【浩介視点】
3年以上ぶりの慶の唇は、記憶していたものよりも、もっと柔らかくて、もっと優しくて……
(……おれのすべて)
この人はおれのすべてだ、と、初めてキスした時のように、あらためて、思い知る。
「元気がない気がするのは、気のせいじゃないよな?」
そう断言されて、何も言い返せなかった。普通にしていたつもりだったのに、慶にはかなわない……
慶と一緒にいられて幸せで、これ以上を望んだらバチが当たる、というくらい、今、幸せで……
だからこそ、余計に……怖い。
きっかけは、今から数週間前の6月2日。横浜開港記念日。
慶とおれが初めて出会って、数時間だけ一緒に過ごしたのが、この日だった。
(今年は40年記念だし、せっかくだから何か特別に過ごしたいなあ)
そんなことを呑気に思っていた。あの出会いは小学校3年生のことだったので、ちょうど40年前になるのだ。
でも、あいにく今年のこの日は、警報級の大雨で、朝からずっと気忙しくて、言うことができなかった。慶は記念日を気にする人ではないので、たぶん気がついていないと思う。
翌日の土曜日は、慶は仕事。
おれはいつも通り、休日に行う家事を順調にこなし、13時すぎには昼食を取り終えた。
(午後、何しようかなあ……)
と、窓の外を眺めていたら、ふいに、あの日の光景が浮かんできた。
団地の近く。バスケットゴールのある小さな広場。走り回っていた元気な男の子。
「……行ってみようかな」
実はあれ以来、今まで一度もあの場所に行ったことはない。
小学生時代といえば、慶たちと遊んだあの数時間は楽しかったけれど、それ以外は思い出したくないのだ。だから、あの頃の記憶をよみがえらすようなことは極力避けていた。
(でも、もう40年も経つんだし……)
それに、悪夢の元凶ともいえる両親とも、慶のおかげで和解した。
(もう、大丈夫……)
おれには慶がいるから、大丈夫。
そう、思ってた。
***
久しぶりに、電車で実家の最寄り駅へ行った。いつも実家へは車で行くので、この路線に乗ることも久しぶりだった。
改札を出て、右に行くと実家。あのバスケットゴールのある広場は、左の方の町にあったと記憶している。
コンピューターとは違い、人間の脳とは便利なもので、町並みがずいぶん変わっていても「懐かしい」と思うことが出来る、と、何かで読んだことがある。
(懐かしくはないけれど……、覚えてはいるな……)
その広場への道の途中にあったスイミングスクールに、小学校低学年の時に通っていたことがあるのだ。
(だからこっちに歩いてみた…ってところもあったんだよな)
学校に居場所がなく、家にも帰りたくなく……どこかに行ってみたいと思って、家とは反対方向に行ってみたあの日。そうは言っても、少しだけ土地感のあるスイミングスクールの方角を選んだのは、臆病だったからというか……
「…………あれ?」
途中で立ち止まった。
確か、ここらへんにあったはずの、スイミングスクールが、ない。
「ここらへん……だったよなあ」
記憶にあった場所には、マンションが建っている。
「……なくなっちゃった?」
スマホで検索をかけて、ずいぶん前に閉鎖されたと書かれた記事を見つけた。
「知らなかった……」
水泳は、クロールの級の途中で、母の意向でやめてしまった。あのまま続けていたら、少しは慶と競争したりする楽しみ方ができるようになってたかな……
「…………無理か」
運動はどれも苦手だった。体の機能を上手く使いこなすことができないのだ。
月に一度の進級テストで、周りの子が順調に合格していく中、一人歩みの遅い息子の姿に耐えられなくなった母。
『どうして出来ないのっ』
テストに落ちたことを報告する度、そう詰られ……
どうして、どうして、どうして………
「…………っ」
母の苛立った声を思い出してしまい、慌てて頭を思い切り振る。
母は、いつも、『どうして』と言って、おれを責めた。勉強で間違えた時も、クラスメートとトラブルがあったときも、いつも、どうして、どうして、と……
(思い出すな。思い出すな……っ)
頭があの声に支配される。
違う。楽しいことを思い出そう。楽しいこと。楽しいこと……
そうだ、あのバスケットをした日のこと。あの時の慶は、小さくてかわいくて、同じ3年生なのに、幼稚園生かと思ったんだ。元気いっぱいで、めちゃくちゃで……
(早く……早く)
あのバスケットゴールを見つけにいかないと。早く、早く、早く………
そう思ったのに。
(あれ……?)
なんで……
記憶の場所にバスケットゴールが、ない。
記憶違いかと、その先にも行ったけれど、バスケットゴールは出てきてくれず……
(団地……おわっちゃった)
団地群の終わりまで行ってしまい、引き返す。
(道路から慶たちを見た、というのは記憶違いで、実は中に入りこんでた?)
そう思って、団地群の中にも入ってみたけれど、見つけ出すことはできず……
「あの……すみません!」
恥じらいもなく、買い物帰りと思われる親子連れを呼び止めた。
「ここらへんに、バスケットゴールがあったと思うんですけど……」
「バスケットゴール?」
きょとん、とした若い母親。
隣の父親もハテナ顔。
手を繋いだ小学生の兄弟がはしゃいだように声を上げた。
「見たことなーい」
「ここらへんには絶対ないよーあったら遊んでるし」
「ねー」
…………。
…………ない。ないんだ。
なくなっちゃったんだ。
答えてくれた親子連れに頭をさげ、その後ろ姿を見送る。
(仲良さそうだな……)
笑い声がこちらまで聞こえてくる。おれには存在しなかった子ども時代の姿……
「…………慶」
ゾワリ、と指先から血の気が引く。
あったはずのバスケットゴール。閉鎖してしまったスイミングスクール。
いつかはなくなる……
なくなるんだ。
後編に続く
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お読みくださりありがとうございました!
く、暗い…。前後編のはずが、終わらなかった……。
いや、いつか言及しておきたいな、と思っていたのです。
記念日大好き浩介君が、慶との本当の初めての出会いの日のことをあまり話さないのは何故かってことを……
日本に戻ってきて、渋谷家に出入りするようになってから、日にちの割り出しだけはしたのですが(短編「〜平成の終わりに」)、それだけです。
高校生になって慶と出会ってからは、辛い記憶を上回る楽しいことがたくさんあるのでいいのですが、小中学校の時は……ね……。学校も家も辛かったもの。浩介よく頑張ったよ(涙)
と、いうことで。
性懲りもなく、後編に続きます。そのうちあげます。
もしお時間ありましたらお付き合いいただけますと幸いです。
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