連・断・続の部屋  

捨てる過去など何もなく、日々の社会との繫がり、自己の活性化、整理のためにつぶやく。

2011年3月11日2時46分後の1週間は、そして4年

2015-03-14 20:28:58 | 東日本大震災
とてつもなく大きな地震。慌てて乗ったタクシーできくラジオから流れる情報は、東京のことばかりなので、被災地は東京とばかり思いながら、天上に頭を何度もつける揺れの中、通常30分弱を3時間かかって、仙台血液疾患センターに到着。
患者は、1階の外来に移動し、帰宅困難となった職員も含めて、おにぎり、味噌汁の(都市ガスでない幸い)簡素な食事(その後、3週間程も続くとは夢想だにせず)。
停電で、まっくらやみのなか、ラジオ,携帯ネットの情報で、仙台蒲生海岸に数百人の遺体報道はにわかに信じられず。星が沢山見える空を窓から眺めた。

翌朝は、遠く、海沿いから火,煙が見え、
南部道路は、時折警報を鳴らしながら、海岸方面に向かう車が通るのみで、ひっそりとしていた。
病院として、緊急対応の食糧補給庫が、海岸沿いにあったため壊滅し、補給されないとわかり、
さらに、職員は家族の食糧確保のためパニックとなり、いやはや!
ホワイトデー14日に配達される予定の長崎角煮まんじゅうを当てにして電話をして、
交通路が遮断されているので配達不可という、打撃的な情報を得ることに。
比較的早く,電気が復旧し,14日にテレビをみれるようになり、
職員の家が津波でさらわれている映像などなどを目の当たりにして
自らが、甚大な被害がでている現地住民だということを、おぼろげに悟り始め、
通常の給食、リネン交換、通勤体制が整うまでの長い道のりを予測することはできず、
日々の診療の、薬、血液、食糧の確保は自力で行う以外はたよれる、公的機関は存在しないと言うことを日々、強く強く実感していった。

日々生き抜き、切り抜くための知恵,協力で,ほっとしていた震災直後。

4年後の今、みとってくれる家族を失った被災住宅での孤独死
コミュニティのひとりとしての存在感を示せなければ生きていけない人間という事実を突きつけられている。

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