アーミル・カーン主演、ラージクマール・ヒラニ監督、
『PK』、10/30、ユナイテッド・シネマトリアス久山にて鑑賞。2016年37本目。
日曜日はまささんを誘って夕方から飯塚の嘉穂劇場で行われた『GOTTON JAM2016』という音楽イベントに参加してきました。
ただ、遠く飯塚まで出かけて用事が『GOTTON~』だけ、というのは勿体ないなと思って、ついでにユナイテッド・シネマトリアス久山で『PK』を観ることにしました。
まぁ「ついで」という割には久山から飯塚まで40分以上かかったんですけど。笑。
この『PK』、観るのをかなり楽しみにしていたんですよ。
何といっても主役と監督が『きっと、うまくいく』と同じコンビですからね。そりゃ期待も高くなるってもんです。
さて、『きっと、うまくいく』は笑って泣けて感動するエンターティメント作品でありながら、インド社会が抱える格差や学歴といった問題を正面から取り扱った問題作でもありました。
そしてこの『PK』が取り上げたのが他でもない宗教です。
この映画がインドで作られて、大ヒットしたことには驚かされます。
なぜなら宗教の存在がインドでは、ここ日本とは比べ物にならないぐらい大きく、人々の暮らしに根差していることが想像に難くないからです。
ただ、作品の中で語られる、宗教観、神の概念などについては特に驚くことはありませんでした。
なぜかというと、無神論者である自分は昔から似たようなことを考えていたからです。
自分は神とは、人々が安寧した生活を送るために作り出した存在であると考えています。
例えて言えば神とは、野球の試合における審判のようなものだと思っています。
試合をスムーズに進めるために審判の存在は欠かせません。そして審判の言うことは絶対です。審判がストライクといえばストライクだし、ホームランだといえばホームランです。
しかし審判が間違いを犯さないかというとそんなこともなく、誤審はさほど珍しいことではありません。
そして忘れてはならないのは選手たちは何も審判のために試合をしているのではないということです。選手たちは自分たちのために、そしてチームを応援するファンのために試合をしているはずです。
選手は審判に対して敬意を払うべきですが、必要以上に審判が試合に干渉すると試合自体がおかしなことになります。審判はあくまで試合をスムーズに進めるためだけに存在するべきなのです。
同じことが神にも言えます。
私たちが豊かな日々を送れることを神に感謝し、心の平安を得ること自体は決して悪いことだとは思いません。
しかし、神が私たちの生活を支配し、行動規範の第一位が宗教になるようではいけません。
なぜなら私たちは別に神のために、もしくは神の教えを守るために生きているのではないですから。
私たちは、私自身と私を支えてくれる親しい人々、そしてこの世界を豊かにするために生きているのです。
しかし時に神は私たちを支配します。戒律のために親に殺される少女、神の名を叫んで自決する宗教テロ、過度な貢物を要求する新興宗教etc。
繰り返しますが、人々の暮らしから豊かさを奪う宗教や神はすべて否定されるべきなのです。
何だかずいぶん堅苦しい口調で神についての考えを述べてしまいました。
その点、映画『PK』では神や宗教についての問題点、疑問点がコミカルな形で提起されています。
神や宗教のことを改めて考えてみるきっかけとして本作は鑑賞する価値があると言えると思います。
お気に入り度は★★★☆、お薦め度は★★★★(★は五つで満点、☆は★の半分)です。