柘植地区ウォーキングに参加したり、研修で歩いた折々、
いろんな話を聞いていると、「平家」もしくは「平氏」の話が出てきます。
その歴史を紐解くほど深くは勉強していないので詳しくは書けません、
が、気になるのは好奇心によるところが大きい。
例えば、芭蕉さんの祖先は「平 宗清(ムネキヨ)」という人であるらしく、
この人物は「清盛の(曾?)祖父、平 正度(マサノリ)」の「次男、貞季の末裔」だとか…
頭の中で家系図を書こうと思っても所詮無理なことは承知。
そこで「平 正度」さんってだれ?
「宗清」さんって?
ネットで検索すれば「平氏の系図」みたいなのはたくさん出てきますが、
自分の目で何か証拠を見てみたい、「好奇心という名のビョウキ」みたいなもんですかね(笑)。
研修時の資料で
「長野峠を越えて、東に15kmの所に『平家発祥の地』がある」と教えられ、
google mapを頼りにしつつ、行きなれた道をどんどん東へ~~
このまま右方面に行けば「かざはやの里」だなぁ、
目の前に「伊勢自動車道」が見えるなぁ、という所まで来ました。
ここは「津市産品地区」、🚥左折すればすぐ、
そこには「平氏発祥伝説地」の案内があります。
石碑やら説明版、そして「平氏の系図」。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/5a/cf/82456d9c54ded9573639c73d13626abb_s.jpg)
≪三重県指定史跡 時代 平安時代 所有者津市
指定 昭和14年3月25日
「平氏発祥伝説地」
一般に「忠盛塚(タダモリヅカ)」と呼ばれるこの地は、正式には「平氏発祥伝説地」といいます。
この塚は、平忠盛が産まれたときの胞衣(エナ)を埋めた「胞衣塚」 ともいわれ、
忠盛が産湯を使ったとされる産湯池も残っています。
桓武天皇の曾孫高望王(ソウソン タカモチオウ)を祖とする平氏は、初め東国に土着し勢力を張っていました。
しかし、平将門の乱(939年)や平忠常の乱(1028年)以後、東国は源氏の地盤となり、
貞盛(サダモリ)の子維衡(コレヒラ)の時に伊勢・伊賀を本拠地とするようになり、
寛弘3年(1006)維衡は伊勢守に任じられています。
「平家物語」には、眇め(スガメ)田舎武士の昇進をねたんだ公卿が「伊勢瓶子(ヘイシ)は素甕(スガメ)なり」とはやし、
あざけったとあります。 維衡の曾孫正盛は白河法王の信任を得て中央政界に進出し、
その子忠盛は正四位下但馬守(ショウシイゲタジマノカミ)に進み、武士として最初の昇殿を許され※、
平氏繁栄の基礎をつくりました。
ところで、伊勢平氏とは維衡系のことで、「尊卑分脈(ソンピブンミャク)」(※日本の初期の系図集)には維衡の孫貞衡と
その子貞清は安濃津三郎、貞清の子清綱は桑名富津二郎と傍注され、北勢から中勢にかけての勢力伸張がうかがわれます。
貞衡の弟正衡(マサヒラ)の流れの正盛・忠盛は、伊勢平氏の中では傍系にあたります(※伊賀平氏ともいわれる)が、
忠盛の昇殿、清盛の活躍により、伊勢平氏=忠盛と理解されるようになったと考えられます。
そして、貞衡系の伊勢平氏は、いつしか忠盛・清盛の郎従(ロウジュウ)となり、歴史の表舞台から姿を消してしまいました。
津市教育委員会 ≫
伊賀での研修時資料では、
「『平 忠盛』(1096~1153)は、検非違使(ケビイシ:京の平和を守る特殊部隊)や国司(コクシ:現在の知事のようなもの)などでの活躍が認められ、
武家出身者として初めて「院の昇殿」を許された、と。
これは伊賀阿拝郡鞆田(トモダ)村の所領荘園を白河上皇に差し出したことによる」とか。
要するに・・・「父・正盛」が京に役職を得、
「子・忠盛」は「検非違使として『御所』の北側を守り、その功で『昇殿』を許される」。
それは「北面の武士」という名誉ある役職。
(何故か心地よいカッコいい言葉だなぁ…個人的感想です、あしからず)
しかも彼は、和歌や舞、宮廷人としての素養もあり、大きな足跡を残した人らしい…
公園として残されている一角には「伊勢平氏発祥地産品見取図」も。
なるほど…
周りを見渡せば、のどかな田園風景ですが、その先には「伊勢自動車道」。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/5f/f7/449d715b04512682b78fc9a015070ff9_s.jpg)
そして、「忠盛産湯池」と杜若(撮影日2022/5/18)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/59/66/a09e256508ded1ed9f5ba1d113444b79_s.jpg)
その隣に説明書きのある一本の木を見つけ、
「梛(ナギ)と伊勢平氏」、「梛」の葉っぱ一枚頂きました。
見れば、不思議なことに葉脈が「タテ」、ここに書かれているように、
引っ張ってもちぎれません!=男女の縁が切れない!…らしい。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/18/aa/3750760f39d86cc4bc052c530a5e412d_s.jpg)
≪かって、熊野三山造営奉行であった平重盛(※清盛の長男) 平治元年(1159)に速玉大社社殿落成の記念に、
ナギを霊力のある木として植えている。 重盛は忠盛の孫にあたる。
その後、このナギ は大木に育ち御神木となった。
古くから、この御神木は熊野詣の人々の目をひきつけ、これにあやかろうと、各地に植えられた。
特に、「権現さん」と「平氏」ゆかりの地にはよく植栽されている。
ナギは風や海の「凪(なぎ)」に通じると、 航海の安全を願って植えられたり、
葉の脈が 縦に多くあって、葉の両端を引っ張っても、簡単にはちぎれないので
男女の縁が切れないようにと願って、この葉をお守りにも用いられた。
一方、個人庭園でも「モクセイ、モッコク、ナギ、ナンテンに松竹梅」と
語呂合わせにいわれるようによく植えられてきた。
平成10年5月21日
津市大字産品407番地 小林(傅右衛門) 傅一 ≫
「梛(なぎ)の木は熊野のご神木」なんですね。
*「熊野大社梛の葉」のこと、
「源頼朝と北条政子も一枚ずつ大切に持っていたと伝えれています。」とのことです。
*「熊野権現」
結局、中途半端な訪問記録になりましたが、「芭蕉さん絡みの平氏」のことはまだまだこれから学習するとして、
今日は「梛」でお別れ…
ではまた
いろんな話を聞いていると、「平家」もしくは「平氏」の話が出てきます。
その歴史を紐解くほど深くは勉強していないので詳しくは書けません、
が、気になるのは好奇心によるところが大きい。
例えば、芭蕉さんの祖先は「平 宗清(ムネキヨ)」という人であるらしく、
この人物は「清盛の(曾?)祖父、平 正度(マサノリ)」の「次男、貞季の末裔」だとか…
頭の中で家系図を書こうと思っても所詮無理なことは承知。
そこで「平 正度」さんってだれ?
「宗清」さんって?
ネットで検索すれば「平氏の系図」みたいなのはたくさん出てきますが、
自分の目で何か証拠を見てみたい、「好奇心という名のビョウキ」みたいなもんですかね(笑)。
研修時の資料で
「長野峠を越えて、東に15kmの所に『平家発祥の地』がある」と教えられ、
google mapを頼りにしつつ、行きなれた道をどんどん東へ~~
このまま右方面に行けば「かざはやの里」だなぁ、
目の前に「伊勢自動車道」が見えるなぁ、という所まで来ました。
ここは「津市産品地区」、🚥左折すればすぐ、
そこには「平氏発祥伝説地」の案内があります。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/24/db/70ffa19d6aff057c2426e6ec6045b3b7_s.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/3a/3b/9b97753bb04f2142a6807f9421eac087_s.jpg)
石碑やら説明版、そして「平氏の系図」。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/20/02/2e4403930c5287eca2d5371c447fcba2_s.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/76/1a/a1768cd71e79b3ddcb5449868a122d6f_s.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/5a/cf/82456d9c54ded9573639c73d13626abb_s.jpg)
≪三重県指定史跡 時代 平安時代 所有者津市
指定 昭和14年3月25日
「平氏発祥伝説地」
一般に「忠盛塚(タダモリヅカ)」と呼ばれるこの地は、正式には「平氏発祥伝説地」といいます。
この塚は、平忠盛が産まれたときの胞衣(エナ)を埋めた「胞衣塚」 ともいわれ、
忠盛が産湯を使ったとされる産湯池も残っています。
桓武天皇の曾孫高望王(ソウソン タカモチオウ)を祖とする平氏は、初め東国に土着し勢力を張っていました。
しかし、平将門の乱(939年)や平忠常の乱(1028年)以後、東国は源氏の地盤となり、
貞盛(サダモリ)の子維衡(コレヒラ)の時に伊勢・伊賀を本拠地とするようになり、
寛弘3年(1006)維衡は伊勢守に任じられています。
「平家物語」には、眇め(スガメ)田舎武士の昇進をねたんだ公卿が「伊勢瓶子(ヘイシ)は素甕(スガメ)なり」とはやし、
あざけったとあります。 維衡の曾孫正盛は白河法王の信任を得て中央政界に進出し、
その子忠盛は正四位下但馬守(ショウシイゲタジマノカミ)に進み、武士として最初の昇殿を許され※、
平氏繁栄の基礎をつくりました。
ところで、伊勢平氏とは維衡系のことで、「尊卑分脈(ソンピブンミャク)」(※日本の初期の系図集)には維衡の孫貞衡と
その子貞清は安濃津三郎、貞清の子清綱は桑名富津二郎と傍注され、北勢から中勢にかけての勢力伸張がうかがわれます。
貞衡の弟正衡(マサヒラ)の流れの正盛・忠盛は、伊勢平氏の中では傍系にあたります(※伊賀平氏ともいわれる)が、
忠盛の昇殿、清盛の活躍により、伊勢平氏=忠盛と理解されるようになったと考えられます。
そして、貞衡系の伊勢平氏は、いつしか忠盛・清盛の郎従(ロウジュウ)となり、歴史の表舞台から姿を消してしまいました。
津市教育委員会 ≫
伊賀での研修時資料では、
「『平 忠盛』(1096~1153)は、検非違使(ケビイシ:京の平和を守る特殊部隊)や国司(コクシ:現在の知事のようなもの)などでの活躍が認められ、
武家出身者として初めて「院の昇殿」を許された、と。
これは伊賀阿拝郡鞆田(トモダ)村の所領荘園を白河上皇に差し出したことによる」とか。
要するに・・・「父・正盛」が京に役職を得、
「子・忠盛」は「検非違使として『御所』の北側を守り、その功で『昇殿』を許される」。
それは「北面の武士」という名誉ある役職。
(何故か心地よいカッコいい言葉だなぁ…個人的感想です、あしからず)
しかも彼は、和歌や舞、宮廷人としての素養もあり、大きな足跡を残した人らしい…
公園として残されている一角には「伊勢平氏発祥地産品見取図」も。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/50/e2/855672434d8f1525d1b1402740f6f88f_s.jpg)
周りを見渡せば、のどかな田園風景ですが、その先には「伊勢自動車道」。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/1f/42/1f9febce8ee279be58590ca7a1007af1_s.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/5f/f7/449d715b04512682b78fc9a015070ff9_s.jpg)
そして、「忠盛産湯池」と杜若(撮影日2022/5/18)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/5d/9e/8a6ec3eeef7d4c4fbf3e71faab78288b_s.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/59/66/a09e256508ded1ed9f5ba1d113444b79_s.jpg)
その隣に説明書きのある一本の木を見つけ、
「梛(ナギ)と伊勢平氏」、「梛」の葉っぱ一枚頂きました。
見れば、不思議なことに葉脈が「タテ」、ここに書かれているように、
引っ張ってもちぎれません!=男女の縁が切れない!…らしい。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/6a/29/84f2694c44fde63b0490b9274893181c_s.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/18/aa/3750760f39d86cc4bc052c530a5e412d_s.jpg)
≪かって、熊野三山造営奉行であった平重盛(※清盛の長男) 平治元年(1159)に速玉大社社殿落成の記念に、
ナギを霊力のある木として植えている。 重盛は忠盛の孫にあたる。
その後、このナギ は大木に育ち御神木となった。
古くから、この御神木は熊野詣の人々の目をひきつけ、これにあやかろうと、各地に植えられた。
特に、「権現さん」と「平氏」ゆかりの地にはよく植栽されている。
ナギは風や海の「凪(なぎ)」に通じると、 航海の安全を願って植えられたり、
葉の脈が 縦に多くあって、葉の両端を引っ張っても、簡単にはちぎれないので
男女の縁が切れないようにと願って、この葉をお守りにも用いられた。
一方、個人庭園でも「モクセイ、モッコク、ナギ、ナンテンに松竹梅」と
語呂合わせにいわれるようによく植えられてきた。
平成10年5月21日
津市大字産品407番地 小林(傅右衛門) 傅一 ≫
「梛(なぎ)の木は熊野のご神木」なんですね。
*「熊野大社梛の葉」のこと、
「源頼朝と北条政子も一枚ずつ大切に持っていたと伝えれています。」とのことです。
*「熊野権現」
結局、中途半端な訪問記録になりましたが、「芭蕉さん絡みの平氏」のことはまだまだこれから学習するとして、
今日は「梛」でお別れ…
ではまた
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