1993年に開幕した、第52期A級順位戦の大本命は羽生善治五冠(竜王・棋聖・王位・王座・棋王)だった。
谷川浩司や南芳一、福崎文吾に郷田真隆といった強敵を倒し、数多くのタイトルを獲得。
ついには、これまでは夢物語に過ぎなかった「七冠王」すら視野に入ってきた。
順位戦こそ前回紹介したよう、57歳のベテランに苦杯を喫するなど、少しばかり手間取ったものの、B級1組では12勝1敗と、格の違いを見せつけA級に到達。
谷川浩司王将や中原誠前名人(当時は名人戦と竜王戦に敗れた無冠の棋士を「前名人」「前竜王」と呼ぶマヌケな習慣があった)など、他の候補も強敵だが、今の藤井聡太五冠と同じくその勢い、また周囲の期待もふくめれば、やはり羽生を中心にリーグがまわっていくのは疑いないところだった。
その予想通り羽生は序盤からレースを引っ張り、6連勝で首位を快走。
7回戦で田中寅彦八段に敗れたときは、番狂わせということでガックリきたのかと思いきや、
「名人挑戦者になるのにそんな簡単にいくはずがないという意識があったのだ」
切り替えも早く、続く中原誠前名人との1敗同士の直接対決も制し、いよいよ「羽生名人」への期待も高まってくる。
自力挑戦の権利をもって挑んだ最終局。相手は谷川浩司王将だ。
谷川は1992年の第5期竜王戦で羽生に敗れて以降、明らかに押され気味の戦いを余儀なくされていたが、このリーグではここまで、まだ2敗。
最終戦に勝てばプレーオフに持ちこめるわけで、こちらは2連勝が必要と不利だが、やはりまだ「自力」の権利を持ったままここまで来たというのが、さすがといったところだ。
羽生はもちろん、谷川もプライドをかけた大一番は、谷川先手で力戦の相居飛車戦に。
序盤の駒組で、羽生が機敏な仕掛けを見せ攻め駒をさばくが、谷川も自陣に金を投入し、容易にはくずれない。
後手からの飛車打ちを消した手で、「前進流」「光速の寄せ」のイメージが強い谷川だが、実はこういう地味な手にこそ、その強さの本質があるとは先崎学九段や行方尚史九段も語るところ。
局面自体は僻地に金を使わせ、手番も握った後手が指せそうだが、勝負はまだまだこれからで、△73桂から中盤のねじり合いに突入。
少し進んで、この場面。
後手から△57角と金の両取りがかかって決まっているようだが、ここからのやり取りが華々しい。
▲75角と打つのが、カッコイイ切り返し。
これが王手で▲66の金を守っており、きれいにしのいでいる。
先手からすれば▲39の金を取られるのは、たいして痛くないのだ。
しかも、この角への対処もむずかしいところで、合駒を使うと戦力がけずられてしまう。
かといって△22玉はいつ▲31銀のような手から「光速の寄せ」が炸裂するかわかったものではないということで、羽生もギリギリの手で応じるしかない。
△53歩が、なるほどという中合。
▲同角成は▲66の金が浮いてしまうし、本譜の▲同竜は敵陣への角の利きが竜でさえぎられてしまう。
両雄ともワザをかけ合いながらも均衡を保つという、トッププロの芸が冴えわたっているところで、佐藤康光竜王、森内俊之六段らと検討していた米長邦雄名人も思わず、
「名局だね」
△53歩、▲同竜、△22玉、▲52銀に、△74飛というのが、先手の角の動きを縛るひねった手で、もうどうなっているのかわからない。
このあたり、まさに名人挑戦をかけた大熱戦だが、先手が少し抜け出したようで、それがこのあたり。
△28飛はきびしい打ちこみだが、ここで先手に、いかにも感触の良い手がある。
先手としてはうまく角を使いたいところだが……。
▲67玉と上がるのが、△48飛成が王手にならないようにしながら、▲75にある角の動きをフリーにする味のいい手。
△48飛成なら、▲42角成とできるから簡単に詰み。
妙技が決まったが、ここではまだ△64歩と打って守れば、後手もねばれたよう。
羽生は▲45桂、△44玉、▲55金とされて寄りと読んだようだが、△35玉、▲27歩に△同飛成として、▲36銀に△26玉と、飛車を見捨てて強引に入玉をねらう筋があって、苦しいながらまだ戦えた。
すでに観念していたのだろうか、素直に△75飛と取って、▲同金に△48飛成と首を差し出す。
谷川は▲42銀不成から収束にかかるが、ここでちょっとした事件が起きた。
△44玉と逃げたこの局面。
先手は▲36桂と王手馬取りをかけたが、「え?」と思った方も、いるのではあるまいか。
そう、この後手玉は詰んでいるのだ。
しかも、▲45銀、△同玉、▲55飛、△44玉、▲36桂まで、むずかしいところもない5手詰。
▲45銀に△35玉でも▲36銀から簡単につかまっている。
なんと谷川は、このアマ級位者レベルの詰みが見えていなかったのだ。
こんな手を逃しては普通はおかしくなるわけで、一瞬どうなったのか、わけがわからなかったが、最後は先手がなんとか逃げ切った。
ラストが不思議な将棋だったが、ともかくも谷川が意地を見せ、これでプレーオフに突入。
見ているほうからすれば「もう一局」と最高の盛り上がりで、これ以上なくワクワクしたものだが、同時に、
「七冠王って、ちょっと気の遠くなる大変な話なんやなあ」
との想いも再認識させられたのであった。
(続く)