1972年(昭和47年)は、私にとって忘れられない“年” です。
沖縄返還の事だろうって・・・。残念ながらそのような高尚なことではないのです・・・。大学に入り上京して三年、少し東京に慣れた頃です。大泉学園に住み、慣れたころです3学年になったばかりの時です。 それまでは、沖縄出身者に対して「日本人なのに、こちらにいるのにパスポートが要るとはね!」と言っていたのに・・・。
5月15日は“沖縄復帰の日”らしいです。なんでも今年で50年とか・・・。
復帰については、小学校や中学校は祝賀ムードでしたが、中には「嬉しくない」と言う先生もいたようです。その理由は新聞にかいつまんで記載されています。
Wikipediaには次のように記載されています。
沖縄返還は、1972年(昭和47年)5月15日に沖縄(琉球諸島及び大東諸島)の施政権がアメリカ合衆国から日本国に返還されたこと(沖縄本土復帰)を指します。日本国とアメリカ合衆国との間で署名された協定の正式名称は「琉球諸島及び大東諸島に関する日本国とアメリカ合衆国との間の協定」です。日本の法令用語としては、沖縄の復帰(おきなわのふっき)といいます。
しかしこの復帰に関する協定には、国民に知らせていない多くの問題があったようです。
1969年(昭和44年)に行われた日米首脳会談で、ベトナム戦争終結とアメリカ軍のベトナムからの撤退を公約に掲げ前年の大統領選挙に当選したリチャード・ニクソン大統領(1952年就任~1974年10月)が、ベトナム戦争の近年中の終結を考えて、繊維製品の輸出自主規制と引き換えに沖縄返還を約束しましたが、公選の行政主席でもある屋良朝苗<(やら ちょうびょう、1902年(明治35年)12月13日 - 1997年(平成9年)2月14日)は、琉球政府および沖縄県の政治家、教育者。1968年11月から唯一の公選行政主席として沖縄の日本復帰までその職にあり、復帰後は沖縄県知事を2期務めた>や復帰賛成派の県民の期待とは裏腹に、アメリカ軍基地を県内に維持したままの「72年・核抜き・本土並み」の返還が決定し、1971年(昭和46年)沖縄返還協定調印、その後1972年(昭和47年)5月15日に日本へ復帰しました。
佐藤栄作首相(1964年7月就任~1972年7月)はニクソン大統領との取り決めで、非核三原則の拡大解釈や日本国内へのアメリカ軍の各種核兵器の一時的な国内への持ち込みに関する秘密協定など、冷戦下で東側諸国との対峙を続けるアメリカの要求を尊重しました。