1月16日(木)曇り。
いやはや寒い一日だった。まあこの時期なのだから「寒い」のは当たり前か。
吉村昭の『ポーツマスの旗』を久しぶりに読み返している。日露戦争の講和の事実が書かれていて、改めて当時の日本が、まさに薄氷を踏む、という状況だったことが分かる。国民は、旅順の陥落、奉天戦の勝利、日本海海戦の大勝利に湧き、イケイケドンドンで、新聞には、ロシアのウラジオストックまで攻め入ろうなどと言う勇ましい論調が踊る。
日露戦争に動員された兵力は、108万8千996名、戦死46万423名、負傷約16万名。俘虜2000人。消費した軍費は、陸軍13億8千328円余、海軍2億3千993円余、その他を合計すると19億5千400円にも達していた。これは日露戦争前の国家予算の実に8倍である。 奉天戦で敗れたとはいえ、国力に差のあるロシアは、シベリア鉄道を使って、続々と陸軍部隊を増強しつつあった。それに反して日本軍は、人員と物量の差が表面化。しかし日本は、これを表ざたにすることはできず、政府と軍部は早い講和を望んでいたが、連戦の勝利により、国民はそんな現実を知る由もなく勝利に酔いしれていた。そして、多くの同胞の血が流された戦争において、ロシアから莫大な賠償金や領土の割譲が得られるものと期待していたのである。それが、当時の国民世論であった。
もしも政府が、満州戦線の日露両軍の戦力の差を公表すれば、国民の理解は得られ、どのような条件でも戦争の終結を望む声が主流となるに違いないが、そうなれば、ロシア側は日本の戦力が尽きたことを知り、全軍に総攻撃を命じて、戦争は長期化して、ますます不利になる。そのような状況の中で、全権大使となった小村寿太郎に、送別会の席で、元老の井上馨は涙ぐんで、「君は実に気の毒な境遇に立った。今まで得た名誉も地位も、すべて失うかもしれない」と述べ、また伊藤博文も、「君が帰国した時には、他人はどうであろうと私だけは必ず出迎えに行く」と語ったという。
ロシアとウクライナとの戦争も終焉のめどが立たないでいる。小村のような優秀な政治家がいて、一日も早く停戦、終戦にならないものか。夜は、かた焼きそばと煮カツとで酔狂亭にて独酌。