ、
無量寿福寺第49代住職瀬木英俊さんと伊賀上野城城代家老福田和幸さんからお話を伺います。
その後、天正伊賀の乱の口火を切った丸山城跡を目指し、ハイキングを楽しみます。」
いざ出陣!みたいな気分だったのに、前日夜半から降り積もる
当日集合場所のこの景色、
降り立った駅でも、一面この状況、
参加者20数名、天候による交通機関不通などで
伊賀まで来られなかった方も若干名いらしたようですが、
集合できた我々の行く先々では青空が見え隠れ…
さすが「隠れ里、忍びの地」。
丸山駅から雪道を一路南方面に進んで、ここは
【天童山 無量寿福寺】(テンドウサン ムリョウジュフクジ) 伊賀市下神戸(シモカンベ)
ここに映る「武将」、特別参加の地域盛り上げ隊長かな?
(以後、時折映っちゃいます、あしからず。)
寺務所に入らせていただき、熱いお茶と「草ころ」(byいせや)でおもてなしを受け、
冷えた体がほっこり 、そして温まったところで本堂へ移動。
全員で「般若心経」を唱え、
「天正伊賀の乱精霊」の慰霊をさせていただく。
ここから講義二題
①「天童山 無量寿福寺」の歴史
②「天正伊賀の乱」のこと
第49代住職の瀬木英俊様からお話を伺いますが、
実はこの方「ロート製薬取締役CSO(最高戦略責任者)」であり、
多気町VISONプロジェクト立ち上げも担い、
江戸時代から受け継がれている「薬草」を生かした「本草(ホンゾウ)」を
広める取り組みもされている、とか。
ご住職とCSOの二つのお顔を持つまさに「忍び」のような方、
お話もとても上手でつい惹きこまれてしまいました…
当寺の歴史として
境内説明版①
*奈良時代・天平勝宝年間(749~757)、孝謙天皇勅願、行基菩薩の開基
*文永元年(1264)、伊賀出身の応準和尚により興隆
*東福寺の高僧聖一国師の行脚の折、中国:天童景徳禅寺の美しい景色に似ていると、
天童山の山号を授かる。
本堂には、平安後期作といわれる本尊「阿弥陀如来」様★と
脇侍には四天王のうち二天「持国天・多聞天」様★がおられます。
本来、釈迦三尊像と四天王他多数の仏像があったそうですが、天正伊賀の乱の際に焼失されたとか。
また阿弥陀如来のことを無量寿如来ともいい、
量を推し量ることができないほどの寿命を授けるという意味だそう。
無量寿福寺とは、それに加え福も付いているとのこと。
ご住職による「薬師堂」内のご仏像の説明、
「大黒天」様★台座には、ねずみさん
薬師如来様、天正伊賀の乱戦没者慰霊、お大師様など
(ご住職様から撮影許可が出ており、
また★は庶民により戦火の中、焼失を逃れた仏様たち)
次に、「伊賀上野城城代家老」福田和幸氏の講演で、
伊賀の国は「戦国の覇者(戦国大名)」がいない群雄割拠の時代。
*信長・秀吉など天下人も恐れていた「伊賀衆の集団力」。
*「天正伊賀の乱」まで500年続いた戦なき国であった。
※(伊賀忍者オフィシャルサイトより)
*室町時代、伊賀の国の自治共和体制確立(=伊賀惣国一揆)
12人の評定衆による運営、主な議場が無量寿福寺。
フランス革命より200年も早く議会制民主主義の原型だったのか?
*634もの「中世城館跡」があり、東大寺などの大荘園支配に対する
独立機運が契機になった。
*室町幕府配置の守護大名仁木氏支配に下らず。
伊賀北部は六角氏、南部は伊勢北畠氏と融和。
*「丸山城」修築開始時、伊賀衆は木津川を挟む天童山に集結、
総攻撃をかけ落城させる。
第一次天正伊賀の乱では、無量寿福寺は「本陣」(拠点)としての役割を担う。
*第二次天正伊賀の乱では、当時議場であり政庁であった上野山平楽寺などと同様に
信長に焼打ちされる。無量寿福寺では本尊など数体のみ難を逃れた。
境内の説明版②
私的にずっと考えてました…
何故信長は伊賀を攻めた??
「語り部」仲間の大先輩曰く、
『伊賀が織田方の守護、仁木氏を追い出し、丸山城を燃やしたのが直接の原因ですが、
それ以前から北畠家と伊賀とは関係が深く家臣としても柘植氏、日置氏、がいました。
伊賀は信長にとって気味が悪い隠れ地としても遺しておけない地だったのでしょう。』
この一年後、信長は本能寺で明智光秀に…
『名張市を中心とする南伊賀では、毎年お盆に「本能寺の変」で
織田信長を打倒した明智光秀を讃える「お蔭祭り」が催される』とか…
これもある意味納得の儀式のような気もしますが。
御仏様たちに送られ、住職ご夫婦にはお世話になりました。
「当寺へ来られた際はぜひお声がけください」とのことでした。
外へ出ると、なんと「白梅」が咲き誇ります。
これは伊賀乱の精霊たちの見送りか…
では、いよいよ「丸山城」が築かれていたという対面の山へ
ではつづく
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