この世界の憂鬱と気紛れ

タイトルに深い意味はありません。スガシカオの歌に似たようなフレーズがあったかな。日々の雑事と趣味と偏見のブログです。

断崖にて、最終話。

2005-06-27 21:59:19 | 不定期連載小説『断崖にて』(完結済)
その6からのつづきです。でも未読の方はよかったらその1から読んでください。)

「私の家は代々医者をやっていて、父も母も二人の兄もみんな医者なんです。当然のように私も医者になることを期待されて、私自身それを望んでいたはずなんですが、今年も大学の医学部に落ちてしまって・・・。家にはもう、私の居場所なんてないんです・・・。ダメですね、言葉にするとすごく陳腐で。私の置かれている状況はもっと深刻だったはずなのに」
 男はゆっくりと息を吐き出すと感慨深げに言った。
「そういうものですよ。人が自ら死を選ぶ理由なんて、他人からすれば、どうしてそんな理由で死んじゃったんだろうって思えるものばかりです」
 手の甲で涙を拭いながら、ふと気になって私は尋ねた。
「そういうあなたはなぜ死んでしまったんですか?」
 突然話を振られて男はエッというふうに目を丸めた。
「わ、私、ですか?私の自殺の動機なんて、そんなの、ど、どうでもいいじゃないですか」
 実のところそれほど知りたいわけではなかったのだけれど、私は男のうろたえぶりが面白くてついつい重ねて聞いた。
「そんな、隠さなくたっていいじゃないですか。教えてくださいよ」
「か、勘弁してください。自分が死んだ理由なんて、恥ずかしくて言えません。言いふらされでもしたら敵わないし」
「私は言いませんよ!それに私の方は死のうとした理由、あなたに今言っちゃいましたよ!」
「死のうとした理由を言えだなんて、そんなこと、私は一言も言ってないじゃないですか!それから、私のことなら心配しなくても大丈夫ですよ。だって・・・」
「だって?」
「昔からいうじゃないですか、『死人に口なし』って」
 男の下手な冗談に、私はついプッと吹き出してしまった。笑いがこみ上げてきて止まらなかった。こんなに笑ったのはいつぐらいぶりだろう?
「そんなにおかしいことを言いました?」
「いえ、そんなことはないのですけれど」
 私はスカートについた砂を払いながら立ち上がった。
「とりあえず、帰ることにします。今度は無事に、帰してくれますよね?」
 私が念を押すように尋ねると、もちろんですよ、と男は笑いながら請け負った。
「戻ったら、スガノさんのバイト先に行ってみようと思います。でも告白とか、相談とか、特別なことをするつもりはないですけど」
 男は、ウンウンと頷いた。
「それでいいと思いますよ」
「また、ここに来てもいいですか?」
 私がそう聞くと、男は急に真面目な顔になって首を横に振った。
「ダメです」
「え、どうして?」
「どうしてって一度自殺を思いとどまらせた人をもう一度思いとどまらせても人数にカウントされないんです。そういう決まりらしくて」
 男の言葉に私は苦笑した。
「別に飛び降りに来るわけではありません」
「あぁ、何だ、そうなんですか」
「そうですよ」
「来るのは構いませんが、会えるかどうかはわかりませんよ」
「どうしてですか」
「どうしてっていわれても・・・、条件が揃わないと姿を見せるわけにはいかないのです」
「つれないんですね」
 私がそう言うと、男はさも意外そうな顔をした。
「知らなかったんですか?幽霊ってそういうものなんですよ」
 男は破顔一笑し、私もつられて笑った。
 そのとき一陣の強い風が吹いて、私は思わず目を閉じてしまった。
 目を開けるとそこにはもう誰もいなかった。まるで初めから誰もいなかったかのように、ただ見晴らしのよい風景が広がっていた。
「また、来ますね」
 名も知らぬ幽霊にそう別れを告げると、私は断崖を後にした。

                       おわり。
コメント (25)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

断崖にて、その6。

2005-06-24 20:15:11 | 不定期連載小説『断崖にて』(完結済)
その5からのつづきです。でも未読の方はよかったらその1から読んでください。)

 目覚めると私はぺたんと地面に座り込んでいて、男が私の顔を覗き込んでいた。
 心臓が止まるかと思うほど驚いた私は、ウワアアアアアァと悲鳴を上げて、そして気づいた。
 どこも痛くない。身体中のどこも怪我などしていないし、血も流れてなんかいない。もちろん右手も折れてなどなかった。
 え・・・?あれ?どうして?
 私の疑問を察したのか、男は私を見てニコッと笑うとこう言った。
「こう見えても幽霊ですから」
 男はその一言で全てが説明できると考えているようだった。実際私もそれ以上何かを問う気にはなれなかった。それで説明がつく話だとも思えないのだけれど、結局のところ受け入れる他ないのだろう。
「あなたにも」
 男は一旦そこで言葉を切り、穏やかに私の顔を見つめた。そこには先ほど感じられたような狂気はもううかがえない。
「暴漢に襲われた時に助けて欲しいと思っている誰かが、ちゃんといるんですね」
 男の言葉に頬がかぁっと熱くなるのを感じて、私は思わず顔を伏せた。
「不思議でならないのは」
 男がそこで再び間を置いた。私はそっと顔を上げる。
「暴漢に襲われたときに助けて欲しいと思ってる人に、どうして飛び降りる前には助けを求めないんでしょう?」
 私は首を振った。
「違います・・・。スガノさんとは別に親しくも何ともないんです。ただの知り合いでしかありません」
 男は不思議そうな顔をして、私の方をじっと見ていたが、やがて口を開いた。
「でもあなたは、もしそのスガノさんって方があなたに救いを求めてきたとしたら、全力で何かをしてあげるんじゃないですか?違いますか?」
 どうなのだろう。そんな仮定は無意味だと思ったが、けれど私は小さく頷いた。
「それは・・・、そうだと思います」
 男は私の答えに満足したように微笑んだ。
「だったらスガノさんもあなたが救いを求めてきたら、それに応じなければおかしいですよ。フェアじゃない」
 フェアじゃない、という男の言葉は無茶苦茶だと思った。
 男が無茶苦茶なことを言うのは、今日これでいったい何度目のことだろう?
 私とスガノさんとの間柄はせいぜいお互い名前を知っているという程度で、親しく話したことはなかった。まして何かを相談することなんて考えられない。
 だから男の言ってることは間違いなく無茶苦茶だった。
 まともに相手にする類いのものではない。
 それなのに・・・、それなのになぜこうも心に沁みてくるのだろう。
 私の目から知らず涙がポロポロとこぼれてきた。
 それは私が久しぶりに流した涙だった。

                     つづく。
コメント (17)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

断崖にて、その5。

2005-06-21 21:31:40 | 不定期連載小説『断崖にて』(完結済)
その4からのつづきです。でも未読の方はよかったらその1から読んでください。)

 ガツッという鈍い音を立て、その一撃は私の身体から全ての力を奪い去った。
 一瞬のうちに視界が朱に染まり、口いっぱいに錆びた鉄の味が広がる。
 私の身体は糸が切れた操り人形のように崩れ落ちた。
 なぜ・・・?どうして?
 痛みが共鳴してまともにものを考えられない頭の中に疑問符ばかりが浮かぶ。
 平手打ちしたことが男の逆鱗に触れたのか、それとも男が幽霊であると自称したことをあまりに深く追及しすぎたのか。
 どちらにしろほんの今さっきまで話していたときの男は、とてもこのように激昂するタイプには見えなかった。
 つまりは私に人を見る目がなかったということだろう。
 そしてこれは同時に、思いがけず話相手を得てわずかでも心を許してしまった私の愚かさに対する神様が与えた罰なのかもしれない。
 地に伏した私に男は持っていた角材でさらに容赦なく二撃、三撃を加えた。
 少しでも身を守ろうと右手をかざしたが、男は構わずその上から角材を叩きつけた。
 パキッという枯れ木が折れるような音を立てて、右手がありえざる方向に折れ曲がる。
「誰か・・・、誰か、助けて、誰か・・・」
 助けを求める声はつぶやきにさえもならず、空しく消えていった。そもそもこの岬に男と私以外の誰かがいるとも思えなかったけれど、それでも私は救いの手を求めずにはいられなかった。
 助けて、誰か、助けて・・・、お父さん・・・、お母さん・・・。
 男に打ち据えられ、芋虫のように丸まりながら、そして私は今さらながら皮肉にも気がついた。
 私は本当は死にたくなどなかったのだ、ということに。
 この岬には死を覚悟して来たはずだったのに・・・。
 途切れ途切れの意識の中、不意に男の手が止まったことを不審に思い、私は何とか首をめぐらした。
 半ばからポキリと折れた角材を放り投げ捨て、男は手近にあった石を両手で抱え上げた。かなりの大きさの石だった。
 視界の隅に男の両眼に宿った静かな狂気が映った。
 助けて・・・、スガノさん・・・。
 そのつぶやきが実際口に出して言えたものなのか、それとも心の中で言えただけだったのか、もう私にはわからなかった。
 男が私に最後の一撃を加えるのと私が目を閉じたのは同時だった。
 そして私の意識は昏い、昏い、奈落の底へと落ちていった。

                        つづく。
コメント (16)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

断崖にて、その4。

2005-06-16 21:51:30 | 不定期連載小説『断崖にて』(完結済)
その3からのつづきです。でも未読の方はよかったらその1から読んでください。)

 男は目にうっすらと涙を浮かべ、左手で頬を押さえながら呆然と私を見た。
「い、いきなり、何をするんですか・・・」
 相当痛かったのだろう。無理もない。打った私の右手もビリビリとしびれていた。
「あなたが悪いのですよ」
 私はできるだけ平然を努めて言った。
「私みたいな人間を、幽霊だと言ってたばかるから、罰が当たったんです」
「たばかってなんて・・・」
「幽霊だったら、頬をぶたれたって平気なはずです。さっきからあなたは自分が幽霊であるっていう前提でずっと話をしてますけど、だったらあなたが幽霊である証拠を私に見せてください!」
 私が精一杯の気力を振り絞って睨みつけると、男は根負けしたように目を逸らした。
「証拠なんて・・・、そんなものはありません」
 ほら、やっぱり幽霊なんかじゃないんだ。
 そう思ったものの、続いて男の口から出た言葉は予想外だった。
「だって、もしあなたが誰かから火星人じゃないかって疑われて、それで地球人である証拠を見せろっていわれたって、そんなこと、簡単には出来ないでしょう?」
 男の言っていることは屁理屈だと思った。けれどその理屈のどこが具体的に破綻しているのか、口惜しいけれど指摘することが出来なかった。
「それに、幽霊だったら頬をぶたれたって平気なはずだって言いましたけど、そんなの、一体どこの誰から聞いたんですか?幽霊が痛みを感じないなんて、何に書いてあったっていうんです?それって人間がよく知りもしないのに勝手に決め付けてるだけじゃないですか!思い込んでるだけじゃないですか!そんなのってひどすぎますよ!」
 男の強い口調に気圧されて私は何も言い返せなかった。だが男はあっさりと言葉の調子を変えた。
「でも、そんなことはどうでもいいんです」
 今度は男が私を正面から見据えた。
「あなたは今、私みたいな人間を、そう言いました。それってつまり、あなたはここから飛び降りて死ぬつもりだった、そう解釈しても構いませんか?」
 何かを言い返すべきだった。それはこじつけに過ぎない、そう言うべきだった。けれど私は言葉に詰まり、唾を飲み込むことさえ出来なかった。
「やっぱり・・・、そうなんですね?」
 男は勝ち誇るでもなく、哀れむでもなく、ただ少しだけ沈んだ声で言った。けれど私は男に対して虚勢を張った。
「違います。違います・・・。違い・・・ます・・・。そんな、こと・・・ありません。だから、お願いですから、私のことはどうか放っておいてください・・・」
 男がいる限り、この岬から飛び降りることは出来そうになかった。本当なら、死体が二度と浮かび上がってこないといわれているここから飛び降りたかったのだけれど、それが叶わないのであれば仕方がない。他の方法を考えるしかない。
 男の前から立ち去ろうとして、私は男に背を向けた。
「待ってください!」
 ほとんど叫びともいっていいその言葉に私は一瞬振り返った。
 どこで拾ったのか、男は角材のようなものを握りしめていた。
 そして男はそれを私の頭めがけて思い切り振り下ろした。

                           つづく。
コメント (12)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

断崖にて、その3。

2005-06-13 00:08:28 | 不定期連載小説『断崖にて』(完結済)
その2からのつづきです。でも未読の方はよかったらその1から読んでください。)


 私の幽霊やオカルトに関する知識は乏しいものだった。
 言い換えればそれらについてはごく常識的な範囲でしか知らない。
 しかしその中で、幽霊は昼日中現れるものではないし、馴れ馴れしく自らの置かれた境遇を語ったりはしないし、まして高所恐怖症だったりはしない。
 何より先ほど男に肩を掴まれたときのあの感触、何といえばいいだろう、あれはとても生々しいものだった。リアルだった。到底幽霊に触られたときのそれだとは思えない。
 私はあらためて男の風貌を注視した。
 先ほどこれといって特徴のない顔と感想を述べたが、それは別の言い方をすればどこででも見かけそうな顔ということであり、印象的には一日の営業を終え、帰社したばかりのサラリーマンといったところだった。
 たぶんどこかの居酒屋やビアガーデンで同じ顔を見かけていたのならもっと馴染んでいただろう。
 強いていえば顔色がちょっと悪いかなとも思えたが、それも別に血の気のないとか、土気色をしたとかいうほどのことでもなかった。
「ですからこんな立場になって初めてわかったんですけど、飛び降りる人に声を掛けるのって、そのタイミングが難しくって。早くてもいけないし、遅かったらもっといけない。それはわかりますよね?」
 男は飽きもせず話を続けていたが、私は、すいません、と言って男の話の腰を折った。
「あの、すいません、時間を教えてもらえますか?」
 私がそう尋ねると、男は手元の腕時計に目をやった。
「えっとですね、丁度一時を過ぎたところですよ。この後何か、予定でもあるのですか?」
 もちろん予定などあるわけがなかった。そんなものはない。
 ただ確かめたいことがあっただけだ。
 さえぎるものとてないから風は心地よいけれど、太陽はあるべき場所にあってその存在を主張し、男と私の足元にそれぞれ影を作っている。
 時間を確めるのに、腕時計を見る幽霊。けれどその幽霊にはしっかりと二本の足があり、おまけにご丁寧に影まである。
 そんな幽霊がいるわけがない。
 ふざけた話だと思った。馬鹿にしている。
 男はたぶん半分時間つぶしか何かで自らを幽霊と称して私をからかっているだけなのだろう。
 そのとき私はかなり腹を立てていた。
 だから、ちょっとした暴挙に出ることにした。
「あの、目のところに、羽虫が止まってますよ。追い払ってあげますから、ちょっと目を閉じてもらえますか?」
 男は私の言葉に素直に従い目を閉じた。
 そして私は小さく深呼吸すると、男の左の頬を思いっ切り、力任せに張った。
 バシッという小気味のよい、乾いた音が断崖に響いた。

                             つづく。
コメント (9)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

断崖にて、その2。

2005-06-06 00:02:28 | 不定期連載小説『断崖にて』(完結済)
その1からの続きです。)

「信じがたい話だとは思うんですけどね」
 男は遠く海を眺めながら話を続けた。
「元々私は別にこの岬で死んだってわけじゃないんですけど、ちょっとした因縁があって、ここに縛り付けられてしまったんです」
 男はことさら大きくフゥと息を吐いた。
「それでですね、その因縁を解くにはここで死のうとした人間を百人、助けなくちゃいけないことになってしまったんですよ。百人ですよ、百人!いくらこの不況のご時世とはいえ、そんなしょっちゅうここから飛び降りようとする人間なんていませんって!!」
 男はもし目の前に机があったのなら、ドンッと拳を叩きつけたに違いない勢いで言った。
「それに助けるっていってもただ単に自殺を阻止するだけじゃダメっていうんです。飛び降りようとした人間が、これから先、本当に生きて行こうと思えるようにならなくちゃいけないって・・・。そんなことが出来るぐらいなら今ごろこんなところにいませんって。人生相談のカウンセラーになってますよ、私」
 そうでしょう?と男が不意に同意を求めてきたので、私は慌てて、え、えぇ、と曖昧に返事をした。
「それにしても百人っていうのは多すぎです。あの時は私も考えなしに、ま、それぐらいの人数が妥当かなぁなんてつい思っちゃってオーケーしたんですけどね。あぁ、失敗したなぁ、せめて半分にしてもらえばよかった。五十人ならまだ何とか・・・。本当、百人なんて無茶苦茶ですよ」
 そうですね、無茶苦茶ですね、と私が相槌を打つと、男は我が意を得たりとばかりに私の肩をガシッと掴んだ。
「あなたもやっぱりそう思いますか!?」
 男の勢いにえぇ、えぇと何度も私は頷いた。
 確かに男の話は無茶苦茶だった。でもはたして一体どこから無茶苦茶だったのだろう。
 そう考えて、男が自らを幽霊だといったところからそうなのだということに思い至った。
 
                            つづく。
コメント (17)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

断崖にて、その1。

2005-06-01 23:49:10 | 不定期連載小説『断崖にて』(完結済)
 崖下を見下ろすと目もくらむような高さだった。
 スカートのすそがばさばさと風に揺れる。
 今さらながら私は自分が高所恐怖症であることを思い出した。足がすくんでしまうのが我ながら情けなかった。
 ここに来るまで迷いなんて少しもなかったのに。
 あと一歩。あと一歩でいい。ほんのあと一歩。
「飛び降りるつもりですか?」
 男の声に私は本当に驚いた。
 ついさっき辺りを見回したときは誰もいなかったのだ。
 振り返ると男が一人立っていた。これといって特徴のない顔に人のよさげな笑みを浮かべていた。
「違いますよ、どれぐらいの高さがあるのかなぁと思って、覗き込んでいただけです」
 ぎこちない笑みを返し、そう私は下手な言い訳をした。
 私の答えになるほどと頷きながら、男は一歩私に近づいた。
「確かに人は高いところに登るとどうしても下を見たくなってしまうものですよね。足がすくむのはわかりきっていることなのに」
 男は私の横に立つとそーっと首をめぐらして下を覗き込んだ、と思う間もなく、ヒョェ!と短く叫び声を上げて後ろに飛び退った。
「ダメです、絶対にダメ。実は自分は高所恐怖症なんです。いつかは克服できたら、と思ってはいるんですけど、でもダメです」
 男は傍目から見て気の毒なほどぶるぶると震えながら、もう少し崖の淵から離れませんか、と私に提案した。
 考えてみればおかしな話だった。男のことなどさっさと無視して飛び降りてしまえばよいのに、なぜか私は素直に男の提案に従った。
 私たち二人は手近にあった二つの岩に向かい合うように腰を下ろした。
 蒸し返すようですが、男はそう断りながら、こちらの方を見た。
「やっぱりあなた、飛び降りようとしていたんでしょう?」
「ち、違いますよ!」
 慌てて男の言葉を否定する。
「さっきも言ったとおり、好奇心で覗き込んでみただけです」
 私が語気荒く強調すると、男はハァと大きくため息をついた。
「残念です」
 私が飛び降りないとなぜ男が残念がらなければいけないのか、わけがわからなかった。
 そして男は真顔でこう言った。
「私、こう見えても幽霊なんです」
 男はさらにわけのわからないことを言った。

                      つづく。
コメント (20)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする