連・断・続の部屋  

捨てる過去など何もなく、日々の社会との繫がり、自己の活性化、整理のためにつぶやく。

仙台七夕2011

2011-08-10 17:20:59 | 東日本大震災

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3月11日震災から4ヶ月が経過した頃から、解体される建物が増えてきました。七夕飾りの先は解体作業防護壁。中央通り商店街の、鎮魂と復興への心意気の飾りです。

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毎年七夕飾りを楽しみにしています。仙台三越デパート向かいの文房具屋さんと、鏡店の飾りは出会うまで、今年の趣向は?とわくわくします。今年は、竹に雀の切り紙でした。

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8万羽?8万人の小学生の祈りを込めた折り鶴です。

今年は、例年にもまして折り鶴と、短冊が多いです。

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星祭りでしたが、雲が多くて、

震災後の夜に輝いた星の輝きは望めませんでした。

京都、祇園の鉾、笛の囃子集など、全国からの参集もあり

今、劇団四季では”ユタと不思議な仲間たち”が東北の被災地を巡演中です。

全国ニュースとなった、陸前高田の被災松の京都大文字での、送り火の拒否。

いずれの対応も受け止めて、自らと、世界中の人に協力を求めて

町の再生が始まっています。

悲観による自殺者はだしたくないと、なんとなく活動しています。


東日本大震災の影響;第25回管理栄養士国家試験の追試験

2011-07-29 10:16:41 | 東日本大震災

去る3月20日に施行された、第25回管理栄養士国家試験。すでに合格者は発表されている。

被災地宮城県で受験する予定であった者を対象として7月31日に実施される。

被災地の受験は、不可能なので可能な者は受験地を東京に変更可能との通知があったが、

震災が3月11日、受験日が3月20日で、交通網が寸断されており、

東京まで出向くことは不可能だったので、

東京で就職の準備をしていた2名のみが東京で受験し合格した。

現役受験者の合格率と、既卒者の合格率は、大きく隔たっている。

追試験の、受験者は、幸い就職できている者は、勤務を開始している。

新たな職場環境を習得するという学習環境の勤務の下で、

順延により知識、記憶の低下と言う避けられない宿命を克服しての受験となる。

がんばらなければとわかっていても、ついて行けない心も抱えているだろうし、

現役といえども、既卒に近い環境のなかでの教え子の受験。

がんばってねと祈る気持ちで、7月31日を待っている。


放射能汚染畜産飼料;公式文書の周知徹底のありかた

2011-07-19 18:59:02 | 東日本大震災

福島原発事件は、専門家の予防に対する無策が次から次に明らかになっている。

起きる前に、危険度に応じて、周知徹底ができなかったのだろうか?

牛肉の、稲わら問題は、とどまることを知らず拡大するだろう。

でも、霞が関にいる文書を作成した人たちは、生活の危機とは無縁だろう。

放射能漏れ以後、幾たびか超原子力専門家立ちが

認識の甘さ、不明を露呈しているにもかかわらず、

原子力の知識を持たない生産者をリードする発言はできなかった。

マスコミは、事件が起きてからは根ほり葉ほりするが、

       予防、予見は無縁な存在としてあり続けている。

リスク管理マニュアル;危険度に応じた周知徹底の在り方は、

繰り返し、繰り返し事ある度に、分析しているのに!

この度も、生かされていない。

有事のとき、人手は有限。能力は最大限の発揮は無理。空回り。

疲労は、さらに空回りに追い打ちをかける。これが、人間。

放射能汚染に対する、専門家の危機意識は希薄なのか、

このたびの放射能汚染の危険は大したことがないからと行動しないのか?

ある年齢に達している人にとって、

このたびの放射能汚染物を毎日飲食して、

発病するとしたら、優に平均寿命を超えるだろう。

真剣になれないのも無理からぬことかな!

生産者は、生活の危機。死活問題。


東北六魂祭

2011-07-17 23:22:43 | 東日本大震災

当直明けで、病室の仕事終了後だったので、パレード最後になんとか間に合いました。20110717_2
引き上げるところです。遠くにあるのが、この祭りのために特別に作成してくれた、伊達政宗が、暴れ馬(赤色)を踏みしめる”ねぶた” 。手前は、竿灯。青森の祭りと、竿灯の祭りが一画面に収まっています。

仙台 七夕、宮城県 三陸町 しか踊り、盛岡 さんさ踊り、山形 花笠まつり、ねぶた、竿灯までは、健康であった大学前半に、参加できる踊りの列の中にいたことも思い出しました。福島のわらじ祭りは初めて。神主さんも参加していらっしょいました。

閑散としていた街が、人であふれかえっていました。

多くの人が、復興を願っていると感じ、心の揺れ、戻りはあるにしても、

がんばれる力はいただけた混雑でした。

復興を支援する力の多さに対するうれしい誤算で混乱はあったものの、

短期間で、臨機応変出来る、人の力のたくましさを信じることの出来る祭りでした。

祈りを込め、実りの再生を願う民衆の東北祭り本番の季節が間もなく訪れます。

 


震災後4ヶ月

2011-07-12 15:37:25 | 東日本大震災

東日本大震災から、4回目の11日が過ぎました。

例年と異なる季節外れの3月の雪。

早い梅雨明け、猛暑の夏の到来。

穏やかな春は短く、自然の厳しさが身にこたえる時間が多い震災後です。

後片付けに伴う怪我。すぐ破傷風対策です。

有機物の腐敗に伴う、臭い、蠅、微生物の発生。

突如あらわれた海底土から舞い上がるほこり。

凹凸激しい大地には、水たまりができ、ボウフラ、蚊の発生。

地道に、一歩ずつ復旧。日本全国に望まれ、期待されている復興はその先。

がんばっていますと笑顔で応えたその後で、

先の見えない不安で、萎え、落ち込む気持ちが入り交じった表情で

たたずんでいる人が増えてきました。

震災を経験した後の心は、一筋縄ではゆきません。

生死の境は、紙一重


高温多湿で臭気漂う津波襲来地

2011-06-26 10:51:47 | 東日本大震災

実習先を訪問して、学生受け入れのお礼と、学生の様子を確認するために、

多賀城市内を訪問。

往路はタクシーから町を眺める。

河川敷には、ひしゃげた鉄骨から、川沿いに津波があがってきたのだったと確認。

帰路は、徒歩で駅に向かった。

臭い、海の臭い。さわやかではない海の臭い。

津波被害を、眼ではなく、認識させられる強烈な臭い。

高温多湿の季節特有の、被害の後遺症としての臭い。

砂押川近くの所々の家の壁に私の背丈ほどのところに黒い筋が水平に認められた。

川から次第に離れ、河辺に認められる痕跡の筋は次第に低く。

家の下水路にそって土嚢が積まれている光景にでくわし、

理解するのにしばしの時間が必要であった。

今も、水があふれることが推測され、

一見、被害なしと見えた家の中は、浸水被害の痕跡にあふれていた。

においから遠ざかり、下馬駅に到着。

3月11日には、火災も追い打ちをかけたのだった。


がんばっているが、復旧半ば、復興はまだまだ先;東日本大震災

2011-06-07 17:17:01 | 東日本大震災

仙台血液疾患センターの職員、患者の死亡を、東日本大震災で経験しないで済みました。

本当にありがたいことです。

病気をしたことで、一生懸命に生きることを大切に過ごしていること

重大疾患を治そうと立ち向かっている姿勢に

神様が報いてくれたのだと感謝しています。

そうはいっても、

家を失い、家族を失った 喪失感を

ふとした折りに見る切なさは、むしろ濃くなってきたように思います。

緑濃い、暑さに、寒く暗かった3月11日からの時間の流れを感じますが、

実感は、時間は経っていず、復旧半ばで、

復興はもっともっとたくさんの時間が経ってから。


旧友とのつながり

2011-05-31 12:25:15 | 東日本大震災

新婚間もない両親は、第2次大戦中の東京大空襲をのがれて疎開した

羽田の対岸にある川崎市で、私は戦後の食糧難の時代に生を受けた。

小学校、中学校、高校時代を過ごした。

東日本大震災発生後、

50年近い昔に一緒に学んだ中学校の同級生から連絡を受けた。

遠く離れた被災地にいる昔の同級生を思いだし、深く心配してくれていたのだった。

あこがれの先生を中心としてまとめ続けてくれた彼の電話は、

被災者を思いやる日本の心を直接に受け止められた瞬間でもあり、

被災後支援の手が届かず、

疲労の蓄積で寂しく落ち込んできた気持ちに明かりをともしてくれた。

震災発生後の時間が経っても、お見舞いが届いた。

病院の患者にも、

孤立して生活している集落に支援に行っている同僚にも

高級なハムを味わわせていただいた。

遠く離れた50年昔の、あこがれの先生を中心としたつながりが、

震災直後も、時間がたっても、萎えてきそうな気持ちに元気を与え続けてくれている。

支えてくれている、孤立していない


宮古で水揚げされた鱈が供された

2011-05-29 19:01:32 | 東日本大震災

新鮮な魚、採りたての鱈が病院給食の食卓に上がった。

震災後、無事であることを確認し、

漁が始まったら届けてほしいと頼んでいた、宮古、山口商店から届いた。

大震災で途絶えていた、院長の振る舞い魚。

途絶えていたのは、注文先の宮古の漁の復旧、復興がまだであったから。

宮古での、漁が細細ながら始まり、やっと届いたのだ。

献立をたてる栄養士は、

ラベルの宮古産の文字をみて、いつものを店からですか?と言って涙ぐんでいた。


東北大震災から2カ月が過ぎ

2011-05-13 22:19:17 | 東日本大震災

大学の講義が始まった。

あふれるエネルギーはたのもしい。

被災に会っていない若人があふれていた。

被災にあった? との問いかけに対する反応は、

遠い別世界の、なんか居心地の悪い、気味の悪いこと、いやだーーー 

                                 という人が少なからずいた。

3月11日から時間が過ぎ、以前の顔を取り戻しつつあると

忘れ去られていく現実の冷たさを目の当たりにした戸惑い、寂しさが押し寄せてきた。

直接の被害は受けていない私が感じたギャップ。

被災後、ギャップを感じた世界に、出てきて、生きていくことは、大変ではないだろうか。

それを超えさせる、エネルギーの根源になるなにか

安らぎ、回復できる場所

 個人個人は異なり、公式などあり得ない。

農民が、農地を失い

漁民が、漁場を奪われ

町にあった仕事場が破壊され

 有為に社会の一員として動いていた時間を

 無為に過ごさざるを得ない時間が、まだまだ膨大に蓄積していく現実

二つの世界のギャップにダメージを受けている自分

   被災者の全員は、外見はどうであれ、

   一生涯、時折、心に刻まれた被災の日にフラッシュバックして

   苦しむんだろうなと。

その時、話を聞いて、それから

     生きていられてよかったんだ 

        と包み込むように言ってあげる人がいることだろうな。   


大震災を経験して

2011-05-01 10:55:24 | 東日本大震災

メディアで、あなたは一人ではない。

       絆

       心は見えないけれど、心遣いはみえる 

など 3月11日 大震災発生前とではうってかわった構成になっている。

人の温かさが、喪失感を癒やすには必要だ。

地震直後に気になっtことは、近くにいられなかった、体力的に衰えてきた恩師のこと

(両親は、すでに他界していたのは幸せなことであったと思った)

次に、病院、患者のこと。

とりあえず戻ることと先を急いだ

(震災後、戻るべき場所を失った人の気持ちを考えるとつらい。

涙が浮かんでくる。 私自身の36年前に受けたPTSDのためだと思う。)

後は、病院を経営している側としての責務を果たすための24時間の連続であった。

医療者すべてが、一丸となって邁進したわけではなく、そのことに驚き、傷ついた。

中学の同級生からの救援

戦後、幼き日をすごした神奈川県の知人からの救援、

本籍、墓のある秋田の知人からは、困窮していたガソリンが届けられた。

傷つくこと以上に、見守り、支えてくれる存在を感じた。

医局からの応援が復活した4月の第1週は、

目を開け続けるのもつらい疲労が噴出してきた。

当直に訪れる、若手も医師も、シャワー浴びれますか?とか、食事がおいしいとか

それ以前とは異なる、コメントが寄せられた。

それまでは、そそくさと大学に戻っていたが。

被災地への応援部隊も、後方支援部隊も、ともに過酷な勤務条件であった。

のんびりと、自己の健康管理にのみ終始したDrSS。

どさくさ慌ただしいときに退職を申し出てきた。

震災時、病院を身の安全が保たれないからと忌避した常勤の病院をないがしろにして、

次の勤務先を、探したことは、功利的なエリートの性格、自己保身の塊だったのね。

目の小手術をうけ、5ヶ月が経過しても診療行為に無関心であったDrSSに、この非常時こそ医師としての自覚に目覚めてもらうチャンスと、支援を申し出たが、裏目に出て、状況が落ち着ちつくまでは自宅待機とさせてくださいとの言葉を残し、帰宅した。数日後戻ってきたのだが、病院に泊まった翌朝には、目の不調を切々と訴え帰宅。疲労している身には、irritable。

次に戻ってきたのは、食糧不足の折、病院の食事を期待してのことで、しかも低血糖にならないための特別メニューを要請してきた。主食と、少ないながらもタンパク質を加えた汁物を出すために買い出しに奔走している最中に。日頃は、医師に対する節度ある態度を維持してきた管理栄養士、栄養士ともに無理ですと、周囲にも聞こえる声を出さざるを得なかった。

病院経営の一環として、医師の定員は確保しなければならないので、精神の不安定が復活しないように努めていた。自主的に出かけていた遠方の病院に出かけられなくなり、収入が減少したためか、近隣の病院の短期バイト口をさがし、常勤となれば、当院より高額の月給が出ることを確認し、退職を申し出てきた。功利的に動いて、ぬくぬくとできることに違和感を感じている。

震災後の何となく不安定な時期に、病院の存在自体も不安定にされることが起きて、

36年前へのフラッシュバックが起きて不安定になってしまった。

こういうときほど、日常性を維持するように努力しようと

滞っていた研究をまとめないと、時間がなくなるかもしれない。

快く協力してくれながらも早世してしまった友に、

世に成果を問うてから来たんだよ。と言って迎えてほしい。

完成するまでは、この世にとどまる時間をくださいと、

35年前にまだ来るのは早いと、とどめてくれた天上の声の主にお願いしている。

今年は、1月から常とは異なった時間が流れ、

大事にされて、過ごしてきたということも実感している。


福島原発事故;風評被害;ジェノサイド

2011-04-30 11:50:05 | 東日本大震災

工業製品の輸出制限にまで原発事故は拡大してきている。

医学分野では、

臨床現場では、患者がいて医者がいて診察し、治療をすれば仕事としては成立する。

  退避を命じられている場所で診察を続けた場合の、

                     保険請求は違法で、支払ってくれないのかしら?

研究者の立場からは、海外との競争はネットを介した投稿などで

後れをとることも制限もない。放射線被曝に切り込んだ投稿だってできる。

     しかし、原発事故周辺近辺で製造したという風評被害は、

       製品に問題がなくても、

       安全という保証を出す基準も定まっていない今

       エビデンスを確立しなければ安全基準を設けそうもない現実

 否定。その場所にいる限り否定されるということ。

  ジェノサイド、

  新しく科学が生み出した原因によるジェノサイドが始まったということだ。

            

 

       


復興作業車による渋滞

2011-04-29 09:00:59 | 東日本大震災

朝6時をすぎると、海側に向かう南部道路の通行車両が多くなる。8時前後は、渋滞。

震災前には見られなかった。その後は、震災前よりは、車の数は少ない。

復興に向けて、海岸沿い:蒲生、閖上に向かっていく車両だなと眺めている。

がれきの撤去もすすんで、広々とした空き地となってきた場所も見られるようになってきた。

新しい街づくり、突然出現する美しい街は、長く住んで人が受け入れられる街として

設計してほしい。

震災によりたくさんの心の折れを積み重ねて、時を過ごした後に住む街は、

鎮守の森も備えてほしい。

ひろびろとした場所のモニュメントは、過ぎ去っていく被災の日を

記憶の一コマとしてとどめ置くだろう。

心を静めるところ、さめざめと涙を流すところは

さりげない、被災の痕跡か?

一新して、被害の一端もみとめられなくなった場所に再開した驚愕か?

筑波学園都市は、自殺者の多い街であった(知人2人が逝った後、最近の動向は疎遠)。

生きながら、虚しさを感じる街を与えることは避けてほしい。


長い避難暮らしの影響

2011-04-27 22:44:52 | 東日本大震災

3月11日の地震発生。それに伴った津波。

リスクマネンジメントが甘かったせいで発生した原発事故。

発生から、もう7週間が過ぎようとしている。

避難民としての長期間の栄養不足から、高度の貧血が認められる人が入院してきた。

夜になると活性化する、認知症も伴っていた。

たくさんの人が、密集している避難所では、患者本人は地のままか、

不安からより活発化した活動を夜間に示すだろう。

家族、周囲の人は、眠れぬ夜を過ごしさらに疲弊してきただろうなという、

原発のために、自宅退避を強いられた人が

避難所、認知症の悪化で、避難先の近くの病院に入院し、貧血発生で転院してきた。

退避がなければ、自宅で農作業を営んでいただろうと推定される体力の人の入院である。

大震災後、貧血といっても極端に悪いレベルで入院してくる。

みんな、震災のためかなと思って静かにしているうちに悪化してしまうんだろう。

ヘモグロビン2.8g/dl !!

人間の対応能力はすごい!!! 

でも、こんなになるまで我慢しなければという状況が広がっているということだ


生き延びた高揚感も過ぎ

2011-04-22 19:41:16 | 東日本大震災

東日本大震災発生後6週間が過ぎ、

3月11日以前の日常を営むことができる場所で生活しているが、

診療のかたわらに、”どうしている?”と尋ねると、

時間の経過に伴う、じわっとした疲れ,不安がひそんでいる。

家を失っても、まだ働くところが残っていたらね!という慨嘆は切実。

やらなくてはと理屈で、わかっていても、

家を失い、職場を失うと、行き先がない。動きたくなくなる。

大震災の恐怖の経験は、記憶に残り、

忘れようと思っても、体の隅々までこびりついて離れないだろ。

喪失を味わってしまった後は、

解決とは無縁の時空に突入させられてしまったのだから。

とりあえず、時間を楽しく過ごす術を、その時々につくりだす。

頭の中のお友達に、話しかけて聴いてもらう。

歌う。

走る、飛ぶ、踊る。

さめざめと涙をながす。 私が実行してきたことの一端。

切り抜けてきたからといって、その時の悲しみは、今でも体中からあふれてくる。

悲惨な経験は忘れようと思っても、出ていかない。

“死んだほうがよかった”という声の数が次第に増えてくる状況にある被災地。

悲しむことができるまで、生き抜いてほしい。自死は思いとどまってほしい。

五感を研ぎ澄まし、そのような人を感じた時は、ふわっと優しい空気で包んでやってほしい。

大丈夫、頑張りますと言っている言葉が、そのままの気持ちであっても、

他の気持ちも同時に抱いてしまう時期に入ってしまった被災地。

復興を期待するが、

復興の兆しのか弱さ、遠い遠い先の復興に打ちのめされそうな被災地。