辻村深月著、『スローハイツの神様』、読了。
読み終わって思ったのは、このお話の中の登場人物たちが羨ましいっていうことだった。
彼らは皆、小説家だったり、脚本家だったり、あるいは漫画家だったり、とにかくクリエイターと呼ばれる存在(もしくはその卵)だ。
一人が挫折しそうになったり、選択に誤ったり、創作する苦しみにもがいたりしたとき、スローハイツというアパートに住む同じ創作仲間のうちの誰かが、場合によっては全員が、叱咤激励し、道を正し、救いの手を差し伸べるのだ。
私事で恐縮だけれど自分にはそういった創作仲間が一人もいない。
以前ミステリー小説好きのサークルに所属していて、その中の有志が何人かで集まって同人誌を作った。
『空のない街』はその同人誌で発表した作品だ。
拙作であることは認めるけれど、持てる力のすべては注いだつもりだった。
しかし、サークルのメンバーからは誰からも感想をもらえなかった。ただの一人も。凹んでしまった。
他にも
『断崖にて』という作品は
『名所』を読んで面白かったよと言ってくれた人がいたので書いたものだ。
でも『名所』の続編を書いてみましたよ、といってもその人は結局『断崖にて』は読んでくれなかった。やっぱり凹んだ。
創作活動においては実際の執筆こそ一人でするものかもしれないが、真の意味での孤独はありえない。
出来上がった作品の感想を言い合える仲間がいて、その作品を純粋に喜んでくれる誰かがいて、初めて創作に打ち込めるものじゃないかと思う。
甘えかもしれないが、少なくとも自分に関してはそうだ。
そういった環境にあるスロウハイツの住人たちがとても羨ましかった。
前置き、、、というか愚痴が長くなってしまったけれど、肝心の『スロウハイツの神様』の感想。
正直、上巻はそこまでいいとは思えなかった。
なぜか、、、う~ん、よくわからないけれど、今までの辻村深雪の作品に比べ、恋愛に重点が置かれていたせいではないか、と思う。恋愛の要素があってはいけないというわけではないけれど、それに重点がおかれている作品は苦手だ。
下巻になってもやっぱりしばらくはのめり込めなかった。
このお話は物語の中心にチヨダコーキというカリスマ作家がいて、その周りに彼の作品を模倣する作家や、その作家を操る黒幕(?)がいるのだが、彼らの動機がいまいち理解出来ないのだ。
カリスマ作家の作品を模倣し、それで評判になるだけの実力があるならば、いっそオリジナルの作品を書くと思うのだが。少なくとも模倣するだけのメリットがあるようには思えなかった。
さらに不可解なのは黒幕の方で、その人物が模倣作家を操っていた動機が、どうにもありえないのだ。どう考えてもそれだけの手間暇を掛けてやることとは思えないし、逆に真相がばれた時のデメリットが大きすぎる。
動機そのものが不可解である以上、模倣作家や黒幕が誰か、といったミステリー的な側面に興味が湧かなかったとしても仕方のないことだと思う。
恋愛の比重の大きい、ミステリーとしては不完全な作品、という括りであれば『スロウハイツの神様』は自分にとって評価の低い作品であるはずなのに、最終章を読んで、不覚にも泣けてしまった。
ある事件が契機となって一度は筆を折ったチヨダコーキが再び小説を書き始めるまでの経緯は、一度でも小説を書いたものであれば、そして創作活動に挫折したことがあるものならば、涙なしには読めないだろうと思う。
やはり小説というものはそれを喜んでくれる人の顔を具体的に思い浮かべられなければ書けないものなのだ、という思いを強くした。
繰り返しになるけれど、チヨダコーキが心底羨ましい、そう思った。