葵紋残る「徳永寺」(柘植)、家康公とのご縁

2021-01-24 11:12:58 | 伊賀忍者回廊巡り
仕切り直し投稿… 時系列的には 1/21の日付で UPするつもりだったもの、
狐につままれたような私的アクシデントに見舞われ、せっかくの原稿が消失!
そのリベンジ原稿です…

(2021/1/17訪問)
大和街道・上柘植宿、
街道を歩いていて、このまま真っ直ぐ行けるのか?
と思いきや鉤の手に曲がる…
軍事上の事か、景観上のことかワタシには知る由もありませんが、
これは、町並みを考える方々の意見に任せるといたします。

「倭姫命」の時代から思いを馳せると、(神仏一体でいいのかどうかは別にして)
歴史の大きな流れに組み込まれていたのが「柘植」という地域なのかもしれない…

「元伊勢」巡りの関連で『敢都美恵宮(都美恵神社)』・『史蹟・雨龍神社跡』を訪問し、
改めて今度は『家康公』絡みで柘植地区をお邪魔することにしました。

前日のgoogle map予習では、このお寺から「不動明王」(裏山伝いで)→「秋葉社」→
大和街道を戻る計画です。
(山中を歩く=家康公に迫れるか!という実体験をしたかった(笑))

事前にちょっとおさらいをしました。
 徳永寺駐車場から

ええもん探し隊見聞録より(2005/12/1読売記事)
≪天正10年(1582)、本能寺の変で信長が倒れた直後、
泉州堺に滞在していた家康は、伊賀者の案内でわずかな供侍と三河に難を逃れるが、
その道筋でこの寺に立ち寄りもてなしを受けたと(1泊したとか休憩であったとか、諸説いろいろ)。

この時の「おもてなし」を大層喜んだ家康は、そのお礼に領地を与え、
「葵の紋」の使用を許したといわれています。

藤堂藩下となって後、一旦家康から与えられた領地を返上したが、
改めて代々の藩主から永代寄進するとの書状は、幕末まで続いたとされており、
初代高虎から十一代高猷までの(八代を除く)各藩主の寄進状10枚が現存しています。≫とのこと。


大河ドラマ「麒麟がくる」もいよいよ大詰め、
「本能寺の変」はもうすぐ、その後の家康のことはこのドラマでは表現されないけど、
「神君伊賀越え」ルートが諸説あることは知っています。
「伊賀コース」であれば、まさにこのお寺の裏山辺りなのかしら…と好奇心が芽生ます。

前段が長くなってしまいました、
徳永寺の駐車場は山門の左右にあります。

平庸山 無量寿院 徳永寺】(へいようざん むりょうじゅいん とくえいじ)
「忍びの里」案内板があるので、伊賀忍者回廊巡りのカテゴリーに入れました。)
  「忍びの里」案内板、クイズもあります

   山門、白壁にご紋…

  (憧れの?)「葵紋」
徳川家とのご縁を感じますね、本堂の軒「三つ葉葵」。

本堂の脇にはデッカイ鬼瓦
 「立ち葵」

   
立派な「梵鐘・鐘楼」、横には「ロウバイ」とても綺麗です。今が見頃かな…
(「ロウバイ」は再掲になります)

  これが「石造宝篋印塔」(ホウキョウイントウ)
南北朝時代後期の作とか、霊山を望むように立っています。
 憧れの霊山
(一度登りましたが、山を見ているともう一度挑戦してもいいかなぁって…
多分、頂上からの見方が変わるかもしれない。)

一巡りさせていただき、できることなら「ご朱印」をいただけないかと、
寺務所に当たる玄関へ、先ず目に入ったのが

「この寒い冬に牡丹って咲くんですね」と、いきなり「花」の話題から。
「そう、『寒牡丹』です」…

ここで応対していただいた方・・・
「どこかでお目にかかってますか? 表札のお名前はずっと変わらず?」
「ひょっとして、高校で一緒だった? 同級生!?」ってな話になっちゃって、
いっぺんにくだけちゃいました、こうなったら高校生の頃の会話になっちゃいます(笑)。
卒業以来の出会いにお互いびっくりしながらも、
ちゃんと「御朱印」はいただき、ついでに
「この近くに『不動明王』があって、大きな椎の木があると聞いてるけど…どう行けばいい?」
「お墓をずっと進んだら階段があるから、そこから登れるよ」とのことで、お互い完全タメ口ですね(笑)。

家康公が霞んでいく

では、イレギュラー道ではありますが「柘植成田山の不動明王」へ~~
 山歩き決行!
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