むかし、むかし、栓抜き代わりに、前歯を使って、ひびが入り、
手入れも悪く、虫歯になり、
ついに、抜かざるを得ません!宣告後、
あっという間に抜歯。
その後、たった一本なのに、喪失感は半端じゃないし、
周辺の歯への負担、半端じゃない。
失いて 来し有様を 省みて 戻らざるもの 深く刻みし
歯といえど 咀嚼以外に 質感も 形さえおも 感じているとは
無い歯の部分、あるのに、形が抜けて感じるのには、驚いた。
同種骨髄移植後の生着は、ほぼ100%と実感している。
生着後の疾病罹患発生と移植の関係になると、
20年以上経過して、脳血栓症発症、
数年後に白質脳症が発症。移植後33年。
今年、薬師寺の修二会で授与していただけるお守りを御送り、いただいた後に、母親からお礼を兼ねた近況報告の電話で、
白質脳症と診断されたと。1987年当時、中枢神経白血病は、難治で照射、MTX髄注を施行し、
なんとか同種骨髄移植にこぎつけ、生着、社会復帰、公務員として働き続けていたのだが!
移植時は、若かった親、
今また老いた親の介護を必要となって。
宇塚先生の葬儀の時、私に向かって、『長生きしてください。私たちが死んだとき、先生が頼りですからと』
言われてから、まだ7年なのに、
『あれから、一緒に30年以上も生きてこれましたから』と。私が慰められた。
治癒した患者の、その後、
『僕のほうが若いから、先生より長生きするな!』と、小憎らしいことを言ってくれ患者の長期予後に、
元気でいてくれと願っているのだが、
難治、治療に困窮した患者の予後は、
一病息災というより
弱り目に祟り目と、多重疾患のことが多い。
だが、精神力は、次第に強くなっていくのが、救いだが。
感染対策に精通していなければいけない、急性白血病を専門分野とてきた血液の指導医です。
入院中、患者、家族を含めた精神状況の配慮をしながら医療を進めてきました。
現在の、コロナ対策の結果としての社会の閉塞、経済萎縮のあおりをもろに受けて、生活がひっ迫している人が、日々排出されている現状に対して、
それぞれの分野の医師は、現対策を肯定しているのでしょうか?
自殺者の増加。
DVの増加、家庭崩壊も起きている。
休業、廃業も増え続けている。
コロナ感染は毎年冬季には流行してきた。
インフルエンザも毎年冬には流行してきた。
そのうえでの、ゴールデンウィーク(政府の5月1日公表の制限)の、
お盆期間(政府の8月1日、8月5日公表の宣言)の、
制限は、短期的に感染制圧可能と思って発令されたのだろうか?
制限は、人の心、経済をも鑑みて発令されたのだろうか?
新型コロナ感染者、重症者、死者を鑑みても、
自殺者の増加、認知症の進行、失業、廃業の現在の事態に対して、
政府の些細な支援が、責任行動といえるだろうか?
感染症専門家は、社会を熟知して、今回の制限への主導を担ったのか?
感染のみの近視眼的視野に立っての提言ではなかったのか?
新型コロナは、制圧できていない。
2020年5月、8月の制限がなければ、2020年末からの、自粛要請に応える、民意力はもっと、もっと大きかったのではないだろうか?
2021年1月の自粛要請は、やむを得ないかとは思えども、
日々、感染者、重症者、死者は、日々更新を重ね、
暖かい春になって、やっと消退するのではないか。
専門家は、コロナ感染以外で、命を失った人、健康障害に到った人に、責任を感じるのだろうか?
福島原発を招いた、原子力専門家の、経済優先だった後悔しない人たちが浮かんだ。
新型コロナウィルス感染陽性確認者が連日過去最高という報道が続いている。
予想できたことではないのか?
冬季になると、上気道感染症が急増する。
3割程度は、コロナウィルスによると推定されていた。特別な対策もないことから、病原確認をしないのが常識化していた。
新型コロナといえども、コロナウィルス。変異といえども、本来の性格を失うとは想定していなかったはず。
自粛要請で、根絶できると思ったのか?
感染症の根絶は、無理と専門家は表明していた。
感染は、再興の時まで鳴りを潜め、生を全うするために、時を待つ。
春から夏の、自粛は無駄だったのでは?
夏は、お盆時期、経済活動の制限措置押せず、
冬季に集中的、強力規制方針を計画はなかったのか?
場当たり的、行政対応に見える。
支援対策としての放出金、将来にわたる、未来へのつけ。
覆水盆に戻らず。
過去最多更新の報道。
さらに寒くなりながら、時は刻々と過ぎてゆく。
視界不良で、僅かな段差にこすり、自転車ごと弾き飛ばされた。車道側でなく、歩道側で、しかも通行人は通り過ぎていたので、自分だけの怪我で済んだ4月23日。
用事があるところまでは、痛いながらも自転車を漕いで到着。
しばし、膝をさすり、屈曲などをしたが、
歩くと痛いので、用事もそこそこに、コーヒーをいただいて、
自転車を置き、車で自宅まで送ってもらった。
当日は、左ひざはパンパンに腫れあがり、冷却し、翌日には腫れは少しは軽くなるかと様子見。
翌朝、ご夫妻で、置きっぱなしの自転車をワゴン車に積んで持ってきてくれ、
たびたび、けがを経験している、豪胆な奥様が、整形外科に行かなければ駄目。その後の経過、行動にかかわるからとの強い勧めで、自宅から最も近い整形外科を受診。
レントゲン写真で、膝蓋骨骨折。
直後、たいして痛くもなかったので、屈曲したせいもあったのか、ひびが入っているだけではなく、一目瞭然、明らかな隙間!
痛いのは、パンパンに腫れた、内出血の緊満によるだけと高をくくっていたが、骨折していた。
高が、膝蓋骨の骨折なのに、午後になり、39度まで発熱。侮ることなかれでした。
翌朝には、痛みはあれど解熱。
左足のみの限定的な、不自由なので、自己のペースで移動可能。
25日に、松葉杖をついて、出勤したが、病院の規則で、就業拒否。なれない病院に初受診の血液患者に不安を与えてしまった、不明を恥じる仕儀となってしまった。
自宅の生活は、しみじみと一人暮らしでよかった!と、思った次第。
27日は、解熱持続で、タクシー、松葉杖を使い出勤し、就業許可。
膝が曲げられない不自由さは、車の乗降、障害部位の足を床から離し続けなければならない、非日常的筋肉部位の使用などなど。
当初は、膝の痛みで気にならなかったのですが、
膝関節内出血が、下に降り、皮膚も紫色、緊満で微妙な痛さ。
足背も、腫脹。膝から血液?ではないようで、踝付近が、持続的な痛みで、
内出血は、下腿とは離れており、左足首もひねっていたのだとの思いを巡らせるようになったのは、2週間も経過してから。
痛みは、種類があるし、程度差もあり、軽いところは、損傷していると気づかず、
炎症の主戦場の膝のみかと思っていたのだった。
末端よりは、躯幹に近い膝が軽快し、
出血腫脹以外にねじりの痛みは、膝にもあるようで、左踝付近と同様な、動きによりキーットした痛みに2~3日前から気づきました。
今回は、学生時代に発病した、いまだに病名がついていない膠原病関連の全身疼痛からは、些細な痛み。
くしゃみをしても響かないし、
身障者仕様の家には、助けられています。トイレ、バスタブ。
特に、ふろ場は、段差はわずか、てすりはもちろん、足は延ばせ、バスタブ内にも手すりがあります。
学生時代から経験してきた、正常ではない身体状況に対する世間の視線に対する経験値。
年齢相応の、社会に対応可能な知恵とたくましさ。
親身になってくれる両親、恩師ともすでに他界していることでの、唯一頼るのは自分。
他人の厚意は、ありがたく、かと言って期待するものではないという経験。
身体に関する知識を、最大限活用。
痛みが軽減してから、骨形成を促す運動。
創傷治癒に必要な食事成分の摂取。 心がけています。
年齢は、70歳を超え、代謝の低下は、認識しつつも、
カーブスでの、計測では、30代の筋力との数値を信じて早めの回復を期待したり。
歩くことを意識しなければいけない毎日で、左右交互に踏み出せないと、歩行速度は三分の一。
背中の負担。
ギプスを外して歩く時の、違和感。たった2週間経過で、足底の連動運動は失われている。
身体の調和とは!
高が、種子骨である膝蓋骨ではありますが、
小さな骨の骨折は、身体全体にかかわっています。
2019年7月9日ハンセン病家族に対する差別を認めた熊本訴訟に対する、政府が控訴を断念し、7月12日安部首相が反省と謝罪を表明。
国民一人一人が持つ差別と偏見を生み出した、自身の在り方を考えなければならないが、法律として、策定していった事実も、深く検証反省しなければ。https://www.mhlw.go.jp/houdou/2003/01/h0131-5/histry.html
感染症の専門家は、頼病=ハンセン病は、感染力は強くないし、1943年には、治療薬が見つかったという事実にいち早く反応しなければならなかったと思う。差別の継続は、不治の病ではないと訴えた医師がいたにもかかわらず、学会は当時認めなかった。新しい情報について、自分が第一情報取得者でなかった場合に無視する学会の権威者は、多かったのかもしれません。
明確に、医療情報として報告されていたにも関わらずです。
医療者の一員として、感染症に対しては、
優先すべきは、感染の蔓延を防ぐ。隔離となります。
発症原因菌を特定し、
治療薬を見つけ出す。治療を施す。
感染症は、外来物ですので、良性、根治可能なので、
後遺症を残さないために、早期発見、早期治療をする。
ハンセン病は、頼病として、古くから隔離対象となった病気でした。
感染することで恐れられてはいたが、でもそれほどの感染力ともおもわれていなかったのではないでしょうか?
映画、ベンハーにも出ています。キリストが示す奇跡の対象としての疾患。頼病。
日本では、放浪頼として、古来認められていたようですが、
1907年(明治40年)外国からの要請で、”頼予防に関する件”として、療養所に入所させるようにし、その結果偏見が生み出された;政策の結果の偏見が始まる。
1929年(昭和4年)らい県運動”が全国で推進。
1931年(昭和6年)”頼予防法”の成立。 強制隔離ができるようになった。
1948年(昭和23年)には優生保護法にハンセン病が、対象疾患として明文化され、強制不妊手術も実施。
この法律に先立つ、1943年には、アメリカ合衆国の療養所あら有効薬が報告され、
日本人の医師小笠原は、ハンセン病は不治の病ではないと、優生保護法に明文化されることを小笠原医師は反対したが、学会ではうけいれられず受け入れられず、成立。(ここで、医療者は、医療の権威者は、法律の制定による差別、偏見という人権侵害に加担したという反省を強く持ってほしいと願うのです。炭疽病研究に従事した、高名な学者の多くが、戦後日本の感染症研究を土台にした多くの高等教育機関、研究所に君臨し、寿命を全うしたという事実がある。)
1953年(昭和28年)には、らい予防法が成立。
そして、治癒可能、感染力が低い疾患でもあるのに偏見差別を生み出し、
やっと、1996年(平成8年)に、”らい予防法は廃止。
1873年(明治6年)には、ノルウェーの、アルマウェル・ハンセンにより、らい菌が特定。
らい菌感染による発病、ハンセン病と呼ばれる。
1943年(昭和18年)アメリカ合衆国んカービル・ハンセン病療養所で”プロミン”の治療効果が報告された。
以後、新薬が開発され、不治の病ではなくなった。
70年以上も前の、1948年に、1943年の治療薬発見の情報が反映されていたならば、
国民の意識は!!!!!!
人の脳についての、”定説”が覆され始めている。
脳頭蓋骨は、20歳ごろまでは大きくなるとの計測結果が示されている。
20歳ごろの脳重量は、1300g前後に。
脳の神経細胞の数は、大脳皮質で100億とも180億とばらついているし、
小脳の細胞の数は、1000億ともいわれて、脳全体としての神経細胞数は不明。
神経細胞は、誕生から死ぬまで分裂増殖しないのが定説になっていたが、そうではないという研究結果も示され始めている。
加齢とともに脳は萎縮すると言われるが、
脳の細胞、神経細胞も細胞。
細胞は、タンパク質、脂質を主成分としていて、傷ついた修復可能な細胞成分は修繕して細胞を維持しているはず。
脳がエネルギー源としているのは糖。
細胞が、生き生きとして、死なないための酸素供給は必須条件だろう。
脳の血管が動脈硬化で、細くなっていてはだめ。
脳の神経細胞も、日々新しくつくられているということの報告があるようになり、年を取ったからと言っても、減るだけではない!
細胞が、新しくつくられる最低条件を、日々満たす生活があってこそ。
意思表示可能、行動力を保持している高齢者の新規入院患者を受け持つこととなり、
入院当日から数日間の間に、看護サイド側から、患者の徘徊などに対応するよう要請された。
看護日誌の記載を読み、高齢者の適応力の低下に対する不寛容。
看護サイドの”命令”に従順に従えない認知能力の低下患者に対する管理者意識がプンプン。
医師に対する、”面倒を起こす患者に対応しているのを、先生は知らないでしょう!”という、看護師サイドの不満のぶっつけ。
患者が思い通りにならない要求を訴え続けているのをしばし聞きながら、看護師に患者がどう変わってほしいのかを聴いているうちに、
双方とも納まる。カタルシスにより解決。
病棟により、患者の不穏行動に対する看護師の騒ぐ頻度の違いは、
看護師の年齢構成の差によるようで!
高齢者の転院時の不安に対する不穏行動に対して寛容を要求したいけれど、
看護、介護の経験不足は、看護サイドの不安増強となり、管理意識ぷんぷんの発現となるのでしょうね。
大腸検査を受けました。
数日前からの、食事内容の注意があり、
食物繊維を含むもの、脂質が豊富なもの、青魚、果実、固形成分含有のジュース、ミルクを避けるようにとの指示。
食べられるものは、炭水化物、豆腐(納豆は禁)、卵など。
麺類は、そばはダメで、うどんは可。しかし、ネギ、のりだめ!
前日に、ラキソベロン一本内服。甘く読みやすい!
おなかの蠕動亢進し、ゴロゴロしだしたのは夜中。朝には収まった次第。
検査当日。検査は昼近くの予約でした。
当日内服の経口腸管洗浄薬を、自宅のしますか、それともクリニックでしますかと問われ、当初は自宅と思ったのですが、さらに説明してくださった看護師の一言と、下痢便の場面がよぎり、
早朝にクリニックでの内服として、検査当日を迎えました。
2Lのニフレック。
検査時間から逆算して9時半までに1L、10時半までに全量飲水との指示。
炭酸レモン水風味で飲みにくくはありませんが、通常では2Lは飲みたくありません。
10時前に2L飲み干しました。
10時半前に、排便兆候がないと浣腸予備軍となるようですが、めでたく下痢開始!
食物残さ、微量時に、看護師に連絡し、視確認を受けることの指示がありましたが、
2回目以降は、水様便の勢いが激しく、連絡を取り、確認というレベルを超えました。
裏急後重:tenesumusとはこのような状態かと納得。
なんとか、穏やかになり看護師に確認してもらうや否や、またまたという感覚。
便のイメージが変わりました。
色は、尿より薄く、わずかに黄色味を帯びた、全くの水。
蠕動亢進、腹痛などはまったくなく、わずかな感覚があるので、慌ててトイレに。
その間隔は、ずっとトイレに蟄居するほどではなく、かといって場を離れるにはという微妙な間合いで襲ってきました。
事前の支度は不要で済んだことに、感覚はまだまだ大丈夫と一安心。
腸管洗浄液の威力はエクセレント!洗浄です。最終的には、ほぼ無色に近い便となりました。
いざ検査開始。大腸内視鏡は、ベテラン医師であったので、空気注入時には若干の腹満感のみで、短時間で空気は移動するので疼痛は字ぞすることなく、また、内部はテレビで映し出されるので、確認しながら。
同僚だったこともあり、世間話から、所見に対する応答をしたりで、終了。
検査は、楽。しかし、下剤、腸管洗浄剤には、身体ダーメージ受けたり。
頸のある、発赤の在るポリープは切除必用とのことで、
ポリペクトミーの日程調整!
(想定外だったので、新学期前には済ませられないかもしれない。
採点終了前に、検査予定開始としておけばよかったものをと、内心忸怩たる思いでいます。
この時点でも、粘膜下浸潤、外科切除、入院という道筋を描いていません。
どうなりますやら)
一昨年、便潜血陽性で、大腸検査陽性で、2次予防のための受診を勧められていたが、
多忙、排便時の出血もなど屁理屈をつけて、時間が過ぎて行き、次年度は陰性。
2017年度の健診、便潜血陽性通知のうえさらに、紹介状まで同封されていた!
二次予防のための受診で、所見ありとなるとさらなる日数が必要となる。
補講などの措置不要となってから、退職後に受診しようと、内心での計画は反故。
添付された紹介状の重みを受け入れての、二次予防のための受診、講義の無い春休み中を決意。
期末試験、採点、成績不良者への対応で、2月も半ばを過ぎてからとなり、
三次予防が必要と判明し、日程のやりくりで目下思案中。早く始めていればと後悔しきり。)
腸管洗浄を伴う検査を、大腸がん予防のために何歳まで受けようか?75歳までは、勧告に従って受けようかな?
それ以後は、癌に進展するまでの時間を考えて、体力も考えて辞めようかな!