昭和28年のいわゆる「二八災害」では、一部が大量の土石流で壊れてしまったそう。
それ以後70年間「荒波が襲い掛かっても、逆らわずに静かに身を潜めてやり過ごす」橋。
だからこそ、壊れることなく末永く続いていく…
そんな「恋の路を説いているかのごとき『恋路橋』」と語り部の橋本さんはおっしゃいます。
うまいなぁ、そりゃ「パワースポット」になりますわ(笑)。
それもこれも、この先に秘密があるのだとか。
(再掲)
(2021/3/15撮影)
西北側橋標「恋路橋」って彫られているんですが、
ちょっと読めないかも、ごめん。(ぜひ、現地でご確認くださいな)
川幅約100mあり、橋がなかった時代「ここは船で渡っていました」と。
当然「高山ダム」などなかった時代、水量も多く、
渡し舟に乗り、張られたロープを伝いつつ渡る難行だったとか。
※過去動画「恋路橋~大河原大橋」国道163号線(修正:現在は「府道82号線」)と関西本線をバックに
そのまま川沿いの道を歩くこと数分、突き当たりはココ。
『恋志谷神社及び天満宮社』
(2021/3/15撮影)
(左)「恋志谷神社」、(右)「天満宮」(いずれも2021/3/15訪問時撮影)
今回はグループウォークだったので「本殿」撮影はしませんでした、あしからず。
ここは元々、『天満宮』があったところ。
かつては「古森」という地に「斎(イツキノミヤ)神社」があり、江戸末期元治元年(1864)に合祀。
その神社が「恋志谷神社」といわれ、
≪良縁、恋愛成就、安産にご利益がある≫とか。
どうして?の気持ちを紐解く話がこちら↓(南山城村史より)
≪元弘の乱(1331~1333)で、後醍醐天皇が政治の実権を
鎌倉幕府から奪い返したいと企図したこと、笠置の僧兵、
山城加茂や笠置の悪党たちとともに、大河原左衛門尉有重と
名乗る武士が後醍醐天皇に味方し、笠置城に籠城して
鎌倉幕府と戦ったという記録が『太平記』に見えます。
また笠置町の有市や南大河原に地頭が配置されていた≫とか。
≪恋志谷姫神は、後醍醐天皇の側女であったようで、
姫は病気を治すため伊勢の海辺にいました。病気が治った後に
後醍醐天皇がいた笠置へと向う途中で、ここ南大河原の古森に着いたものの
姫は後醍醐天皇が既に笠置山を去った後であることを聞き、
あまりの悲しみのため持病が再発し、自らの命を絶ったのでした。
姫が遺した辞世の句は後醍醐天皇を愛慕していること、
また自分の病気を歎きながら後の世の人の病気や苦難をわが身に受けます、
とあったと言い伝えられています。≫と、話は続き、
700年もの間『恋志谷神社』は、人間関係が希薄になりつつある現代でも
「心の拠り所」としてお参りされる方が多いのでは?…というお話でした。
この時期、「椿の花」の手水舎。
神社境内にてお話を聞き、
今では珍しい「茅葺き吹き抜けの拝殿」(現在はトタンで覆われている)。
天満宮拝殿を下から覗き、「天神さんの『紋様』」を見つけ、
そこに「梅の花」が丁度咲いており、自画自賛の写真になりました(笑)。
さぁ、神社に別れを告げますが、
防火水槽の恋、いや鯉かな?
今日の予定に時間限定「お茶席体験」企画があるので、少々忙しい…
行程表通りに進みたい関係者のみなさん、
少々遅れ気味になる「写真撮りたい人」、申し訳ないと思っています💦
神社から歩くこと10数分、あちこちで梅満開!香りに癒されつつ歩きます。
旧街道沿いのせいか、家紋付きの立派な蔵を持つ家が多いです。
やがて視界が広がり、素晴らしい景観の待つ「大河原大橋」を渡り、
現役稼働中の「大河原発電所」へ。
では橋から見た「上流側の木津川と大河原ダム」と
「笠置山地の風景」をどうぞ~~
下の写真は、2021/3/15「大河原大橋」の橋脚の下から撮りました。
この岸の辺りが昔「船付き場」であった場所かな…と。
次回は未だ現役稼働中「大河原発電所(土木建造物遺産)」と「甌穴」からはじめます。
ではまたつづく。
それ以後70年間「荒波が襲い掛かっても、逆らわずに静かに身を潜めてやり過ごす」橋。
だからこそ、壊れることなく末永く続いていく…
そんな「恋の路を説いているかのごとき『恋路橋』」と語り部の橋本さんはおっしゃいます。
うまいなぁ、そりゃ「パワースポット」になりますわ(笑)。
それもこれも、この先に秘密があるのだとか。
(再掲)
(2021/3/15撮影)
西北側橋標「恋路橋」って彫られているんですが、
ちょっと読めないかも、ごめん。(ぜひ、現地でご確認くださいな)
川幅約100mあり、橋がなかった時代「ここは船で渡っていました」と。
当然「高山ダム」などなかった時代、水量も多く、
渡し舟に乗り、張られたロープを伝いつつ渡る難行だったとか。
※過去動画「恋路橋~大河原大橋」国道163号線(修正:現在は「府道82号線」)と関西本線をバックに
そのまま川沿いの道を歩くこと数分、突き当たりはココ。
『恋志谷神社及び天満宮社』
(2021/3/15撮影)
(左)「恋志谷神社」、(右)「天満宮」(いずれも2021/3/15訪問時撮影)
今回はグループウォークだったので「本殿」撮影はしませんでした、あしからず。
ここは元々、『天満宮』があったところ。
かつては「古森」という地に「斎(イツキノミヤ)神社」があり、江戸末期元治元年(1864)に合祀。
その神社が「恋志谷神社」といわれ、
≪良縁、恋愛成就、安産にご利益がある≫とか。
どうして?の気持ちを紐解く話がこちら↓(南山城村史より)
≪元弘の乱(1331~1333)で、後醍醐天皇が政治の実権を
鎌倉幕府から奪い返したいと企図したこと、笠置の僧兵、
山城加茂や笠置の悪党たちとともに、大河原左衛門尉有重と
名乗る武士が後醍醐天皇に味方し、笠置城に籠城して
鎌倉幕府と戦ったという記録が『太平記』に見えます。
また笠置町の有市や南大河原に地頭が配置されていた≫とか。
≪恋志谷姫神は、後醍醐天皇の側女であったようで、
姫は病気を治すため伊勢の海辺にいました。病気が治った後に
後醍醐天皇がいた笠置へと向う途中で、ここ南大河原の古森に着いたものの
姫は後醍醐天皇が既に笠置山を去った後であることを聞き、
あまりの悲しみのため持病が再発し、自らの命を絶ったのでした。
姫が遺した辞世の句は後醍醐天皇を愛慕していること、
また自分の病気を歎きながら後の世の人の病気や苦難をわが身に受けます、
とあったと言い伝えられています。≫と、話は続き、
700年もの間『恋志谷神社』は、人間関係が希薄になりつつある現代でも
「心の拠り所」としてお参りされる方が多いのでは?…というお話でした。
この時期、「椿の花」の手水舎。
神社境内にてお話を聞き、
今では珍しい「茅葺き吹き抜けの拝殿」(現在はトタンで覆われている)。
天満宮拝殿を下から覗き、「天神さんの『紋様』」を見つけ、
そこに「梅の花」が丁度咲いており、自画自賛の写真になりました(笑)。
さぁ、神社に別れを告げますが、
防火水槽の恋、いや鯉かな?
今日の予定に時間限定「お茶席体験」企画があるので、少々忙しい…
行程表通りに進みたい関係者のみなさん、
少々遅れ気味になる「写真撮りたい人」、申し訳ないと思っています💦
神社から歩くこと10数分、あちこちで梅満開!香りに癒されつつ歩きます。
旧街道沿いのせいか、家紋付きの立派な蔵を持つ家が多いです。
やがて視界が広がり、素晴らしい景観の待つ「大河原大橋」を渡り、
現役稼働中の「大河原発電所」へ。
では橋から見た「上流側の木津川と大河原ダム」と
「笠置山地の風景」をどうぞ~~
下の写真は、2021/3/15「大河原大橋」の橋脚の下から撮りました。
この岸の辺りが昔「船付き場」であった場所かな…と。
次回は未だ現役稼働中「大河原発電所(土木建造物遺産)」と「甌穴」からはじめます。
ではまたつづく。
高山ダムハイキングのもっと前、小学校低学年のころだったか、大河原に川遊びに行ったような記憶があります。
中州はなくて、恋路橋の北端付近は小岩ごろごろで流れはなく、家族連れで結構にぎわっていたように思います。
微かな記憶を確かめるため、国土地理院の空中写真を年代別で見ていて気付いたのですが。28災害の前は川筋が
南よりで、その部分だけに橋があったようです。復旧時に川筋が北側に広がり、橋も北側が延長されて接続する
道も国道をギリギリで降りるようになったようです。現在はバイパスが出来て府道です。
28災害前 復旧後~現在
国道----- 府道-----
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| 川筋 | 川筋
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恋路橋 恋路橋
思うに、https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/06/04/8396c29ba6c8c30862815f0bc5866346.jpg
この写真の所に壊れた石橋がそのまま残っていると聞きましたので、これより北側に伸びたということでしょうかね。
https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1b/9f/f9f0290793d28b01a28104b89bcfd0e2.jpg
ここに写る橋の「右側部分」ですね。
近辺に3つの「沈下橋」があり、一つは笠置飛鳥路、もうひとつは田山と高尾を結ぶ橋が名張川に掛かっていたが、高山ダム完成時(1968年)に水没し、今の吊り橋「高山大橋」と聞きました。
https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/31/d9/35755fde9e3635aecfda319f2161dbcc.jpg
追加しておきます。
貴重なお話ありがとうございます。