読書三昧

本は一冊一冊がワンダーランド。良い本との出会いは一期一会。そんな出会いを綴ります。

Windows10の導入:今昔物語

2015年12月25日 20時59分42秒 | ■電脳
Windows10の導入は、まだ猶予期間があるのでしばらく様子を見ることにしていましたが、試しにディスクトップ機に導入しました。非常に簡単で、特に不具合がありません。というのも、通常はノートパソコンを使っており、ディスクトップ機は画像処理や音声、動画処理などの重い処理に使っているだけで、外付けのハードディスクを接続する程度なので、ネットワークとアプリケーションソフトに不具合が出なければ問題ありません。また、ディスクトップ機はWindows8.1だったので、Windows7のノートパソコンで常用している私には少し操作が面倒でしたが、Windows10はWindows7寄りの操作体系で馴染めます。インストール後に、使えなくなったとのメッセージが出たソフトは1つだけでしたが、へぇ~そんなソフトが入っていたの?と言う程度で、全く問題ありません。(実際に使っていたソフトは10本程度なので・・・。)
で、しばらく使っている内に、ノートパソコンにも「貴方の使っているパソコンでもWindows10が使えますよ!」いう趣旨のメッセージが何度も現れました。(要するにネットを通じて、使用しているパソコンの機器構成やソフトを把握しているのですね。いわば天下の公道で裸で歩いている感じがしました)それで、ついノートパソコンにも導入しました。
結果は何の問題もありませんでした。壁紙のスライドショーの設定などで少し戸惑いましたが、メニュー構成が変化し、名称が多少変化しただけで特に支障を感じませんでした。
しかし、突然不具合が生じて慌てました。何時もデータを保管しているのは2台の外付けのハードディスクですが、ノートパソコンに接続して、ネットワークを経由してディスクトップ機で重いデータ処理をしています。ノートパソコンにもWindows10を導入して1週間程度、何の問題もなく使えていたのですが、ノートパソコンに接続したハードディスクをディスクトップから読みに行こうとしたら、ネットワーク上のノートパソコンが見えません。ノートパソコンで作成したホームグループのパスワードを要求されたので、ノートパソコン上でホームグループのパスワードを確認しようとしましたが、そのメニューが出てきません。困った。
いささかパニック気味で、両方のパソコンで再起動やら何度かトライしているうちに「ホームグループがないので作るよう」メッセージが表示されたので、それに従いノートパソコンで作成しパスワードを確認して復帰しました。恐らく、ノートパソコンで作成したホームグループの設定されたという情報が引き継がれたものの、従来の「Windows7<=>Windows8.1」or「Windows7<=>Windows10」の関係から「Windows10<=>Windows10」に移行したことにより、機能しなくなってしまったのではないかと想像します。どちらにしても使えれば良いので安心しました。(その後もネットワーク上の接続が不安定ではありますが、何とかつながっています。面倒くさいので我慢して使っています)それから、Wi-Fi経由でプリンタ複合機とプリンタ専用機の計2台を使用していましたが、どちらも、ドライバが無くなったので再インストールしました。これは大したことはありません。

Windows10が安定するまではしばらく掛かるでしょうが、20年前と異なり、ネットでシステムのアップグレードが出来てしまうのでどうということはありません。本当に良い時代になりました。昔は、パッチデータが記録されたフロッピーディスクを販売店や郵送で手に入れるという手段しかなく非常に面倒でした。しかも、「config.sys」という、まじないの文句を修正したりして、少しでも間違うとにっちもさっちもいかないで、真っ逆さまに地獄に落ちた経験を思い出します。その後、フロッピーからCDに移行し、雑誌の付録に付けられるようになり、更にはパソコン通信でも手に入るようになった時には、便利になったと感動しまくりましたが、今からすると笑い種に過ぎないとも思います。
アプリケーションソフトで結果を出す前に、MS-DOSのコマンドの習得やら、メモリー管理の仕組みなどを理解し、大金を投じて人柱となり(他の勇気とお金がある人をそそのかして人柱に祭り上げる技もありました・・・。)、その次に、やっとアプリケーションソフトの習得の為、出来の悪い解説書を酔って一層出来損ないになった頭で何度も読みながら涙を流おろおろとさまよい歩いた末に、やっと約束の地に到達したのでした。これを本末転倒と言うのでしょう。
今から考えれば、こんな不出来なマシンとソフトが世に広かったのは摩訶不思議と言えるのでしょうが、カメラもそうかもしれません。フィルム時代のマニュアルフォーカスのカメラを使いこなした人々は、露出や色温度を原始的な手法、あるいは膨大な経験から身に付けた人間データベースとなった自分の感で撮影撮影していたのですから。レンズも単焦点がもっぱらだったようです。今時はすべて自動で設定できるので、シャッタースピード、露出、ホワイトバランス、ISOの意味や組み合わせの影響を知らなくとも、見栄えの良い写真が撮れます。
このように、技術の進歩によって簡単に結果が得られるようになりましたが、それが本当に良いことだけなのかというと、そうは思えません。カメラを使い込んで、本体やレンズの機能、各種設定の意味や組み合わせの効果を理解してくると、写真を見て、どのような機材と設定で撮影しているのかが分かるようになってきます。そして、なぜそのような機材と設定にしたのかを理解しようという段階に至ります。(私の場合ですが)その上で、撮影の際に、仕上がりを想定して設定して撮影することを繰り返して行くにつれ、理解が深まりより好みの写真が撮れるようになるのだと思います。
パソコンで言えば、ワードと一太郎では罫線の描画の考え方が異なります。ワードでは、罫線はセルの一部としての処理が中心です。私はワードを中心に使用したので、一太郎を使い込んでいませんが、DOSの時代の一太郎は、罫線を描画してマス目(セル)を作成していたので、グラフィック処理の延長で処理していると想像します。少なくとも、ワードでは、セルを操作するという前提で罫線をコントロールすると上手くいきますが、ソフトの処理方法を理解すると、文書の作成のコツが良く理解出来るようになります。。
また、ウィンドウズのワープロソフトは、ワープロ専用機の影響による等間隔のフォントとパソコン独自のプロポーショナルフォントがあります。ワープロ専用機ではフォントの幅が固定の全角が一般的で、アスキー文字以外の半角以外は、全角を無理矢理半角にしており、文書作成では、最低限半角単位で文字入力を意識していれば良かったのでした。そのため、プロポーショナルフォントが登場した時には非常に面食らいました。プロポーショナルフォントは文字の幅が半角単位ではないので、インデント処理をしっかり理解しないと、行頭や行末などを揃えることが不可能なのです。
アルファベットのフォントは、元々美しい文字のバランスの為に等間隔ではなかったとのことです。それを英文なのどワープロソフトでは実現していました。入力した文字を、その文字で決まった幅で順に並べ、行末のスペースに入りきらない場合に次の行に送られる。しかも、単語単位で送り、結果的に行末が身近くなる場合には、その行の他の文字間や単語間のスペースを調整するという結構大変な処理をしているのだそうです。日本語の場合も、プロポーショナルフォントの導入後は同様に処理しているとのことです。(でないと、行によって行末が揃わない)こうしたことを知った上でフォントを使うと、多少の不便は我慢できるし、過度なm意映えに拘らない体裁の編集に集中できるという物です。。

なお、私はATOKを愛用していますが、Windows10 にしてから、勝手に、しかも頻繁にノータリンのMicrosofrEMI に切り替わることが多くなりました。マイクロソフトの姑息さに腹が立ちます。また新しいブラウザ EdgeでATOKが使えません。何だかなぁ・・・。

※壁紙専用の別ブログを公開しています。
=> カメラまかせ 成り行きまかせ
=> カメラまかせ 成り行きまかせ その2

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