白雲去来

蜷川正大の日々是口実

様々な機関紙・誌をご恵送頂く。

2024-07-23 15:10:10 | 日記

7月22日(月)今日も猛暑。

暑い、暑いと言っても涼しくなる訳ではないのだが、つい挨拶のように口から出てしまう。朝食は食べずに、昼は、昨日たっぷり作った「牛筋」と大根の煮物に「湘南餃子」。夜は、鶏のもも焼、手羽先とジャガイモの煮物。ジャガイモは社友の砂川ファームからの頂き物。明太子。お供は「黒霧島」。酔狂亭にて独酌。

五日ぶりに事務所へ。真夏と真冬は事務所への足が遠のく。理由は冷暖房が家庭用の為に効きが悪いので仕事どころではない。暑中見舞いや機関誌・紙が随分と来ていた。超国家主義『民族の意志』同盟の機関紙『突撃』。日本国民党の機関紙『しんぶん国民』。前月号の特集「安定的皇位継承について考える」の村田春樹氏(非難覚悟で敢えて叫ぶ、旧宮家復活養子縁組に反対)、西村修平氏(日本再生は『男系絶対主義より大和魂の復活だ)、鈴木信行氏(男系継承で皇統は永遠に続く)という三氏の原稿はとても刺激的だった。良い意味で「炎上」するかと思ったら、意外に静かだった。読者層が民族派よりも一般の方たちが多いせいかもしれない。とにかく勉強になった。

古い同志でもある愛知の栗野成人さんが発行している『牛喘荘通信』の第240号。手書き、コピーの機関誌だが、弊社の『燃えよ祖国』の初期の頃を思い出し、その苦労を知っているだけに頭が下がる。維新政党・新風の機関紙『新風』の第312号。随分とお会いしていないが三浦小太郎さんが健筆を振るっている。他には、鈴木傾城氏の「日本国民党政策研究講演会」、「拡大する底辺から見た現代日本の危機」の案内状。一般財団法人『神風連資料館』の閉館のお知らせ。神風連研究家の第一人者の荒木精之先生の『神風連志士遺文集』を故毛呂清輝先生から頂いたのは、もう半世紀も前の事である。しかし閉館の挨拶は、残念なことである。『月刊TIMES』の5月、7月、8月号。勉強させて頂きます。

今日も、体が溶けるほどの猛暑。こんな暑さが何時まで続くのか。

 


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テロも民主主義の一つの表現方法である。

2024-07-22 10:33:36 | 日記

7月21日(日)今日も猛暑。

連日の猛暑。沖縄は35度で東京や横浜は36度だという。初めて知ったのだが東京の気温というのは、皇居の北の丸で測っているのだという。桜の開花は靖国神社で気温は皇居か。いかにも日本的でいい。午前中に、我が家の猫の額よりも狭い場所に生えている二本の木の枝払いを行った。二本とも雑木なのだが、枝を払っても、払っても翌年にはこれでもかというほどに葉が茂る。愚妻などは、「毎年面倒だから、思い切って根元からバッサリと切ってしまえ」。というのだが、こんな狭い所に縁あって生えているのだからに、まっ家族と思ってと、嫌々大事にしている。

この異常な暑さのせいで、一日中クーラーをつけっぱなしである。昨年は、夜は何とか扇風機でしのげる夜もあったが、今年は、扇風機だけではとても寝ていられない。我が家の稼ぎ頭の上の子が、「お父さん。熱中症で入院でもされたらお金がかかって大変だから、遠慮なくクーラーを使ってね」。日々、お言葉に甘えています。

トランプさんが狙撃され、危機一髪助かった。運の強い人だと思った。例によって「民主主義の敵だ」の大合唱。何言ってんの・・・。テロだって民主主義の一つの表現方法ではないか。テロリストを「悪」という表現で一括りして葬り去ろうとしても、そんなことは歴史が許さない。もしテロのすべてが悪で、社会の敵ならば、あの歴史書『史記』を書いた司馬遷が、わざわざ別項を設けて「刺客列伝」を書かなかったに違いあるまい。私は、アメリカは民主党よりも共和党の方が好きです。大体、民主党の大統領の時に、日本は余り良いことがない。原爆を落とした時の大統領も民主党ではなかったかい。

 


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宮島茂樹さんの出世作。

2024-07-20 17:50:29 | 日記

7月20日(土)晴れ、というか猛暑の日。

朝起きて産経新聞を読むのが楽しみである。まず最初に読むのが「朝晴れエッセー」である。文章の上手な方が多くて、勉強にもなる。先月に弊社の論説委員の林雄毅さんの文章が掲載され、家族一同で大喜び。今朝の新聞に6月の「朝晴れエッセー」の月刊賞が掲載されていた。私の予想通りの「ドクターイエローからの贈り物」が月刊賞だった。この文章を読んだときに、これは月刊賞どころか年間賞にも匹敵すると思っていた。選者は「惜別感とタイムリーさ」「胸に迫る情景」と評していた。

また、古い友人の不肖・宮嶋こと宮島茂樹さんが「話の肖像画」に登場している。日大の芸術学部の頃、写真週刊誌「FRIDAY」時代のことなど、私も知っているエピソードもあり毎朝楽しみにしている。宮嶋さんのデビュー作が愛国党の赤尾敏先生を撮った写真集『人間赤尾敏・愛国の貌』という写真集である。私は、何冊か持っていたが人にやったりして、今は事務所に一冊しか残っていない。ネットで検索してもほとんど出てこないので、是非共再販をして貰いたいものだ。昨年の11月に東京のギャラリーで開催されたのが「宮島茂樹作品展ー東京都硫黄島・北海道国後島」である。その写真店に盟友と共に行ってきた。平成5(1993)の夏に、野村先生のお供をして宮嶋さんたちとモロッコを旅したことが懐かしい。

午後、久しぶりに松原商店街に買い物に行った。車の社外温度は39度にもなっていた。じっとしていても汗が出る。沖縄よりも暑い今日のヨコハマだった。


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炎の警鐘事件から61年。

2024-07-18 16:43:55 | 日記

7月15日(月)海の日。晴れ。

今から61年前の今日、野村先生が同志と共に時の建設大臣、河野一郎の新築されたばかりの総ヒノキ造りの私邸を放火、全焼させた所謂「炎の警鐘事件」の日である。先生は、この事件により12年を獄中に過ごす。先生に聞いた話だが、横浜の拘置所から既決となり千葉刑務所に移送されたときに、三人の囚人と共に面接を受けたそうだ。その時、刑務官の一人が「一人短いのがいるな」と書類に目を通したそうだ。野村先生は、誰だろうと思ったら、刑務官が「野村、お前だよ」。後の二人は無期囚だった。改めてこの刑務所が長期刑務所であることを実感したそうだ。

事務所の資料を整理していたら貴重な冊子が出てきた。まず野村先生が、河野邸焼き討ち事件にて戦線に復帰した(昭和50年)直後に、先生の友人の末次正宏氏が主宰していた綋友会が発行した『人の一生は邂逅の一語に尽きる』という小冊子。奥付を見ると昭和50年10月1日の発行となっている。もう一冊は、自民党の稲葉修と蔵内修治の両氏が河野一郎建設大臣を擁護するために出した『河野建設大臣に関する怪文書を駁す』。興味深いのは、この冊子の奥付には、わざわざ「昭和38年7月16日(河野邸放火事件の翌日)」と書かれていて、河野陣営の狼狽ぶりが窺える。ちなみに河野一郎は河野太郎の祖父である。吉田茂と河野一郎の不仲は有名で、本当かどうかは分からないが、こんなエピソードが残っている。野村先生らの事件があった当日、三木武夫が大磯の吉田邸を訪ねた。余りにも吉田の機嫌が良く、終始にこにこしていた。三木がなぜ機嫌がよいのか聞いてみると、吉田は「君、知らんかい。今、河野の家が燃えているんだよ」と答えたそうだ。

 

 


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今日は巴里祭か。

2024-07-15 12:56:53 | 日記

7月14日(日)雨のち曇り。

夜は久しぶりに馴染みのイタ飯の「オアジ」へ。佐伯さん夫妻が私の快気祝いと言うことでご招待して頂いた。マスター―の三ちゃんの美味しい料理を堪能。まだ体力が完全ではないのか、ちょっと疲れて8時にお暇した。帰宅後に、ユーチューブで「帝銀事件」を見た。そういえば犯人とされた平沢貞道の弁護人は、野村先生とご縁のあった遠藤誠先生だったことを思い出した。

1789年の今日、政治犯が入れられていたバスチーユ監獄をパリの民衆が襲い、当時の国王ルイ16世の治世に反対していた民衆が決起した、いわゆる「フランス革命記念日」。通称「巴里祭」。この名称は、映画「7月14日祭」を日本で上映するときに「巴里祭」と訳したことから、この言葉が一般的になったとのこと。

パリには、もう32年前の平成4年の9月に野村先生のお供をして訪れたことがある。本当は、ローマ、シチリアの旅だったが、私が無理を言って旅の最後のコースにパリを入れて貰ったのだ。泊まったホテルは、映画「真昼の情事」の舞台になった「オテル・リッツ」。ダイアナさんが亡くなられた折に泊まっていたホテルとしても有名。

旅の記念にと、セーヌにかかる橋、「ポンヌフ」で先生のインタビュービデオを撮った。セーヌ下り、ベルサイユ宮殿、エッフェル塔、バスチーユ監獄・・・。シャンゼリゼに面したナイトクラブ、「リド」で見た素晴らしいショー。その帰りに、クラリネットとアコーディオンでパリの「流し」が演奏した「巴里の空の下」を聞いたことが忘れられない。時折、その曲を聞くと、その時のことが克明に蘇ってくる。そして今年のオリンピックは100年ぶりにパリにて開催される。※写真は、1992年9月、パリのオテル・リッツにて。私は41歳だった。


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