幻の「白鳳橋」。「伊予之丸古墳」「農人町遺跡」はココだった。その1

2023-09-30 16:41:52 | 「伊賀上野語り部の会」で勉強中
伊賀上野城下町の歴史を辿り、歩いて知る裏話というか、
「へぇ知らなかったなぁ」という話を教えてもらいに勉強会…

今回(9/23)は上野台地(城下町のあるところ)の北東側の台地の縁(ヘリ)に沿うかんじで歩きます。
その出発点は『旧桃青中学校』。
 
この中学校そのものも上野公園がある台地の延長線上にありますが、
その台地は『伊予之丸』(イヨノマル)と言われ、上野城の『二之丸』でした。
その東と西の台地間には谷筋のような細い道がありました。
(現在は自動車も行き交う歩道付き2車線になり通行量も多い道です)

中学校の敷地の最西端の「ヘリ」まで行くと…そこは竹とササ藪💦
歴史的なことを紐解く前に、このササ藪の向こうには~~
白鳳橋』という橋が一時期架かっていたようです。
おそらく団塊の世代前後の方には微かな記憶があるらしく、
もっと前の世代の方はこの橋を実際に渡っているのでは?と思います。
そしてその橋は、昭和30年初頭までは存在していたとのことです。
(残念ながらワタシには記憶がないので、あしからず)
 この谷に架かっていた?

ではその橋のあった痕跡を確かめに行きましょう~
   
桃青中の銀杏並木の坂を下りて、
南北から車が来ないことを確かめ、上野公園側に渡り、急坂の階段を上ります。
真ん中辺りで公園側の橋の取り付け部が残っています。
車道横の歩道から南側を見ると銀杏並木も見えますね…
  
この画面の右から左に橋が渡っていたのかと想像して見てました。

では、実際にどんな橋だったのか、どんな風に架かっていたのか、
資料(当時の絵葉書)が残っているので見てみましょう~~
(玄蕃町に住む知人からデータを提供していただけました。)
 

伊賀上野全国博覧会 白鳳橋より第二会場を望む
伊賀文化産業城/上野公園/白鳳橋
(※伊賀市/デジタルミュージアム 秘蔵の国 伊賀より)

以下「解説文」転記
昭和10年(1935)10月12日から30日間にわたり、
伊賀文化産業城の完成を記念した「伊賀文化産業城落成記念博覧会」が開催された。
博覧会は上野公園を中心会場として、一層を産業館、二層を文化歴史館、
三層を展望楼とした伊賀文化産業城をはじめ、さまざまな展示館が設けられた。
第2会場となったのは上野城の伊予之丸跡で、上野公園の第1会場とは白鳳橋で繋がっていた
この第2会場には上野館・国産振興館が設けられ、
伊賀焼、伊賀傘、籐細工・竹細工、箪笥、履物類、醤油等の地場産物が出品された。
また、菊人形、海女実演、サーカスなどの興行施設も人気を博した。≫

昭和10年当時の博覧会会場図(同「絵図」写真


橋の架かっていた下の道は、
・明治38年(1905)に県の資金で東大手門~蛇池~伊賀上野駅ルート案が出るも、
・西町~馬苦労町(現・西大手の台地辺り)~伊賀上野駅ルート案の両案が膠着。
そこで、
・明治41年(1908)に、県が強行突破で「蛇池-伊賀上野駅ルート」への道を造った。
その後、
・昭和8年(1933)12月23日の皇太子誕生(現・上皇)を記念し、
・昭和9年(1934)上野町の公園に桜建木を1戸1木で募ったところ、多く集まり
公園だけでなく桜並木として植樹された。
それが現在もなお「桜並木」として親しまれている、ということです。
かなり、老木が多くなってきましたがこの道の愛称は未だに「桜並木」。
管理も大変かと思いますが、いつまでも桜並木であってほしいです。

そして、この『白鳳橋』は上野から伊賀上野駅方面への道を拡張する際に解体されたようです。
おそらく昭和35年頃のことではないかと思われますが、
「伊予之丸古墳」があったのではないかと発掘調査がされたようです、
そのお話はまた次に・・・


ではまた

2023/10/1追記
moni5187様からコメントにいただいた空中写真のご紹介です。
「国土地理院の空中写真で探すと、(確認画面がでたら同意するを押して、もう一度クリックです)
1946/05/23(昭21) 上野 USA-M143-A-6-159 に白鳳橋全体と橋脚もバッチリ写っていて、
1963/10/12(昭38) 上野 MKK636X-C10-16 は白鳳橋とアクセス道が消えているようです。」

こうして過去の空中写真もしっかり見ることができる、ということに感動しています。
確かに「白鳳橋」は存在していた!ということと、
立派な木造建築の「伊賀文化産業城」(nippon.comより)を川崎克氏が私費を投じて建ててくださったこと、
城下町に住む人間として誇りであるし、感謝してもしきれぬ方であったと…

2023/10/1 23:35 再追記
moni5187様から「吉田初三郎式鳥瞰図1942年(昭和17年当時)『上野市』」です。
これを見せていただくと、「白鳳橋は赤かった」。(家人の記憶も「赤」とのこと)
そして「俳聖殿」が建っています。
川崎克氏、再び私費を投じて建立してくださった聖堂です。

お断り「伊代」=「伊予」の間違いでした、すみません。

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7 コメント

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立派な橋だったのですね (dawn)
2023-09-30 17:38:50
『白鳳橋』の貴重な写真を見せていただき、ありがとうございます。
この写真からは、昭和10年博覧会向けの仮設の橋には見えないので、昭和30年頃に撤去するだけでなく、架け替えをする必要があったのではと思います。財政的に無理だったのでしょうか。
今から十数年前にも、この位置に橋を架ける議論がありましたが、許可権限をもつ省の了解が得られなかったのか、立ち消えになったようです。国史跡である上野城跡を改変するのはむずかしいのかなと推測しています。
返信する
今もあったら (kuro&hana)
2023-09-30 17:51:23
と思わずにはいられないほどです。
お散歩くらいでいいので通れる橋があればいいですよね。
史跡公園のスポットになると思うんですけど、二之丸(伊代之丸)が中学校跡地では寂しいので、ここをなんとかできればいいのにね、どんどん後回しになる予感がします。

dawn様、コメントありがとうございます。
返信する
白鳳橋 (moni5187)
2023-09-30 19:39:35
当方は団塊の世代より一回りほど若いのですが、コンクリの橋脚だけ残っていたのを覚えています。
現在のカタチに拡幅工事が始まる前まで、だったような気もしますが、今ひとつあやふやです。

国土地理院の空中写真で探すと、(確認画面がでたら同意するを押して、もう一度クリックです)
1946/05/23(昭21) 上野 USA-M143-A-6-159 に白鳳橋全体と橋脚もバッチリ写っていて、
https://mapps.gsi.go.jp/contentsImageDisplay.do?specificationId=1170955&isDetail=true

1963/10/12(昭38) 上野 MKK636X-C10-16 は白鳳橋とアクセス道が消えているようです。
https://mapps.gsi.go.jp/contentsImageDisplay.do?specificationId=405711&isDetail=true

>そしてその橋は、昭和30年初頭までは存在していたとのことです。
ということは、昭和27年の「伊賀上野世界こども博覧会」の時はあったのだと思いますが、
返信する
確かにあったはずです (kuro&hana)
2023-09-30 23:08:21
https://www.nomurakougei.co.jp/expo/exposition/detail?e_code=745
家人が御年2歳だった頃ですが、微かに「白鳳橋」を渡った記憶や「「堀のウォータースライダー」が楽しかったと覚えているそうです。
この時に「美空ひばり」が来ていた…とも。
幼かったとはいえ、その後も家で話題になっていたはずでこれらの記憶の擦り込みは、おそらく今でも残っているはずで、ワタシもその話を聞いて擦り込まれ「白鳳橋」」はあったのだと確信しています。

moni5187様が教えてくれた国土地理院の航空写真を見比べると、昭和10年当時にはなかった「俳聖殿」「西小学校」「上野高校」「崇広中学校」「桃青中学校」等々は昭和38年時には写っていますね。
ワタシは9歳、鉄筋ンコンクリートの校舎が建ったばかりと記憶しています。
なんだか蘇りますね、懐かしい風景を空から見ることができて感動しています。

「白鳳橋」と旧桃青中学校のあった「二之丸」の何らかの復興は旧庁舎のうんぬんより夢があるような気がしてきました(笑)。

moni5187様、航空写真を紹介していただきありがとうございます。見ていて楽しかったです。
なので、返信コメントが今頃になってしまいました。
返信する
追記 (kuro&hana)
2023-09-30 23:17:25
昭和10年時には、西小学校の前身の広い敷地の校舎が見えますが、昭和35年だったか入学したてのワタシはその西半分の校舎に入っていました。
うす暗くて長い廊下があり天井は高く、なぜか怖かった記憶…走っていて誰かとぶつかって顔を腫らしたおてんばな自分を、今、思い出しました💦
返信する
白鳳橋は赤色? (moni5187)
2023-10-01 20:49:40
当方のコメントを記事に追加していただき、ありがとうございます。
古地図を探しますと、
吉田初三郎式鳥瞰図データベース>上野市鳥瞰図に白鳳橋が赤く描かれていました。
やはり、白鳳橋は実在したのは間違いなく、赤色だった可能性が高まってきました。
1942年は昭和17年で、上野市発足の翌年になります。
https://iiif.nichibun.ac.jp/YSD/detail/004923967.html

P.S. 西小の隣に東小があったと聞いたことがありますが、本当ですよね。
返信する
鳥瞰図 (kuro&hana)
2023-10-01 23:25:51
ありがとうございます。
家人にも聞きました、「幼児だったけど『橋の色』覚えている?」と。
「赤やった!」としっかり答えておりました(笑)。
子ども心に「赤」はインパクトがある色なのでほぼ確かだと思います。

ワタシが入学し立ての西小学校の校舎の件、紐解きますと
・昭和23年に上野小学校廃し、学区を二分し東・西小学校を設置。
・昭和35年鉄筋コンクリート造り北校舎
・昭和36年同じく       南校舎
・昭和37年同じく       管理棟
・昭和38年校歌制定(橋本鶏二作詞、武満徹作曲)
・昭和40年小田小学校廃し、本校に統合
・昭和41年鉄筋コンクリート造り体育館
現在の和風瓦屋根校舎は平成7年~8年に完工。

このような沿革があって、35年に入学した時はまだ古い校舎が残っており、その校舎に居ながら、鉄筋校舎が建つのを待ちつつお勉強していたのでしょう。ずっと校舎建設中のなかで落ち着かない生活を送っていたんですね。
少々の騒音にめげることのない人格はこの時に作られたものでしょう。(個人的な見解ですが)

昭和41年の卒業式には辛うじて体育館は建っていました。けど巨大窓ガラスが全面的に入っていたわけではなく、寒風吹きすさぶ中での卒業式だった記憶ですが、これは定かではありません。
ワタシ一人が寒がっていたのかもしれませんので…

我が子どもたちが西小学校に通っていた頃は、校舎内に蝙蝠がいたとわぁわぁ言っていたと思います。
ワタシの年代は新しい校舎ばかりに入っていましたが、末っ子の時は「校舎改築中」でプレハブ仮校舎生活が2年ほど続いていた気の毒な年回りでした(笑)。

ちなみに、明治時代の校舎の建設では、
・明治44年(1911)、蛇池の前(旧上野庁舎敷地)に女子校が先に、
・大正2年(1913)、現在の西小学校に敷地に男子校が建設されたそう。
・昭和6年に統合され、上野町立高等小学校となり、54学級、児童数2879人の三重県下一のマンモス校だったそうです。
(戦中のことは省略)

こんな歴史がみえてきました、長くなってすみません。ではまた
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