この世界の憂鬱と気紛れ

タイトルに深い意味はありません。スガシカオの歌に似たようなフレーズがあったかな。日々の雑事と趣味と偏見のブログです。

『ダークナイト・ライジング』についての最終考察、その四。

2013-04-20 19:58:47 | 旧作映画
 『ダークナイト・ライジング』についての最終考察、その三からお読みください。


 ずいぶんと長い記事になってしまいましたが、今回で最後ですのでもう少しお付き合い下さい。

 およそ言いたいことは言い尽くしたつもりですが、あと一つ、あるアイテムについて検証したいと思います。
 それは何かというと『クリーン・スレート』です。
 クリーン・スレートとはセリーヌ・カイルが必死になって探していた、過去の犯罪歴を抹消する特殊プログラムです。
 ここで一つの疑問が生じます。
 結局彼女は自らの犯罪歴を抹消して何をしたかったのか?
 その疑問に明確な答えを出せる人はいないでしょう。
 なぜなら作中そのことについて説明が一切なかったから。
 これはずいぶんおかしな話だと思います。
 百万ドルを必死になって稼ごうとする男が主人公の物語があって、男は最後の最後に見事百万ドルを稼ぐことに成功する。
 けれど物語の中でなぜ百万ドルが必要だったのか、一切説明されなければ、その物語はプロットが破綻しているといってよいでしょう。
 だいたい彼女は自らの犯罪歴を気にするようなキャラクターにはまったく見えません。
 あるブログで、彼女は娼婦だった過去を抹消したかったのだ(だからクリーン・スレートが必要だった)という説明がされてましたが、それは納得出来るものではありません。
 データ上の犯罪歴をいくら抹消することが出来ても、彼女の過去を知る人間はいくらでもいるでしょうから、犯罪歴だけを抹消しても無意味です。
 結局クリーン・スレートとは何だったのか?
 答えは簡単です。
 ノーランが用意した赤いニシン、セリーヌがブルースと密会していたと観る者に錯覚させるためのマクガフィン(置換可能な作劇上重要でないもの)、それ以上でもそれ以下でもないと思います。
 そうでなければ本筋と絡んで然るべきでしょう。
 クリーン・スレートや自動操縦装置といった、一見するとブルース・ウェインが生存していたことを証明する、しかし、よくよく検証するとそうはならないアイテムの存在が、ノーランはミスリードをしたかったのだなと自分に思わせるのです。


 最後に、どうして自分が映画『ダークナイト・ライジング』の結末の解釈にこだわるのか、説明させてください。

 映画を観て、その映画を面白いと思うのか、つまらないと思うのかは観た人の自由だと思います。
 人はそれぞれ違う人生を送ってきているのですから感性が違うのは当然であり、感性が違えば評価ポイントが違うのもまた当然です。
 自分は『ショーシャンクの空に』という映画がマイ・フェイバリットムービーですが、「『ショーシャンクの空に』はまったくもってつまらない!」という人がいても別に腹が立つということはありません。
 そういうこともあるよな、ぐらいにしか思いません。

 しかし間違った解釈をした上で低い評価を下す人がいると、それはないだろう、と思うのです。
 映画秘宝という映画雑誌で、2012年度に公開された映画の中で『ダークナイト・ライジング』がワースト1に選ばれました。
 それ自体はまぁいいんですよ。特にどうとも思いません。
 けれど、『ダークナイト・ライジング』をワーストに選んだ人の中で、明らかに結末の解釈を間違えてる人がいるのです。
 これはちょっといただけない。

 『ダークナイト・ライジング』は疵(ストーリー上の矛盾)の多い作品です。
 けれど自分はそれらの疵はそんなには気になりません。
 疵のない完璧な映画という方が珍しいぐらいですからね(『ショーシャンクの空に』ですら疵はあります)。

 そして自分は『ダークナイト・ライジング』の結末が結構気に入っています。
 ブルース・ウェインは自らの命を犠牲にしてゴッサムシティの人々を救い、ロビンはブルースの遺志を引き継ぎ新たなバットマンとなり、アルフレッドは遠い異国の地で亡きブルースの幻と再会する。
 主人公のブルースこそ亡くなりましたが、希望と勇気の持てる、優しさに充ちた幕引きではないですか。
 この結末の解釈が間違っているというのならば、自分の『ダークナイト・ライジング』への評価はガラッと変わります。
 それこそワーストに選ぶかもしれませんね。


 さて、本記事への反論コメントは大・大・大歓迎です。
 それこそ自分の望むところだと言っていいぐらいです。
 けれどせっかくですから、コメントをする際、ついでに次の三つの質問に答えていただけたら幸いです(どれか一つでも構いません)。
①今後十年間に『バットマン』の新シリーズが始動する確率はどれぐらいあると思うか?
②バットマンはバットからどのようにして脱出したと思うのか?
③また議論をすること自体はどう思うか?議論をすることによって作品への理解が深まることはあるのか?
 よろしくお願いします。
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そしてブライアンはいなくなった  Bryan,far away その3.

2013-04-19 21:29:43 | そしてブライアンはいなくなった
 Dr.エイブラハム・ジェイコムズの独白アイリーン・キャンベルの懺悔に続いてお読みください。



 ブライアンの述懐


 私の名前はブライアンといいます。
 私の生みの親はDr.エイブラハム・ジェイコムズなので、ブライアン・ジェイコムズと名乗ってもいいのかもしれません。
 生みの親といってももちろん私とDrの間に何らかの遺伝子上の繋がりがあるわけではありません。
 何といっても私はウサギなのですから。
 けれど私という存在が今この世に存在しているのは間違いなくDrのおかげなのです。
 私の生みの親はDr.エイブラハム・ジェイコムズであると言ってよいと思います。

 Dr.エイブラハム・ジェイコムズは紛う事なき天才です。生体コンピューターの分野においては他の研究者の追随を許さないほど優秀な学者です。
 けれど、Drはそれほどの天才であるにもかかわらず、いえ、天才であるがゆえに凡人であれば知っていて当然の常識を知らず、考えて当然の問題を考えず、理解して当然の事柄を理解しません。
 私が良い例です。
 Drはウサギに人並みの知能を与えては何かしら倫理的な問題があるかもしれないとは考えないのです。

 Drが知らないことは他にもあります。
 Drは私がニンジンが大の好物だと思っているようですが、私は実はそれほどニンジンが好きではありません。
 もちろん私もウサギですから、決してニンジンが嫌いというわけではないのですが、さすがに毎日食べ続けていると飽きてきます。
 Drが毎日飽きずに食べているヌードルの方がよっぽど美味しそうに見えます。
 でも私はそのことをDrに言い出せませんでした。
 私がニンジンを食べているのを満足そうに眺めているDrに、ニンジン以外のものも食べたいです、とはどうしても言えなかったのです。

 Drは孤独な人です。
 孤独でなければウサギ相手にチェスをしようなどとは思わないでしょう。
 Drの流儀を一言で言えば、勝つためには手段を選ばない、ということになるでしょうか。
 そういった流儀がときに相手プレイヤーのプライドを甚く傷つける、ということがDrにはわからないのです。
 長年その流儀でチェスを続けてきたために、今では私を除いてDrにはチェス仲間はいなくなってしまいました。

 何だかDrの悪口ばかり言っているようですが、Drは本当は良い人なのです。
 アイリーンは私がDrから虐待を受けていたのではないかと思っているようですが、とんでもありません。
 よく晴れた日曜日に郊外の公園へ連れて行ってもらったことがあります。
 はしゃぎすぎた私はDrとはぐれてしまいました。
 Drの姿を必死に探す私の前に黒くて大きな犬が現れました。
 その犬は恐らく先祖が狩猟犬だったのでしょう、本能的に私に襲い掛かってきました。
 恐怖のあまり身がすくんで動けない私を助けてくれたのはやはりDrでした。
 Drは必死の形相でその犬を追い払ってくれたのです。
 自分自身が襲われることも顧みずに…。

 私は私の生みの親であり、命の恩人であるDr.エイブラハム・ジェイコムズのことを心から尊敬しています。
 Drと一緒に暮らせてとても幸せでした。
 でも少しだけ、本当にほんの少しだけですが、私はDrを恨んでもいるのです。
 もし私が普通のウサギだったら、こんなにもいろいろなことで悩んだり、苦しんだりせずに済んだかもしれないと思うのです。
 それがつらくて私はDrの元を去ることにしました。

 でもやっぱり何も言わずに出てきたのは良くないことでした。
 一言、挨拶をしてから出るべきでした。
 だから、一度Drの元に戻ろうと思います。
 戻って感謝の言葉と別れの言葉をきちんと伝えたいのです。
 ウサギだから礼儀知らずなのだ、とは思われたくないですから。


                      Dr.エイブラハム・ジェイコムズの謝罪へ続く 
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『ダークナイト・ライジング』についての最終考察、その三。

2013-04-18 23:46:06 | 旧作映画
 『ダークナイト・ライジング』についての最終考察、その二の続きです。


 バットの操縦中、ブルース・ウェインが瀕死の状態だったというのはただの想像ではないか、と仰る方もいるかもしれませんね。
 あれだけ深い傷を負っていたのであれば、出血多量で意識が朦朧としていたに違いないというのは自分にとって当然の帰結なのですが、まぁいいです。
 次に移りましょう。

 ブルース・ウェインはどうやって飛行中のバットから脱出しえたのか、そのことについて考えてみましょう。
 結論から述べます。
 不可能です。
 今この記事を目にしている誰よりもそのことについて検証を重ねたつもりですが、あの状況下、あの条件での脱出は不可能だという結論に達しました。

 何を言ってるんだ、バットには自動操縦装置がついていたのを知らないのか、ブルース・ウェインはそれを使って脱出したのだ、そう思われる方も多いかもしれませんね。
 確かにバットには自動操縦装置がついていました。
 が、ブルース・ウェインにはそれを起動させるタイミングがないはずです。
 
 唯一可能だったとすれば、浜辺やビルの屋上に一旦バットを着陸させ、機外に脱出、その後自動操縦装置を使ってバットを遠隔操作するというやり方ですが、ブルース・ウェインは生きていたと考える方であっても、一刻一秒を争う状況で、そのような悠長なやり方で彼が脱出するはずはないと思うでしょう。

 単純に飛び降りたのだろう、と考える方もいるかもしれませんが、それもまた不可能です。
 飛び降りたと考える方はおそらく『バットマン・ビギンズ』においてバットマンが暴走する列車から飛び降りたことが頭の片隅にあるのでしょう。
 しかしながら暴走する列車と高速飛行する機体を同一視することは出来ません。
 そもそも飛行する機体から飛び降りようと思ったら、まずキャノピー(風よけ)を開けなければなりません。
 高速飛行中にキャノピーを自動開閉できる飛行機なんて聞いたことがありません。
 技術的に可能だったとしてもそういった事態を事前に想定していなければそういった自動開閉装置をつけるはずがありません。
 
 何を言ってるんだ、飛行機であれば緊急脱出装置がついているのが当然だろう、バットマンはそれを使って脱出したのだ、そう仰る方もいるでしょうが、それはより不可能です。
 緊急脱出装置とはつまり射出座席のことを指すのだと思いますが、射出座席というのは火薬を使って座席ごと射出する脱出装置のことであり、コクピットでバズーカをぶっ放すようなものです。
 コクピットでバズーカをぶっ放して、機体が安定した飛行を続けられるはずがありません。直後に墜落します。

 つまり、バットマンが無事帰還したのであれば、当然何らかの脱出方法を用いてであり、その脱出方法は二つの必須条件があります。
①機体から離脱する際まったく無反動である。→機体が墜落しないため。
②離脱後、さらに高速で移動できなければならない。→核爆発に巻き込まれないため。
 この二つの条件を満たす脱出方法を自分は思いつくことが出来ませんでした。


 では次にブルース・ウェインの性格から考察してみましょう。
 バットの操縦中、瀕死の状態だったブルース・ウェインが何らかの方法を使って、無事に生還したとしましょう。
 そして一ヶ月後、もしくは半年後、パリだかフィレンツェだかで執事のアルフレッドと再会を果たした。ブルースの傍には恐らく恋人であろうセリーナ・カイルがいる。
 このシチュエーションが既におかしくはないですか?
 ゴッサムシティに完全な平和が訪れた、というのであればわからなくもありません。
 しかしそうではありません。
 バットマンによって一時的に平和がもたらされましたが、それは決して恒常的なものではありません。
 そのことはジョン・ブレイクことロビンがブルース・ウェインの後継者になるであろうことが示されるラストからも伺えます。
 
 そう、ラストでは大いなる運命に導かれてロビンがブルース・ウェインの後継者になることが示されます。感動的なラストです。
 そのことに異論はありません。
 しかしながら決してブルースはそのことを画策していたわけではないんですよね。
 ロビンのような若者を好ましく思っていたことは間違いないと思います。また、彼が自分の後継者になってくれればいい、ぐらいのことは思っていたかもしれません。

 しかし決して画策していたわけではない。
 なぜなら彼が背負っていた苦役はあまりにも酷すぎるものだったから。
 自らは満身創痍の状態になり、愛する恋人は救えず、人々から称賛されることもない。
 これほどの苦役を他人に引き継げ、とは口が裂けても言えないでしょう。
 ロビンがブルース・ウェインの後継者となったのはあくまで大いなる運命に導かれて、言い換えれば偶然にすぎません。

 ロビンがたまたま自分のあとを引き継いでくれたからいいようなものの、引き継がない可能性だって大いにあったわけです。
 にもかかわらずすべてを偶然に任せて自分は恋人と観光地でバカンスを楽しむっていうのは無責任ではないですか?
 『ダークナイト』三部作はブルース・ウェインが無責任なろくでなしに成り果てる物語だったのでしょうか?
 そうではないはずです。
 仮に満身創痍となって今後バットマンとして活動するのが難しくなり、誰かに後を引き継いでもらわなければいけないという状況となったとしても、その引き継いでもらった相手のことは最低限全面的にサポートするの彼のやり方ではないでしょうか。
 遠い異国の地から、ロビン、後はよろしく頼む、などとエールを送るのがブルース・ウェインのやり方だとは思えません。
 そういった性格面から検証しても、ブルース・ウェインは死んだ、そう結論付けるのがしっくりくるのです。

 
                               最終考察、その四
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『ダークナイト・ライジング』についての最終考察、その二。

2013-04-17 23:17:10 | 旧作映画
 『ダークナイト・ライジング』についての最終考察、その一の続きです。


 映画『ダークナイト・ライジング』の最終考察は本作の監督であり、脚本も手掛けているクリストファー・ノーランの心境にアプローチすることから始めたいと思います。
 脚本を書くにあたってノーランの頭の隅にあったのは『バットマン』の次期シリーズのことではないか、そう思うのです。
 『バットマン』の次期シリーズ?そんな話、聞いたことがないぞ、と思われるかもしれません。確かに自分も聞いたことはない。今の段階ではそれは自分の妄想にすぎません。

 しかしながら実現する可能性のかなり高い妄想だと思っています。
 何しろ使われていないエピソードは豊富で、登場していない怪人も多数、製作すればヒットは確実なのですから、いずれは製作されるであろうと考えるのが自然です。
 逆に次期シリーズが製作されることは絶対にないと断言される方がいたら、その根拠を伺いたいです。

 そしてその次期シリーズは極彩調のアメコミ的な作品になることも間違いありません。
 まぁ当然ですよね、ノーランが『ダークナイト』三部作でリアルアクション路線を極めたのですから、その反動で対極的な作品になるであろうことは疑いようがありません。
 自らが復活させ、新世代の、リアルなヒーローとして世に送り出したバットマンが再び旧世代のアメコミ的なヒーローに回帰することをノーランはどう思ったでしょうか。
 耐えられない、と思います。少なくとも自分がノーランの立場であったら耐えられないですね。

 ノーランは何としても次期シリーズの始動を阻止したかった。
 そしてそのための効果的な手段をノーランは有していました。
 そう、これから製作される三作目でバットマンことブルース・ウェインを葬ればよい。
 それが可能であるのは言うまでもなく彼だけです。彼だけが地球上で唯一、ブルース・ウェインを葬る資格を持つのです。

 もちろん製作サイドとしては絶対にそんなことを認めるわけにはいきません。
 旧シリーズにおいて主人公が亡くなったからといって、必ずしも新シリーズをスタートさせることが出来ないわけではないですが、ファン心理を考えれば主人公が亡くなっていない方がいいのは言うまでもありません。 

 ブルース・ウェインを葬りたいノーランとブルース・ウェインには生きててもらわないと困る製作サイド、その妥協点がブルース・ウェインの生死がはっきりしないという『ダークナイト・ライジング』の結末だったのではないでしょうか。

 ブルース・ウェインの生死をはっきりさせてはならないという密約をノーランは受け入れました。そしてほくそ笑んだはずです。
 何しろ脚本を書くのは彼自身ですから、そこらへんのさじ加減は自由自在です。
 一見するとブルース・ウェインは生きているかのように思える赤いニシン(間違ったヒント)を何匹か放ち、その実細部を検証すればブルース・ウェインは死んだのだという結論に達する脚本にすればよい。
 言葉にすれば簡単ですが、それは至難の業だったと思います。
 しかしそれをノーランはやり遂げました。

 ノーランの計算ミスがあったとすれば、彼のミスリードがあまりに巧みで、ブルース・ウェインは生きていたのだ、という誤った結論に達した観客があまりに多かったことではないでしょうか。
 けれど、作品の細部を検証していけば自ずと答えは一つしか出ません。
 では妄想はこれぐらいにして、検証に移りましょう。


 物語のクライマックスにおいてブルース・ウェインはミランダ・テイトに深くナイフで刺されています。この一事においてブルース・ウェインは死んだのだ、と結論付けてもいいぐらいです。
 何言ってるんだ、そのあとバットマンは何事もなかったかのように動き回ってるじゃないか、そう仰る方もいるかもしれません。
 そうです、確かにブルース・ウェインは鋼鉄の精神力で何事もなかったかのように振る舞っています。
 しかし本当に何事もなかったはずはなく、あの傷は自然に止血するような浅いものではありません。バットスーツの下は血塗れだったはずです。
 バットの操縦中、ブルース・ウェインは既に瀕死の状態であった、意識が朦朧としてバットを操縦するのが精一杯で脱出について考慮する余裕などなかった、そう考えるのが自然です。
 
 これはただの奇遇ですが、『ダークナイト・ライジング』と同じ年に公開された『ドライヴ』という映画があり、この二本の映画は結末が近似しています。
 映画『ドライヴ』において主人公ドライバーは悪役に深く腹を刺されます。しかしそのあとドライバーはその悪役を始末すると何事もなかったかのようにその場から愛車で去っていきます。
 実際ドライバーが死に至る描写はありませんが、あの映画でドライバーが生き残った、無事だった、解釈する人はいないでしょう。
 この二本の映画は結末が極めて似ていた、違いは意図的にミスリードされているかどうか、だと思うのです。


                                最終考察、その3
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『ダークナイト・ライジング』についての最終考察、その一。

2013-04-16 20:43:47 | 旧作映画
 映画『ダークナイト・ライジング』の結末についての記事を書くのはこれで三度目なので、人によっては「またかよ!」と思われるかもしれません。
 実際自分もそのことについてもう書く気はなかったのです。
 自分の解釈の正しさについては絶対的な自信がありますが、絶対的に正しいと思うことであっても、その正しさを主張しても無駄であること(が多いということ)を経験で知っているからです。

 にもかかわらずなぜ懲りずに同様の記事を書くに至ったかというと、それは『ひたすら映画を観まくる日記アルティメット・エディション』という映画ブログの【完全ネタバレ!『ダークナイト ライジング』映画レビュー】というタイトルの記事の中で、管理人のタイプ・あ~るさんが「ブルース・ウェインは生きていた」という主旨の発言をされていたので、自分がコメント欄でいくつか質問をぶつけたんですよね。もちろん「ブルース・ウェインは死んだ」という解釈の元での質問です。

 自分はてっきり軽く流されるものとばかり思ってました。「ま、そういう考えも出来なくはないですよね」みたいな。
 しかしタイプ・あ~るさんはきちんと反論をしてくださったのです。
 初コメントの自分に対して、かなりの文字数を費やして「ブルース・ウェインは生きていた」という自身の考えを述べられました。
 これにはちょっと感動しましたね。
 それまで面識のなかった相手にきちんと反対意見を述べることは簡単なようでいて、なかなか出来ることじゃないですから。
 だから自分もタイプ・あ~るさんに対して再反論するべきだろうと思ったのです。全力で再反論することが、礼儀であると思うのです。

 日本人って議論をすることが苦手ですよね。下手くそだと言ってもいいですが。
 そのことを以前ミクシィのある作家のコミュで痛感しました。
 その作家の新作のトピックで、自分はこの作品の○○についてはこう思う、と自論を主張したら、流れで議論になったのですが、議論の相手から、自分の考えを他人に押し付けるな、とひどく非難されました。
 なぜ自分の考えを主張することが自分の考えを他人に押し付けることになるのか、まったくもって理解できません。

 自分は何かを議論することってとても有意義なことだと思うんですけどね。
 議論をすることによってその対象に対して理解が深まればこれに勝る喜びはないじゃないですか。
 自分と考えの違う相手であっても別に軽蔑なんてしないし、自分と考えの違う相手がいることってむしろ面白い。
 
 しかしそういうふうに考えるのはごくごく少数のようで、ミクシィの件の相手からは悪しざまに罵られましたよ。
 自分はその人のことを貶める発言など一切していないのに…。
 悲しかったし、ガッカリもしました。
 そういうこともあって、何であれ、議論をすることって空しいなと思うようになっていました。

 なので、今回議論をする機会を与えてくださったタイプ・あ~るさんには感謝の意を表明したいと思います。まぁ意図的に機会を与えたというわけではないでしょうけれど。笑。

 これから論破しようという相手のことを紹介するのもなんですが、タイプ・あ~るさんのブログは数多くある映画関連のブログの中でもっともマニアックで、ユーモアに満ちていて、情報に通じているブログだと思います。何だか自分が言うと褒め殺しをしているかのようで心苦しいんですが。。。

 前置きが長くなったので、本格的な再反論、最終考察は明日から始めたいと思います。


                               最終考察、その二へ。
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世の中こんなに変態(好き)が多いとは!『HK変態仮面』。

2013-04-15 21:42:18 | 新作映画
 あんど慶周原作、福田雄一監督、鈴木亮平主演、『HK変態仮面』、4/13、Tジョイ博多にて鑑賞。2013年19本目。


   


 のっけからこんなことを言うのも何なんですけど、自分は原作の『変態仮面』があんまり好きじゃないんですよ。その面白さがよくわからないというか。
 まぁ『変態仮面』だけでなく、永井豪の『けっこう仮面』や『へんちんポコイダー』、とりいかずよしの『トイレット博士』も好きじゃないから、アブノーマル系のギャグ漫画自体好きじゃないんだと思います。

 ではなぜ映画『HK変態仮面』を観に行くことにしたのか?
 自分は、映画の楽しみ方って映画鑑賞そのものを楽しむ他に、今観た映画の感想を一緒に観た人と語り合う、それも楽しみ方の一つだと思っています。
 しかし、、、自分はもうずいぶん誰かと一緒に映画を観に行ってないんですよね(お袋を除く)。
 最後に誰かと観たのは、achiさんと一緒に観た『キック・アス』かなぁ。それ以来ずーっと一人で映画を観続けてきました。

 だから、どんな作品でもいいから、誰かと一緒に観に行きたかったんですよね。
 そしてその感想を鑑賞直後語り合いたかった。
 そんなとき、不思議博物館の館長が『HK変態仮面』の鑑賞に並々ならぬ意欲を見せていたので、じゃどうせだったら不思議博物館のイベントとしてみんなで観に行きませんか、と提案したのです。

 提案したのはいいんですが、このイベントに付き合う人がいるとは正直思ってませんでした。
 何といっても二十年以上前に、ほとんど打ち切りといっていい形で連載が終了した漫画が原作ですから、そんな映画を好んで観る奴がいるとは思わなかったのです。
 しかしその認識は思いっきり間違ってました。
 最終的にイベント参加者は十二人もいましたよ。

 自分の認識ミスはそれにとどまりませんでした。
 自分が去年劇場に観に行った映画は四十八本ありますが、その中で唯一劇場が満員だったのは『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』のみです。
 レイトショーだと観客が二、三人ということもよくあります。
 だから、この日のレイトショーも同じようなものだろうと高を括っていたのですが、、、開けてビックリ玉手箱ですよ。
 レイトショーだというのに席が八割方埋まっているのですから。
 世の中こんなに変態(好き)が多いのか、と本当に驚きました。

 映画は自分にはあんまり面白くなかったです。面白くないというか、合わなかったと言った方が正しいかもしれません。
 でもそれも道理だと思います。
 だって原作を面白いと思えない人間が原作のスピリッツを継承した映画を面白いと思えるわけがないですから。

 けれど、イベント参加者で合わなかったのは自分ぐらいで、他の人は「面白い!」「最高だった!」と絶賛の嵐でしたね。
 上映中もそこかしこでギャハハハと爆笑する人が多かったです。
 『テッド』のときもそうですけど、世の中自分が思う以上に変態ネタが好きな人が多いみたいです。

 映画そのものは合わなかったと書きました。
 しかし映画化の舞台裏を想像すると熱いものがあります。
 二十年以上前に打ち切られた漫画が、一人の熱烈な愛読者(=小栗旬)によって映画になる、その舞台裏にはきっと何か感動のドラマがあったんだろうなと思うのです。
 関係者の反対で映画化の一番の立役者である小栗旬は一切プロモーション活動に参加出来なかったそうです。それどころかエンドロールのどこにも彼の名前は見当たりませんでした。
 関係者の筆頭が山田優ではないかと思うのは自分の邪推でしょうか?
 ともかく、役者としての小栗旬はどこがいいのかわかりませんが、人間としての小栗旬には好感が持てました。
 パート2には是非出演してもらいたいと思います。なるべく変態の役で。笑。


 お気に入り度は★☆、お薦め度は?????(★は五つで満点、☆は★の半分)です。
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ちょっと、そりゃないだろと思った、『天使の分け前』。

2013-04-14 23:36:50 | 新作映画
 ケン・ローチ監督、ポール・ブラニガン主演、『天使の分け前』、4/13、ユナイテッドシネマキャナルシティ13にて鑑賞。2013年18本目。


 マイミクのデヴォン山岡さんが「映画のハシゴはするべきでない。なぜなら映画のハシゴをすると映画一本の情報量を消化しきれないから」という映画鑑賞論を展開されていて、自分はもっともだなと思いました。
 情報量を消化しきれないというのもそうですが、個人的には映画鑑賞ってかなり体力を消耗する行為なんですよね。二本目を鑑賞するときには結構フラフラになってることが多く、それどころか気分が悪くなってることすらあります。そんな状態ではまともに映画鑑賞できるわけがない。

 とはいえ現実的には同程度に観たい映画が二本、同日、もしくは同一週に公開されることはままあることで、最近でいえば『フライト』と『ジャンゴ 繋がれざる者』の二本がそうですね。そのどちらかの鑑賞を翌週に回したとしても翌週には翌週で『キャビン』の公開が控えていて、結局映画のハシゴをせざるを得ないのです。

 あと、映画のハシゴをするのは貧乏性だからっていうのがありますね。
 映画を二本続けて観ると疲労度は二倍(以上)になりますが、交通費や食費といった雑費は同じなので、ついついハシゴをしてしまうのです。

 そんなわけでレイトショーで『HK変態仮面』を観ることが確定していた土曜日、どう考えても時間が余るのでもう一本観ることにしました。
 候補はケン・ローチ監督の『天使の分け前』とジャック・オディアール監督の『君と歩く世界』の二本。
 この二本はどちらも前評判が高く、どちらの監督も特に贔屓というわけではないので、どちらを観るか、今一つ決め手がありませんでした。
 最終的に前者を観ることにしたのは、(予告編を見る限り)前者がユーモラスな作品であるのに対し、後者がシリアスな作品であるから、その程度の理由です。

 タイトルにもなっている【天使の分け前】とはワインやウィスキーなどの醸造酒が樽などで熟成される過程で蒸発して失われること、または失われた醸造酒そのものを指します。
 つまり、昔の人が醸造していくうちに樽からお酒が目減りするのは天使が飲んだからだ、と(冗談で)言ったんですね。

 タイトルからもユーモラスなことが伺えるので、自分はこの映画が観る者をみなハッピーにさせる映画だと思ってました。
 ちょうどそういう映画を観たい気分だったのですが、、、思っていたのとはちょっと違いました。
 ハッピーエンドはハッピーエンドなんですけど、どうハッピーなのかというと、ネタバレになって恐縮ですが、主人公たちはオークションで高値のついたウィスキーを見事盗み出すことに成功し、それを大金に換えてめでたしめでたし♪なんですよ。
 これが同じ盗むにしても、悪党があくどいやり方で稼いだ金を掠め取るとか、小憎らしい守銭奴の隠し財産を頂くとか、それならわかるんですけど、盗む相手が地方のウィスキー醸造所の持ち主で何ら非はないんです。
 主人公は見事盗みを成功させて人生をやり直すことにしました、めでたしめでたし♪っていわれてもちょっと納得がいかないというか…。
 この映画を観た人ってこの結末で本当に納得できたのかなぁ。

 やっぱり映画っていうのはテキトーに観る作品を決めちゃダメですね。
 この映画はたまっていたポイントを使って鑑賞したんですが、五月以降は『死霊のはらわた』やら『ポゼッション』やら、ションベンちびりそうなホラー映画の公開が控えているので、どーせポイントを使って観るなら、それらのホラー映画を観ればよかったです。


 お気に入り度は★★☆、お薦め度は★★★(★は五つで満点、☆は★の半分)です。
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博多変態ぶらぶらツアーに参加してきました♪

2013-04-13 23:49:37 | 日常
 土曜日は博多変態ぶらぶらツアーに参加してきました。
 博多変態ぶらぶらツアー、正式名称は『ぶらり博多、大仏変態ピクニック』といいます(全然ちゃうやん)。
 要はみんなで映画『HK変態仮面』を観ましょう、ついでにその前にちょっと博多の町をぶらついてみましょう、ってことなんですけどね。

 『HK変態仮面』はTジョイ博多でのレイトショーで観たのですが、わざわざ博多まで出かけて夜に一本だけ映画を見るのは勿体ないような気がして、午前中にユナイテッドシネマキャナルシティ13で『天使の分け前』という映画を観ました(レビューは後ほど)。
 
 映画を観ても待ち合わせ時間の15:30まではかなり時間があったので博多駅まで歩いてみることにしました。
 途中何気なく寄った中華料理屋でランチを食べたんですけど、六百円というリーズナブルな値段の割になかなか美味しかったです。
 やっぱり本場、中国人が作る中華料理は美味しいなぁ。

 そのあと博多駅のミニオンでクロワッサンを買ったり、ゲーセンでUFOキャッチャーをしたりして時間を潰し、三時を過ぎたぐらいに集合場所である東長寺に向かいました。

 この日イベントに何人ぐらい参加するのか知らなかったので、『HK変態仮面』のようなマイナーでマニアックな映画を観たいって奴はそうはいないだろう、もしかしたら自分の他に参加者はいないかもしれないな、なんて思ったりもしたのですが、東長寺にはすでにイベントに参加する不思議博物館の常連さんが二、三人いました(最終的にはもっと多くなった)。
 が、集合時間である15:30になっても主催者である館長は一向に現れず。15:45ぐらいに電話すると、「そちらに向かってます。あと100メートルぐらいです」と館長の弁。しかしその100メートルの長いこと!!たぶん800メートルぐらいはあったな。笑。
 よーやく到着した館長に「どうして遅れたんですか?」と尋ねると、途中でガスの元栓を締めたか気になったので一度家に戻ったから遅れたのだそうです。
 どーせならもっと面白い言い訳をしてください!!(宇宙人に攫われそうになったとか、痴女に追いかけられたとか、そーゆーの)


   


 これが福岡大仏です。
 像高は10,8メートル、お台場にあるガンダムを座らせたぐらいの高さで、木造の仏像としては日本一の大きさだと言われています。

 この他東長寺には、


   


 見るも恐ろしい地獄絵や


   


 ありがたい極楽図、


   


 境内には五重塔もあったりして見どころ一杯でした。
 東長寺が何よりいいのはこれだけ見どころがあって拝観料が無料ってことですね。そしてさらに写真撮影がOKであること。
 フツー、観光地のこういった神社仏閣って、大概いくらか拝観料を取るものだし、無料であっても写真撮影は不可ってところが多い気がします。
 東長寺、お薦めですよ。

 このあと参加者一行は館長に率いられ、博多町ふるさと館赤煉瓦文化館を巡りました。
 どちらもよかったですが、途中川端商店街を通ったとき館長があんまりスタスタ先を急いで商店街をゆっくり見物出来なかったのが残念でした。
 普段行くことのないアーケード街をぶらぶらしながら、気になった店を覗くのって自分は好きなんだけどなぁ。
 
 一通り観光が終わって、夕食を取るために博多駅のバスセンタービルへ。
 十人以上いたためにお好み焼き屋と回転ずしに分かれました。
 自分は食べ放題で980円というポスターに惹かれ回転ずしに行ったですが、ここの寿司は生まれてからこれまで食べた寿司の中で一番激不味かったです。
 食べ放題なのはいいんだけど、回転レーンで回っている寿司しか食べられなくて(食べたいネタが食べられない!)、しかも回っている寿司がしょーもないネタしかなくて、食べ放題の四十分間がまさに拷問でした。
 先日行った立ち食い寿司屋は特上寿司が1280円で食べられて安いな~と思ったのですが、この回転寿司は980円でも非常に高かったです。

 食事のあと、Tジョイ博多に移動。
 ロビーのテーブル席で小一時間ぐらい駄弁りました。

 上映時間になって『HK変態仮面』を鑑賞。詳しいレビューは後ほどアップしますが、一緒に観に行った人たちはみんな満足していました。

 鑑賞後解散、このとき夜中の十一時近かったのですが、自分は車をキャナルシティ近くの駐車場に停めていたので、バス停でキャナルシティに向かうバスを待ちました。
 昼間は五分間隔で来るバスが一向に来なくてどうしたものかと思ったら、十時以降は博多駅からキャナルシティまではバスは出ないんですね。
 そのことに気づくまで十五分以上夜風にさらされましたよ(しかもこのあと結局キャナルシティまで歩いた)。

 何やかやありましたが充実した一日だったことは間違いありません。
 休日はこうありたいですね。
コメント (4)
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そしてブライアンはいなくなった  Bryan,far away その2.

2013-04-12 21:02:48 | そしてブライアンはいなくなった
 Dr.エイブラハム・ジェイコムズの独白からお読みください。


 アイリーン・キャンベルの懺悔


 あぁ、神様!!
 私は罪を犯しました。
 私はDr.ジェイコムズの飼っていたウサギのブライアンをDrの元から盗み出したのです。
 あ、いえ、よく考えると違いました。盗んだのではありません。正確には盗んだのではなく連れ出したのです。
 だって、それを望んだのはブライアン自身なのですから。私自身にはブライアンを盗む理由なんてありませんもの。

 Drが研究室でウサギを飼っていることはもちろん知ってました。そのウサギの名前がブライアンだということも。
 でもブライアンが特別なウサギだなんて知りませんでした。本当です。嘘なんかじゃありません。だから私にはブライアンを盗む理由なんてないのです。

 あの日、Drの外出中にゲージの外にブライアンがいるのを見つけて「大変!」と思いました。
 ブライアンをゲージの外に出したのは私じゃありません。ゲージの扉の鍵をかけ忘れたのも。
 でもDrの外出中に研究室の中で何か粗相があれば、それは私のせいになるに違いない、そう思いました。
「おいで、いい子だからこっちへおいで」
 私はそう言いながらゆっくりとブライアンに近づきました。ゆっくりと近づきながら恐る恐る手を伸ばして、捕まえた!!そう思った瞬間、ブライアンは私の手をすり抜けました。
 それから時間にして十分ほどでしょうか、ブライアンと私は追いかけっこを繰り広げました。
 たった十分ほどの追いかけっこでしたが私はくたくたに疲れ果てました。
 私はウサギを飼ったことなどありませんし、生態にも詳しくありませんが、これだけは断言出来ます。
 ブライアンは世界で一番捕まえにくいウサギである、と。
 単にすばしっこいってだけじゃないんです。まるでこちらが次にどのように動くかがわかっているかのように逃げるんです。
 気がつくとブライアンはDr愛用の年代物のデスクトップのパソコンの前にちょこんと座っていました。
 これはいよいよいけない!
 単に研究室を逃げ回っただけでなく、万が一にもパソコンの中のデータが消える羽目になったら、私は首になるだけじゃなく、Drに殺されてしまうかもしれません。
 お願い、お願いだから動かないで…。
 私の願いも空しくブライアンはプイと顔を背けると、その鼻先で器用にキーボードの起動キーを、続けてアルファベットのキーを五回押しました。
 するとモニターに【HELLO】の文字が浮かびました。
 インターネットでピアノを弾いている犬の動画を見たことがあります。ピアノを弾いていると言っても鍵盤を適当に叩いているだけでメロディを奏でているわけではありませんでした。
 ウサギが適当にパソコンのキーボードのキーを五回押して、それが【HELLO】という単語になりうる可能性はどれぐらいだろう、私はへたりこみながら考えました。
 しかしそれが偶然でないことはすぐにわかりました。
 さらに続けてモニターに【IRENE】と浮かんだからです。

 私は結局私のアパートメントにブライアンを連れ帰りました。
 そうしたのはブライアンに説得されたからですが、しかしあの時の私は目の前で起こった非現実的な出来事のせいでとても精神状態がまともだったとは言い難く、時間が経つにつれてとんでもないことをしてしまったと思うようになりました。
 でも今さらブライアンをDrに引き渡す気にはなれません。
 何といってもブライアン自身がDrの元から逃げ出すことを望んだのですから。

 それにしてもブライアンはどうしてDrの元から逃げ出すことにしたのでしょうか。
 そのことを尋ねてもブライアンは答えてくれません。
 もしかしたらブライアンはDrから虐待を受けていたのでしょうか。それとも何か新たなる実験の被検体にしようとしていたのでしょうか。

 私はどうすればいいのでしょうか。
 神様、どうか良い知恵をお授けください。




                            ブライアンの述懐に続く
コメント (5)
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あぁ~果てしない夢を追い~続けて~♪『舟を編む』

2013-04-11 22:25:46 | 新作映画
 三浦しをん原作、石井裕也監督、松田龍平主演、『舟を編む』、4/11、ワーナー・マイカル・シネマズ筑紫野での試写会にて鑑賞。2013年17本目。


 久しぶりの試写会でした。
 いや~、一年近く落選し続けると、もうこのまま自分は試写会には当選しないのかもしれない、なんてネガティブなことを考えちゃいます。
 当選してよかった!

 しかし、、、ぶっちゃけこの作品自体はあんまり観る気がしませんでした。
 なぜかというと原作がそれほどよいとは思わなかったから。
 いや、悪いってわけではないんですよ。
 ただ、これが2012年に出版された本の中で一番本屋の店員が売りたい本だといわれても、正直「う~~~ん」と首をひねらざるを得なかったんですよね。
 細かいところがいくつか気になったのです。

 老女の大家と青年の店子が二階建ての一軒家に住んでいるとしたら、大家が一階、店子が二階に自室を構えるのが当たり前だと思うんですよね。
 もちろん『舟を編む』の中では主人公の馬締の蔵書量はハンパではないので、彼が一階の部屋を占有するのも仕方ないように描かれてはいますが、引っ越した当初からこれだけの蔵書を有していたわけではないでしょうから、馬締が一階に自室を構えるのはやはりおかしい。

 また、毎日のように顔を合わせているにもかかわらず、大家が馬締に対して姪のかぐやが同居することを事前に知らせていないのはとても不自然です。

 もちろん大家が二階に住み、さらに姪の同居のことを知らせていないからこそ、馬締とかぐやが運命的な出会いを果たすことになるのですが、逆に言えば二人が運命的な出会いをするために大家は二階に住まわされてるとしか思えませんでした。。

 しかし、そんなことが気になったのはどうも自分ぐらいのようで、原作のレビューを書いた際にざっと見回りましたがそのことに言及している方はいませんでした。
 そっか、みんな、老人を二階に住まわせても平気なんだね。。。

 映画は無難に原作を映像化していると思いました。
 主役の馬締を演じた松田龍平、ヒロインのかぐやを演じた宮崎あおい、ともに原作とはイメージが違うのですが、まぁ誰が演じようと多少の違和感はあるでしょうから、この二人でよかったんじゃないでしょうか。二人とも演技巧者ですからね。

 ただ、作中十二年の月日が流れ、かぐやは後半四十歳になるのですが、宮崎あおいのかぐやは到底その年齢に見えませんでした。
 これは『横道世之介』で十九歳から三十五歳までを自然に演じ分けた吉高由里子とは対照的でした。演技力そのものはさほど変わらない二人だとは思いますが。

 あと一つだけ難を言えば、やたら手ブレが多かったことでしょうか。特に下宿のシーンでは「地震か?」と思うぐらいでした。
 普段あまりそういったことが気にならない自分だけでなく、一緒に観に行ったお袋も同じことを言っていたので、これは大きなマイナスポイントですね。

 そんなわけで自分はあまり高く評価は出来ませんが、原作が好きな人はきっと気に入ると思います。
 個人的にはよっぽど『横道世之介』の方が良い出来だと思うのですが、興行収入はきっとこっちがはるかに上なんでしょうね。。。


 お気に入り度は★★☆、お薦め度は★★★(★は五つで満点、☆は★の半分)です。
コメント (4)
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