ウクライナへの、ロシアの侵略戦争後、エネルギー供給、食糧供給異変が、世界規模で起きていることから、
宮学食品栄養学科勤務中にも、関心があった日本の食糧需給に再び関心が。
気候変動の影響で、食糧供給体制にも影響が出てきているはず。
各国別、食糧自給率をネットサーフィンしていて、
以前イスラエルを訪問した時、”食糧自給率は高い”と誇らしげに話されていた記憶と違うデーターに遭遇。
イスラエル大使館の広報では、90%以上であると記載してある。
日本のカロリーベースの自給率は40%以下と年々減少傾向し続けてきた。生産額は、70%弱。
庭でかってに生えているものは、日々の食糧としてはと、春先から利用しているが、
味覚に耐えられ、多食できる旬の時期は短い。齋藤 淑子 | Facebook
捨てた皮から、ジャガイモ、長芋も、出ては来るが。
2021年 残すところ3日。
以前から引き続いて、変わらずのこと
以前から引き続いていても変わったこと
年なかばからはじめたこと
私はかわる。君も変わる。
時は進む。
変わらぬものはない。
変わりながら歩めばよい。
捨てるものなどない。
巡り合った日から、
未来永劫、あり続ければよい。
此岸での私を知る人が、今年も彼岸に渡っていった。
再読。
気候変動、食糧栽培の今後、日本の食糧事情が気になる。
断捨離は、念頭にはないが、暇な時間もでき、ほったらかしてきた家中をボチボチ整理し始め、埋もれていて本がでてきました。2008年11月初版本。題名に惹かれ、再読。
気候変動、食糧栽培の今後、日本の食糧事情が気になる。
動物の食と、植物の生態系の関係。
飢餓になれば、食べ始めるもの。
”常識外れの栄養学:食事については、なにか迷信のようなものがつきまといがちである。”などの記述も、なるほどそう考えるのですか、と特に反論もありませんでした。
”人間も食べるためにいきる。”の記述にも、そうですそうです、でしたが。
”生命の流れを絶やさないこと”の記述は、独身、古希を過ぎた私にはグサッとやいばがつきつけられ、生命の流れは、わが身では絶やした。臨床医として生きてきて、自身ではない、他人の生命を絶やさずに、次の生命誕生には寄与してきたという自負で、傷をいやしている。
令和2年度の同窓会誌が届いた。
入局(1977年)間もない、医局での出来事を思い出した。
”教授は、大名だ。配下は、一言もなく従わなければならない。
わかるか!あんた。” と、教授に言われた。
理解に苦しみ、座っていただけ。
その後の、血液班への、執拗な攻撃の渦中にさらされる前触れだった。
いまはなきわが恩師への研究依頼、潤沢な研究費を、わがものにとの画策の始まりとして、事情を知らない私を狙っての発言だった。
死を目前にして戦っている重症血液疾患患者と、恩師宇塚との、臨床、研究は、
教授といえども、命のかかった戦いさなかの血液グループの私には、くだらないとしかもえなかったし、また、毎日の診療、研究で睡眠もままならない生活の中では蹴散らすたわごとでしかなかった。
1980年前後は、今のような予約制でもなく、超重症患者が送り込まれてくることは度々で、其の度に部屋確保に、入院統括している先生に頼み込み、都合をつけてもらうことが度々あった。特に、印象的であったのは、空いていた重症個室に直入院となった患者に確保してくれた。”ゲル患“用の個室としてに、教授が狙いをつけて、入院統括医に交渉したら、既に重症患者が入る予定であるとことわったことから、”あんたみたいのがいるから、患者が入院できないんだ”、と外来で言われた、私は、”重症個室用の部屋に入院させるのに、文句言われる筋合いはない”と引き下がらず、双方のの知り合いになり、病棟から婦長(当時は、今は師長)が、外来に出向き、”先生、みっともないですから、個室は何とか確保するようにしますから”と、外来から連れ出したエピソードなど、思いだした。私は、患者の診療では、優先度は、重症患者の救命からという正義感に燃えて、意気盛んだった。その後も、教授に賛同した医師からのつるし上げなど、おもいではつきません。
恩師が退官し、同僚も博士号取得後、関連病院に赴任し、一人となり、手のかかる血液疾患は毛嫌いされていて、窮状をシンパシーのあった先生方がたの反対で、なんとか、部屋ごとの主治医制を維持していたのが、ついに、シンパシーの先生方も医局を離れ、主治医グループ制となり、沢山の血液患者を一人で持つことになり、骨髄移植を一人で乗り切れたのも看護師の協力あってのことで、感謝しかありません。
教授の鶴の一声が強力だった時代だったなとの感慨です。
看護師は、患者を優先させる、権力に迎合しない、という私の印象は終始一貫しています。
バレンタインデー。
アメリカのペンパルから、エアメールの封筒で送ること可能な小さなアクセサリーをプレゼントされ初めてその名を知ったのは60年前。
男性に思いを伝える手段としてのチョコレートを渡す❕何のことですか??
間もなく義理チョコが流行り、人気のバロメーター化した。
暫くして、ホワイトデーが出現。
そんなこといわれなくても、チョコレート返しをまめまめしくしていた男はいて、渋く好かれていたのです🎵
2011年3月12日に、宇塚先生は、ホワイトデーのお返しを準備していたことに、はたと思い至り、食料が枯渇していたので、2011年3月11日東日本大震災発生翌日。回線復旧直ぐに電話しました。岩崎本舗に。直ぐに注文してある角煮まんじゅうを発送して!と。
返答は、ご要望にお応えしたいのですか、出来ないのです。発送出来ないのです。
電気はまだ復旧していなかったので、自分達が置かれている状況が全く分かつていなかった。
それから、日々、入院患者への食材確保さらには、勤務していると
買い出しに行けないからと出勤拒否する職員、職員家族の分まで。バレンタインデーの最大の思い出は、ほろ苦い、滑稽なこと。
どうして中止するの?
目下、COVID-19は、世界に猛威を広げ、驀進中。
古代、オリンピック期間中は、戦闘を休止して開催されたという。
今回の戦いは、人とウィルス。
人の中で増殖して、人が排出したウィルスは、増殖する住処、すなわち、人、ある種の動物が接触してくれると入り込んで増殖し、生き続ける。
ウィルスの人乗っ取り作戦には、休止はない。だから、オリンピックは中止すべきなのか?
開催したっていいじゃないの、今は思っている。
昨今の、史上最大の参加国、参加選手は望むべきもないだろうが、
感染防御に勝利したアスリートが参加すればよいのでは。
別の、選別基準が加わった上での、従来の判定基準で、勝敗が決せられるだけではないのか。
参加できるまでの国、選手自身の努力が反映される。
中止の、負の面と開催のバランスを考えると、
開催に伴う、主催者の感染防止策ストレスは並大抵ではないが、
異次元世界に対する、勝利宣言は可能なように思う。
従来を基準にしない開催、汚染列島の開催を模索したって良くはないの。
12月15日から1週間ほど続いた雪。路面凍結!
コロナ禍の影響持続で、週末営業規模縮小のため、タクシー予約、呼び出しもできず(困った①)、自宅周辺の道は、乾燥していたので自転車で出かけたが、凍結道路で転倒!
右膝捻挫。やむを得ず徒歩で。足はつり、しかもいつもと違い、筋肉は、炎症腫脹。これ以上は腫れないというほど緊満。
その後、遅々として改善せず。
当てにしていた定期の石油配達が来ず、来週の配達日は祝日に気づく。さすが、再来週までは備蓄石油は枯渇する。車を持っていないので、石油缶を持参して買いに行けない(困った②)
今回は、大したことのない困った、些細に、困らなくても良い様な、すきま困ったで、じっくり考えると対応策があった。
雪の日のタクシー。バスは頼りにはなるが、バス停に到達する脚力がなくなったら?
頼りにされているわけではないと、開き直り、休む連絡をする(決断できるだろうか?)。怪我をするよりましだろう。
東北大学第三内科、仙台血液疾患センター、冨田病院、葵会仙台病院と続けてきた診療が、打ち切り通達があった2019年年末。
血液疾患は、専門性が高く、重症化しやすい為もあり、東北大学時代、医師による敬遠、忌避が見に染みていたので、診療中の患者が、他の医療機関を受診した際の、取り扱われ方に思いを巡らすと、患者を引き連れた移動先を見つけなければと決意し、奔走した。
年始から2週後、いみじくも、有り難く、佐藤病院で引き受けていただき、
勤務は、外来、月曜午後と、偶数週の土曜日だけなのですが、
入院が必要となったとき、院長先生が快く引き受けてくださるのです。
高齢で、合併症が起きるであろう患者一人と、
毎月輸血が必要な、遠方から受診する患者については、
経過が長く、高齢でもあり、引受先で敬遠されるだろうなと思われて、必死になって患者引き連れ移動先の病院探しの原動力となりました。
10月28日、繰り返した誤嚥性肺炎で永眠。当日は、勤務日ではなく、立ち会えませんでした。意識鮮明だった前々日、前日、コロナ禍だったけど、手を握りあいました(最晩年、盲目となった宇塚先生は、魔法の手で患者の状態を確認していたのを思い出しながら)。たらいまわしされることなく、入院できて最期を迎えられて安堵しましたが、開院以来20年間、毎週受診しては、雑談を交わしていたので寂しい
マスクで、メガネが曇り、路肩の高まりに気づかず、自転車で転倒、左膝蓋骨骨折、12月には、雪の影響でタクシーも来てくれず、道路の凍結もなくなったかと思い、自転車をこいでいたら、部分凍結路面で転送し、右膝捻挫。学生時代からり患している膠原病関連の障害が残っているところに追い打ちをかける傷害で、やっと正座ができるようになってきたのに、また振り出しに戻ってしまいました。自分の足で、歩行できるだけましではありますが。
臨床医として、追いまくられていたころとは、打って変わって、日中も自由時間があるのに、年末になりやっと慣れてきました。まとめる臨床データーもなくなりましたので、自由時間の有効活用を考えながら、年末を過ごし、年明けを迎えようと思っています。
冬季に流行する呼吸器感染症の原因として、従来からコロナがありました。
新型コロナの感染は、暖かくなるまでは、消褪するとは考えられません。
基本的な感染防御策をとってり患しませんように。
タンパク質豊富な食事、適度な運動、過不足ない睡眠。
人と対面時には、発症はしていないけど、感染者かもしれないと、基本的な感染防御策をとってり患し無いようにお過ごしください。
COVID-19
2019年に始まり、先行きが見えないまま、2021年越年する勢いの、第3波。
2020年春から始まった経済活動の停滞、人的交流遮断対策は、一時的成果のみだったから、11月末の急増となっている。
感染情報以外の、社会的”合併症”である、自殺、DV、認知症の増加、悪化の分析の大規模データーの報告が欲しい。
感染者、発症者のデーターも、基準がなく、数字の羅列だけのような気がする。
検査数と感染者、発症者の割合(時々は報告されているが)。
未発症陽性者の年齢構成など。
データー管理システムの公表体制が、国レベルで整っていないのでしょうね。
今は昔の、年金データーの多くがないことにしてしまった国のデーターに対する向き合い方を彷彿とさせる。
マイナンバーカードを医療情報を共有する手段として検討しているようだ。
問題になっているのが、病名。
健康保険システムは、認可されている適応病名に合致しなければ支払われない。というわけで、沢山の病名がある。
悪性疾患の場合は、病名告知がなされていない場合がある。
悪性疾患といえども、治療するのは患者本人。原則、患者自身に説明告知。
しかし、健康と思い過してきて、余命いくばくもない段階で、診断確定されたとき、真実を告げるか?
ありのままに?
真実は劇薬、嘘は妙薬。
今後かかわりを持つかもしれない研究所の事務長が死亡し、
その事務長は、両親が死亡し、一人っ子で、死後の連絡先も不明で、いかなるものかと研究所長が思案に暮れている、との話を友人から聞き、
雇用主の研究所長が、事務的に、死亡手続きをするしかないではないのと話した。
連絡先不明で死んだ場合、周囲は、あたふた、どうするかと悩むらしい。
臨床医として、死亡診断書を書く前、その後について、今回、考えるきっかけとなった。
戸籍は、出生証明書を届ければ、その後、生きていれば、区切りの年に、行政が施行する行事を連絡するシステムがある。
死亡証明書を、行政に届けた後は、戸籍消滅、そのほかの、若干の手続きが必要とさえている。
遺体、火葬後の骨の扱いについては、埋葬許可書が交付されるが、場所の明記はないはず。
わが身を振り返ると、独居である。両親は他界して、菩提寺に埋葬した。独身の兄が、遠方に独居している。兄が他界した場合などを踏まえ、死も含めて、私が、意思の疎通ができない状態に落ちいったとき、
菩提寺の連絡先を明記したのは、たぶん調べるだろう金銭関係の中に一緒にしているが、このことは、周囲に迷惑が掛からないようにという配慮のため。
死ぬまで生きる。
死に急ぎはしない。
生に執着はない。
遺体はどうされてもよい。
仏教徒なので、仏教界の六道のどこかにはいけるでしょう。極楽浄土でなくてもよいが、
地獄でも、どうやら、いずれは、仏様によって救い出してくださるらしいので。
終生、愛するものたちと一緒にいたい。
のに、息を引き取る傍らにいること、かなわなかったとき
死の悲しみに加え、一層の悲嘆が加わる。
今年は、コロナ禍で、大雨、天災で。
両親、恩師の最後の床で、死を宣告するために傍らにたたずんでいた。
初めて、拾ってきた猫で、誰にもなついた人気者のだったが、
私には、じゃれあい、かくれんぼをしたり、
空いている場所があるのを知っていながら、
お家に入れないと鳴いたり、
誰よりも一番となついていた。
持病の慢性感染症が徐々に悪化し、
元気がなくなり、回復を願って入院させた。
で、死に目に会えなかった。
仕事で、朝の、出かけられず、
電話で死んだことを知った。
最後を共にいられなかった。
亡骸は、胸に抱いたが、
十数年経っても、癒されない思いが続いている。
女性の4人に1人が70歳以上の高齢者との報道。
自分も高齢者だと再確認。
今日一日、友白髪で、仲良く高齢のご夫婦を沢山拝見。
心からおめでとうございます。
努力の甲斐があり、長年のトラウマの残像のフラッシュバックが無くなり、
独身、独居の身で、今年は、長年連れ添ったご夫婦をうらやましいことと!といえるようになりました。
”死”までの時間が減る一方を実感する身体機能と日々折り合いをつけながら、
過ぎ去った日々を思い返し、かと言って後悔することもなく、
結構充実、楽しい日を過ごしてきたなと思えるようになったからでしょうか。
幼き日、若い日を知る人も、一人二人と彼岸に旅立ち、身近に頼る人もなく、
独身独居、死亡後の手続きを滞りなくするには如何が、最大懸念事項。
恋われて婚約したものの、婚約破棄を数年後に申し出て。
父は、【気が変わらなければ大学卒業後に結婚を】で、
その日が近づいた卒業目前のある日、恐怖の映像と足手まといの、言葉は残り、ほかの記憶は喪失し、
それから、数年後、依然として婚約はそのままという事実を知人からなじられ、
慌てて、またまた父に、結納返却を相手の家にしていほしいと願い出て、
慢性疾患罹患の娘、相手方とは相性が良くないと当初から懸念していた両親は、
理由を聞くこともなく、諸事を滞りなく婚約破棄、結納返却を、無事終わらせた旨を言ってくれた時、
どのような気持だったのだろう。
宇塚先生の下、仙台血液疾患センターで、最期の日々を安心して過ごしただろうと思えることぐらいで、
来世こそは、長く近くで過ごしたいなと、老親を頼り、子として為すべきこと少なかったなとの
敬老の日の述懐です。
法華経を今読んでいると、友人に話したら、