連・断・続の部屋  

捨てる過去など何もなく、日々の社会との繫がり、自己の活性化、整理のためにつぶやく。

長崎角煮まんじゅう余話;東日本大震災の記憶へ

2013-03-13 21:38:01 | 東日本大震災

院長宇塚善郎先生のホワイトデーは、長崎角煮まんじゅう(岩崎本舗)を返すのが恒例

2011年3月11日、あの大地震後

食糧供給を途絶を深く実感し、

家族の食料を求めて騒然としている看護婦を目の当たりにして

ホワイトデーに、角煮まんじゅうを予約してあるのを突然思い出し

岩崎本舗に13日電話をした。

岩崎本舗の方 「品物はご用意できるのですが、発送を止められているのでございます。」

当方は 「??、待ち焦がれているのです。」

岩崎本舗「東北方面への商品発送は、制限されているのです。」

当方は「ハー?」。タンパク供給源にと、藁をもすがるつもりでの電話、

正確な期日達成の宅急便配達は機能していない! 

そういう事態を受け入れなければならない状況におかれていることを実感し始め、

きわめて速い電気の復旧で14日昼ごろには、テレビがみられるようになり

被害の実態を認識し、

南部道路の異様な静けさと、

荒浜方面の爆発音は、地震後の火災発生であるのを悟り始めた

2011年3月11日東日本大震災発生後、

家族総動員で、患者、職員のために食糧確保に駆け回った。

ホワイトデーを迎える前の長崎角煮まんじゅうの記憶

今年は、予定通りの到着


2013年3月11日;東日本大震災から2年

2013-03-11 13:36:29 | 東日本大震災

あと、1時間ほどで、14時46分、地震を感じ始めた刻を迎える。

なかなか揺れは収まらず、どこから発生したかわからないほこりに視界が遮られ、外はどうなっているんだろうと安全確保のために、潜り込んだ診察室の机の下で考えた。

たまたま診察していた患者は1級建築士で、構造強度を目算し、安全安全と立位を保持していた。ほこりが発生しているので、首をかしげていた。

津波にさらわれた大地は、更地のまま。

住民は、流民と言ってもいい状態を続けざるをえない被災者が沢山いる。

損傷を受けた建物は、徐々に修復されているが、まだまだ。

被災後の、やるせなさは深く心に刻み込まれている。

宮城県の農民は、復興へ弛まざる努力を行うことが出来る。

福島県の、警戒区域、汚染地域の農民は、やることが無い。生き甲斐が無い。考えると木が変になってくるという。

家族の安否を確認出来ない不明者の家族は、鬱になってしまったと嘆くが、

突然の生活の喪失、家族の喪失に、耐えるのに、定型など無い。

泣き続けたあとの、憮然、高笑いさえも、心を支える努力のなっせるわざ。

当事者は、時間の流れの中で、

もとには戻らないことを悟り、

心穏やかになる環境の変化と、刻に身をゆだねている。


3.11 の後始末

2012-12-31 17:08:23 | 東日本大震災

2011年3月11日以後も、時間は規則正しく過ぎている。

自宅は、寝食の場を確保後は、

復旧に向けての努力、整理整頓は、膨大な仕事量の前に断念していた。

震災後の痛手が続き、病棟を秋に閉鎖したので、年末の休暇が取れたので、

一念発起し、片づけをした。

1978年6月12日の宮城県沖の経験から、家具がない我が家は、本のみが散乱。

戻すべき、本箱が押しつぶされ、棚に残ったも押しつぶされ歪み、取り出すのが困難で

今回は上から順番にとりだし、最下段は、床に押しとどめられ、現状を維持していたことが判明。Cimg0003 

本の整理、取り出し可能にして、投稿途中で断念していたデーターの再投稿が、研究職の復興の第一歩の踏み出しと位置づけて29日から延々とやり続け、必要な論文は、取り寄せで対応可能なので、古い雑誌は廃棄(多大な消耗エネルギーを費やしました)。

廃棄により、使用可能な本箱に散乱していた本を収納できました。

思いもかけない、失くしものがみつかりました。

Cimg0008

片方になっていた母の手編みの靴が埋もれていたのでした。

大学入学時に、母からお供にと一緒に仙台に来た喜久ちゃん。

いつか、暇になったら新調してあげると約束しているのに、いまだに母の手編みの衣類と、

学会で外国に行った時のお土産の飛行場で購入した衣類のみ。

ブカブカ衣装ばかりを着せているうちに、44年間も経って、少しお年をめされました。

靴が出てきてよかった。

2011.3.11 午後2時46分からは、ライフラインの窮乏を経験し、

失ったものを求めても、元に戻そうとしても、元には戻れないことを目の当たりにし、

”変わらないことの豊かさ” を噛みしめながら

毎日を生き延びれたことにほっとしながらも、社会の一員として、自分以外への貢献はできるうちにすると心掛けていても、亡き母が編んだ喜久ちゃんの靴が戻ってきたことにうれしく、

来年2013年は、穏やかな年であることを祈りながら

2012年が、過ぎていくことに感謝して大つごもりの時間を過ごしています。


塩害からの復興新米

2012-10-14 21:55:08 | 東日本大震災

2011年3月11日、暗闇に流れた、耳を疑いにわかには信じられなかった津波で奪い去られ、塩害が残った仙台市若林区の新米です。

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東部道路より海岸よりは、作付出来ず、内陸部での実りです。場所により、収穫高は様々、大変だった!と言いながら届けてくれました。おいしく、ありがたく、しみじみとかみしめて味わいました。昨年は、田畑はすべて流されてしまったので、知りあいから分けてもらったといって、新米を届けてくれました。治癒した患者からの、元気でやっているよという味の便りです。慰められ、やる気を起こさせられます。

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大震災後の家の復旧、挫折

2012-07-24 18:05:20 | 東日本大震災

2011年3月11日、4月7日の大地震で、自宅の本は散乱し、足の踏み場がありませんでした。スペースを確保するために隅に寄せたまま、

1年以上が経ってしまいました。

仙台血液疾患センターの震災後の種々の対応も、

待機のみの段階に入り、

大学もまもなく夏期休暇に入るので、我が部屋の片付けに思いがいたり、段取りのためにじっくり眺めました。

くくり付けの本棚の、中央部が大きくずれていました。

下に18cm落下、2012072213310000

前に8cm「せりだし

2012072213290000

改めてほかの棚をみて

まともなのは、2012072417470000南側の棚だけで他も

程度の差はあれど下がっているので、かなりの大仕事になりそうと気が付き、戦意喪失。

2012072417480000_3

スチールの本箱も、2012072213320000よたれたままで戻りませんし、生活に不自由はないので、このまま、現状維持にしておこうかな。


金環日食と網膜症 そして恩師の目

2012-05-21 08:43:46 | 東日本大震災

6時35分に西側の一部が欠け始めたのを、通勤途中の田んぼの水面で確認した。バス乗り遅れないために速足で通り過ぎた。

宮学のキャンパスでは、観測している群団から安全なメガネを貸していただいて観察。

先人たちはいかにして観察したのか?

メディアは、繰り返し網膜症に注意を呼び掛けていた。繰り返し、2秒に達する凝視は危険と。

医療用の光を要する観察、顕微鏡、内視鏡観察では網膜障害による失明が起きている。

恩師、宇塚善郎先生も、単眼時代の顕微鏡観察で昭和50年代には右目は失明。

先生の目を凝視すると網膜が焼けたのがわかる。

そして、左目も徐々に光を失っている。

両眼で観察可能な時代でも、血液を専攻し診断手技としての顕鏡は欠かせない。

1時間観察を続けた後は、私の目は、調節力が落ち、いつまでも痛く、しみる。

恩師が大学の退官後、休日は、数時間の顕鏡でさらに急激に視力が落ちた。

かって、"self renewal" を確認する幹細胞実験を連日連夜行っていた。

学会、博士号提出のために結果を出すときには、宇塚先生も必ず顕鏡した。

弟子の私たちはすぐgive upするのだが、

恩師は数時間どころか、ときに10時間に及ぶ日もあった。

結果を出す期限が迫れば迫るほど長時間に及んだ。

そのとき”光を失ったら、目の代わりとなって”と言われたことがあった。

弱音をはかない恩師の、目の叫びだったんだと、今思う。

ほとんど視力を失いかけていることに、

くりごとも、絶望もなく日々淡々と過ごされている。


去年も桜は咲いたのかな?

2012-04-23 16:47:38 | 東日本大震災

街は桜ではなやいでいます。

2011年の今頃の記憶に、桜は出てきません。

強い余震に悩まされ、

食品は肉、魚も手に入るようになってきた頃で、

給食も揚げ物を”意を奮って”再開したばかり。

検査試薬の在庫がいつ途切れるかハラハラしながら、検査の制限が続いていました。

今朝は、通勤の唯一のバスが目の前を通り過ぎていったので、

徒歩で地下鉄富沢駅に向かいました。

20120423070100001

笊川沿いの桜並木を歩きながらの1枚です。写っている車両に乗車しました。

帰宅途中に建物の解体を目にしました。

被災地の処理が一段落したので、街にも、資材、人手が回ってきたからです


震災がれき

2012-04-07 11:54:44 | 東日本大震災

震災がれき処理について、地元はせっせと取り組んでいる。

新しい処分場を建設して稼働している。

しかし、あまりに膨大なのだ!

名古屋市長の、地元で処分するべきだ。

もっともらしい理由をくっつけている。

危険性を含んだ、厄介者は拒否!!ただそれだけだろう。

日本国民の絆の底の浅さを露呈した一事例にすぎない。

南三陸町は64.5万トン、安定した生活時の110年分というし、

仙台市は135万トンと推計されている。

仮置き場に運び込まれたがれきは半量にも満たず、

がれきが散乱している状態は続いている。

最大がれきの石巻は616万トンと推計されている。

どのぐらいの年数に匹敵するのだろうか?

処分場建設の場所もない。

受け入れ拒否の日本国民の言葉に、差別を感じる。

受け入れ拒否を明言できる安全で豊かな生活が保障されている人からは

震災地元民として、差別感、優越感、拒否、来るな!という声を感じる。


やっと身近なところでも復旧工事;2011 3.11→2012 4.1

2012-04-01 15:12:17 | 東日本大震災

仙台血液疾患センター建築中の20年前から いきつけの蕎麦屋 登喜和です。

20120401124700001 http://www.k4.dion.ne.jp/~tokiwa28/

震災から1年以上経って、やっと修復です。

建築材も、職人も不足し、公共的、緊急性の高いところ始まり、

やっと一般的な場所での復旧工事がまっさかりです。

当院では、まだ開始されません。

修理材の生産再開の目処がまだのためと資金不足で。

とは言え、震災時のがれきから部品を取り出し

再利用で、応急修理は済ましてあります。


3月11日

2012-03-11 10:50:24 | 東日本大震災

2011年3月11日 午後2時46分に発生した地震から、

数時間の間に多くの人が、死亡時間不明の突然の死を迎えた。

その後数日の間に、地震、津波に伴うライフラインの途絶で、

多くの人が、避けようもない死を悟りながら息絶えた。

その後、絆、絆 という文字、言葉があふれるなか

自殺、孤独死の報道も多かった。

生き延びた命だからと、前向きな気持ちを奮い立たせても、

寄る辺ない虚しさは、紛らわす手業がなければ、居座る友であろう。

疲労困憊するほどの職の復活、求人が満ちあふれることを期待する.

自然の圧倒的力による大震災発生1年後の2012年3月11日。

前日の3月10日は、67年前の東京大空襲;人災

死者10万人以上と言われているが、

死者、行方不明者のすべての把握さえ出来ていない。

生き延びた生命は、悲惨な記憶を心にとどめ、

永久の再開の日まで辛抱強く歩むしかない。


2011年 絆

2011-12-30 11:07:25 | 東日本大震災

2011年3月11日午後2時46分以後

天と地に抱かれて生きている人間は、

人智の浅いこと、過去からの伝承の有難さを知った年で、

新年を迎えられる、迎える準備の出来る有難さを噛みしめている年となりました。

門口に年神様をお持ちしているしるしをかざり

とこしえを願い花を生け

意味づけをされた沢山のおせち料理を作り 

家を清め と 

年末の、母の気合いを思い出しながら、

出来る範囲でと、病院仕事の傍ら、

身に染みた年末の行事を、大震災の後遺症のためもあり、ぎりぎりになって開始しました。

3月11日午後2時46分。突然の大揺れに襲われたときは、R病院で診察中であった。

患者は、たまたま1級建築士の方で、

長い揺れに、私も建築士も天上を眺め、

私は安全のために机の下に入ったほうがよいのでは、と勧めたところ

彼は、この程度ではと立ったままであった。

明かりが消え揺れが小さくなったところで、停電に伴うPC停止の復旧は見込み無いだろうし

本日の診療は中止し、無事に帰宅してと言って、診察室を開けたとたん、

外来部分は、先が見えないもうもうとしたほこりが漂った状態となっていた。

専従職員が、対応開始したのを見届け、帰路を急ぐことにしたが、

道路はゆがみ、水が噴き出し、さらに余震によるバウンドもあり、

信号機の停止による、大渋滞。

ラジオは、東京新宿の報道が主で、東北が震源地だとはそのときは思っていなかった。

進まない車の窓越しから、人の群れを驚きを持って見過ごしながら

安否確認を急ぐ人は?すでに両親は他界しているので、

SBDCに入院中の患者に対する責任以外は皆無という気楽さに孤独も感じましたが、

通信手段の途絶は、移動手段の制限は、在る場所で生き延びよ!

と言うことだと暗闇が広がり始めるとともに悟った。

稀にかかってくる遠方からの電話で、

自分の居る場所が被災地の広大な中心にあるという事情を悟った3月11日。

ろうそく、ラジオ、石油ストーブと、しまい込んであった非日常的な品の出番到来。

命の綱の血液を求めて、震災翌日の12日から、万里を経て外来患者が到着。

日赤は、通常より多大の時間を要しても、血液製剤を供給し続けてくれました。

血液の供給地は、北海道、九州からと遠方からでした。

入院患者の食糧確保は、米は治癒した白血病患者から快く分けていただき

野菜は、自家農園の患者家族から

遮断された道路が通行可能となってからは、

移動手段の命綱のガソリンを秋田県の知人が運び込んでくれ

遠方の知人から支援物資が届けられ、肉体にも心にも生きる糧となりました

全壊、半壊などなど被災したにもかかわらず、病院の無事を心配してくれた患者からは

休み無く診療していく義務と責任を再認識しました。

過酷な状況は、高齢の恩師の意気軒昂さまでは奪いませんでしたが、

肉体はさいなんでいきました。

現状を維持すべく、気配りの良い職員に支えながらの病院運営

場所を共有してくれる人たちと慈し見ながら時を過ごしています。


異次元の感覚;3月11日大震災の前と後

2011-10-16 23:18:10 | 東日本大震災

なるべく病院、高齢の恩師の近くにという気持ちが強くて、

3月11日の大震災後、遠出をする気が失せていました。

メインの日本血液学会での講演発表なので、

やむなく、しぶしぶという感じで出発。

震災後の整理もおぼつかない4月に演題登録。

義務感で、元気を奮い立たせての行動が多い

震災被害からやっと開通にこぎつけた空港線に乗って、

手前の美田園駅を過ぎてから、暗闇を通り抜け突然明るい仙台空港駅に到着。

震災被害から回復していない空港周辺の想像をかきたてられた暗さでした。

帰路、上空から岩沼の海岸風景を凝視しながら着陸。

海から陸に向かって、松が何層にもわたって倒れ、茶色くなっていました。

海水に沈んだ滑走路に囲まれ、陸の孤島と化したターミナルビルは、

震災の記憶はほとんど残っていませんでしたが、

匂いが、滑走路周辺の海の匂いが、震災の記憶をとどめていました。

発表内容は、近々仙台血液疾患センターのHPに。


東日本大震災支援が放射能汚染の風評被害を拡大させる

2011-09-24 11:32:46 | 東日本大震災

東日本大震災の福島原発事故の起きた時期が、北西の風の季節でなかったら

放射能が降り注いだ地域が原発エネルギー利用地域だったら

コンクリートが大地を覆う地域だったら

いわれなき、放射能の風評は異なっていたのでは。

特にマスコミは、もっと正しい放射能の知識を流し続けているのではないか。

マスコミ、とくにTVは時間空間を占拠しているので、視聴率を気にしないで

専門知識を流す時間を毎日設ける良識があってもいいのではないか?

京都五山の送火の薪は、被災地からの依頼という点もあったが、、

愛知県日進市の花火大会では

 一時的慰謝的支援は、意図から離れ、企画者も支援対象者双方を傷つける 好例。

放射能汚染の風評クレームに、

基準に基づいた断固たる反論で実行することも可能だったのではないか。

被災地住民としては、やっぱりなと再確認の日常のひとこま。

他を喰らいながら進化し生き延びた末裔のDNAが保存されている

人間だって動物の1種にしか過ぎないもの。

当然の反応と言えば当然の利己的反応。

でも、人間は大脳皮質が発達している。

もっと、意識的に、知的に、人を傷つけないやりかたをとってほしい。

ダメージは、毎回リフレッシュ 再生というより、蓄積する。

被災地は、


放射能汚染物質が出たのは………

2011-08-27 20:48:59 | 東日本大震災

NHK夜7時のニュースで

色を辞する目前の管直人首相が、福島県を訪問し、

福島県で生じた汚染物質を管理保管する中間貯蔵施設を、県内に整備することをお願いせざるを得ない。

汚染物質処理の議論情報が漏れることもなく

”福島県で生じた汚染物質は、福島県で処理せよ” と

唐突突然に断定的口調で伝達されるとは 

傷口に塩をすり込む行為だ。

原発被災で、長期間苦しみ続けなければならないだろう福島県民に、

放射ので汚染された土地に10年、いや20年も戻れない土地なのだから、

自分のところで出たんだから、出したんだから、

その場所で、引き受けるのは当然という感じで、

管直人首相率いる、内閣に唖然です。


福島原発事故3km圏内の一時帰宅

2011-08-27 16:20:47 | 東日本大震災

8月26日、福島原発事故後事故発生現場から3km圏内の双葉町、大熊町住民の”一時帰宅2時間”の映像をニュースで見た。”一時帰宅” と言う言葉が虚しい、時間の経過で荒れ果てていく我が家の現実を目の当たりにした被災者。

そして、今日27日、福島原発事故で発生したセシウム137は広島原爆の168倍発生したという報道に接した。原子炉立屋が無い状態の爆発だとしたら!

核分裂で生じた物質は、物理的半減期の期間で減少する。汚染された土壌は、野菜は、物質は、移動するだけで、放射線を発生し続ける。使用を拒否したくなる場所、言葉を変えると国土が狭くなった。汚染された場所の保管場所はどこにするのか?

福島第一原子力発電所は、福島県双葉郡大熊町双葉町にまたがる地域で、所在地は福島県双葉郡大熊町大字天沢字北原22番地。東京電力の施設であるが、福島県は東京電力の事業地域ではない。

安全を守るために補填しなければならないリスク試算を見守る専門家の、

甘さ、不注意の付けが、

有識者の意見を信じてきた住民の生活を根底から覆しはじめ、

これから先も延々と続くことになるのだと言うことを納得させられた8月26日。