1月24日(金)晴れ。
午前中に、後輩で現代の大陸浪人を自任する杉山君から電話が入り、「ラインもしましたが、植垣さんが今朝亡くなりました」。脳出血で倒れ、目が不自由となって静岡市の介護施設に入っていると、やはり杉山君から聞いていた。今年に入ってまだ24日しかたっていないのに、一日には岐阜の花房東洋先輩、そして植垣康博さんの訃報に接するとは。お二人と私とはほぼ同世代。
忘れ難い一枚の写真がある。詳しい年月日は忘れたが、今から20年ほど前のこと。静岡で植垣さんが開店した「スナック・バロン」の開店10周年記念パーティーに出席した折の物で、私と植垣さん、その隣が、出版界の風雲児と言われた「モッツ出版」の高須基仁氏、そして前列には、鈴木邦男さんと、もと赤軍派議長で「日本のレーニン」と言われた塩見孝也氏。
右翼民族派の私や鈴木邦男さんが、左翼の植垣さんや塩見、高須氏らと仲良く並んで写っていることに、違和感を覚える人もいるかもしれない。色々なこともあったが、それはすべて「時」が解決したとしか言いようがない。植垣さんとお会いした、と言うのは表現が適当ではないが、知り合いになったのは昭和62(1987)年の春、私がその年の1月に、「都会ではサラリーマンが一生かかっても都心では一坪の土地を買うことの出来ない、狂乱物価を招いた元凶」として某大手不動産会社の会長宅を同志と共に襲撃占拠した。東京拘置所にて公判を待つ間、一水会の機関紙『レコンキスタ』上に原稿を寄せていた植垣さんも、同じ東拘にいると言うことで、鈴木邦男さんから「手紙を出して見たら」と紹介されて、文通が始まり、拘置所内の生活などを色々アドバイスをして頂いた。本も何冊か差し入れして頂いたこともある。覚えているのは澤田ふじ子『闇の絵師』、同じく郡上青山藩の脱藩浪士隊のことを描いた『葉菊の露』など。その『葉菊の露』は、今でも私の「心に残る一冊」として大事にしている。
当時の東京拘置所には、いわゆる「ロス疑惑」の三浦和義氏や連続射殺事件で死刑囚の永山則夫氏、「連続企業爆破事件」の人達など有名人が多く座って居た。植垣氏は一九七二(昭和四十七)年に逮捕されて以来、約二十七年という途方もない歳月を獄中に過ごした。野村先生が「経団連事件」で、東京拘置所にいた昭和52(1977)年の時も、植垣さんは東京拘置所にいて、植垣さんと房が近く、何度も野村先生と「通声」(窓越しで会話をすること。当然違反行為である)していたという。ーこの項続くー