僕の心はずっと凍りついたままだった。
あの日、灰色のオーバーコートの男への復讐を誓ってから、僕は誰にも心を開こうとはしなかった。シスター・レイチェルやシスターアンジェラ、タウンゼント神父、救護院の誰とも、心を開いて話をすることなんてなかった。
僕が考えていることを、心の奥底に秘めていることを、ひけらかせば、反対されるに決まっているから、そんなことは出来るはずもなかった。
涙を見せることはあったよ。笑顔を見せることもね。けれど本当に悲しいと思ったことも、うれしいと思ったこともなかった。僕のそういった感情を司る部位は、エミリーと一緒に死んでしまったんだと僕は思っていた。
でも、そうじゃなかったんだ。
僕はすべてのことが済めば、命を絶つつもりだった。ウォルター・マードック、君の叔父であり、灰色のオーバーコートの男でもあるエドワード・マクマーナン、君の父上であるアルバート・マクマーナン、あのハプスコットという名前の刑事、決して少なくはない人間の死に関わっている僕は生きていくべきではないと、そう思っていた。
死をもって自らの罪を償うべきだと、それ以外に僕が許されるすべはないと…。
だが、それは間違っていた。
君も知っているだろうオーレリー・ローシェルという女の刑事さんが、そしてアルバートさんが、タウンゼント神父が、多くの人が僕にそのことを教えてくれたんだ。
間違いといえば、そもそも復讐を思い立ったこともそうだったのかもしれない。
罪を問われるとすれば、誰でもない、僕がそうされるべきだったんだ。それを認めることは決してやさしくはないことだけれどね。
生きていくためとか、食べるためとか、勝手に理由を付けてはいたけど、シスター・レイチェルの言う通り、エミリーにあんなことをさせてはいけなかったんだ。例えどんなことをしても、どんなことがあっても。そんなこともわからなかった僕は救い難い大馬鹿者だよ。
エミリーが自ら死を望んだとするならば、それも無理からぬことだったと言える。
あの日、首を絞められたエミリーは、僕に向かって右手を伸ばしていたけれど、それは助けを求めていたんじゃなくて、僕にさよならを言おうと手を振っていたんだ。今はそう思う。
君に何と言って許しを請えばいいのか、僕にはわからない。
アルバートさんが、どうしてあの時外に救いを求めようとせず、自ら命を絶ったのか、僕にはそれもわからない。深い傷ではあったけれど、そうしていれば助かったと思う。僕のことを庇ったのだろうか。初対面である僕のことを。
僕にはわからない。
どうすれば許しを請えるのか、そして罪を償えるのか、今の僕には全くわからない。
ただ、死をもってそれを成そうとは思わない。
僕は生きる。
君が教えてくれたように、生きるよ。例えどれほど絶望的な状況であっても、希望を持つことを忘れない。
今、冬の訪れを告げる風は頬に冷たく、太陽はどこに行ってしまったのか、雲に隠れてしまっている。
けれど、僕の心は春の陽気のように穏やかで、暖かい。これがきっと生きるということ、生きるという意思を持って明日という日を迎えることなのだろう。
僕はそう思う。
親愛なるアティルディア・マクマーナンへ
ジョシュア・リーヴェより
fin
あの日、灰色のオーバーコートの男への復讐を誓ってから、僕は誰にも心を開こうとはしなかった。シスター・レイチェルやシスターアンジェラ、タウンゼント神父、救護院の誰とも、心を開いて話をすることなんてなかった。
僕が考えていることを、心の奥底に秘めていることを、ひけらかせば、反対されるに決まっているから、そんなことは出来るはずもなかった。
涙を見せることはあったよ。笑顔を見せることもね。けれど本当に悲しいと思ったことも、うれしいと思ったこともなかった。僕のそういった感情を司る部位は、エミリーと一緒に死んでしまったんだと僕は思っていた。
でも、そうじゃなかったんだ。
僕はすべてのことが済めば、命を絶つつもりだった。ウォルター・マードック、君の叔父であり、灰色のオーバーコートの男でもあるエドワード・マクマーナン、君の父上であるアルバート・マクマーナン、あのハプスコットという名前の刑事、決して少なくはない人間の死に関わっている僕は生きていくべきではないと、そう思っていた。
死をもって自らの罪を償うべきだと、それ以外に僕が許されるすべはないと…。
だが、それは間違っていた。
君も知っているだろうオーレリー・ローシェルという女の刑事さんが、そしてアルバートさんが、タウンゼント神父が、多くの人が僕にそのことを教えてくれたんだ。
間違いといえば、そもそも復讐を思い立ったこともそうだったのかもしれない。
罪を問われるとすれば、誰でもない、僕がそうされるべきだったんだ。それを認めることは決してやさしくはないことだけれどね。
生きていくためとか、食べるためとか、勝手に理由を付けてはいたけど、シスター・レイチェルの言う通り、エミリーにあんなことをさせてはいけなかったんだ。例えどんなことをしても、どんなことがあっても。そんなこともわからなかった僕は救い難い大馬鹿者だよ。
エミリーが自ら死を望んだとするならば、それも無理からぬことだったと言える。
あの日、首を絞められたエミリーは、僕に向かって右手を伸ばしていたけれど、それは助けを求めていたんじゃなくて、僕にさよならを言おうと手を振っていたんだ。今はそう思う。
君に何と言って許しを請えばいいのか、僕にはわからない。
アルバートさんが、どうしてあの時外に救いを求めようとせず、自ら命を絶ったのか、僕にはそれもわからない。深い傷ではあったけれど、そうしていれば助かったと思う。僕のことを庇ったのだろうか。初対面である僕のことを。
僕にはわからない。
どうすれば許しを請えるのか、そして罪を償えるのか、今の僕には全くわからない。
ただ、死をもってそれを成そうとは思わない。
僕は生きる。
君が教えてくれたように、生きるよ。例えどれほど絶望的な状況であっても、希望を持つことを忘れない。
今、冬の訪れを告げる風は頬に冷たく、太陽はどこに行ってしまったのか、雲に隠れてしまっている。
けれど、僕の心は春の陽気のように穏やかで、暖かい。これがきっと生きるということ、生きるという意思を持って明日という日を迎えることなのだろう。
僕はそう思う。
親愛なるアティルディア・マクマーナンへ
ジョシュア・リーヴェより
fin
光が溢れ、その眩しさにオーレリーは目を瞬かせた。
誰かが自分を見ている。輪郭がぼやけてはっきりしないが、彼女にはそれが一瞬ジョシュアの顔に見えた。
「馬鹿…。逃げなさいって言ったでしょ…」
そう言いかけている最中に光のもやは薄れ、自分を覗き込んでいるのが誰なのか、オーレリーはその正体に気づいた。
エリオット…?
なぜ息子が自分の側にいるのか、彼女にはわからなかった。
「母さん…。気づいたんだね…」
エリオットの、警戒水域ぎりぎりにまで溜まっていた涙は、その言葉とともに堤防の一部が決壊し、濁流となってオーレリーの頬に少なからぬ被害を与えた。
「馬鹿だね、男の子が泣くんじゃないよ」
息子の頬を撫でようとしたオーレリーだったが、右腕はギブスで固定され、左腕も彼女の言うことをを聞こうとはしなかった。
ようやくそこで彼女は自分が病院のベッドに寝かしつけられているという現在の状況を理解した。
それでもやはりエリオットがいる理由がわからなかった。
「どうして、あなたがここに?」
エリオットは鼻をすすりながら答えた。
「母さんが撃たれたって聞いて、飛んで来たんじゃないか」
息子の言葉にオーレリーは胸の中に長い間つかえていたわだかまりが溶ける思いだった。
それは、あの日夫のダニエルから突然離婚を切り出されてから、その理由は彼女よりも二十歳近く若い愛人の、サリーだか、シャーリーだかと一緒に暮らしたいというもので、迂闊にもオーレリーは愛人の存在にまったく気づかなかったのだが、ずっと彼女の心を支配してきた。
離婚をしたいという自分の意思をしどろもどろになって伝えようとする夫に、オーレリーは未練を持てなかった。
もういい、これからの人生、息子のエリオットと二人で生きていこう、彼女はそう決心した。
家庭裁判所は、夫婦が離婚をする際、子供を父親と母親のどちらが引き取るかについて、一定年齢に達している場合、子供の意思を尊重する傾向にあった。
オーレリーとしてもそれに異存はなかった。
何しろ今回の一件で彼女に非はないのだから。浮気をしたのも離婚を切り出したのも自分ではなく、またエリオットとの関係も良好であったから(少なくとも彼女はそう信じていた)、当然息子は
母親についてくるものと思っていた。そう信じて疑っていなかった。
だが、実際に息子が選んだのは母親との新生活ではなかった。父親と愛人と三人で暮らすことを彼は望んだのだった。
オーレリーはそれからというもの心の奥底に澱を抱えたままだった。
自分にどんな非があったというのか。妻として、母として、そして警官としてそのどれもを完璧にこなしてきたはずなのに…。
その思いが彼女から眠りを奪ったのだった。
自分は馬鹿だ、オーレリーは心の中で呟いた。母親と父親、そのどちらかを選ぶという残酷な選択を強いておきながら、いざ自分の側につかなかったからといって息子のことを逆恨みするは…。依怙地になって、もう二度とエリオットとは会うまいとさえ思っていた自分が恥ずかしくもある。
オーレリーの頬を伝う涙を見て、痛むのかい、とエリオットは尋ねた。彼女は半分照れながら、少しね、と答えた。
「でも、このことは内緒だからね。刑事が、怪我が痛くて泣いてたなんて知られたら、特にマフィアなんかに知られたら、おまんまの喰いっぱぐれになるからね」
二人は目を合わせ笑った。それからエリオットは顔を強張らせた。
「母さん、煙草の匂いがするけど、まさかまた吸ってたんじゃないだろうね」
エリオットの糾弾の言葉に、オーレリーは素直に白旗を掲げた。息子のお節介が、なぜだか今は無性に嬉しかった。
「ごめんなさい、あなたに会えなくて、何だか寂しくてね」
「もう吸わないって約束したじゃないか」
「ああ、約束するよ」
「本当だね」
エリオットがしつこく念を押す。
「今度こそ、本当だよ。これ以上嘘をついたら、嘘つきは警官の始まりって言われちゃいそうだからねぇ」
オーレリーの下手くそなジョークに、二人は声を立てて笑った。
笑いながら、オーレリーは大事なことを聞き忘れていたことを思い出した。
「そういえば、ジョシュアは?ジョシュア・リーヴェはどうしている?」
母親の質問にエリオットは逆に聞き返した。
「ジョシュア?ああ、母さんを撃った、あの少年のこと?」
「何ですって!!」
オーレリーは思わず声を荒げた。
「でも警察はそう言ってるよ」
エリオットは怪訝そうに母親の顔を見た。オーレリーは痛みを堪え、ベッドの上で半身起き上がった。
「お願い、エリオット。誰でもいいわ。警察を呼んで」
一時間ほどして二人の男が病室を訪れた。警察手帳を提示したが、両名ともオーレリーの知らない名前だった。
彼女は二人に自分の知りうる限りの真相を語って聞かせた。
特にエドワード・マクマーナンを殺害したのはマーク・ハプスコット刑事であること、自分を撃ったのもジョシュアではなくハプスコット刑事であること、ハプスコット刑事はどうやらモンツェリーニファミリーの始末屋であったらしいこと、ハプスコット刑事を殺したのはジョシュアであるが、それも正当防衛であることなどを何度も繰り返し強調した。
男たちはあらかた話を聞き終えると、捜査は自分たちが引き継ぐので、オーレリーには病院で療養に努めるようにと言葉を残し、病室を後にした。
だが一日が過ぎ、二日が過ぎても、事態は何も変わらなかった。オーレリー・ローシェルという生き証人がいて、多くの証拠も残されているにも関わらず、警察は当初の公式見解を変えようとはしなかった。
すなわち、ウォルター・マードック、エドワード・マクマーナン、マーク・ハプスコット、この三名を殺害した容疑者として、彼が未成年であるにもかかわらず、ジョシュア・リーヴェを正式に指名手配した。
上層部はマーク・ハプスコットがマフィアの手下であったことを認めることが出来ないらしい。
くだらないプライドだとオーレリーは唾棄した。本当のプライドとは何より職務に忠実であることではないのか。病室のベッドの上で彼女は自分の無力さを呪った。
ジョシュアは、警察とマフィア、双方から追われているにもかかわらず、その行方は杳として知れなかった。無責任なマスコミは、少年がどこか人知れぬ土地で命を絶ったのではないかと勝手な憶測を立てていたが、オーレリーはそれだけはありえないと思っていた。
退院の日を迎え、病院の玄関の外に出たオーレリーは大きく深呼吸した。体はまだ満足に動いてはくれず、杖なしでは歩行も儘ならない。
だが澄み切った初冬の空を見上げて、そこに鳶だろうか、一羽の鳥が大きく悠然と弧を描くのを認め、彼女は会心の笑みを浮かべた。
どこまでも、どこまでも、この高く澄んだ空を飛ぶあの鳥のように自由に羽ばたくがいい。
迎えに来てくれたエリオットに向かって手を振りながら、オーレリーは心の中でジョシュアにそう呼びかけていた。
*『空のない街』/エピローグ に続く
誰かが自分を見ている。輪郭がぼやけてはっきりしないが、彼女にはそれが一瞬ジョシュアの顔に見えた。
「馬鹿…。逃げなさいって言ったでしょ…」
そう言いかけている最中に光のもやは薄れ、自分を覗き込んでいるのが誰なのか、オーレリーはその正体に気づいた。
エリオット…?
なぜ息子が自分の側にいるのか、彼女にはわからなかった。
「母さん…。気づいたんだね…」
エリオットの、警戒水域ぎりぎりにまで溜まっていた涙は、その言葉とともに堤防の一部が決壊し、濁流となってオーレリーの頬に少なからぬ被害を与えた。
「馬鹿だね、男の子が泣くんじゃないよ」
息子の頬を撫でようとしたオーレリーだったが、右腕はギブスで固定され、左腕も彼女の言うことをを聞こうとはしなかった。
ようやくそこで彼女は自分が病院のベッドに寝かしつけられているという現在の状況を理解した。
それでもやはりエリオットがいる理由がわからなかった。
「どうして、あなたがここに?」
エリオットは鼻をすすりながら答えた。
「母さんが撃たれたって聞いて、飛んで来たんじゃないか」
息子の言葉にオーレリーは胸の中に長い間つかえていたわだかまりが溶ける思いだった。
それは、あの日夫のダニエルから突然離婚を切り出されてから、その理由は彼女よりも二十歳近く若い愛人の、サリーだか、シャーリーだかと一緒に暮らしたいというもので、迂闊にもオーレリーは愛人の存在にまったく気づかなかったのだが、ずっと彼女の心を支配してきた。
離婚をしたいという自分の意思をしどろもどろになって伝えようとする夫に、オーレリーは未練を持てなかった。
もういい、これからの人生、息子のエリオットと二人で生きていこう、彼女はそう決心した。
家庭裁判所は、夫婦が離婚をする際、子供を父親と母親のどちらが引き取るかについて、一定年齢に達している場合、子供の意思を尊重する傾向にあった。
オーレリーとしてもそれに異存はなかった。
何しろ今回の一件で彼女に非はないのだから。浮気をしたのも離婚を切り出したのも自分ではなく、またエリオットとの関係も良好であったから(少なくとも彼女はそう信じていた)、当然息子は
母親についてくるものと思っていた。そう信じて疑っていなかった。
だが、実際に息子が選んだのは母親との新生活ではなかった。父親と愛人と三人で暮らすことを彼は望んだのだった。
オーレリーはそれからというもの心の奥底に澱を抱えたままだった。
自分にどんな非があったというのか。妻として、母として、そして警官としてそのどれもを完璧にこなしてきたはずなのに…。
その思いが彼女から眠りを奪ったのだった。
自分は馬鹿だ、オーレリーは心の中で呟いた。母親と父親、そのどちらかを選ぶという残酷な選択を強いておきながら、いざ自分の側につかなかったからといって息子のことを逆恨みするは…。依怙地になって、もう二度とエリオットとは会うまいとさえ思っていた自分が恥ずかしくもある。
オーレリーの頬を伝う涙を見て、痛むのかい、とエリオットは尋ねた。彼女は半分照れながら、少しね、と答えた。
「でも、このことは内緒だからね。刑事が、怪我が痛くて泣いてたなんて知られたら、特にマフィアなんかに知られたら、おまんまの喰いっぱぐれになるからね」
二人は目を合わせ笑った。それからエリオットは顔を強張らせた。
「母さん、煙草の匂いがするけど、まさかまた吸ってたんじゃないだろうね」
エリオットの糾弾の言葉に、オーレリーは素直に白旗を掲げた。息子のお節介が、なぜだか今は無性に嬉しかった。
「ごめんなさい、あなたに会えなくて、何だか寂しくてね」
「もう吸わないって約束したじゃないか」
「ああ、約束するよ」
「本当だね」
エリオットがしつこく念を押す。
「今度こそ、本当だよ。これ以上嘘をついたら、嘘つきは警官の始まりって言われちゃいそうだからねぇ」
オーレリーの下手くそなジョークに、二人は声を立てて笑った。
笑いながら、オーレリーは大事なことを聞き忘れていたことを思い出した。
「そういえば、ジョシュアは?ジョシュア・リーヴェはどうしている?」
母親の質問にエリオットは逆に聞き返した。
「ジョシュア?ああ、母さんを撃った、あの少年のこと?」
「何ですって!!」
オーレリーは思わず声を荒げた。
「でも警察はそう言ってるよ」
エリオットは怪訝そうに母親の顔を見た。オーレリーは痛みを堪え、ベッドの上で半身起き上がった。
「お願い、エリオット。誰でもいいわ。警察を呼んで」
一時間ほどして二人の男が病室を訪れた。警察手帳を提示したが、両名ともオーレリーの知らない名前だった。
彼女は二人に自分の知りうる限りの真相を語って聞かせた。
特にエドワード・マクマーナンを殺害したのはマーク・ハプスコット刑事であること、自分を撃ったのもジョシュアではなくハプスコット刑事であること、ハプスコット刑事はどうやらモンツェリーニファミリーの始末屋であったらしいこと、ハプスコット刑事を殺したのはジョシュアであるが、それも正当防衛であることなどを何度も繰り返し強調した。
男たちはあらかた話を聞き終えると、捜査は自分たちが引き継ぐので、オーレリーには病院で療養に努めるようにと言葉を残し、病室を後にした。
だが一日が過ぎ、二日が過ぎても、事態は何も変わらなかった。オーレリー・ローシェルという生き証人がいて、多くの証拠も残されているにも関わらず、警察は当初の公式見解を変えようとはしなかった。
すなわち、ウォルター・マードック、エドワード・マクマーナン、マーク・ハプスコット、この三名を殺害した容疑者として、彼が未成年であるにもかかわらず、ジョシュア・リーヴェを正式に指名手配した。
上層部はマーク・ハプスコットがマフィアの手下であったことを認めることが出来ないらしい。
くだらないプライドだとオーレリーは唾棄した。本当のプライドとは何より職務に忠実であることではないのか。病室のベッドの上で彼女は自分の無力さを呪った。
ジョシュアは、警察とマフィア、双方から追われているにもかかわらず、その行方は杳として知れなかった。無責任なマスコミは、少年がどこか人知れぬ土地で命を絶ったのではないかと勝手な憶測を立てていたが、オーレリーはそれだけはありえないと思っていた。
退院の日を迎え、病院の玄関の外に出たオーレリーは大きく深呼吸した。体はまだ満足に動いてはくれず、杖なしでは歩行も儘ならない。
だが澄み切った初冬の空を見上げて、そこに鳶だろうか、一羽の鳥が大きく悠然と弧を描くのを認め、彼女は会心の笑みを浮かべた。
どこまでも、どこまでも、この高く澄んだ空を飛ぶあの鳥のように自由に羽ばたくがいい。
迎えに来てくれたエリオットに向かって手を振りながら、オーレリーは心の中でジョシュアにそう呼びかけていた。
*『空のない街』/エピローグ に続く
自分には、この男を、殺せない…。
ジョシュアは、心の中で呟いて、床に跪く男を見やった。
一時はあれほどまでに激しく憎み、男を殺すこと、それのみが生きる理由でさえあったのだが、ジョシュアはその機会が訪れた今、それを放棄した。不思議なほどの安息感に包まれ、これまでになく穏やかな気分だった。
「ローシェル警部…」
彼がそう言いかけた時だった。パン、という音がして、エドワード・マクマーナンの頭が突然弾けた。その音の正体を確かめようともせず、ジョシュアはエドワードの死体を盾にしながら、鋼材の陰に身を躍らせた。
「マーク!?」
極度の緊張の余り誤って銃の引き金を引いてしまったのか、そう思って振り返ったオーレリーだったが、ハプスコットの両眼に冷徹な意思の光が宿っているのを見て、そうでないことを知った。
「警部、逃げて!」
ジョシュアが叫ぶのと、ハプスコットが隠し持っていたもう一丁の銃を取り出してオーレリーに向けるのはほとんど同時だった。
オーレリーは身をよじって横に跳んだ。かつて旋盤加工の機械であったガラクタに、したたか左の肩を打ちつけたオーレリーだったが、激痛はもう一方の肩から走った。
撃たれた!?
警察官になって二十年以上たつが、銃で撃たれたのは、彼女にはこれが最初だった。傷口は焼けた鉄鏝を押し当てられたように熱く、体は芯から凍えるように震えた。
なぜ?どうして?疑問符ばかりが彼女の頭に浮かんだが、それに答えるように、ファシカの言葉が思い出された。
ウチのファミリーの中でも飛びっ切り腕の立つ奴を用意させてもらった…。
捜査の最中それらしい影が全く見えないことに不審を抱いてはいたが、こんな狡猾なやり方で来るとは!凶悪な牙を持つ毒蛇は、誰にもその存在を悟られることなく、身を潜めていたというわけだ。
エドワードを撃った銃で自分を撃とうとしなかったのは何か理由があるのか。刑事と犯人を同じ銃で撃っては後で辻褄が合わなくなるということか。芸が細かいな…、ブルブルと小刻みに身を震わせながら、オーレリーは何とか笑おうと唇をその形に曲げた。
すぐにでも襲いかかってくるものと思ったオーレリーだったが、ハプスコットは、今となっては中産階級出身のようなその名前も怪しいものだったが、容易に姿を見せようとはしなかった。
オーレリーの手に残されている銃を恐れているのか。銃があるといっても利き腕は使い物にならず、無論利き腕でない方でも射撃訓練はしているが、こうも体が震えてはまともに撃てるとは彼女には思えなかった。それとも放っておいてもくたばると高を括っているのか。どちらにしてもこの状況が長引けば、一番先に参るのは自分だとオーレリーは思った。
遠くから、虫の音が聞こえてくる。
静寂が廃工場を包み、時の流れさえも止めてしまったかのようだった。それを乱すのは、オーレリーの荒い呼吸音だけだった。ジョシュアとハプスコットは完全にその気配を消している。まるで今ここには自分の他に誰もいないようだと彼女は感想を抱いた。
二人はおそらく互いに息を殺したまま牽制し合っているのだろう。それがハプスコットが自分を襲ってこないもう一つの理由なのだとオーレリーは推測した。
体の震えがいよいよ激しくなり、それに合わせるように呼吸も間断が無くなる。
死にたくない…。嫌だ、こんなところで死にたくない…。
その思いだけがオーレリーの体を支配し、次の瞬間彼女は力の限り叫んだ。
「ハプスコット!話があるの」
無論返事などなかった。オーレリーは構わず続けた。
「その子を、ジョシュアを一人で殺るのは、かなり面倒よ。それよりどうかしら、二人で手を組めば、簡単に片付けられるんじゃない?」
オーレリーはよろよろと立ち上がった。体が震えるのを精一杯こらえて。
「撃たないで、ハプスコット、お願いよ!」
物陰から身を表したオーレリーを、ほんの五、六メートル先で、爬虫類じみた笑みを浮かべながらハプスコットが出迎えた。銃口を彼女の額に向けて。
「どういう心変わりです、あなたらしくない」
オーレリーは両手を真上にかざしたまま銃を足もとに投げ捨てた。
「私だって死にたくないってことよ。それに事をなした暁には、ファシカから、それなりのものをもらうつもり」
「残念だな。あなただけはそんな腐敗とは無縁だと思っていたのに」
「買いかぶらないで。私はそんな立派な警官じゃないわ。それより一つ教えて、ハプスコット。いつから警察を裏切って、マフィアの悪事の片棒を担ぐようになったの?」
ハプスコットは肩をすくめた。
「勘違いしないでほしいな。僕は本来の仕事をやりやすくするために警官になったに過ぎないんだ。 裏切りだなんて、人聞きが悪い」
そうね、と相づちを打ちながら、オーレリーはあらかじめ拾っておいて、カードマジックの要領で人差し指と中指の間に挟んでいた鉄の切片を、ニンジャの手裏剣のように手首のスナップだけでハプ スコットに投げつけた。
それで彼を倒せるとはオーレリーももちろん思っていなかった。一瞬でいい、隙が出来れば。
ハプスコットはオーレリーがそうすることを予測していたようにヒョイと鉄片を避けると薄く笑いながらオーレリーに向けてためらいもなく銃を撃った。
オーレリーは鉄片を投げつけると同時にハプスコットに対して照射角を少しでも狭めようと真後ろに倒れ込んだ。だがそんなことで銃弾を避け切れるわけもなく、彼女の腹部が爆発したように派手に血花を散らした。
ハプスコットの背後で何かが動く気配がした。隙を作ったつもりなど毛頭無かった。ジョシュアを誘き寄せるためにあえてオーレリーの挑発に乗ったハプスコットだったが、振り返った彼が目にしたのは、既にナイフを投げ放った少年の姿だった。
速すぎる!
ハプスコットは、自身の作ったシナリオ、ジョシュアがオーレリーを撃ち、自分が彼と仲間のエドワードをやむを得ず射殺するというもの、本来少年が男を殺すことを土壇場になってためらわなければ、もう少し筋の通ったものになるはずだったが、それのどこにミスがあったのだろうかと自問しながら、自分に向かって一直線に飛んでくるナイフを空中で撃ち落とすべく両手に持つ銃を無闇に撃ちまくった。
ストッ、と何かが彼の額に突き刺さるような音がした。それが何であるのか確かめようとハプスコットは上目を向いたが、そのままバタリと後ろに倒れた。
「ローシェル警部…」
ジョシュアがオーレリーに駆け寄った。
オーレリーは銃弾を右肩部に一発、腹部に二発食らっていた。呼吸は荒く、出血もひどい。
「ジョシュア…」
オーレリーが微かに聞こえる声で少年の名を呼んだ。ジョシュアは顔を近づけた。いきなりオーレリーの左腕がぐいと彼の胸倉を掴んだ。次に彼女の口から出た言葉はジョシュアにとって意外なものだった。
「逃げなさい、ジョシュア…」
ハプスコットがマフィアの手先であった以上、警察に自首しても安全だとは限らない、そのことをオーリーは言っているのだとジョシュアは気づいた。
「早く、行きなさい!」
必死に急き立てるオーレリーだったが、その声は自分でも情けない程弱々しかった。幼子が母親の側にいたがるように、ジョシュアも彼女から離れようとしない。
早く、早く、早く…、オーレリーは何度もそう繰り返し、ようやくジョシュアはのろのろと立ち上がった。それでも少年は幾度となく振り返り、オーレリーは歯がゆい思いだった。ジョシュアの姿が視界から消え、オーレリーはようやくホッと安堵の息をついた。
どこまでも逃げて、ジョシュア…。
その言葉が口に出して言えたものなのか、それとも心の中で呟いただけだったのか、その時のオーレリーにはもうわからなかった。
やがて深い闇が彼女を覆った。
*『空のない街』/第十八話 に続く
ジョシュアは、心の中で呟いて、床に跪く男を見やった。
一時はあれほどまでに激しく憎み、男を殺すこと、それのみが生きる理由でさえあったのだが、ジョシュアはその機会が訪れた今、それを放棄した。不思議なほどの安息感に包まれ、これまでになく穏やかな気分だった。
「ローシェル警部…」
彼がそう言いかけた時だった。パン、という音がして、エドワード・マクマーナンの頭が突然弾けた。その音の正体を確かめようともせず、ジョシュアはエドワードの死体を盾にしながら、鋼材の陰に身を躍らせた。
「マーク!?」
極度の緊張の余り誤って銃の引き金を引いてしまったのか、そう思って振り返ったオーレリーだったが、ハプスコットの両眼に冷徹な意思の光が宿っているのを見て、そうでないことを知った。
「警部、逃げて!」
ジョシュアが叫ぶのと、ハプスコットが隠し持っていたもう一丁の銃を取り出してオーレリーに向けるのはほとんど同時だった。
オーレリーは身をよじって横に跳んだ。かつて旋盤加工の機械であったガラクタに、したたか左の肩を打ちつけたオーレリーだったが、激痛はもう一方の肩から走った。
撃たれた!?
警察官になって二十年以上たつが、銃で撃たれたのは、彼女にはこれが最初だった。傷口は焼けた鉄鏝を押し当てられたように熱く、体は芯から凍えるように震えた。
なぜ?どうして?疑問符ばかりが彼女の頭に浮かんだが、それに答えるように、ファシカの言葉が思い出された。
ウチのファミリーの中でも飛びっ切り腕の立つ奴を用意させてもらった…。
捜査の最中それらしい影が全く見えないことに不審を抱いてはいたが、こんな狡猾なやり方で来るとは!凶悪な牙を持つ毒蛇は、誰にもその存在を悟られることなく、身を潜めていたというわけだ。
エドワードを撃った銃で自分を撃とうとしなかったのは何か理由があるのか。刑事と犯人を同じ銃で撃っては後で辻褄が合わなくなるということか。芸が細かいな…、ブルブルと小刻みに身を震わせながら、オーレリーは何とか笑おうと唇をその形に曲げた。
すぐにでも襲いかかってくるものと思ったオーレリーだったが、ハプスコットは、今となっては中産階級出身のようなその名前も怪しいものだったが、容易に姿を見せようとはしなかった。
オーレリーの手に残されている銃を恐れているのか。銃があるといっても利き腕は使い物にならず、無論利き腕でない方でも射撃訓練はしているが、こうも体が震えてはまともに撃てるとは彼女には思えなかった。それとも放っておいてもくたばると高を括っているのか。どちらにしてもこの状況が長引けば、一番先に参るのは自分だとオーレリーは思った。
遠くから、虫の音が聞こえてくる。
静寂が廃工場を包み、時の流れさえも止めてしまったかのようだった。それを乱すのは、オーレリーの荒い呼吸音だけだった。ジョシュアとハプスコットは完全にその気配を消している。まるで今ここには自分の他に誰もいないようだと彼女は感想を抱いた。
二人はおそらく互いに息を殺したまま牽制し合っているのだろう。それがハプスコットが自分を襲ってこないもう一つの理由なのだとオーレリーは推測した。
体の震えがいよいよ激しくなり、それに合わせるように呼吸も間断が無くなる。
死にたくない…。嫌だ、こんなところで死にたくない…。
その思いだけがオーレリーの体を支配し、次の瞬間彼女は力の限り叫んだ。
「ハプスコット!話があるの」
無論返事などなかった。オーレリーは構わず続けた。
「その子を、ジョシュアを一人で殺るのは、かなり面倒よ。それよりどうかしら、二人で手を組めば、簡単に片付けられるんじゃない?」
オーレリーはよろよろと立ち上がった。体が震えるのを精一杯こらえて。
「撃たないで、ハプスコット、お願いよ!」
物陰から身を表したオーレリーを、ほんの五、六メートル先で、爬虫類じみた笑みを浮かべながらハプスコットが出迎えた。銃口を彼女の額に向けて。
「どういう心変わりです、あなたらしくない」
オーレリーは両手を真上にかざしたまま銃を足もとに投げ捨てた。
「私だって死にたくないってことよ。それに事をなした暁には、ファシカから、それなりのものをもらうつもり」
「残念だな。あなただけはそんな腐敗とは無縁だと思っていたのに」
「買いかぶらないで。私はそんな立派な警官じゃないわ。それより一つ教えて、ハプスコット。いつから警察を裏切って、マフィアの悪事の片棒を担ぐようになったの?」
ハプスコットは肩をすくめた。
「勘違いしないでほしいな。僕は本来の仕事をやりやすくするために警官になったに過ぎないんだ。 裏切りだなんて、人聞きが悪い」
そうね、と相づちを打ちながら、オーレリーはあらかじめ拾っておいて、カードマジックの要領で人差し指と中指の間に挟んでいた鉄の切片を、ニンジャの手裏剣のように手首のスナップだけでハプ スコットに投げつけた。
それで彼を倒せるとはオーレリーももちろん思っていなかった。一瞬でいい、隙が出来れば。
ハプスコットはオーレリーがそうすることを予測していたようにヒョイと鉄片を避けると薄く笑いながらオーレリーに向けてためらいもなく銃を撃った。
オーレリーは鉄片を投げつけると同時にハプスコットに対して照射角を少しでも狭めようと真後ろに倒れ込んだ。だがそんなことで銃弾を避け切れるわけもなく、彼女の腹部が爆発したように派手に血花を散らした。
ハプスコットの背後で何かが動く気配がした。隙を作ったつもりなど毛頭無かった。ジョシュアを誘き寄せるためにあえてオーレリーの挑発に乗ったハプスコットだったが、振り返った彼が目にしたのは、既にナイフを投げ放った少年の姿だった。
速すぎる!
ハプスコットは、自身の作ったシナリオ、ジョシュアがオーレリーを撃ち、自分が彼と仲間のエドワードをやむを得ず射殺するというもの、本来少年が男を殺すことを土壇場になってためらわなければ、もう少し筋の通ったものになるはずだったが、それのどこにミスがあったのだろうかと自問しながら、自分に向かって一直線に飛んでくるナイフを空中で撃ち落とすべく両手に持つ銃を無闇に撃ちまくった。
ストッ、と何かが彼の額に突き刺さるような音がした。それが何であるのか確かめようとハプスコットは上目を向いたが、そのままバタリと後ろに倒れた。
「ローシェル警部…」
ジョシュアがオーレリーに駆け寄った。
オーレリーは銃弾を右肩部に一発、腹部に二発食らっていた。呼吸は荒く、出血もひどい。
「ジョシュア…」
オーレリーが微かに聞こえる声で少年の名を呼んだ。ジョシュアは顔を近づけた。いきなりオーレリーの左腕がぐいと彼の胸倉を掴んだ。次に彼女の口から出た言葉はジョシュアにとって意外なものだった。
「逃げなさい、ジョシュア…」
ハプスコットがマフィアの手先であった以上、警察に自首しても安全だとは限らない、そのことをオーリーは言っているのだとジョシュアは気づいた。
「早く、行きなさい!」
必死に急き立てるオーレリーだったが、その声は自分でも情けない程弱々しかった。幼子が母親の側にいたがるように、ジョシュアも彼女から離れようとしない。
早く、早く、早く…、オーレリーは何度もそう繰り返し、ようやくジョシュアはのろのろと立ち上がった。それでも少年は幾度となく振り返り、オーレリーは歯がゆい思いだった。ジョシュアの姿が視界から消え、オーレリーはようやくホッと安堵の息をついた。
どこまでも逃げて、ジョシュア…。
その言葉が口に出して言えたものなのか、それとも心の中で呟いただけだったのか、その時のオーレリーにはもうわからなかった。
やがて深い闇が彼女を覆った。
*『空のない街』/第十八話 に続く
廃工場に飛び込んだオーレリーたちが目にしたのは、嘘だ、そう悲痛な叫びをあげ、今まさにエドワード・マクマーナンへ断罪の鉄鎚を下すべく、ナイフを振り上げたジョシュアの姿だった。
「やめて、ジョシュア!」
オーレリーの声が届いたのかどうか、少年は振り下ろそうとしたその手を止めた。
「ローシェル警部…」
ジョシュアは虚ろな目をオーレリーとハプスコットに向け、どうしてここに二人がいるのかわからないというふうに首をかしげた。
「アティルディアが、ティルダが電話で知らせてくれたの、あなたたちがこの工場にいるって」
オーレリーの答えに納得したのか、ジョシュアは、ああ、と頷いた。
「そう、か…。彼女につけられていたんですね。この男にばかり注意を払っていたので気づきませんでした…。迂闊だったな」
ジョシュアはフフ…、と笑った。ひどく儚い笑いだった。まるで全てを諦めてしまったかのような儚さだった。
「それで…、彼女は?」
「危険だからと言って帰らせたわ。今頃は、家にいるはずよ。それより、ジョシュア、その手を離して」
少年の持つナイフは、ピタリとエドワードの喉元に当てられていた。わずかでもオーレリーたちが不用意な動きを見せれば、容赦無く男の喉を掻き切るというように。
「許せないんだ…」
ジョシュアが誰にともなくつぶやくようにポツリと言った。
「わかるわ…。その男が、妹さんを殺した、犯人なんでしょう…」
彼女の言葉に、少年は力無く首を振った。
「違う…。違うんです。そうじゃない。そのことで許せないんじゃない…。この男は、嘘を、ついているんです。その嘘が、許せないんだ…」
それがいったいどういう嘘なのか、オーレリーは問う気にはなれなかった。例えそうしたところでジョシュアは答えないであろうし、自らの喉元に突きつけられたナイフを他人事のように眺めながらただへらへらとにやついてばかりのばかりのエドワードも、二人の会話が耳に届いているようには見えなかった。
「もう、疲れたんだ。これで終わりにしたい…。エミリーが…、エミリーが待ってる…」
ジョシュアは、ナイフを持つ手にわずかに力を込めた。エドワードの喉にナイフの刃がスッと潜り、血が溢れ出した。エドワードは、グエッと蛙のような声を出した。
「それは違う!」
咄嗟にオーレリーは叫んでいた。考えるよりも先に言葉が口をついて出た。
「エミリーは、エミリーは、あなたのことを待ってなどいない!」
マニュアルに載っている説得術でなく、彼女の、必死なまでの心の叫びだった。
ジョシュアがオーレリーの方を見て、頷いた。
「そうですよね。エミリーは、天国にいる。僕が死んでも地獄に落ちるだけだ。エミリーには会えるわけない…」
「違う。そんな意味で言ったんじゃないの。あなたを待っている人は、こちら側にいるのよ!」
ジョシュアがオーレリーの言葉の真意がつかめないというように怪訝な顔をした。
「ジョシュア、聞いて。あなたを最初に訪ねた後、それから別の日にも私たちはもう一度救護院に行っているの。あなたがいないのを見計らって。その時、タウンゼント神父や他のシスターたちは皆、あなたの、マードックが殺された日のアリバイを主張したわ。あなたがあの日、一日中子供たちの世話をしていたって」
オーレリーは自らが刑事であるということも、ジョシュアが容疑者であるということも半ば忘れていた。ただ目の前の少年にそれ以上罪を重ねさせたくない、そして何とか救ってやりたい、それだけだった。
「それにティルダよ。彼女は電話口で泣きながら言っていたわ。あなたにこれ以上罪を犯してほしくない、あなたがこれ以上傷つくのを見たくないと。彼女はすべてを知った上であなたのことを許しているの。あなたは、その人たちのために、これ以上罪を犯してはいけない!」
ジョシュアは、タウンゼント神父の言葉を思い出した。この世に許されない罪などないと神父は言った。そしてアルバート・マクマーナンの、他人を傷つけることでは決して自らは癒されないという言葉も。
ジョシュアは胸の内の、もう二度と閉じることはないと思っていた空虚な穴が少しづつ、少しづつ、小さくなっていくのを感じていた。
ジョシュアの目から涙が止めどなく溢れ、砂鉄が混じって赤茶けた工場の床面に吸い込まれていく。それに連れてナイフを持つ手から力が抜けていった。
やがて心の穴が完全に塞がると、ジョシュアは目を閉じ、大きくゆっくりと息を吐いた。両腕をだらりと下げ、少年は見えないはずの空を仰いだ。
*『空のない街』/第十七話 に続く
「やめて、ジョシュア!」
オーレリーの声が届いたのかどうか、少年は振り下ろそうとしたその手を止めた。
「ローシェル警部…」
ジョシュアは虚ろな目をオーレリーとハプスコットに向け、どうしてここに二人がいるのかわからないというふうに首をかしげた。
「アティルディアが、ティルダが電話で知らせてくれたの、あなたたちがこの工場にいるって」
オーレリーの答えに納得したのか、ジョシュアは、ああ、と頷いた。
「そう、か…。彼女につけられていたんですね。この男にばかり注意を払っていたので気づきませんでした…。迂闊だったな」
ジョシュアはフフ…、と笑った。ひどく儚い笑いだった。まるで全てを諦めてしまったかのような儚さだった。
「それで…、彼女は?」
「危険だからと言って帰らせたわ。今頃は、家にいるはずよ。それより、ジョシュア、その手を離して」
少年の持つナイフは、ピタリとエドワードの喉元に当てられていた。わずかでもオーレリーたちが不用意な動きを見せれば、容赦無く男の喉を掻き切るというように。
「許せないんだ…」
ジョシュアが誰にともなくつぶやくようにポツリと言った。
「わかるわ…。その男が、妹さんを殺した、犯人なんでしょう…」
彼女の言葉に、少年は力無く首を振った。
「違う…。違うんです。そうじゃない。そのことで許せないんじゃない…。この男は、嘘を、ついているんです。その嘘が、許せないんだ…」
それがいったいどういう嘘なのか、オーレリーは問う気にはなれなかった。例えそうしたところでジョシュアは答えないであろうし、自らの喉元に突きつけられたナイフを他人事のように眺めながらただへらへらとにやついてばかりのばかりのエドワードも、二人の会話が耳に届いているようには見えなかった。
「もう、疲れたんだ。これで終わりにしたい…。エミリーが…、エミリーが待ってる…」
ジョシュアは、ナイフを持つ手にわずかに力を込めた。エドワードの喉にナイフの刃がスッと潜り、血が溢れ出した。エドワードは、グエッと蛙のような声を出した。
「それは違う!」
咄嗟にオーレリーは叫んでいた。考えるよりも先に言葉が口をついて出た。
「エミリーは、エミリーは、あなたのことを待ってなどいない!」
マニュアルに載っている説得術でなく、彼女の、必死なまでの心の叫びだった。
ジョシュアがオーレリーの方を見て、頷いた。
「そうですよね。エミリーは、天国にいる。僕が死んでも地獄に落ちるだけだ。エミリーには会えるわけない…」
「違う。そんな意味で言ったんじゃないの。あなたを待っている人は、こちら側にいるのよ!」
ジョシュアがオーレリーの言葉の真意がつかめないというように怪訝な顔をした。
「ジョシュア、聞いて。あなたを最初に訪ねた後、それから別の日にも私たちはもう一度救護院に行っているの。あなたがいないのを見計らって。その時、タウンゼント神父や他のシスターたちは皆、あなたの、マードックが殺された日のアリバイを主張したわ。あなたがあの日、一日中子供たちの世話をしていたって」
オーレリーは自らが刑事であるということも、ジョシュアが容疑者であるということも半ば忘れていた。ただ目の前の少年にそれ以上罪を重ねさせたくない、そして何とか救ってやりたい、それだけだった。
「それにティルダよ。彼女は電話口で泣きながら言っていたわ。あなたにこれ以上罪を犯してほしくない、あなたがこれ以上傷つくのを見たくないと。彼女はすべてを知った上であなたのことを許しているの。あなたは、その人たちのために、これ以上罪を犯してはいけない!」
ジョシュアは、タウンゼント神父の言葉を思い出した。この世に許されない罪などないと神父は言った。そしてアルバート・マクマーナンの、他人を傷つけることでは決して自らは癒されないという言葉も。
ジョシュアは胸の内の、もう二度と閉じることはないと思っていた空虚な穴が少しづつ、少しづつ、小さくなっていくのを感じていた。
ジョシュアの目から涙が止めどなく溢れ、砂鉄が混じって赤茶けた工場の床面に吸い込まれていく。それに連れてナイフを持つ手から力が抜けていった。
やがて心の穴が完全に塞がると、ジョシュアは目を閉じ、大きくゆっくりと息を吐いた。両腕をだらりと下げ、少年は見えないはずの空を仰いだ。
*『空のない街』/第十七話 に続く
エドワード・マクーナンは体の中の空気を全て吐き尽くそうかというように、なお叫び続けた。そして雄叫びを上げたまま、ジョシュアに殴りかかった。彼にしてみれば精一杯の抵抗だったが、ジョシュアには、それはひどく緩慢な、マードックに比べれば退屈でさえある、動きだった。
体をわずかに沈め、エドワードの拳をかわすと、そのまま地を這うように屈みながら、ジョシュアはすれ違いざま、相手の右と左、両方の太股に持っていたナイフを突き立てた。
ゲフゥと、体に残っていた最後の空気を吐き出すように短く呻くと、エドワードは両膝を着いた。それは罪人が神に対して許しを請う姿にも似ていた。
神が、死生を決する存在を指すのであれば、エドワードにとって今のジョシュアはまさしく神にも等しいといえた。
今、ジョシュアを支配するもの、それは怒りではなく、憎悪でもなかった。ただひたすらに開放を願う心であり、早く楽になりたいという思いだった。それゆえジョシュアは目の前の跪く男に対しても余計な苦しみを与えるつもりはなかった。どうすれば最も苦しみを与えることなく相手の命を絶つことが出来るのか、束の間迷った。
「あの時の、子供なのか?」
ジョシュアの顔を一心に見ていたエドワードが不意に口を開いた。
「だとしたら、それがどうだというんです?」
今更自分が誰なのか、自らが手を掛けた少女の兄だと気づいたとして、だからといってどうなるというのか。それでジョシュアの、エドワードへの対応が変わるというわけではなかった。
そのはずだった。
エドワードが突然笑い出した。最初は含んだ笑いだったが、やがてそれは工場全体に反響する狂笑に変わった。ジョシュアはエドワードが気が触れたのかと思った。だが、そうではなかった。
「何がおかしいんです?」
ジョシュアの問いにもエドワードはすぐには答えようとはせず笑い続けた。
「何が、おかしい?」
ジョシュアが再度問うと、ようやくエドワードは笑いを収めた。
「殺すがいい」
彼は含み笑いを浮かべつつ、言った。そして、こう続けた。
「殺すがいい…。あの子に頼まれて、私があの子を、そうだ、エミリーを殺したように、私を、殺すがいい!」
エドワード・マクマーナンが何を言っているのか、ジョシュアにはわからなかった。この男は、何を言っているのだ?エミリーが、頼んだ…?わからない、わからない、わからない…。
「確かに私は、普通の女性を愛せない、その意味で私はまともじゃない、それはわかっている、わかっているさ。だがな、私は女性に対して暴力を振るったことなど一度もない、あの時を、あの時を除いてな!」
エドワードは、さもおかしそうにハハハと笑った。
「あの子は、エミリーは、私の腕の中で泣いて訴えたよ、もうこれ以上生きていたくない、もう一日もとな。だが神様は自ら命を絶った者を、天国には召さないという。だから、私に殺してほしいと、涙ながらに訴えたんだ。だから、だから私はこの手で、殺したんだ、エミリーを、あの子を、この手で!」
こいつは、嘘をついている。嘘を、言っている。嘘を…、ついて…いる。嘘を…。
「殺せ、私を!そうすれば、私は、天国で、エミリーと、永遠に、結ばれる!」
「嘘だ…」
男は少年に向け残忍な笑みを浮かべた。
「嘘じゃあない…。嘘じゃないさ。その証拠に、お前は殺さないでいてやっただろうが!」
「嘘だ。嘘だ。嘘だ。嘘だ。お前は、嘘をついている、嘘だ、嘘だ、嘘だ!」
エミリーが、そんなこと、言うわけない…。 僕は、エミリーを愛していた…。
エミリーも、僕を、愛して、いた…。
「嘘だあああ!」
ジョシュアの絶叫と、エドワードの狂笑が、主をなくした廃工場の中で交錯した。
少年はナイフを高らかに掲げた。
*『空のない街』/第十六話 に続く
体をわずかに沈め、エドワードの拳をかわすと、そのまま地を這うように屈みながら、ジョシュアはすれ違いざま、相手の右と左、両方の太股に持っていたナイフを突き立てた。
ゲフゥと、体に残っていた最後の空気を吐き出すように短く呻くと、エドワードは両膝を着いた。それは罪人が神に対して許しを請う姿にも似ていた。
神が、死生を決する存在を指すのであれば、エドワードにとって今のジョシュアはまさしく神にも等しいといえた。
今、ジョシュアを支配するもの、それは怒りではなく、憎悪でもなかった。ただひたすらに開放を願う心であり、早く楽になりたいという思いだった。それゆえジョシュアは目の前の跪く男に対しても余計な苦しみを与えるつもりはなかった。どうすれば最も苦しみを与えることなく相手の命を絶つことが出来るのか、束の間迷った。
「あの時の、子供なのか?」
ジョシュアの顔を一心に見ていたエドワードが不意に口を開いた。
「だとしたら、それがどうだというんです?」
今更自分が誰なのか、自らが手を掛けた少女の兄だと気づいたとして、だからといってどうなるというのか。それでジョシュアの、エドワードへの対応が変わるというわけではなかった。
そのはずだった。
エドワードが突然笑い出した。最初は含んだ笑いだったが、やがてそれは工場全体に反響する狂笑に変わった。ジョシュアはエドワードが気が触れたのかと思った。だが、そうではなかった。
「何がおかしいんです?」
ジョシュアの問いにもエドワードはすぐには答えようとはせず笑い続けた。
「何が、おかしい?」
ジョシュアが再度問うと、ようやくエドワードは笑いを収めた。
「殺すがいい」
彼は含み笑いを浮かべつつ、言った。そして、こう続けた。
「殺すがいい…。あの子に頼まれて、私があの子を、そうだ、エミリーを殺したように、私を、殺すがいい!」
エドワード・マクマーナンが何を言っているのか、ジョシュアにはわからなかった。この男は、何を言っているのだ?エミリーが、頼んだ…?わからない、わからない、わからない…。
「確かに私は、普通の女性を愛せない、その意味で私はまともじゃない、それはわかっている、わかっているさ。だがな、私は女性に対して暴力を振るったことなど一度もない、あの時を、あの時を除いてな!」
エドワードは、さもおかしそうにハハハと笑った。
「あの子は、エミリーは、私の腕の中で泣いて訴えたよ、もうこれ以上生きていたくない、もう一日もとな。だが神様は自ら命を絶った者を、天国には召さないという。だから、私に殺してほしいと、涙ながらに訴えたんだ。だから、だから私はこの手で、殺したんだ、エミリーを、あの子を、この手で!」
こいつは、嘘をついている。嘘を、言っている。嘘を…、ついて…いる。嘘を…。
「殺せ、私を!そうすれば、私は、天国で、エミリーと、永遠に、結ばれる!」
「嘘だ…」
男は少年に向け残忍な笑みを浮かべた。
「嘘じゃあない…。嘘じゃないさ。その証拠に、お前は殺さないでいてやっただろうが!」
「嘘だ。嘘だ。嘘だ。嘘だ。お前は、嘘をついている、嘘だ、嘘だ、嘘だ!」
エミリーが、そんなこと、言うわけない…。 僕は、エミリーを愛していた…。
エミリーも、僕を、愛して、いた…。
「嘘だあああ!」
ジョシュアの絶叫と、エドワードの狂笑が、主をなくした廃工場の中で交錯した。
少年はナイフを高らかに掲げた。
*『空のない街』/第十六話 に続く
エドワード・マクマーナンは、久方ぶりの目覚めのよい朝をホテルの豪奢なベッドの上で迎えた。
マクマーナン家の本邸に泊まれば、そこは自分自身がハイスクール時代まで過ごした家でもあるのだが、安くもないホテル代を節約はできる。けれど、エドワードはそうする気など毛頭なかった。
主人のアルバートの死を悼み、執事のディケンズを始め、屋敷中の人間は皆辛気臭いことこの上ない。短い時間であれば、その仲間の振りをすることも出来るが、正直なところエドワードには兄の死を悲しむ気にはなれなかった。清々したといってさえよかった。
少しばかり遅めの朝食をホテルのカフェで取りながら、エドワードは新聞の経済欄に目を通した。エグゼクティブの仲間入りを果たしたような気分になり、その悦により深く浸ろうとしたその時、ホテルのボーイが一通のメールを彼に持ってきた。
受取のサインをして、差出人の名前を確かめようとしたが、そのようなものは見当たらなかった。封を切ると、短い、文章とも言えぬ文面の手紙が出てきた。差出人の名前はやはり記されていない。書いてあるのは、場所と日時、それに50万ドルという金額だけだった。
それ以上のことは、例えば50万ドルをどうしろという指示などは、何一つ具体的には書かれていなかった。
問題は添えられていた古い新聞記事のコピーだった。それは一人の少女があるアパートで絞殺体で見つかったという小さな囲み記事だった。少女の名前さえ載っていなかった。
無視しようとすれば出来るはずだった。事件はもう二年以上前のことだ。今更誰が蒸し返そうというのか。だが手紙に目を通し終えたエドワードは、その足で銀行に向かった。口座には50万ドルも預金は入っていない。口うるさい兄のアルバートが死んで、50万ドルとはいかなくても遺産が少なからず分けられるはずだったが、とにかく今のところそんな多額の預金はない。仕方なく2万ドルだけ引き落とした。
今になって誰が自分を告発しようというのか、エドワードには見当もつかなかった。
いや告発ではなく、脅迫だと彼は訂正した。
それにしてもしたたかな相手だといえた。必要最低限のことしか記さず、50万ドルをどうしろという指示もなく、それでいて見る者が見れば脅迫状以外の何物でもない。上手いやり方だと思う反面、50万ドルをその日のうちに、日時は今日の午後二時だった、用意しろというのならば、それは無理な話だった。
医者であれば誰でも100万単位の金を右から左へ動かすことが出来ると考えているのなら、それは大きな間違いというものだった。
自分は医者ではあっても、兄ほど優秀な医者ではないからな、とエドワードは自嘲気味につぶやいた。医者の家系に生まれ、その他の道は示されず、自分自身もそうなることが当然だととりあえず医者にはなったものの、未だに大学病院のインターンでしかない。高名な外科医である三つ年の離れた兄のアルバートとはえらい違いだった。容姿だけを比べれば、特に顔は、実の両親でさえ時々見間違える程似ているというのに。
それにしても、とエドワードは兄のことを思った。高名な医者として名を馳せ、かわいい娘にも恵まれ、妻とは死に別れているものの、順風満帆に思えた兄が、なぜ自殺しなければならなかったのだろうか。
しばらくの間考えていたが、無論答えなど出るはずもなく、結局兄は救いがたい馬鹿だったのだと結論づけた。それだけのことだ。
兄が死んで、エドワードは長い間両の肩に乗っていた重石が消えたような気分だった。どうも勘の鋭いアルバートは事件のことについて何かしら感づいていた節があった。だが偽善者であり、さらに憶病者でもある彼には弟に対して真相を問いただす勇気などあろうはずもなかった。精々出来ることと言えば疑惑と、そして哀れみの混じった視線を向けるだけであった。
エドワードにはそんな兄の態度が嫌でたまらなかった。そんな無間地獄からようやく開放されたと思ったばかりなのに…。
爽快なはずの朝は、たった一通の手紙によって台無しにされた。
くそ、思わずそう毒づいたエドワードは手紙をクシャクシャに丸めてしまいたい衝動に駆られ、ギュッと拳を握って耐えた。
自分は、兄のような馬鹿ではない…。確かに優秀な医者でないかもしれないが、馬鹿ではない。それを証明するためにも、今日は上手く立ち回らなければならない…。
喫茶店で、そんな無為なことを考えていたエドワードは、約束の時間が迫っているのに気づき、慌てて勘定を払って、その場を後にした。
指定の場所は郊外の廃工場だった。放課後にでもなれば子供たちの格好の隠れ家にでもなりそうだとエドワードは呑気なことを考えたが、それにはまだ時間が早い。
昼なお暗い工場の中は赤錆びた旋盤加工の機械やプレス機などが、子供が片付けようとしない玩具のように乱雑に放置されていた。 約束の時間の五分前には着いていたエドワードだったが、待ち惚けを食らわされた。ただ待つだけでは、どうしてここに自分がいるのか、と頭の中で疑問符ばかりが湧いてきて、腹立たしくさえなった。
三十分が過ぎて、やはりあれはたちの悪い悪戯だったのだと思い始めた時、エドワードは、その男のことに気づいた。
いつからそこにいたのだろう、彼の目の前、ほんの十メートルほど先に、男が、いや男というより一見すると少年のようだったが、立っていた。両開きの鉄扉がある入り口の方でなく、より奥に位置 するところに、まるで天使が空から舞い降りたように、その男はいた。
地元のフットボールチームの赤いキャップを目深に被っているので顔はよく見えない。だが、身長や体格は明らかにローティーンのそれだった。
「やあ、マクマーナンさん」
美しいボーイソプラノが廃工場の静寂の中で響いた。
「遅れてしまって、申しわけありません。道が込んでいたものでね…」
男の下手な言い訳にエドワードは腹が立つというより、あきれてしまった。
「ずいぶんと若いな。子供じゃないか」
エドワードの言葉に相手は唇端を歪め、笑ったようだった。
「子供だなんて、ひどい言い方をされますね。昔から年より若く見られて、損ばかりしているんですよ」
「貴様一人か?」
「我々が何人だろうと、マクマーナンさん、あなたには関係のないことでしょう。さあ、ではそろそろ持ってきたものをいただきましょうか」
そう言いながら、男はエドワードの方に近づいてきた。
“我々”のところを強調するような言い方だとエドワードは思った。人の気配は自分と目の前の若い男以外に感じられなかった。本当にこの男は一人ではないのだろうか。どうしてもそうは思えなかった。すると急に懐の二万ドルが惜しくなった。
「ま、待ってくれ。急に言われても、五十万ドルなんて大金は用意出来なかったんだ。に、二万ドルしか持ってきていないんだ…」
おどおどと相手の様子を伺いながらエドワードは上着の内側に右手を差し入れた。
「やれやれ、あなたの未来が買えるんなら、五十万ドルだって安いものでしょうに…」
肩をすくめた男に、エドワードは懐から取り出した銃を突きつけた。
「その未来のために金が要るんだよ!」
次の瞬間何が起こったのか、エドワードには正確にはわからなかった。ヒュッという何かが風を切る音と、薄暗い闇を切り裂く稲妻にも似た煌き、それらとともに彼の右手の人差し指と中指は切り飛ばされた。
この世のものとは思えない、獣のような絶叫が自分の口から吐き出されるのをエドワードは耳にした。
「銃を使うのであれば、相手をあまり近づけては駄目ですよ…」
エドワードをそうたしなめると目の前の男はキャップを取り、素顔をさらした。
「お久しぶりですね、マクマーナンさん…」
ジョシュアはそう言うと、慈愛に満ちた天使のような微笑みを見せた。
*『空のない街』/第十五話 に続く
マクマーナン家の本邸に泊まれば、そこは自分自身がハイスクール時代まで過ごした家でもあるのだが、安くもないホテル代を節約はできる。けれど、エドワードはそうする気など毛頭なかった。
主人のアルバートの死を悼み、執事のディケンズを始め、屋敷中の人間は皆辛気臭いことこの上ない。短い時間であれば、その仲間の振りをすることも出来るが、正直なところエドワードには兄の死を悲しむ気にはなれなかった。清々したといってさえよかった。
少しばかり遅めの朝食をホテルのカフェで取りながら、エドワードは新聞の経済欄に目を通した。エグゼクティブの仲間入りを果たしたような気分になり、その悦により深く浸ろうとしたその時、ホテルのボーイが一通のメールを彼に持ってきた。
受取のサインをして、差出人の名前を確かめようとしたが、そのようなものは見当たらなかった。封を切ると、短い、文章とも言えぬ文面の手紙が出てきた。差出人の名前はやはり記されていない。書いてあるのは、場所と日時、それに50万ドルという金額だけだった。
それ以上のことは、例えば50万ドルをどうしろという指示などは、何一つ具体的には書かれていなかった。
問題は添えられていた古い新聞記事のコピーだった。それは一人の少女があるアパートで絞殺体で見つかったという小さな囲み記事だった。少女の名前さえ載っていなかった。
無視しようとすれば出来るはずだった。事件はもう二年以上前のことだ。今更誰が蒸し返そうというのか。だが手紙に目を通し終えたエドワードは、その足で銀行に向かった。口座には50万ドルも預金は入っていない。口うるさい兄のアルバートが死んで、50万ドルとはいかなくても遺産が少なからず分けられるはずだったが、とにかく今のところそんな多額の預金はない。仕方なく2万ドルだけ引き落とした。
今になって誰が自分を告発しようというのか、エドワードには見当もつかなかった。
いや告発ではなく、脅迫だと彼は訂正した。
それにしてもしたたかな相手だといえた。必要最低限のことしか記さず、50万ドルをどうしろという指示もなく、それでいて見る者が見れば脅迫状以外の何物でもない。上手いやり方だと思う反面、50万ドルをその日のうちに、日時は今日の午後二時だった、用意しろというのならば、それは無理な話だった。
医者であれば誰でも100万単位の金を右から左へ動かすことが出来ると考えているのなら、それは大きな間違いというものだった。
自分は医者ではあっても、兄ほど優秀な医者ではないからな、とエドワードは自嘲気味につぶやいた。医者の家系に生まれ、その他の道は示されず、自分自身もそうなることが当然だととりあえず医者にはなったものの、未だに大学病院のインターンでしかない。高名な外科医である三つ年の離れた兄のアルバートとはえらい違いだった。容姿だけを比べれば、特に顔は、実の両親でさえ時々見間違える程似ているというのに。
それにしても、とエドワードは兄のことを思った。高名な医者として名を馳せ、かわいい娘にも恵まれ、妻とは死に別れているものの、順風満帆に思えた兄が、なぜ自殺しなければならなかったのだろうか。
しばらくの間考えていたが、無論答えなど出るはずもなく、結局兄は救いがたい馬鹿だったのだと結論づけた。それだけのことだ。
兄が死んで、エドワードは長い間両の肩に乗っていた重石が消えたような気分だった。どうも勘の鋭いアルバートは事件のことについて何かしら感づいていた節があった。だが偽善者であり、さらに憶病者でもある彼には弟に対して真相を問いただす勇気などあろうはずもなかった。精々出来ることと言えば疑惑と、そして哀れみの混じった視線を向けるだけであった。
エドワードにはそんな兄の態度が嫌でたまらなかった。そんな無間地獄からようやく開放されたと思ったばかりなのに…。
爽快なはずの朝は、たった一通の手紙によって台無しにされた。
くそ、思わずそう毒づいたエドワードは手紙をクシャクシャに丸めてしまいたい衝動に駆られ、ギュッと拳を握って耐えた。
自分は、兄のような馬鹿ではない…。確かに優秀な医者でないかもしれないが、馬鹿ではない。それを証明するためにも、今日は上手く立ち回らなければならない…。
喫茶店で、そんな無為なことを考えていたエドワードは、約束の時間が迫っているのに気づき、慌てて勘定を払って、その場を後にした。
指定の場所は郊外の廃工場だった。放課後にでもなれば子供たちの格好の隠れ家にでもなりそうだとエドワードは呑気なことを考えたが、それにはまだ時間が早い。
昼なお暗い工場の中は赤錆びた旋盤加工の機械やプレス機などが、子供が片付けようとしない玩具のように乱雑に放置されていた。 約束の時間の五分前には着いていたエドワードだったが、待ち惚けを食らわされた。ただ待つだけでは、どうしてここに自分がいるのか、と頭の中で疑問符ばかりが湧いてきて、腹立たしくさえなった。
三十分が過ぎて、やはりあれはたちの悪い悪戯だったのだと思い始めた時、エドワードは、その男のことに気づいた。
いつからそこにいたのだろう、彼の目の前、ほんの十メートルほど先に、男が、いや男というより一見すると少年のようだったが、立っていた。両開きの鉄扉がある入り口の方でなく、より奥に位置 するところに、まるで天使が空から舞い降りたように、その男はいた。
地元のフットボールチームの赤いキャップを目深に被っているので顔はよく見えない。だが、身長や体格は明らかにローティーンのそれだった。
「やあ、マクマーナンさん」
美しいボーイソプラノが廃工場の静寂の中で響いた。
「遅れてしまって、申しわけありません。道が込んでいたものでね…」
男の下手な言い訳にエドワードは腹が立つというより、あきれてしまった。
「ずいぶんと若いな。子供じゃないか」
エドワードの言葉に相手は唇端を歪め、笑ったようだった。
「子供だなんて、ひどい言い方をされますね。昔から年より若く見られて、損ばかりしているんですよ」
「貴様一人か?」
「我々が何人だろうと、マクマーナンさん、あなたには関係のないことでしょう。さあ、ではそろそろ持ってきたものをいただきましょうか」
そう言いながら、男はエドワードの方に近づいてきた。
“我々”のところを強調するような言い方だとエドワードは思った。人の気配は自分と目の前の若い男以外に感じられなかった。本当にこの男は一人ではないのだろうか。どうしてもそうは思えなかった。すると急に懐の二万ドルが惜しくなった。
「ま、待ってくれ。急に言われても、五十万ドルなんて大金は用意出来なかったんだ。に、二万ドルしか持ってきていないんだ…」
おどおどと相手の様子を伺いながらエドワードは上着の内側に右手を差し入れた。
「やれやれ、あなたの未来が買えるんなら、五十万ドルだって安いものでしょうに…」
肩をすくめた男に、エドワードは懐から取り出した銃を突きつけた。
「その未来のために金が要るんだよ!」
次の瞬間何が起こったのか、エドワードには正確にはわからなかった。ヒュッという何かが風を切る音と、薄暗い闇を切り裂く稲妻にも似た煌き、それらとともに彼の右手の人差し指と中指は切り飛ばされた。
この世のものとは思えない、獣のような絶叫が自分の口から吐き出されるのをエドワードは耳にした。
「銃を使うのであれば、相手をあまり近づけては駄目ですよ…」
エドワードをそうたしなめると目の前の男はキャップを取り、素顔をさらした。
「お久しぶりですね、マクマーナンさん…」
ジョシュアはそう言うと、慈愛に満ちた天使のような微笑みを見せた。
*『空のない街』/第十五話 に続く
カーテンの隙間から光が漏れ、今が夜でないことを示していたが、ティルダには自分が本当に起きているのか、それとも夢との狭間を漂っているのか、わからなかった。
彼女にとってもはや世界は閉ざされた環であり、そこには無限の可能性など存在してはいなかった。昨日まで信じていたもの、信じようとしていたもの、それらがすべて嘘なのだと誰かに耳元で囁かれたような、そんな感覚だった。その囁言の虚実を確かめる気力は、もう彼女には残されていなかった。
「パパ、どうして…」
ティルダはベッドの中でそう呟いたが、死んでしまったの、と続けることは出来なかった。そう 呟きさえしなければ、父親の死がただ一晩だけの悪夢で終わると信じているかのように。
アルバート・マクマーナンは、自身が外科医という人の生命そのものを取り扱う職業であり、妻のケルシーを娘のティルダがまだ乳飲み子であったころ失っていたため、ティルダとはごく一般の家庭でなされるよりも、死というものに対して話し合う機会を多く持ってきた。純粋に生物学的に、また宗教における意味合い、人々の認識の違いなどについて父と娘は会話を交わした。
例えば、アルバートは娘に次のような題目を提示した。
『死刑囚ばかりを乗せた護送車が事故に遭い、一人の囚人が瀕死の重傷を負った。このとき医者は囚人に対して救いの手を差し伸べるべきか、否か?』
ティルダは考え込んだ。道徳の時間であれば、Yesと即答しなければいけないのだろう。本来 人は平等に、囚人であっても、聖者であっても、治療を受ける権利があるのだから。
だが医者もまた人であり、もし自分がその立場に立った時、例えば自分の大切な人を奪った相手でも、本当に自分はその患者をただの一人の患者として治療に専念することが出来るのだろうか。
ティルダはしばらく考えて、自分でもズルいな、と思いながらも、その時にならないとわからない答えた。
娘の答えに満足したようにアルバートはティルダの頭を優しく撫でた。
「そうだね。このような問いに、簡単に答えが出せるはずもないからね。ただ、大切なことは考えることだよ。どちらの答えを出すにしても、よく考えて出さなければいけないと私は思うよ」
パパもやっぱり迷うことがあるの、とティルダが尋ねるとアルバートは小さく頷いた。
「本当は、パパの元に救いを求めてきた人々をみんな助けてあげたい。だけどパパは人間で、神様じゃない。だから順番に並んで、待ってもらわないといけないことがある。しかし時々自分は特別な人間だと思って、他人を押し退けてやってくる患者さんがいるんだ。パパは、やっぱりそんな患者さんは好きになれないんだ」
アルバートは目を伏せた。
「その人間の命があとどれくらいの長さなのか、それを決めるのは医者ではなく、神様だ。医者は常に治療に全力を尽くすだけだ。そう思いはしても、自分はすべてを神様に任せっぱなしにしていいのだろうかと考えることがあるよ」
それ以上アルバートは話を続けようとはせず、娘におやすみと言うと、その額にキスをした。
そんなふうにティルダが夜寝る前、仕事から帰ってきたアルバートと話をすることがよくあった。
学校の勉強や友達のことといった身近な話題から、世界中から貧困や戦争がなぜ無くならないのかといった深刻なテーマについてまで、二人は話をしたものだった。そんな時アルバートは娘のティルダを子供扱いすることもなく、時には自分自身の悩みごとを相談し、彼女に助言を求めることさえあった。
その父が自殺をするなど、ティルダには信じられなかった。まして理由も明かさずに。
ティルダは、パパ、どうして…、と涙がこみ上げてくるのを堪えて、もう一度呟いた。
その時寝室のドアがノックされた。
彼女がハイと返事をすると、執事のディケンズが、失礼します、お嬢さま、と言って入ってきた。
執事は畏まった態度で、ティルダに来客を告げた。
だが、彼女は予め誰にも会いたくない旨を伝えていたので、不思議に思ってそのことを問うと、彼は困ったような顔をして、お帰りになられないのです、と言った。
ティルダにはなぜか客が誰なのかがわかった。会う旨をお客様に知らせるようにと言って執事を下がらせた。
彼女はベッドから出て、少しふらつきながらワードローブまで歩いた。
着替えの最中、鏡に見知らぬ少女が写り、ティルダは目をそらした。一瞬、会うのをやめようかとさえ思ったが、彼女は首を振った。
一階に下りたティルダは自分の想像通りの人が居間のソファに腰かけているのを見た。
「ジョシュア」
ソファから立って、自分の方に振り返った少年の顔を見て、ティルダは思わず息を飲んで口を押さえた。先ほど鏡を見た時の自分の顔も相当にやつれてはいたが、彼はそれ以上だった。頬はこけ、目は落ち窪み、生気といったものが全く伺えない。
それでもジョシュアは彼女の顔を見るとほっとしたように微笑みを浮かべた。
「やあ、ティルダ」
彼女は自分のことも忘れて彼に駆け寄った。
「どうしたの、何かあったの?」
ジョシュアは小さく首を振って、何でもないんだ、と言った。何でもないわけがないでしょう、とティルダは詰め寄ったが、彼は首を振るばかりだった。
「それより、聞いてほしいことがあるんだ」
ジョシュアはそう切り出した。ティルダは何、と言って彼を見つめた。
少年は少しの間逡巡して、こう言った。
「君の、パパを、殺したのは、僕なんだ」
ジョシュアの言葉は彼女の耳に届きはしたが、けれどその意味はティルダには到底理解出来なかった。
「何を…、言っているの?」
ジョシュアはもう駆け引きをするつもりはなかった。真実だけを告げるつもりだった。
「君のパパを殺したのは、僕なんだ…」
同じ台詞を少しだけイントネーションを変えてジョシュアは言った。立っているだけで精一杯で、彼女の顔をまともに見て話をするのはひどく辛いことだった。それでも彼は真相を最後まで語るつもりだった。そうしなければ彼女はこれからの人生を父親の死の真相を知らずに過ごすことになる。それは自分の犯した罪の中でももっとも重いものに思えた。
「やめて!」
ティルダが叫んで、耳を両手で塞いでしゃがみ込んだ。
「警察の人が言ってたわ。パパの死は間違いなく自殺だって。それなのにどうしてあなたが、パパを殺せるっていうの?」
目を強く閉じ、耳を手で塞いだまま、彼女は言った。
ジョシュアは戸惑った。彼女の手を無理やり引き離して話をすればいいのか、それともこれ以上は何も語らず立ち去ればいいのか。結局彼はその状況のまま、彼女の体に触れることもなく、再び話し出した。
妹のエミリーのこと、エミリーの仕事のこと、灰色のオーバーコートの男のこと、自分がその男に復讐を誓ったこと、その男とアルバートを間違えてしまったこと…。
ジョシュアは話しながら、告悔するにしてもこのやり方は最低だと自分自身に毒づいた。けれどもそれ以外のやり方は思い浮かばなかった。すべてを話し終え、ジョシュアは改めてティルダの方を見たが、彼女はしゃがみ込んだまま、彼の方を見ようとしなかった。
「さよなら…」
最後にそれだけを言ってジョシュアはその部屋を後にした。
一度だけ振り返ってマクマーナン家の屋敷を眺めながら、自分はもしかしてティルダに止めてもらいたかったのかもしれないとジョシュアは思った。だがそれはあまりに虫がよすぎるというものだろうと自分に言い聞かせた。
約束の時間まであまり間がなかった。
ジョシュアは、引きずるような足取りで男との待ち合わせの場所へと向かった。その姿は、まるで両足に重い鉄球がついた鎖を繋がされた罪人のようであった。
*『空のない街』/第十四話 に続く
彼女にとってもはや世界は閉ざされた環であり、そこには無限の可能性など存在してはいなかった。昨日まで信じていたもの、信じようとしていたもの、それらがすべて嘘なのだと誰かに耳元で囁かれたような、そんな感覚だった。その囁言の虚実を確かめる気力は、もう彼女には残されていなかった。
「パパ、どうして…」
ティルダはベッドの中でそう呟いたが、死んでしまったの、と続けることは出来なかった。そう 呟きさえしなければ、父親の死がただ一晩だけの悪夢で終わると信じているかのように。
アルバート・マクマーナンは、自身が外科医という人の生命そのものを取り扱う職業であり、妻のケルシーを娘のティルダがまだ乳飲み子であったころ失っていたため、ティルダとはごく一般の家庭でなされるよりも、死というものに対して話し合う機会を多く持ってきた。純粋に生物学的に、また宗教における意味合い、人々の認識の違いなどについて父と娘は会話を交わした。
例えば、アルバートは娘に次のような題目を提示した。
『死刑囚ばかりを乗せた護送車が事故に遭い、一人の囚人が瀕死の重傷を負った。このとき医者は囚人に対して救いの手を差し伸べるべきか、否か?』
ティルダは考え込んだ。道徳の時間であれば、Yesと即答しなければいけないのだろう。本来 人は平等に、囚人であっても、聖者であっても、治療を受ける権利があるのだから。
だが医者もまた人であり、もし自分がその立場に立った時、例えば自分の大切な人を奪った相手でも、本当に自分はその患者をただの一人の患者として治療に専念することが出来るのだろうか。
ティルダはしばらく考えて、自分でもズルいな、と思いながらも、その時にならないとわからない答えた。
娘の答えに満足したようにアルバートはティルダの頭を優しく撫でた。
「そうだね。このような問いに、簡単に答えが出せるはずもないからね。ただ、大切なことは考えることだよ。どちらの答えを出すにしても、よく考えて出さなければいけないと私は思うよ」
パパもやっぱり迷うことがあるの、とティルダが尋ねるとアルバートは小さく頷いた。
「本当は、パパの元に救いを求めてきた人々をみんな助けてあげたい。だけどパパは人間で、神様じゃない。だから順番に並んで、待ってもらわないといけないことがある。しかし時々自分は特別な人間だと思って、他人を押し退けてやってくる患者さんがいるんだ。パパは、やっぱりそんな患者さんは好きになれないんだ」
アルバートは目を伏せた。
「その人間の命があとどれくらいの長さなのか、それを決めるのは医者ではなく、神様だ。医者は常に治療に全力を尽くすだけだ。そう思いはしても、自分はすべてを神様に任せっぱなしにしていいのだろうかと考えることがあるよ」
それ以上アルバートは話を続けようとはせず、娘におやすみと言うと、その額にキスをした。
そんなふうにティルダが夜寝る前、仕事から帰ってきたアルバートと話をすることがよくあった。
学校の勉強や友達のことといった身近な話題から、世界中から貧困や戦争がなぜ無くならないのかといった深刻なテーマについてまで、二人は話をしたものだった。そんな時アルバートは娘のティルダを子供扱いすることもなく、時には自分自身の悩みごとを相談し、彼女に助言を求めることさえあった。
その父が自殺をするなど、ティルダには信じられなかった。まして理由も明かさずに。
ティルダは、パパ、どうして…、と涙がこみ上げてくるのを堪えて、もう一度呟いた。
その時寝室のドアがノックされた。
彼女がハイと返事をすると、執事のディケンズが、失礼します、お嬢さま、と言って入ってきた。
執事は畏まった態度で、ティルダに来客を告げた。
だが、彼女は予め誰にも会いたくない旨を伝えていたので、不思議に思ってそのことを問うと、彼は困ったような顔をして、お帰りになられないのです、と言った。
ティルダにはなぜか客が誰なのかがわかった。会う旨をお客様に知らせるようにと言って執事を下がらせた。
彼女はベッドから出て、少しふらつきながらワードローブまで歩いた。
着替えの最中、鏡に見知らぬ少女が写り、ティルダは目をそらした。一瞬、会うのをやめようかとさえ思ったが、彼女は首を振った。
一階に下りたティルダは自分の想像通りの人が居間のソファに腰かけているのを見た。
「ジョシュア」
ソファから立って、自分の方に振り返った少年の顔を見て、ティルダは思わず息を飲んで口を押さえた。先ほど鏡を見た時の自分の顔も相当にやつれてはいたが、彼はそれ以上だった。頬はこけ、目は落ち窪み、生気といったものが全く伺えない。
それでもジョシュアは彼女の顔を見るとほっとしたように微笑みを浮かべた。
「やあ、ティルダ」
彼女は自分のことも忘れて彼に駆け寄った。
「どうしたの、何かあったの?」
ジョシュアは小さく首を振って、何でもないんだ、と言った。何でもないわけがないでしょう、とティルダは詰め寄ったが、彼は首を振るばかりだった。
「それより、聞いてほしいことがあるんだ」
ジョシュアはそう切り出した。ティルダは何、と言って彼を見つめた。
少年は少しの間逡巡して、こう言った。
「君の、パパを、殺したのは、僕なんだ」
ジョシュアの言葉は彼女の耳に届きはしたが、けれどその意味はティルダには到底理解出来なかった。
「何を…、言っているの?」
ジョシュアはもう駆け引きをするつもりはなかった。真実だけを告げるつもりだった。
「君のパパを殺したのは、僕なんだ…」
同じ台詞を少しだけイントネーションを変えてジョシュアは言った。立っているだけで精一杯で、彼女の顔をまともに見て話をするのはひどく辛いことだった。それでも彼は真相を最後まで語るつもりだった。そうしなければ彼女はこれからの人生を父親の死の真相を知らずに過ごすことになる。それは自分の犯した罪の中でももっとも重いものに思えた。
「やめて!」
ティルダが叫んで、耳を両手で塞いでしゃがみ込んだ。
「警察の人が言ってたわ。パパの死は間違いなく自殺だって。それなのにどうしてあなたが、パパを殺せるっていうの?」
目を強く閉じ、耳を手で塞いだまま、彼女は言った。
ジョシュアは戸惑った。彼女の手を無理やり引き離して話をすればいいのか、それともこれ以上は何も語らず立ち去ればいいのか。結局彼はその状況のまま、彼女の体に触れることもなく、再び話し出した。
妹のエミリーのこと、エミリーの仕事のこと、灰色のオーバーコートの男のこと、自分がその男に復讐を誓ったこと、その男とアルバートを間違えてしまったこと…。
ジョシュアは話しながら、告悔するにしてもこのやり方は最低だと自分自身に毒づいた。けれどもそれ以外のやり方は思い浮かばなかった。すべてを話し終え、ジョシュアは改めてティルダの方を見たが、彼女はしゃがみ込んだまま、彼の方を見ようとしなかった。
「さよなら…」
最後にそれだけを言ってジョシュアはその部屋を後にした。
一度だけ振り返ってマクマーナン家の屋敷を眺めながら、自分はもしかしてティルダに止めてもらいたかったのかもしれないとジョシュアは思った。だがそれはあまりに虫がよすぎるというものだろうと自分に言い聞かせた。
約束の時間まであまり間がなかった。
ジョシュアは、引きずるような足取りで男との待ち合わせの場所へと向かった。その姿は、まるで両足に重い鉄球がついた鎖を繋がされた罪人のようであった。
*『空のない街』/第十四話 に続く
救護院の自室に戻ったジョシュアは、そのまま崩れるようにベッドに倒れ込んだ。
葬儀から帰る途中、道端で胃の中のものは全て戻していたが、それでも一向に嘔吐感は収まることがなかった。ふらつきながらも何とか窓枠までたどり着き、乱暴に窓を開け放つと、ジョシュアはこみ上げてくる胃液を雨に向かってぶちまけた。
震えが止まらなかった。臓腑がきりきりと引き絞られるように痛み、なお彼に嘔吐を促した。
取り返しのつかない過ちを、犯してしまった…。
その思いに捕らわれ、ジョシュアはまともにものを考えることも出来なかった。
あの日、マードックの部屋のドアを激しくノックしたその時から、例え何があっても後悔はしない、妹の仇を討つためならば、灰色のオーバーコートの男、今では名前もわかっている、エドワード・マクマーナン、奴の命を絶つためならば、どんなことでもする、そう、悪魔にだって魂を売ると固く誓ったはずなのに…。
実際にはジョシュアは、自分の犯した罪の大きさにただうち震えるばかりだった。
自分は、決して奪ってはならないものを一人の少女から永遠に奪ってしまったのだと、ジョシュアは思った。
どうすれば、この罪を償えるというのか…。
どうすれば、ティルダに許しを請えるというのか…。
どうすれば…、自分は…。
ジョシュアはベッドにうつ伏せになり、額を枕に強く押しつけ、震えながらその答えを必死に求めた。
不意に彼は、声を押し殺して笑った。
自分がエドワード・マクマーナンのことを決して許せないのと同様、彼女も真相を知れば、自分のことを許せないに違いない。そしてそんな自分が犯した罪を償う方法はたった一つしかない…。
そんな当たり前の結論に達して、ジョシュアは笑いたい気分になった。
マードックの体に一本目のナイフを突き刺したその瞬間に、自分が与えられる罰は自ずと決まってしまったのだ…。
雨が激しく救護院の屋根を叩いて、少年の嗚咽の声を包んだ。
ジョシュアは、その夜生まれて初めて、信じていないはずの神を呪った。
*『空のない街』/第十三話 に続く
葬儀から帰る途中、道端で胃の中のものは全て戻していたが、それでも一向に嘔吐感は収まることがなかった。ふらつきながらも何とか窓枠までたどり着き、乱暴に窓を開け放つと、ジョシュアはこみ上げてくる胃液を雨に向かってぶちまけた。
震えが止まらなかった。臓腑がきりきりと引き絞られるように痛み、なお彼に嘔吐を促した。
取り返しのつかない過ちを、犯してしまった…。
その思いに捕らわれ、ジョシュアはまともにものを考えることも出来なかった。
あの日、マードックの部屋のドアを激しくノックしたその時から、例え何があっても後悔はしない、妹の仇を討つためならば、灰色のオーバーコートの男、今では名前もわかっている、エドワード・マクマーナン、奴の命を絶つためならば、どんなことでもする、そう、悪魔にだって魂を売ると固く誓ったはずなのに…。
実際にはジョシュアは、自分の犯した罪の大きさにただうち震えるばかりだった。
自分は、決して奪ってはならないものを一人の少女から永遠に奪ってしまったのだと、ジョシュアは思った。
どうすれば、この罪を償えるというのか…。
どうすれば、ティルダに許しを請えるというのか…。
どうすれば…、自分は…。
ジョシュアはベッドにうつ伏せになり、額を枕に強く押しつけ、震えながらその答えを必死に求めた。
不意に彼は、声を押し殺して笑った。
自分がエドワード・マクマーナンのことを決して許せないのと同様、彼女も真相を知れば、自分のことを許せないに違いない。そしてそんな自分が犯した罪を償う方法はたった一つしかない…。
そんな当たり前の結論に達して、ジョシュアは笑いたい気分になった。
マードックの体に一本目のナイフを突き刺したその瞬間に、自分が与えられる罰は自ずと決まってしまったのだ…。
雨が激しく救護院の屋根を叩いて、少年の嗚咽の声を包んだ。
ジョシュアは、その夜生まれて初めて、信じていないはずの神を呪った。
*『空のない街』/第十三話 に続く
小雨の降りしきる中、故人の遺徳を忍ばせるように墓地には多くの参列者が集まった。雨は世界のほとんどすべての色をモノトーンへと塗り変え、人々からは感情を奪い去った。
司祭がアルバート・マクマーナンの生前の栄誉をたたえ、聖書の一節を唱えた。
参列者たちは故人へ最後の別れの言葉を述べようと、まるで彼ら自身が亡者であるかのように押し 黙ったまま、故人の眠る棺まで列を作った。弔いが済むと、故人の愛娘であるティルダに一言二言声を掛けていく。
だが彼女は目の前の光景を現実として認められないかのようにそれらに全く無反応だった。
ジョシュアは墓地の外れからその様子を眺めていた。ティルダの表情は黒いベールに覆い隠され彼からはよくわからなかった。ただ茫然と成すすべもなく立ちつくしているかのように見えた。
ジョシュアは自分に葬儀に参加する資格がないことを充分承知していた。ティルダに二度と会ってはならないということも、わかっているつもりだった。
けれど、どうしても彼女の様子が気になって、気が付くといつの間にかアルバートが埋葬されるという墓地へと来てしまった。
アルバート・マクマーナンの死は自殺だ。
ジョシュアは自分にそう言い聞かせた。警察の公式見解もそうなっている。ジョシュアにその死の責任の一端があるにしろ、最後に引き金をひいたのは彼自身である。良心の呵責に耐えかねたのか、それとも別の理由があったのか、そこまではわからない。だがともかく、引き金をひいたのはジョシュアではない。
引き金をひいたのは、僕じゃない…。
何度も何度も、呪文のようにジョシュアは繰り返した。
僕じゃない…。僕じゃない…。僕のせいじゃ、ない…。
けれどそうしたところで心の中に開いた虚無の穴が閉じるわけではなかった。
葬儀がすべて終わり、人々が帰途につき始めた。最後まで残っていたティルダも年配の女性に手を引かれ、ジョシュアのいる方へとやってきた。ティルダは彼のことに気づかずに、通りすぎようとした。
「ティルダ!」
ジョシュアは思わずそう声を掛けた。
ティルダは、ジョシュアの方を見て、首をかしげ、しばらくの間何かしら考える素振りをしたが、やがて初めて彼の存在に気づいたように、ああ、ジョシュア、と言った。
「パパのお葬式に、来てくれたのね。ありがとう。パパも、きっと、喜ぶと思うわ」
ゼンマイで動く自動人形のように抑揚のない表情のままティルダが言った。
ジョシュアは突然たまらなくなって、何かを言おうとした。だが何も言葉が見つからず、顔を背けた。もう彼には事実を告げること以外に、ティルダに言うべきことが見つからなかった。彼は顔を上げた。
「アティルディア」
ジョシュアよりもほんの一拍早く、一人の男が、ティルダの背後から彼女に声を掛けた。
「エドワード叔父様…」
振り返った少女の顔が少しだけ華やいだように見えた。
「すまない、葬儀に遅れてしまった」
そう言いながら、エドワードと呼ばれた男は雨を遮るように、ティルダの肩に手を回すと、彼女を自分の方にそっと引き寄せた。
二人はまるで少年の姿が見えないかのように少しの間会話をし、そのまま顧みようとせずに彼の前から去っていった。
ジョシュアは、悪夢でも見ているようだった。地面がぐらぐらと揺れているかのように立ちくらみがして、ひどく吐き気がした。
僕の、せいじゃ、ない…。
膝から崩れ落ちそうになるのを何とかこらえ、ジョシュアは震えながらもう一度その台詞をくり返した。
だが、その呟きは彼の耳にひどく空しく響いた。
エドワード・マクマーナンは灰色のオーバーコートを着ていた。
さらに勢いを増す雨の中、死者の他には誰もいなくなった墓地に、ジョシュアは一人取り残された。雨は止む気配もなく、ただひたすらに街を灰色に染めていった。
*『空のない街』/第十二話に続く
司祭がアルバート・マクマーナンの生前の栄誉をたたえ、聖書の一節を唱えた。
参列者たちは故人へ最後の別れの言葉を述べようと、まるで彼ら自身が亡者であるかのように押し 黙ったまま、故人の眠る棺まで列を作った。弔いが済むと、故人の愛娘であるティルダに一言二言声を掛けていく。
だが彼女は目の前の光景を現実として認められないかのようにそれらに全く無反応だった。
ジョシュアは墓地の外れからその様子を眺めていた。ティルダの表情は黒いベールに覆い隠され彼からはよくわからなかった。ただ茫然と成すすべもなく立ちつくしているかのように見えた。
ジョシュアは自分に葬儀に参加する資格がないことを充分承知していた。ティルダに二度と会ってはならないということも、わかっているつもりだった。
けれど、どうしても彼女の様子が気になって、気が付くといつの間にかアルバートが埋葬されるという墓地へと来てしまった。
アルバート・マクマーナンの死は自殺だ。
ジョシュアは自分にそう言い聞かせた。警察の公式見解もそうなっている。ジョシュアにその死の責任の一端があるにしろ、最後に引き金をひいたのは彼自身である。良心の呵責に耐えかねたのか、それとも別の理由があったのか、そこまではわからない。だがともかく、引き金をひいたのはジョシュアではない。
引き金をひいたのは、僕じゃない…。
何度も何度も、呪文のようにジョシュアは繰り返した。
僕じゃない…。僕じゃない…。僕のせいじゃ、ない…。
けれどそうしたところで心の中に開いた虚無の穴が閉じるわけではなかった。
葬儀がすべて終わり、人々が帰途につき始めた。最後まで残っていたティルダも年配の女性に手を引かれ、ジョシュアのいる方へとやってきた。ティルダは彼のことに気づかずに、通りすぎようとした。
「ティルダ!」
ジョシュアは思わずそう声を掛けた。
ティルダは、ジョシュアの方を見て、首をかしげ、しばらくの間何かしら考える素振りをしたが、やがて初めて彼の存在に気づいたように、ああ、ジョシュア、と言った。
「パパのお葬式に、来てくれたのね。ありがとう。パパも、きっと、喜ぶと思うわ」
ゼンマイで動く自動人形のように抑揚のない表情のままティルダが言った。
ジョシュアは突然たまらなくなって、何かを言おうとした。だが何も言葉が見つからず、顔を背けた。もう彼には事実を告げること以外に、ティルダに言うべきことが見つからなかった。彼は顔を上げた。
「アティルディア」
ジョシュアよりもほんの一拍早く、一人の男が、ティルダの背後から彼女に声を掛けた。
「エドワード叔父様…」
振り返った少女の顔が少しだけ華やいだように見えた。
「すまない、葬儀に遅れてしまった」
そう言いながら、エドワードと呼ばれた男は雨を遮るように、ティルダの肩に手を回すと、彼女を自分の方にそっと引き寄せた。
二人はまるで少年の姿が見えないかのように少しの間会話をし、そのまま顧みようとせずに彼の前から去っていった。
ジョシュアは、悪夢でも見ているようだった。地面がぐらぐらと揺れているかのように立ちくらみがして、ひどく吐き気がした。
僕の、せいじゃ、ない…。
膝から崩れ落ちそうになるのを何とかこらえ、ジョシュアは震えながらもう一度その台詞をくり返した。
だが、その呟きは彼の耳にひどく空しく響いた。
エドワード・マクマーナンは灰色のオーバーコートを着ていた。
さらに勢いを増す雨の中、死者の他には誰もいなくなった墓地に、ジョシュアは一人取り残された。雨は止む気配もなく、ただひたすらに街を灰色に染めていった。
*『空のない街』/第十二話に続く